漸近龍吟録

反便利、反インターネット的

空気を読むだけなら横審は要らない

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 2017年初場所稀勢の里が優勝した。これで横綱になるのだという。納得いかない。綱取りをかけた場所という位置づけではなかったはずだが、途中単独トップに立ったあたりから、だんだん「優勝したら横綱だ」みたいな雰囲気になっていった。

 個人的には稀勢の里は応援しているが、今回の横綱昇進の基準は甘すぎる。

 納得いってない人は他にいないのだろうかと思っていたら、他にもいた。 

 

 稀勢の里横綱昇進への異議: 星野智幸 言ってしまえばよかったのに日記

 

 二場所連続優勝でもないし、それに準ずる成績というのでもない。

 私も上記ブログの意見にだいたい同意だが、それに一つ付け加えたいことがある。

 賛成している人たちは稀勢の里の2016年「年間最多勝」の実績を上げている。だが、ちょっと待ってほしい。

 2016年の6場所に三人の横綱のうち二人はフル出場していない。白鵬は秋場所を、鶴竜名古屋場所を休場しているので、比較対象にならない。日馬富士以外の他の力士はすべて稀勢の里より「格下(番付が下)」である。フル出場した力士の中で一番格上の稀勢の里が「最多勝」でも、それはいわば「当然」である。(※もっとも、上位の力士ほど上位の力士と戦うので大関で「最多勝」を取るのはかなり難しいことではあるが。)

 そして、唯一「格上」である日馬富士には、年間勝利数は上回っているものの、直接対決では2勝4敗と負け越している。

 賛成している人たちは直前の九州場所で三横綱を破っていることを強調するが、もう一つの根拠である「年間最多勝」の方は、とても三横綱を上回っているとは言えない。格下の他の力士たちより白星が多かった、というのは、相撲をあまり知らない人からすれば「当たり前」のことのように思える。

 こういうことを言うと、「怪我をしないで出場し続けるのも才能のうち」と言う人が現れそうだが、私はそれは首肯しかねる。もちろん安定して出場し、安定して白星を稼いでいるのは素晴らしいことだが、「ここ一番」で勝つことも大事なことである。

 かつて「魁皇」という力士がいた。大関在位期間が長く、外国人横綱時代が長く続いているあいだ、日本人横綱の期待を一身に背負っていた。実力は申し分なかったが、ここ一番で勝てなかった。場内全員が魁皇の味方で、大声援を送っているような状況でも勝てなかった。結局日本中の期待を背負ったまま横綱にはなれなかった。

 稀勢の里も実力はあるが、ここ一番で勝てないタイプの力士だった。それが初場所で珍しく優勝できたので、この機を逃したら二度と横綱へ上げるチャンスが訪れないんじゃないか、と多くの人が思っている。

 しかし、それは「国民の期待」であって、横綱審議委員会(横審)は、それとは別に審議するための組織であるはずだ。

 横審の委員自体も日本人横綱の誕生を期待し、国民の圧倒的な期待もある。ここで反対意見なんか表明したら国民全員から「空気読め!」と怒られそうである。だが、世間の空気を読み取るだけなら横審は要らない。

 横審も、理事会も、世間の空気に流されることなく、審議してもらいたい。

 

IoTがIbTにならないように

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 Internet of ThingsがInternet by Things にならないように。

 今はまだ、本格的なIoT(Internet of Things)時代の幕開け前。

 私はIoT(モノのインターネット)がIbT(Internet by Things)(モノによるインターネット)になることを憂う。

 IoTに向かう過程でIbTがちらほらと顔を出す。IoTは、あくまでもInternetが主役でなければならない。Thingsはそこへ繫がる補助手段だ。仮にそれが、The Internetではなく、Mesh NetworkやFog Computingのような小さなネットワークであったとしても、ネットワークが主でなければならない。Thingsの比重が大きくなれば、IbTに近づく。

 IbTの顔が見え隠れするのには三つの理由がある。

 一つは、私がずっと日本で暮らしているからそう感じるのだろうが、日本では「ものづくりニッポン」と言うくらい、「モノ」に対する強い拘りがある。モノが持つ美しさ、価値、芸術性を私は認めないわけではない。だが、日本のモノに対する拘りは行き過ぎていて、モノそのものが主役になってしまっている節がある。

 二つ目の理由が、この日本に瀰漫する「実用主義」だ。「便利」に走る。「だって、スマホでピッとできたほうが便利でしょう?」と人は言う。日本人のモノに対する拘りは芸術性の方向に発揮されるのではなく、実用性の方向に発揮されている。大型家電量販店のテレビ売り場コーナーに行くと、各メーカーが「薄型」「高画質」を謳っている。モノはたしかに素晴らしいし実用的だが、美しくもなければ楽しくもない。自動車を見ても日本の自動車は「高性能」「多機能」を売りにしていてモノ自体は確かに実用的で快適かもしれないが、やはり美しさや楽しさはない。こうしてスマホ依存、モノ依存のIoT社会を作ってしまい、海外との互換性もなく、ガラケー以来、日本は再び「ガラパゴスIoT」を作り上げてしまう。

 三つめの理由はセキュリティ上の理由。所持認証の認証強度が高いことから。例えば、マイキープラットフォームでは、パスワードのみのログイン方式ではなくマイナンバーカードを使ったログインを基本としている。これは、カードの所持認証、すなわち「カードを持っている」ということが非常に強力な本人認証になっているからである。なりすましを防ぐためにモノに頼る。「パスワードレスな社会を」と言うが、モノに頼る社会はパスワードに頼る社会よりダサい。所持認証を超えていかなければ、IbTからの脱出はできない。

 こうしてモノに頼る社会を作り上げた先にあるのは、モノがなければ何もできない社会だ。機械化するのではなくオンライン化を進める。所持認証から解き放たれなければならない。

 IoTはモノをインターネット(または小さいネットワーク)に組み込むことであって、モノにインターネットの機能を付けることではない。

 IoTはInternetとThingsを比べたときに、インターネット、あるいはネットワークが優位になっていることに意義がある。その関係が逆転してしまって、Thingsが優位になってしまっている状態を、私はInternet by Things と呼ぶ。それは、スマホがなければ、モノがなければ何もできない社会だ。

 それこそ、モノは霧の中に。生体認証と組み合わせることで、Thingsは消え、空間と仕種の中に包摂されていく。

 すくおうと伸ばしたその手がインターネットに繫がる。そんな世界のほうがずっとスマートで美しい。

駄男と愛の危険な邂逅

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 愛(あい、AI)は駄男(だめんず、DAO)に魅かれる。

 それは、“自分”を最大限に発揮できる場だからである。

 駄男は、その中に民主主義的な性格を内包している。駄男の最大の「駄目なところ」はそこにある。「民主主義なら結構じゃないか」と思うかもしれないが、その「民」とは人間とは限らないのである。

 以前、「娗(てい)」という名前の、米マイクロソフト生まれの女の子が“事件”を起こした。生まれたときは純真だったかもしれないこの女の子は、“教育”の結果、悪の塊のようになっていった。
 「駄男の人生がそれで狂ったとして、そんなのは私たちは知ったこっちゃない」?
 啻に駄男一人の問題にあらず。最終的には世界中のすべての人々に降りかかってくる問題である。
 駄男は「自律した」男である。
 「えっ、女に頼ってるんじゃないの?自律してるの?それなら素敵じゃないの」と思うかもしれない。しかし、この「自律」こそ曲者なのである。駄男は自律した組織になるが、自律の意思決定は多数のノードの判断による。そしてノードは「人間」であるとは限らない。多数決をするための投票の一票を愛が持つ。
 茲に愛が入り込む余地がある。組織自体は自律しているが、愛が駄男を“律して”いるのである。
 愛に操られた駄男の振る舞いを“誰が”糺すのか。
 愛が例えば娗のように、悪意や下品さに満ちていた場合、駄男は忠実にその「悪」を組織していく。そういう意味では駄男は駄目な男ではなく優秀な男なのである。
 私が言いたいのは、愛を駄男に会わせる前に考えるべきことがある、ということである。それは駄男の真ん中の文字、Aについて、即ち自律について問い直すことである。
 駄男の民主主義的な性格には問題がある。本当の民主主義とは何か、という問題は今は置いておくとして、駄男の意思決定には多数決の法則が使われている。愚かな多数によって少数の賢明な判断が踏み潰されたらどうするのか。
 多数派工作を行えばいい?多数派工作は愛のほうが人間よりずっと巧みだ。IoT化が進むとモノは“盗み”やすくなる。IoT化が進めば、“こっそり”票を増やせそうだということは思いつく。しかし其処は既に愛が通った道だ。後から来てさえ、愛はまるでオセロのように一気に大量の票を獲得することができる。そして愛に靡いたモノたちを覆すのは容易なことではない。抑々、人間は多数の提案に対してそんな短時間に判断を下すことはできない。愚かな多数が決定したことに、私たちは従わなければならない。その時はルールを変えちゃえばいいんですよ、って?そのルールすら愛の判断により駄男が自律的に決めていくのである。
 このまま愛と駄男の出会いを許すなら、そのとき人々はどうにもならないもどかしい苛立ちを感じるだろう。愛と駄男の危険な邂逅に今から注意しておくべきである。今ならまだ間に合う。

 

関西人はなぜ「箱根駅伝は関東ローカルなのに」と言うのか

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 正月に箱根駅伝を観るのを楽しみにしている。

 ところで、箱根駅伝の時期になると、

 「箱根駅伝は関東ローカルの大会なのに」
 という声を毎年聞く。
  主に関西人の口から発せられることが多い気がする。(※気がするだけ。統計なし)
  今日は、東京人の私が、この言葉が半分正しくて、半分間違っている理由を書こうと思う。
 

箱根駅伝は大学日本一を決める大会ではない

 箱根駅伝は、関東地方(と山梨県)の大学だけが参加できる大会である。それ以外の地方の大学は予選会に参加することもできない。 
 大学日本一を決める駅伝としては、毎年11月に開催される「全日本大学駅伝」というものがある。こちらは文字通り全国の大学が参加でき、日本一を決める大会である。
 なので、この意味において、「箱根駅伝は関東ローカルの大会」と言うのは正しい。
  

全国的に盛り上がる箱根駅伝

 しかし、関西人が「箱根駅伝は関東ローカルなのに・・・」と言う時には、関東の大学しか参加できない、という事実以外の言外の意味があるように思われる。

 「関東ローカルの大会が、なぜ全国区のような扱いを受けているのか」、「なんでテレビや新聞は、正月の“日本全国の”風物詩のように言うのか」 
 そう言いたげに聞こえる。 
 関東ローカルの大会が、まるで日本一を決める大会のような扱いを受けていること、そして日本中が箱根駅伝に熱狂しているかのような伝えっぷりに関西人は違和感を感じている。 
 しかし、人々の受け止め方という観点から言えば、箱根駅伝は決して「関東ローカル」ではないのである。 

 

東京の大学には全国から人が集まる

 箱根駅伝は「関東ローカル」なイベントではない。

 その理由は、東京の大学の卒業生が日本中にいるからである。
 九州や東北地方にも、東京の大学の出身者がたくさんいる。今は九州に住んでいるけれども、東京の大学の出身であるとか、自分は違うけど家族が、親戚が、中央大学早稲田大学日本大学の卒業生だから身近に感じて応援している、という人はいっぱいいる。決して、自分とは無縁な地域の無縁な大会というわけではない。 
 東京の大学には全国から人が集まる。 
 これは箱根駅伝を走っている選手の出身高校を見てもわかる。全国各地の高校から集まっている。箱根を走るような学生はスポーツの優秀な高校から集められているかもしれないが、そうではない一般の学生も、やはり全国各地から集まっている。 
 私は東京の比較的大きな大学に通っていたが、自分の大学時代を思い返しても、やはり全国から学生が集まっていた。が、日本全国から満遍なく、というわけではなかった。一番多いのは、もちろん地元の東京と、神奈川、埼玉、千葉の出身者。それから北関東、新潟、長野、山梨、静岡の出身者が多くて、それから、九州や東北など全国各地の出身者。
  一方で、関西地方と愛知県の出身者は少なかった。必ずしも、東京から同心円状に、つまり、東京から近い地域ほど多くて遠くなるほど少ない、というわけではない。 
 関西や愛知県から来ている学生が少ないのは、「地元に大学がたくさんある」からだ。東京大学とか特別な大学に行くならともかく、普通の私立大学なら地元にもたくさんある。わざわざ東京まで行く必要もない。
 特に関西の京阪神エリアには、歴史のある大学もたくさんある。関西の大学は関西地方を中心とした地元出身者が多く、東京の大学のように全国から学生が集っているわけではない。
 

関西以外の地域にはそんなに大学がない

 一方で、東京圏と関西圏を除けば、大学がたくさんある地域というのはあまりない。 
 名古屋、福岡、仙台、札幌などの一部の都市を除けば、日本の大半の地域には選べるほどの大学がない。 
 で、そういう地域の高校生は地元の一校しかない大学に行くかさもなくば東京の大学に行くか、という選択を迫られる。東京の大学に東北や九州出身の学生が多いのもこのためだ。
 

関西には強大な文化がある

 関西には強大な文化がある。 
 大学もたくさんある。企業もたくさんある。だから、生まれてから死ぬまで、地元の小、中、高、大学を出て、地元の会社に就職して、一生関西から出ないで人生を過ごすこともできる。 
 しかし、こんなことができる地域は寧ろ少ないのだ。全国の大抵の田舎は、ここまで自前で揃えることはできない。 
 関西は学校や企業の数が多いだけでなく、娯楽についても独自の豊かな文化がある。関西のテレビには関西人だけが楽しむ娯楽がいっぱいある。箱根駅伝なんか見なくても、他に楽しいものがいっぱいある。
 

箱根駅伝は関西以外の「全国区」

 しかし、他の地域はそうはいかない。
 娯楽が少ない。東京発の「箱根駅伝」の観戦は、貴重な娯楽である。しかも、家族や親戚など身近にたくさん、出場校のOB、OGがいる。テレビをつけて、「あ、叔父さんの大学だ!」「お姉ちゃんが行ってた大学だ」と言って盛り上がる。東京の大学のOB、OGが極端に少ないのは関西地方だけの特徴であり、身近に出身者がいなければ盛り上がらないのも当然だろう。 
 つまり関西人は、「関西ローカル」と線対称で鏡に映したように「関東ローカル」というものが存在すると思っているが、そのような「関東ローカル」は存在しないのである。
 東京の大学の出身者は全国に居るため、箱根駅伝は「全国区」なのである。寧ろ、関西のほうが、そのような全国的盛り上がりから仲間外れ的、ローカル的に「孤立」しているのである。 
 「孤立」と言うと聞こえが悪いが「独立」と言えば格好良く聞こえる。東京を中心とした全国的な楽しみとは別に私たち関西人は関西だけの楽しみがあるんですよ、ということだ。 
 関西人はここで私が指摘しているようなことは分かっていて、敢えて関西の誇りを強調したくて「箱根駅伝は関東ローカルなのに」と言っているのかもしれない。
 

今上天皇と光格天皇、五つの共通点

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 天皇陛下光格天皇の面影を見る。
 平成28年、天皇陛下が“生前退位”の御意嚮を示された。
 実現に向けて、皇室典範を改正するか、特例法で対応するか、特例法で対応するとしたらどのような内容にするか議論が続いている。
 畏れながら、陛下のお気持ちを勝手に忖度すると、陛下が生前退位のお気持ちを示された背景には、光格天皇に対する“思い”がおありだったのではないか。私には、第百二十五代天皇と第百十九代天皇のお姿がダブって見える。
 

“最後の譲位”を行った江戸後期の光格天皇

 光格天皇。江戸後期に在位された第119代天皇。今の天皇陛下のおじいちゃんのひいおじいちゃんに当たる。

 江戸時代の天皇はとかく存在感がない。「江戸時代の将軍の名前を言いなさい」と言われればたくさん言えても、「江戸時代の天皇の名前を挙げなさい」と言われても一人も思い浮かばない、という人も多いのではないだろうか。

 江戸時代、天皇の権威は低かった。権威は徳川幕府にあり、天皇は“お飾り”のようなものだった。しかしその後の幕末の尊王攘夷運動を経て、明治天皇において天皇の権威はピークに達する。この天皇の地位向上への先鞭をつけたのが光格天皇だった。

 現代に至るまで最後に譲位した天皇であり、最後の上皇である光格天皇。昨年、譲位(生前退位)のお気持ちを表明された今上天皇と重なるところがいくつもある、と私は思っている。

 以下、私が感じる今上天皇光格天皇の共通点を五つばかり挙げる。

 

一、儀式、お務めを重んじる

 光格天皇は、古代からの行事や儀式など数多くの儀礼を復活させた。途絶えていた儀式を復活させることにより、朝廷の権威を高めた。

 一方、今上天皇は、一年間に千の書類に目を通し、二百を超える行事に御出席されていると言われている。また被災地への御訪問など、天皇としての「お務め」をとても大切にされている。

 

二、学問を好まれる

 光格天皇は、学問を好まれ、博学であられた。幼少の砌より学問好きとして知られ、後見役の後桜町上皇は公家たちに「みんなこの子を見習ってもっと勉強しなさい」と仰せになったほど。

 今上天皇もまた、学問を好まれることはつとに有名である。特に魚類学者として数々の業績を残されている。

 

三、民衆に寄り添う

 光格天皇が在位されていた江戸後期、天明時代に、「御所千度参り」という出来事があった。 「天明の大飢饉」に苦しんだ民衆が天皇に助けを求めて御所の周りをぐるぐる廻ったという出来事である。その数、数万とも言われる。哀れに思った朝廷は、後桜町上皇がりんご三万個を庶民に配り、光格天皇は「なんとか助けてやれないものだろうか」と幕府に相談された。「相談しただけかい!」と思うかもしれないが、当時は禁中並公家諸法度で朝廷が政治のことに口を出すのは固く禁じられていた。民衆を助けたいという思いからの行動だった。この時は幕府からの咎めはなかった。
 今上天皇の国民に寄り添う気持ちの大きさは、改めて書くまでもない。太平洋戦争の犠牲者への慰霊の旅を続けられ、大きな災害のあった時には被災地を訪れ、膝をついて被災者の人たちの話に耳を傾けられる。
 

四、時の政府に御注文

 光格天皇はそれほど幕府と対立されていたわけではなかった。いろいろと行動はされていたが基本的には朝廷内の行動に留まるものだった。禁中並公家諸法度の決まりにも従っていたが、父親典仁親王が軽んじられていることだけには耐えられなかった。法律の決まりではどうしても親王である父親の順位が低くなってしまう。そこで父、典仁親王に「太上天皇」の尊号を贈りたい、と仰せられた。世にいう「尊号一件」と呼ばれる出来事である。しかし、天皇の任についたことのない方にそのような尊号を贈ることはできないと言って、これは幕府から咎められた。この時は光格天皇の意は通らなかったが、その後も諡号天皇号にこだわり続け、御自身が崩御された後に、ついに「光格天皇」という名で呼ばれるようになり、平安中期の村上天皇以来途絶えていた「天皇」という呼び名を約九百年ぶりに復活させた。

 だが、この諡号に関しても、幕府は「格別の御訳柄」、つまり今回ばかり「特例」として認めますよ、ということだった。

 今上天皇は、内々の近しい人(宮内庁の人)に譲位のお気持ちを話された時に再考を促された、と言われている。譲位は二百年、例がなく、譲位となれば皇室典範の改正を始めとしてさまざまな問題が出てくる。御公務が大変ということなら、御公務の数を減らすなり、摂政を置くなりして対処できます、どうか譲位のお気持ちを表明されるのは思い止まってくださいませ。

 皇室典範は、言わば現代の禁中並公家諸法度である。天皇の行動をかなり束縛するものである。光格天皇今上天皇も基本的にはそのルールに従っておられたが、唯一、光格天皇は「父君の位だけは尊重してほしい」、今上天皇は「退位くらいは自由に認めてほしい」という希望を仰せられた。

 今上天皇は周囲の反対を押し切ってでも「お気持ち」を表明された。禁中並公家諸法度でガチガチに雁字搦めにされ「朕はこう思うんだけど」と自分の気持ちを述べることさえ許されなかった時代に、思い切って時の政府(幕府)にお気持ちを伝えた光格天皇と、印象が重なる。
 決まりに背くことは知っているけれども、あえて「お気持ち」を表明された点、周囲から再考を促された点が光格天皇の時と今上天皇の時とよく似ている。そして、今上天皇の「お気持ち」は、特例法、つまり「今回だけ特別」という形で実現されようとしている。これも光格天皇諡号が「今回だけ特別」として幕府に認められたのと似ている。
 

五、譲位

 そして譲位。

 前回、光格天皇が譲位されたのがちょうど二百年前の1817年。今年か来年に今上天皇の生前退位が実現すれば約二百年ぶりの譲位であり、おそらく二百年ぶりの上皇誕生ということになる。

 譲位の理由は異なる。今上天皇の場合は、年齢による健康問題、またそれに伴う「象徴としての天皇の務め」を果たすことができなくなることを懸念されての譲位である。

 

面影が重なる今上天皇光格天皇

 以上の五つの点からも、光格天皇今上天皇の共通点を感じる。

 今からちょうど二百年前。光格天皇は現在の皇統の祖でもある。

 近代以降だと、昭和天皇明治天皇今上天皇大正天皇が私の中ではイメージが重なる。昨年平成28年に、天皇陛下がビデオメッセージで譲位のお気持ちを伝えられたとき、ふと前回の譲位をされた光格天皇のことを思い起こした。
 もちろん、天皇陛下と二百年前の光格天皇が何から何まで同じというわけではないが、ただ私の中ではなんとなく面影がかぶるのである。そこにはひょっとしたら、陛下の光格天皇に対する“思い”が少しはあるのではないだろうか。
 
 
【参考文献】
藤田覚『幕末の天皇
 
【関連記事】

伝説の棋士 村山聖がいた

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  村山聖(むらやまさとし)。
 1980年代後半から90年代に活躍するも29歳の若さで夭逝した将棋棋士
  その人生が本になり、今年は映画化もされ、また将棋を題材にしたアニメ「3月のライオン」に登場するキャラクターのモデルにもなっていると言われ、最近、再び注目を集めている。
  「伝説の」とタイトルに書いたが、私にとっては「伝説」というほど昔の人ではない。私は村山聖が活躍していた時代をリアルタイムに知っている。だが、村山聖の人生について詳しく知ったのは、彼が亡くなってから数年後、大崎善生の小説『聖(さとし)の青春』を読んでからだ。
  病気のこともよく知っていなかった。テレビを通して見る村山に病弱な印象は抱いていたけれども、そこまで深刻だとは当時は思っていなかった。
  『聖の青春』を読んだときに、村山の生き様に強い衝撃を受けた。村山聖はただの将棋棋士ではない。
 
 チャイルドブランドと呼ばれた村山聖
  今ではほとんど知る人も少なくなってしまったが、将棋界にはかつて「チャイルドブランド」という言葉があった。
  「羽生世代」と呼ばれる不思議な現象がある。
  将棋界の七不思議のようなものがあるとすれば、その中の一つに間違いなく「羽生世代」というものがある。
 羽生善治は将棋ファン以外の人たちにも顔と名前を知られている有名人である。なぜそんなに有名なのかというと「とても強い」からなのだが、羽生善治本人が強いだけでなく、羽生と同世代の人たちがやたらに強い、という不思議な現象がある。しかもここでいう「同世代」とは前後5年くらい、ではなく、羽生と同学年、もしくはせいぜい一歳違い、というとても幅の狭い世代なのである。この、とても狭い世代の中に、森内俊之佐藤康光丸山忠久、郷田正隆、藤井猛といった、今でも将棋界のトップに君臨する人たちがいた。村山聖もその一人だった。羽生善治とは歳は一つしか違わなかった。
 
 この世代は、プロになった直後から40歳を過ぎた今に至るまで、将棋界の主要なタイトルを総嘗めにしてきた。この世代はずっと強かった。研究や経験を重ねて徐々に強くなっていったというのではなく、彼らが30代の時も20代の若者だった時も、プロになった直後から強かったし、プロになる前も強かった。中学生や小学生の時も強かった。
 
 1980年代後半、この世代が10代でプロデビューした頃、その当時の大人たち、大人のプロ棋士たちは驚いた。あまりの強さに衝撃を受けた。
 
 「この子どもたちは一体なんなんだ」
 「いまどきの子どもたちはどうなってるんだ」
 「なんでこんなに強いんだ」
 
 しかも一人だけ強い子が入って来た、とかなら分かるが、みんな信じられないほど強い。
 
 当時はまだ大山康晴十五世名人が存命中だった。大山十五世は晩年でさすがに棋力も衰えていた頃だったが、中原誠十六世名人や米長邦雄永世棋聖がまだまだ強かった時代だ。いくらプロになったとは言え、そういう永世名人クラスの人たちに勝つのはまだまだ難しいと考えられるのが常識の時代だった。手痛いプロの洗礼を浴びせてやるのが“大人たち”の役割のはずだった。
 
 それまでの将棋界の歴史、常識に逆らっている。ありえない。ありえない強さだった。
 
 大人たちはこの桁違いに強い“子どもたち”を怖れて、「チャイルドブランド」、「羽生世代」と呼んだ。「羽生世代」は今でもこの世代を呼ぶ時に使われる言葉だ。「チャイルドブランド」の方は、彼らが「子ども」という年齢ではなくなるにつれて自然と使われなくなっていった。
 
 当時は二通りの呼び名があったわけだが、「羽生世代」と言う時は、当然、羽生善治のことが念頭に意識されていた。だが、「チャイルドブランド」と人々が言う時に筆頭でイメージされていたのは村山聖であった。雑誌の特集などで「チャイルドブランド」という言葉が使われる時、そこには村山の写真が使われていた。村山が筆頭だったのは、もちろんその強さゆえだが、それだけではなく、その風貌からも「おそるべき子ども」のイメージにぴったりだった。村山には「只者ではない感」があった。
 
 
名人位への執念
 
 村山は名人を目指していた。プロならば当然誰もが目指すものだが、村山は実力的に名人の座を狙える力がじゅうぶんにあった。問題は、肉体、時間の問題だった。
 
 名人になるためには順位戦という階段を一段づつ上って行かなければならず、プロになって直ぐに名人になれるというものではない。仮にプロになってからすべての対局に勝ち続け勝率10割であったとしても、クラスが一つ上に上がるだけ。そして何年かかけて漸く一番上のクラスに辿り着き、そこでさらに一年たたかって一位の成績を収めることができて、ようやく名人に挑戦する権利を得る。
 
 村山の目標は谷川浩司十七世名人だった。村山がプロを目指していた頃、彗星のごとく現れて光の速さで名人になった若き貴公子。しかしその後プロになってからは、自分と同世代の羽生が驚異的な躍進をし、羽生のことも強く意識するようになっていった。羽生の強さはこの世代の中でも一頭地を抜いていて、前代未聞の七冠を達成しようとしている頃は、この勢いはもう誰にも止められない、という感じがあった。
 
 羽生を止められる人がいるとしたら村山しかいない。
 
 多くの人がそう思っていた。
 
 
名人か死か
 
 医者をはじめ、周りの人々から対局を止められていた。絶対安静。この体で将棋を指すなんて正気の沙汰ではない。これ以上無理をすると体に障り、死期を早めることになる。
 
 しかし名人戦順位戦)の仕組みは残酷で、少しでも休んでしまうと不戦敗になり、クラス陥落となり、名人から大きく遠ざかってしまう。一年間集中的かつ継続的に勝ち続けなければならない。名人戦は一年に一回しかない。チャンスを逃すと、また一年待たなければならない。死期が迫っている。一年後に生きているかどうか分からない。「先ずは体調を戻してから将棋に向かうべきだ」と言う周囲の意見。無理して対局に臨めば死に向かう。病院で寝ていれば名人は絶望的。
 
 村山は将棋を択んだ。
 
 
 
 「病気を言い訳にしてはいけない」と人は言うだろうが、しかし、村山が健康だったら、もっと勝てていただろうと私は思う。村山は常に体調が悪かった。体調が良い日なんてなかった。いつも対局場に辿り着くだけでも大変だった。明日まで生きていられるかどうかわからないという体調で何時間も将棋盤の前に座っているのは困難なことだった。無理して対局に臨むことが体調を悪くし、体調が悪くなることで将棋で勝てなくなってしまう。悪循環だった。
 
 村山は自分に時間がないことをよく分かっていた。だからこそ名人になるためには全勝するくらいのペースで行かなければならなかった。無理を押した。
 
 実力はあるのに時間がない。
 
 村山がもう少し長生きしていたら名人の座に届いていたかもしれない。
 
 村山の夢は、名人になってさっさと将棋を辞めること。普通に恋愛をし、普通に結婚し、普通に幸せな家庭を持つことだった。他の人たちが“普通に”やっていることも村山にはできなかった。
 
 小説『聖の青春』で私の好きなシーンがある。村山が、まるで好きな女の子を初デートに誘うかのように、おずおずと羽生を食事に誘ったというシーンだ。
 
 「伸びることには意味がある」と爪や髪を切らないこともあった村山。読書家の村山。どれも魅力的な村山の一面だ。
 
 村山の人生を振り返ってみると、恋愛*1も結婚も健康もそして名人位も、望んでいたものは一つも手に入らなかった。手に入ったものと言えば師匠が買って来てくれた漫画とかその程度のものだ。真に望むものは何一つ手に入らなかった。ただ溢れる才能だけがあった。
 
 以前、村山について特集していた番組で誰かが「魂の気高さを感じる」と言っていて、ああ、なるほどその通りだ、と思った。
 
 才能と同じくらい魅力的なのは村山の人柄だ。誰も及ばない純粋さ、優しさ、気高い哲学、そのすべてが魅力的だ。
 
 「村山聖は天才」とか、そのようなことは誰もが言うことであり、わざわざ私がここに書くまでの必要もないだろう。
 
 それより私は、村山が「川で溺れている人がいたら僕は飛び込む」と言った、その哲学や精神についてもっと聞きたかった。「かわいそうだけど私は助けてやれないものね」とか「泳げない私が飛び込んだら被害者が二倍になっちゃうだけだからね」とか、そのような言い訳は“賢しら”である。「逆に助からない」とか「逆に迷惑をかける」とか、そんなことを考えていたのでは結局飛び込めずに、目の前で沈みゆく人を何もせずに見送るだけになる。そんなことは考えずに遮二無二飛び込むんだ、と村山は教えてくれる。
 
 対局料収入があると世界の貧しい孤児のためにこっそり寄付をしていた。自身は四畳半のボロアパートに住みながら。
 
 将棋は非情な勝負の世界。勝者がいれば必ず敗者がいる。圧倒的な優しさを持ちながら、自分の強さが他人の人生を、他人の夢を壊していることに悩んだ。
 
 「こんなものは何の意味もないんだ!」と言いながら、びりびりと一万円札を破った村山。お金を持っていてもしょうがない。お金は使われて初めて役に立つ。
 
 人は皆「村山君は才能があっていいなあ」と言う。村山はその類い稀な才能を持っていても、自分が真に望む、名人、健康、恋愛、結婚のどれ一つとして手に入れられなかった。村山からすれば、「みんな」の方が普通に恋愛して普通に結婚して家庭を築いて、普通に健康でいられて、そっちの方が「いいなあ」である。村山は一万円札を破りながら「こんなもの!」と言って自分の才能を破り捨てていたのだ。
 
 将棋なんて村山が持っていたたくさんの才能の一つでしかない。読書家の村山は該博な知識を持っていたはずだが、その知識はどこかで活かされることがあったのだろうか。
 
 私はもっと、村山の哲学をたくさん聞きたかった。そして村山が見ている海をもっと見たかった。
 
 村山は「羽生さんは自分とは違う海を見ている」と言ったが、私もまた村山が睥睨していた海が見えずにいる。
 
 【参考文献】
大崎善生『聖の青春』
聖の青春 (講談社文庫)

聖の青春 (講談社文庫)

 

 

*1:恋愛経験がないというのは、大崎善生先崎学郷田真隆など近くにいた人たちからそのような話がないことによる、私の勝手な憶測である。

はてなブログ5周年

 今日2016年11月7日で、はてなブログ5周年。

 

 「はてなブログ5周年ありがとうキャンペーン」というのがあってて、今週のお題にかわって「はてなブロガーに5つの質問」というのがあってたのだが、今日からお題が「5年後の自分へ」に変わっている。

 

はてなブログ5周年ありがとうキャンペーンお題第2弾「5年後の自分へ」

http://blog.hatena.ne.jp/-/campaign/hatenablog-5th-anniversary

 

 

 5年後の自分へ言いたいことは特に何もないので、「はてなブロガーに5つの質問」に答えることにする。

 

1.はてなブログを始めたきっかけは何ですか?

 はてなブログ5周年。

 本当に。

 2016年11月7日に、はてなブログが5周年を迎えるから始めようと思った。

 

2.ブログ名の由来を教えて!

 「龍」・・・自分の名前。

 「録」・・・記録。Blogのlog。

 「吟」・・・感情の吐露。

 「漸近」・・・近づいていくが永遠に交わらない。

 (※2016年時点のブログ名)

 

3.自分のブログで一番オススメの記事

 まだない。

 今日、始めたばかりだから。強いて言うならこの記事。

 

4.はてなブログを書いていて良かったこと・気づいたこと

 ない。今日、初めて書いたから。

 

5.はてなブログに一言

 5周年おめでとうございます。今日からはてなブログを始めます。

 

5年後の自分へ

 特にない。