漸近龍吟録

反便利、反インターネット的

簡単な問題の方が得意な私 〜変動性学力〜

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易しい問題が得意だった

 私は、難しい問題よりも簡単な問題の方が得意である。

 「誰だってそうでしょう」というツッコミが聞こえる。

 でも、そうではない。

 例えば、数学。私は高校で習うような高等数学よりも小学校で習うような単純な足し算掛け算のような問題の方が得意である。

 小学校時代、先生が一年間の計算ドリルの個人別平均点を割り出し、上位の人を発表した。一位は私だった。ちなみに私の高校時代の数学の成績はクラスで最下位だった。

14+29=?

16×27=?

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 「簡単と感じるかどうかは人それぞれでは?」と言う人もいるかもしれないが、上記のような問題は小学生にとっても簡単だろう。解き方がまったく分からないという子は少ないはずだ。小学校時代、クラスには私より頭の良い子は何人もいた。それなのになぜ私が計算ドリルの成績が一番だったのか。

 みんなが失点する理由は、「単純に1繰り上がるのを忘れた」「7×6=42(しちろくしじゅうに)と知ってるはずなのに、途中から7×6=48(しちろくしじゅうはち)になってしまってた」というような、いわゆる「ケアレスミス」だ。決して解き方や答えが分からないわけではない。ドリルのように何十題、何百題と解かされていると集中力が途切れてきて単純ミスが増えるのだ。

 私は何百題何千題解いても間違えない。そういうタイプの子どもだった。だから他の子よりも順位が上だっただけだ。頭が良かったわけじゃない。問題の難易度が上がると、私は解けなくなった。解き方がわからない。同じクラスのメンバーの中でも順位は下がる。

 余談だが、ゲームにおいても私は簡単なものほど強く、ルールが複雑で難しいものほど弱い。囲碁よりも将棋、将棋よりオセロ、オセロより◯✖️ゲーム(三目並べ)のようにシンプルで単純なゲームほど得意である。

 

恒温タイプと変温タイプ

 似たような話で、私の体は、夏熱く、冬冷たい。これも「誰だってそうでしょう」と言われそうなのだが、夏に人と握手すると「熱っ!」と驚かれ、冬に握手すると「冷たっ!」と驚かれる。身近な家族ですらそう。これはつまり、人間の体は誰でも夏は熱く冬は冷たいものだが、その「程度」が私は他の人よりも相対的に大きい、ということを意味する。人間の中にも恒温動物タイプの人と変温動物タイプの人がいるのである。

 

 話を学力に戻すと、私はこれは「学力の変動性」として注意すべき性質の一つなのではないかと思っている。つまり、「簡単な問題はみんな簡単なんだよ」とか「難しい問題は他のみんなにとっても難しかったんだよ」とは言えない、ということだ。もちろん、「恒温タイプ」の人もいる。それは出題される問題の難易度によって集団内における順位が変動しない人だ。「問題が難しかろうが易しかろうが、常にトップです」「僕はクラスでいつも真ん中くらいです」「どんな時も下位です」という人は、恒温タイプなのだ。

 しかし、「変温タイプ」の人は、問題の難易度によってクラス内の順位が大きく変わる。例えば30人のクラスだとすると、私は普通の問題だったら15位、易しい問題だったら5位、難しい問題だったら25位になる。私とは逆パターンの変温タイプ、すなわち、問題が難しくなればなるほど順位が上がっていく、という人もいるかもしれない。

 私はクラスの中における自分の順位がテストのたびに大きく変わることに気づいていた。そして、そういう大きな変動は普通、「今回は勉強サボってたんじゃないの?」とか「今回はがんばったね!」として処理されてしまうのだ。

 

 私はいつしか、真面目に勉強することが馬鹿らしく感じるようになっていた。

 今回のテストで順位が低かったのは勉強をサボっていたからじゃない。問題が難しかったからだ。今回のテストは確かに順位が高かったけれど、それは自分が勉強をがんばったからじゃない。たまたまテストの問題が易しかったからだ。

 「テストが『易しい』『難しい』と言いますが、どの問題を易しく感じるか、難しく感じるかは、人それぞれじゃないですか?かなり主観的なもので客観的に易しい、難しいとは言えないのでは?」と言う人がいるかもしれない。

 いや、たしかに、易しい難しいは主観的なところもあるが、「平均点」というもので一応のテストの難易度は測ることができる。

 

 自分が勉強をがんばった(あるいはサボった)結果として成績(順位)が現れるのではなく、問題の難易度による影響のほうがずっと大きい。だったらどうして真面目に勉強しようと思うだろう。次回のテストの私の成績は、私がそれまでにいかに勉強をがんばるかではなく、出題者がどのくらいの難易度のテストを作ってくるかにかかっているのだ。

 単純な計算ドリルのような問題でいつも成績が良かった私は、たまに難しいテストで順位が下がると、「あの成績優秀な君がどうしちゃったの?」みたいに受け止められた。別にどうかしちゃったのではない。クラストップの私もクラス最下位の私も、どちらも同じ私である。しかし学力の変動性という視点を持たない大人たちは「きっと本番に弱いタイプなんだね」とか「先日、大きな出来事があったからそれを精神的に引きずっちゃってるんだね、メンタルが弱いのかもね」などと別のところから原因を無理やり探し出そうとするのだった。

 

埋もれてきた「学力」

 なぜ、こんな記事を書いたかというと、私以外にも似たような人がいるのではないかと思うからだ。

 テスト問題を作成する人たちは、問題の内容については精査する。すなわち、学校で習った範囲かどうか、学校で習ったことの応用で解ける問題かどうか、悪問になっていないかどうか、など。だが、問題の難易度(平均点)についての配慮は全然足りていないように思われる。

 大学入試センター試験は、建前としては、だいたい全受験者の平均点が6割(100点満点だったら60点)くらいになるように作られることになっている。しかし実際には年度によって平均点に大きなばらつきがある。こういうことがあまり問題視されず放っておかれているのは、「今年の問題は難しかったって?でもそれだったら、他のすべての受験者にとっても難しかったはずでしょう。(だからみんな平等であり、問題はない)」という意識が働いているからだろう。

 

 これは、「埋もれてきた学力」である。

 学生時代にかぎらず大人になってからも、人々はテストの結果を気にし、テストの結果を重視し、テストの成績をもって「あの子は学力が高い」とか「あの人は学力が低い」などと言っているにもかかわらず、その「学力」の測り方についてはあまりにも不注意である。

 「学力とは何か」という大きな問いともつながる。

 それは本当に「学力」なのか?とすら思う。本人の頭の良し悪しは何も変わっていなくて、単に順位だけが大きく変動しているだけではないのか。

 しかし世の中には順位(成績)=学力だと思っている人が多いから、私は敢えて、この変温タイプの順位変動を「変動性学力」と名付けたい。

 名前を付けることによって、そこに視点が向き、それによって救われる人も出て来るのではないか。問題の難易度の影響を大きく受ける人がいることを知ってほしい。そして、テスト問題の作り方が再考され、人間の評価の在り方・見方もまた改まっていくことを願う。

 

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大人になったら勉強しないもの?

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 ニューズウィークのこんな記事を読んだ。

 

社会に出たら学ばない──日本人の能力開発は世界最低レベル | キャリア | 最新記事 | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト

 

 「週末とか何してるんですか?」

 このよくある質問に、私は昔から「勉強とか…」と答えていた。すると決まって「勉強!!!?」とめちゃくちゃ驚かれる。そしてその次には「ああ、なにか資格取得のための勉強とかですか?」と訊かれる。「いえ、資格取得のための勉強ではなく…」。

 なぜ誰も彼もからそんなに驚かれるのか不思議だったので、ある人にこの話をしたら、「普通の人は大人になったら勉強なんてしないんだよ」と言われた。「勉強っていうのは学生がするもので、普通は学校を卒業したら誰ももう勉強なんてしないんだよ。するとしても仕事のために必要とか、そういう理由で勉強することはあるけど。仕事にも生活にも何にも関係ない勉強をしてるって言ったらそりゃ驚かれるよ」と。

 衝撃だった。目から鱗だった。「普通の人は学校を卒業したらもう勉強なんてしない」。そうだったのか。そういうもんなのか。

 上記記事に対するコメントに「勉強する時間なんてないから」という声が多かった。

 就職氷河期で就職できず、大学を出てやむなくフリーターになった私は、時間はあった。高校までは受け身の勉強だったが、大学で能動的な学びのスタイルを身につけ、大学を卒業してからもずっと大学時代の延長のような生活スタイルが続いた。だからかもしれない、私がいい歳してもずっと勉強しているのは。

 ところで上記記事中に出て来る大王製紙前会長の「社会に出てからは、アウトプットするばかりでインプットする時間があまりにも乏しかった」という言葉が印象的だった。私の人生の感想とは真逆だからだ。私はひたすらインプットするばかりでアウトプットの機会がまったくない人生だった。

 ここに日本社会が抱える問題の縮図があるような気がする。

 就職氷河期でも運良く就職できた人は激務の日々、毎日残業続きで帰宅するのは深夜だから平日は勉強する時間なんてないし、たまの休みはもうクタクタで、勉強する力なんて残っていない。

 一方、就職できなかった人たちは、時間はあるから毎日勉強して知識や資格をどんどん身につけていくが、職に就けないのでそのせっかく得た知識や資格を発揮する機会は永遠にない。

 勉強したいという強い意欲を持っている人は勉強する時間がなく、勉強をたくさんしている人はひたすら頭に詰め込んでいくばかりでそれらを活用する場がない。極端に歪な構造になっているのだと感じる。

 

あなたは大人になってから“勉強”していますか?
結構している
しているような、していないような
ほとんどしていない
 

【2018年】気象会社6社の桜の開花予想と答え合わせ

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 気象会社6社の2018年、桜の開花予想の答え合わせをしてみた。
 
・気象会社は、ウェザーマップ、日本気象株式会社(以下、日本気象)、ライフビジネスウェザー、島津ビジネスシステムズ、日本気象協会(以下、気象協会)、ウェザーニューズの6社。
・対象地点は東京(靖国神社)。
・2月末時点での予想を採用。2月に複数回発表している会社は、最も遅く発表したものを採用。
ウェザーニューズなど一部、「東京」の予想日と「靖国神社」の予想日を分けて書いていた会社は、靖国神社の予想日を採用。他社が「靖国神社=東京」と見なしていると思われるため。
・個人的に誤差が小さいと思ったところを赤字にした。
・2018年の“正解”(東京の桜の開花日)は、気象庁が発表した「3月17日」。
 

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 正解は3月17日だったので、「3月19日」と予想していた日本気象が最も近い。その次がライフビジネスウェザーとウェザーニューズの「3月21日」という予想。
 
 今年2018年の東京は、2月までは例年より寒い日が多かったが、3月に入ってからは急にかなり暖かい日が続いた。そのため、桜の開花日も平年よりだいぶ早まった。
 
 念のため、3月15日を締め切りにして、もう一度、6社の予想を見てみた。3月15日にした理由は、「3月の前半」であることと、各社の予想が出揃う日であるため。だが、3月17日に開花したので、結果的にこれはかなり直前の予想になってしまった。
 

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  これだけ直前の予想となると、さすがに各社とも誤差3日以内に収めてきている。「3月17日」と予想しているウェザーニューズはピタリ賞である。

 

総括

 以上、強いて「優勝」を挙げるとすれば、2月の時点で「3月19日」と予想していた日本気象。2018年の2月は寒い日が多く、「今年の開花は全国的には例年より遅くなりそう」としている会社も多かった。東京の平年の開花日は3月26日であり、それより7日も早い予想を出すのはかなり思い切った予想である。寒い日が続いた2月にこれだけ思い切った予想ができたのは素晴らしい。また、3月の直前の予想でピタリ賞を出したウェザーニューズや、2月、3月の予想で大きく外さなかったライフビジネスウェザーも評価したい。
 
 ただし、これをもって気象会社の実力を見極めた、と言うつもりはない。あくまでも参考程度に。
 
 対象地点を東京にしたのは、自分が住んでいる所であることも然ることながら、東京の“難しさ”も理由にある。東京の桜の開花は関東でも早く、東日本でも一番早く、年によっては大阪や福岡よりも早い。「関東全般は遅くても東京は早い」という、この東京の特異性をどれだけ考慮できるかも見どころだった。
 
 何をもって正解とするのかも難しい。“正解”は気象庁が発表する。靖国神社の桜が五、六輪咲いたら、ということだが、五、六輪だけ先に咲いて、他の花弁が全然開いていない日が続くかもしれない。「これで開花って言えるの?」という状態の日が続くかもしれない。人間の感覚との乖離がある可能性もある。
 
 また、各社、予想を発表している日が異なっていることにも注意。当然、遅く発表している方が有利ではある。たまにしか発表しない会社もあれば、かなり頻繁に発表を更新している会社もある。
 
 最後に、各社の開花予想手法の特徴を紹介。各社ともコンピューターを使って分析・予測しているのはもちろんだが、それに加えた特色を書き出してみた。
 
10000通りのシミュレーションを通した予想 ウェザーマップ
 
独自の開花メーターによる予想 日本気象
 
地域の特性を考慮した予想 ライフビジネスウェザー
 
ビッグデータ開花予想 島津ビジネスシステムズ
 
気温経過に重点を置いた予想 気象協会
 
全国の会員リポートを結集したソーシャル予想 ウェザーニューズ
 
 
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私は「アインシュタインは頭がいい」なんて言わない

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 私、りゅうたいぷは「アインシュタインは頭がいい」なんて言わない。

 「アインシュタインは頭がいい? それ、誰が言ったの?」

 「りゅうたいぷさんが言ってました」

 これを聞いたら、皆、腹を抱えて必死で笑いを堪えながら、「そりゃ、りゅうたいぷさんから見たら、この世の大半の人は頭がよく見えるでしょうね」と思うだろう。

 この発言の主がりゅうたいぷであることの滑稽さ。頭が悪い私がどうしてアインシュタインが頭がいいかどうかを判断できよう。

 

 世の中、医者や弁護士には「先生、先生」と言って“へいこら”しながら、ファミレスの店員やタクシーの運転手に対しては横柄な態度を取る人が多いのはなぜか。

 それは、敬意の基準が「自分ができるかできないか」になってしまっているからである。つまり医者や弁護士を「すごい」と思うのは「自分にはこんなことできない」と思うからであり、ファミレスの店員に対しては、自分がその仕事をやったことがないにもかかわらず、「これぐらいのことは自分にもできそう」と思うのである。

 自分ができそうかできなさそうか、を「すごいかすごくないか」の基準にしている。

 自分を基準にしてしまうことの愚かさ。あなた如きを基準にされたら堪らないのである。

 

 私は、「私から見たらアインシュタインは頭がよさそうに見える」とか、「アインシュタインは20世紀の人間にしては頭がいい」という言い方はするかもしれないが、「アインシュタインは頭がいい」とは言わない。

 

『オオカミ少年』の一般的な教訓に対する異論

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 イソップ童話に『オオカミ少年』という話がある。

 羊飼いの少年が退屈しのぎに「狼が来た!」と何回も嘘を吐いていたら、本当に狼が来た時に村人たちに助けてもらえず、羊たちが狼によって食べられてしまったという話である。

 この話の教訓は、「だから嘘を吐いてはいけない」ということだと思っている人は多い。普段から嘘を吐いていると、こうやっていざという時に誰からも助けてもらえないんですよ、ということだと。

 私は以前からこの解釈に異論がある。

 「いっつも嘘ばかり吐いてるからこういうとき誰からも助けてもらえないんだよ、ざまあ」
 「自業自得だね」

という話なのだろうか。

 羊を食べられて困っているのは誰なのか。

 狼に食べられてしまった羊たちは村人たちのものでもあるはずだ。羊を食べられてしまって困るのは少年一人ではなく、村人たちだって困っているはずなのだ。少年の視点ばかりがあって、村人たちの視点がないのはおかしい。

 読者は、もし自分が少年だったらと考えて、「ああ、やっぱり日頃から嘘は吐いちゃいけないんだな」と考える。もし自分が村人だったらとは考えない。

 村人たちは羊を食べられてしまって“大困り”なはずである。少年一人を「自業自得だ」「ざまあ」などと言って切り捨ててお終いという話にはならないはずである。しかしこの話は日本では(外国ではどうか知らないが少なくとも日本では)、嘘吐き少年一人が最後に痛い目をみた、という話として捉えられている。

 こんな解釈には私は大いに異論がある。そこで、村人の視点で考えている人がいないかネットで調べてみたら、いた。いることにはいたのだが、それらの人たちの意見は概ね次のようなものだった。

 「村人の大人たちも、いつなんどき本当の狼が襲って来るかわからないのだから、常に注意を怠らないようにしておくべきである。少年に騙されて大被害を出してしまったのは油断である。この話は、油断していた大人たちへの教訓である」
 「少年の言葉の真偽を確かめないのが悪い。万が一ほんとうである可能性を考えて常に細心の注意をしておかなきゃいけない」

 これまた、ふざけた解釈である。

 「何度嘘を吐かれようが、毎回、万が一のことを想定して備えていれば防げたはずである」などという考え方は傲慢である。驕りである。人間はそんなに優秀な生き物ではない。「細心の注意をしていれば防げるはず」などと思うほうが“ぬかり”である。人間は何度も嘘を吐かれて騙されればもう信じることはできなくなる。疑いを容れて「今度は本当かも」と思うことはできなくなる。人間なら誰でもだ。


 2011年東日本大震災の後に「警報」の上に「特別警報」ができた。警報ではみんな動かないから重大さを報せるために作ったのだと。

 しかし、みんな自分が「警報係」になったときのことを考えてみてほしい。

 「あ、今の地震はかなり大きかった。どうしよう。特別警報を出すか、出さまいか。でも、直後だから被害の程度は全然わからない。特別警報を出して大したことなかったら濫発するなって国民から怒られるし、ここで特別警報を出さないでもし大被害が出たら後で『なんであのとき特別警報を出さなかったんだ』って国民から叩かれるだろう。どっちみち間違う可能性があるなら出しておいて間違いだったと言う方がいい。」

 皆、そう考えるだろう。実際、「係」の人も同じように考えて特別警報を出している。その結果どうなるか。

 未来の子供「いま、特別警報が出たよ。警報の上だよ?逃げなくちゃ!」

 未来の大人「だいじょうぶ、だいじょうぶ。今まで長年生きてきたけど、特別警報って言っても大抵、津波5cmとかだから。今まで全部そんなもんだったから。全然、心配しなくてだいじょうぶだよ」

 こうやって子供と大人はともに津波に飲み込まれる。


 では、『オオカミ少年』の話には何の教訓も無いのか?何の教訓も無い話が話として纒められ、語り継がれているのか。

 私はこの話から得るべき教訓は、「人間は騙されつづけたら疑いを容れることはできない」ということだと思う。

 100回。いや、1000回目。少年が「今度こそ絶対!マジで!今度こそ本当に狼が来たんだって!」と迫真の顔で言ってくる。あなたは玄関に行って靴を履き、家から少し離れたところまで見に行く。狼はいない。少年が「ウソでした〜」と言いながら笑っている。

 こんなことを1000回もつづけられて、1001回目に「今度は本当かも」と思える人はいない。そんなことは人間には絶対にできない。

 外に見に行くのは“労力”である。「それぐらいは大した労力ではない」と言う人がいるとしたら、私は一日に10回仕掛けてやろう。一年に3650回、無駄な往復をしてそれでもまだ大した労力ではないと言えるか。

 『オオカミ少年』の話から私たちが学ぶべき教訓があるとしたら、それは、人間は誰しもずっと似たような境遇がつづいた場合、その境遇や環境に疑義を挟めなくなってしまう、ということだ。少なくとも、「ざまあ」「自業自得」などと言って少年を切り離したり、「油断せずに注意していれば被害は防げたはず」などと大人の能力を過信したりすることではない。

 少年を切り離すのではなく、「自分たちの問題」として捉えること。そして、人間の能力を過信しないこと。私たちの問題なのだから少年を切り離して考えるのではなく、例えば、嘘を吐かないように少年を教育していくとか、羊の番を二人体制にするとか、少年を包摂したうえでどのように問題を解決していくべきかを考えるのが肝要だと、そう私は思う。

 

マイナンバー制度はカード所持認証を超えてゆけ

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 現行のマイナンバー制度はマイナンバーカードがセットになっている。行政側ではなく、利用者側(国民側)から見れば少なくともそうだ。

 そうなっている理由の一つは、やはりセキュリティ上の問題だろう。所謂「なりすまし」を防ぐためにはカードの所持認証というのは、かなりセキュリティ度が高い。

 しかし、カードの利用を前提としてしまっていることでマイナンバー制度の本来の意義が霞んでしまっている面もある。

 

 例えば、マイナンバー三大利用目的の一つ、「災害」。

 此処に「洪水で家ごとすべて流されてしまいました」という人が呆然と立ち尽くしている。その人に向かって「マイナンバーカードはお持ちですか?」と言うのだろうか。私はそんな残酷なことは言いたくない。

 マイナンバー制度はこういう人を助けるための制度であるはずだ。それなのに、「わざわざ役所に行かなくてもマイナンバーカードがあればいろいろな手続きを一括で申請できます。マイナンバーカードはお持ちですか?」と言う。

 家ごと流されたと言っているのである。

「ご住所はどちらですか?今、どちらにお住まいですか?」

 住所はあるが、その「お住まい」が無いのである。

 

 カードの所持認証がセキュリティ度が高いことは分かる。所持認証だけではない。カードのICチップが持つ耐タンパー性とか、カードを利用した方が格段にセキュリティが高まることは分かる。しかし何とかそこをクリアしていくべきだ。私は技術的な精しいことはよく分からないけれども、例えば生体認証を用いるなどして、カード所持認証から解き放たれることはできないのか。

 最近、「Polarify」が生体認証を使ってマイナンバーカードの暗証番号を呼び出す、というところまで行ったというニュースを聞いた。

 ここまで来たなら、あともう一歩だという気がする。マイナンバーカードを超えてマイナンバーを直接利用できるようになるまであと一歩だ。

 道具が制度の精神を邪魔してしまったのでは本末転倒だ。

 

ビットコイン批判 〜ビットコイン生誕9周年〜

 

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 9年前の今日、この世に誕生した。
 
 昨年2017年は、「ビットコイン元年」あるいは「仮想通貨元年」と言ってもいいぐらい、ビットコイン知名度が爆発的に上がった一年だった。そして、ビットコインの“よくない”面がたくさん見えた一年でもあった。
 
 今、ビットコインのいったい何が問題なのか。
 
 そこには、二つの大きな問題がある。
 
 「中国の問題」と「日韓の問題」である。
 

中国の問題=マイナーの問題

 ここで「中国の問題」と呼ぶのは、いわゆる「マイナー(採掘者)の問題」である。マイナーは中国にだけいるわけではないが、中国が主流を占めている。2015年、2016年頃は中国の年であった。取引量の上でも、採掘量の上でも、中国がビットコインの主たる場であった。この二年間で明らかになったことは、巨大なハッシュパワーを持つマイナーが強大な権力を持つようになる、ということだった。
 
 採掘のスピードはビットコインの価値に影響するが、そのスピードを速めるも遅めるもマイナー次第。そして、今まさに問題になっているビットコインネットワークの混雑、送金処理の遅延も、マイナーの匙加減一つ。さらにもっと大きな問題は、マイナーがビットコインの仕組み、すなわち「政治」の問題にまで口出しできるようになってきたことだった。ハードフォークとか文字通りビットコインの根幹に関わるようなことに対して日に日に大きな意見を持つようになっていった。
 
 そしてついに、2017年8月、マイナー主導のハードフォークが決行された。
 
 これは、ハードフォークの是非以前に、一握りの声の大きな人間によって決行されたことが問題である。
 

日韓の問題=大量の投資家の問題

 2016年までとは変わって、2017年にビットコイン取引量が最大になったのは日本と韓国だった。
 
 日本と韓国でビットコインを「始める」人が爆発的に増えた。そして、ビットコインの価値(時価総額)は、2017年の一年間で爆発的に高騰した。高騰した理由は、大量の日本人と韓国人がビットコインを買ったこと。それも投資的な目的で買う人が多かったことが主な原因だ。いわゆる「ミセス・ワタナベ効果」である。
 
 それではなぜ、2017年に突如、大量の日本人がビットコインを知る(買い始める)ことになったのだろうか。
 
 私は、それは一部のブロガーの存在が大きいと思っている。ある有名ブロガーが2017年の初頭にビットコインを「始めた」。そして「儲かる」「儲かる」とブログに書き綴った。これを見て煽られた人たちがビットコインに興味を持ち始めた。
 
 もちろん、一人のブロガーのせいとは言わないが、何人かの影響力の大きいブロガーが「ビットコインで儲かった」みたいなことを書けば、その影響は一気に日本中に拡がる。
 
 日本はビットコインの取引所なども充実しており、ビットコインを買いやすい環境が調っている。人口も多いし、こんなにたくさんの人が買えば(ほぼ「売り」ではない「買い」の一辺倒)、高騰するのは当たり前である。
 
 世界のビットコイナーたちは、何故この一年間でこんなに高騰したのか、その理由を、技術的な革新、前進があったからだとか、法的な整備がととのったからだとか、いろいろ考えているけれども、私は案外、日本の一部のブロガーが書き立てたことに起因しているのではないか、という気がしている。
 
 今や世界屈指のビットコイン取引所である、日本の渋谷にある「Coincheck」は、他の取引所と比べても、元々、ビットコインを「投機、投資的な物」としてではなく「通貨」として流行らせよう、という志向を強く持っていた。それが今では、投資的な目的の人たちが世界一集まる場所、になってしまっているのはなんとも皮肉なことである。
 

一握りの人に左右されるビットコイン

 この「中国の問題」と「日韓の問題」は似ている。それは、ごく一握りの人が大きな影響力を持っている、という点である。すなわち、有名マイナーと有名ブロガーである。
 
 この二つの悪影響がはっきり表れたのが2017年という年だった。
 
 マイナー主導のハードフォークによって価値そのものが毀損されても、ブロガーの煽りによってボラティリティが大きくなりすぎても、どちらもビットコインにとっては良くないことである。
 

「クジラ」の問題

  さらに言えば、いわゆる「クジラ」の問題もある。供給されているビットコインの約4割ほどを、たった1000人くらいの人たちが所有しているかもしれないといわれる問題だ。この1000人はかなり初期からビットコインコミュニティにいる人たちだと思われ、お互いに顔見知りである可能性が高い。つまり、この「クジラ」たちが結託すれば、ある程度思い通りにビットコインを操作できてしまう。
 

ナカモトサトシの問題

 さらに言えば、「ナカモトサトシ」の問題もある。
 
 9年前の今日、ビットコインブロックチェーンの最初のブロックがこの世に誕生した。この“0番目”のブロックのことを「創世塊」と言う。
 
 ビットコインブロックチェーンのブロックは、すべて一つ前のブロックによって正しさが証明されている。だから信用できる。10000番目のブロックは9999番目のブロックによって、9999番目のブロックは9998番目のブロックによって正しさが証明されている。しかしこれを辿って行くと、「じゃあ、一番最初のブロックは何によって正しさが証明されているの?」という問題に突き当たる。
 
 キリスト教の世界観では、神がこの世界を造りました、と説明する。すると子供は「じゃあ、神は誰が造ったの?」と訊く。
 
 ビッグバン宇宙論でも「ビッグバンによってこの宇宙は始まりました」と先生が説明すると「じゃあ、ビッグバンは何によって起こったの?ビッグバンの前には何があったの?」と訊かれる。そしてその問いに先生は答えられない。
 
 最初のブロックだけに関してはナカモトサトシを信じるしかない。それはキリスト教徒が神を信じるしかないのと似ている。
 
 もしナカモトサトシが生きていたら、そして一人の人物であったなら、大量のビットコイン保有していると考えられる。ナカモトサトシは悪用しようと思えば、ビットコインを崩壊、終焉に追い込むことができるかもしれない。
 

 今日を生きるためのビットコイン

 しかし私はナカモトサトシについてはそれほど心配していない。
 
 それよりも、ビットコインの中核から遠いところにいるマイナーや、もっとはるか遠いところにいる一部のブロガーなどが、ビットコインに大きな影響力を行使できてしまう事態の方がずっと問題であると考えている。
 
 ベネズエラジンバブエなど、自国政府の通貨がまともに使えなくなってしまっている国々では、人々は代替通貨としての機能をビットコインに切実に求めている。
 
 それなのに、日本の一部の富裕ブロガーなどが「儲かった儲かった」と煽り立てることで、ボラティリティが増大し、ビットコインが通貨として使いづらくなり、そうした貧しい地域の人々を苦しめていることになっているかと思うと、腹が立って仕方がない。
 

ビットコインのこれから 

 2018年以降、この先、ビットコインがどうなっていくのかは分からない。
 
 今あるネットワークの混雑のような問題は、Lightning NetworkやDrivechain、あるいは他の技術が登場して解決するかもしれない。
 
 しかし「一部の影響力の大きすぎる人たちに振り回される問題」はずっと深刻である。これは2017年だけの問題ではない。この問題を解決しない限り、ハードフォークの問題やボラティリティの問題はこれからもずっと続く。
 
 ビットコインにとって2017年という一年は、中国の大手マイナーや日本の有名ブロガーなど、新しもの好きの強欲マンたちによって振り回された一年だった。
 
 こうした一部の人の影響力が大きすぎる状態は、“Decentralized”という理念にも反する。
 
 ビットコインに携わる人たち、特に中核に近いところにいる人たちは、こうした問題の解決を考える必要がある。新しもの好きの強欲マンたちの手から“ビットコイン”を取り戻さなければならない。
 
 ビットコイン、9歳の誕生日、おめでとう。
 
 
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