漸近龍吟録

反便利、反インターネット的

地方に大学を

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 政府が大学の東京一極集中を是正するための諮問機関を昨年2017年に設けた。
 
 こうした政府の動きに対して批判の声は多い。
 
 一番多く聞くのは「地方には仕事がないんだから大学を卒業してから結局は東京へ行く」という声。
 
 もう一つよく聞くのは、1990年代に東京の大学が郊外へキャンパスを移転した結果、人気がガタ落ちした、という例を引いて、「キャンパスは都心にあったほうがいい」という声。
 
 しかしこれは、「東京の郊外」と「地方」を混同している。東京の大学を東京圏の郊外に移転するのと、地方に大学を作る話は別だと思う。
 
 私は「地方に大学を作ろう」という意見には賛成である。東京への過剰な一極集中の是正は、かなり昔から議論されているものの、一向に改善する気配がない。
 
 東京への人口の集中が進むのは地方の人が東京にたくさん移り住むからである。しかし移り住むと言ってもそう簡単には引っ越せない。大部分の人にとって、人生で東京に移り住むきっかけになるのは、大学受験と就職、結婚の時だろう。となれば、この「三大きっかけ」を見直すことが東京一極集中の是正に繫がる。
 
 地方に仕事を創出することも大事だが、大学を地方に作ることも大事である。例えば、地元にまともな大学が県名を冠した国立大学一校しかなくて、その一校に行くか若しくは東京の大学に行くか、という選択肢を迫られている人はいっぱいいると思う。東京の大学に進学すれば、東京で「縁」もできる。人との繋がり、コネクションができ、人によっては東京を離れられなくなる。実家の「家業」がある人は別だが、特段、家業もない人は、このまま東京で就職してもいいか、という考えにもなろう。「引っ越す」ということは「機会」や「縁」がなければなかなかできないことだ。
 
 また、東京の大学に進学すれば、そこで出会った人と恋に落ちたり、結婚などという話になることもあるだろう。相手が東京近郊の人だったら、ますます東京で結婚生活を送る可能性は高くなる。
 
 先日、政府が、今後10年間、東京23区の私大の定員を増やさない、という法律を閣議決定した。このニュースに対して、私の見たかぎりでは、「バカじゃないの」というような批判的なコメントが多かった。「そんなことをしたら東京の大学の受験競争が激化する」というコメントも見た。だが、東京の大学の定員を絞るのではなく、あくまでもこれ以上増やさないというだけなのだから、激化するはずはない。少子化の今の時代に、東京の大学の定員をこれ以上増やしたら、地方の小さな大学はなかなか太刀打ちできない。
 
 地方の大学は、◯◯芸術大学、◯◯経済大学、◯◯工科大学のような専門の大学が多い。高校生の時点で進路が決まっている人ばかりでもないと思うので、もっといろんな学問が学べる総合大学があってもいい。
 
 「東京一極集中に何か問題でも?」と言う人もいるが、私は東京一極集中には反対である。効率を優先させて地方を衰退させてよいはずがない。地方の都市にも村にもそれぞれ掛け替えのない文化がある。少子化は確かに厳しい試練だが、だからといってそんな簡単に地方を諦めてはいけない。
 
 
【関連記事】

選択的夫婦別姓が話題になっては消えて行く理由

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 選択的夫婦別姓の問題は、もうだいぶ昔から話題になっては消えて行くことを何度も繰り返している。
 
 最近もIT企業の社長が提起して話題になったが、その後、盛り上がらない。
 
 この話題が消えて行くのは、「賛成」の人が少ないからである。
 
 と言うと、「私は賛成ですよ」とか「アンケートでたくさんの人が賛成って答えてますよ」と言う人がいるだろう。
 
 しかし、それらは真の賛成ではない。以前の朝日新聞のアンケートでの「容認」という言葉がなにより物語っている。多くの人々は「賛成」ではなく「容認」なのである。賛成と容認は全然違う。
 
「私は結婚して夫婦で別姓にするつもりはないですけど、それを望む人がいるんなら別にいいんじゃないですか?」
「私は反対しませんよ」
「好きに選べるようにしたらいいんじゃないですかね」
 
 要するに「他人事」なのである。自分の事ではなく、それを望む人がいるんなら私は反対したり阻止したり邪魔したりしませんよ、という意思表明なのである。
 
 そういうのは「容認」もしくは「消極的賛成」というのである。「賛成」というのはもっと積極的な賛成である。自分が夫婦別姓を選びたい、ぜひそうしたい、と強く願う人がたくさんいれば、世の中はそのように変わっていくのである。
 
 翻って反対派の人たちの「反対」は「積極的反対」なのである。「別に姓制度を変えなくてもいいんじゃないですかね」ではなく、「どうしても姓制度を変えてほしくない」なのである。エネルギー量が違うのである。
 
 「それにしても、なんで反対するのか、その理由がわからない」と言う人が多い。「自分が別姓にしたくないなら自分が別姓にしなければいいだけのことで、なんでそれを他人にまで強制しようとするのかがわからない」
 
 そういう人のために反対派の人たちがなぜ反対するのかを、サッカーを例にとって説明してみよう。
 
 ここにサッカーファン(サッカーに詳しい人)と、サッカーのことをまったく知らない人がいたとする。
 
 知らない人「どうして手を使っちゃ駄目なんですか?手を使えないとすごく不便だと思うんですよ。手を使いたい人は手を使えるようにルールを改正するのは良いことだと思いますけど」
 
 詳しい人「私は、そのルール改正には反対です」
 
 知らない人「いいですか?私たちが主張しているのはあくまでも『選択的』ということなんです。私たちは何も『手を使え』って言ってるんじゃないんです。従来通り、手を使いたくない人は手を使わなくていいんです。使いたい人だけが使えばいいんです。選択肢が増えるのはいいことじゃないですか?」
 
 しかしそんなことを認めてしまったら、サッカーはお終いである。サッカーファンなら誰もがそう思うだろう。ゴールキーパー以外、手を使えないということがサッカーの醍醐味であり魅力である。「使いたい人は使う」「手を使うか使わないかは選手個人個人の自由」などというルールにしたら、もちろんみんな手を使う。その方が圧倒的に有利だからだ。「手を使ってはいけない」というルールを自分一人だけではなく、全選手に課していることにこそ意味がある。
 
 反対派の人たちは全員に統一ルールを課すことに魅力を感じているのである。
 
「それなら私たち賛成派だって、『選択的自由』に強い魅力を感じています」
 
 そうかもしれないが、あなたがたが重い価値を置いている「選択的自由」は、別に姓制度という場で発揮されなくてもいいのだ。あなたがたは姓制度には関心はなくて、選択的自由を訴えているだけなのだ。
 
 選択的夫婦別姓制度の話が一時的に盛り上がってすぐに消えて行ってしまうのは、賛成派の人々が言うように「老人たちが頑固に反対するから」ではなく、「別姓を望んでいる人がどこかにいるんでしょ?だったら、その人たちが好きに選べるようにしてあげたらいいじゃないですか」「私は反対しませんよ」という、どこまでも他人事な態度の人たちが、今の世の中に大多数だからである。
 

デジタル・ガバメントへの3つの提言

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1. 申請主義からの脱却

 デジタル・ガバメントの基本的な考え方は大体賛成だ。ワンス・オンリーもコネクテッド・ワンストップも諸手を挙げて賛成だ。
 
 00年代の「電子政府」化計画は単に紙をデジタル化するだけのものだった。今回は単なるデジタル化ではない、という意味を込めて、「電子政府」から名前を変えて「デジタル・ガバメント」としている思想にも賛成だ。
 
 しかし、ここまで思想を根本から見直し再構築しているのに、「申請主義」について一言も触れていないのは奇妙だ。
 
 何故なのか。
 
 「根底から見直す」と言っても、さすがに申請主義についてまで触れてしまうと、それはもう本当にそもそもの土台からの話になってしまう。さすがにそれは、話が大掛かりになりすぎてしまうことを、あまりにも「そもそも論」になってしまうことを恐れているのか。
 
 計画の趣旨に「安心、安全かつ公平、公正で豊かな社会を実現する」とあるが、申請主義に触れないのでは、真の「安心、安全かつ公平、公正で豊かな社会」は実現できない。これができないようでは、「デジタル・ガバメント実行計画」は始まる前から半分死んでいる。
 
 どうしてこのような“間違い”を犯しているのか。
 
 「サービス設計12箇条」が第1条「利用者のニーズから出発する」から始まっている。こういうところに誤りがあると思う。
 
 利用者のニーズから始めてはいけない。
 
 利用者のニーズというところから始めると、「自動改札は右側が便利か左側が便利か」という些末な話から始まってしまう。デジタル・ガバメントは大思想でなければならない。利用者のニーズを待ってから話を始めるとどうしても些末なところに落ち込んでしまう。それに利用者は「ニーズ」を知らない。デジタル・ガバメントでどういうことができるようになるのかを知らない。誰もニーズの声を上げない。「国民のニーズがないから私たちは動かなくてもいいですね」となってしまう。利用者のニーズを待たずにリードしていくデザインでなければならない。
 
 抑々、「利用者」でもあるが「適用者」「対象者」でもあるのだ。
 
 マイナンバー制度の目的の一つに「社会保障」がある。
 
 「孤独死」が増えている。無縁社会において誰にも助けられず亡くなっていく人がいる。「ワンスオンリー」や「コネクテッドワンストップ」はこうした社会的弱者を扶けるのに役立つ。だが、申請主義の壁が立ちはだかる。
 
 弱者はIT機器の使い方を知らない。パソコンもスマホも持っていない。体が弱っているから役所まで足を運ぶこともできない。便利なサービスがあること自体も知らない。社会的人間関係が無いから誰から教えてもらうこともない。
 
 こういう人を助けられないんだったら、何のためのサービス、制度だろう。
 
 プッシュ通知の仕組みも整えているようだが、プッシュ通知よりももう一歩踏み込んだ「助け」が必要だ。「一応、お知らせはしましたからね。後はあなた自身の努力次第ですよ。このサービスを使いたければ申請してくださいね」と言うのではあまりに冷たすぎる。
 
 

2. (カード)所持認証主義からの脱却

 生体認証などを取り入れることで、物理カードの所持認証から脱却しよう。カードの所持認証に頼っていると、「カードも何もかも流されてしまいました」という人を助けることができない。
 

3. 国際標準を目指す

 せっかく作るのだったら国際標準を目指そう。今は「日本仕様」でも事足りるかもしれないが、早晩、海外の類似制度との兼ね合いが問題になってくるだろう。例えばIDの問題は世界の共通仕様を求められるはずだ。今の人は世界中を移動する。IDとは個人特定なのだから、その人が移動するたびにその都度、国によってIDが変わって追っかけられないようでは意味がない。
 

「何を為すべきか」の発想から

 以上、3つの提言を上げてみたが、私が一番主張したいのは、一番目の申請主義の問題だ。
 
 ニーズから出発すると、「便利」や「効率」ばかりを優先させたつまらない形に陥ってしまう。「何を為すべきか」という発想からスタートするべきだ。そうすればデジタル・ガバメントはより良いものになるだろう。
 
 
(参考:デジタル・ガバメント実行計画)

「非モテ」とは何か

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非モテ」とはモテないことに苦しんでいる人

 「非モテ」とは「モテない人のこと」。
 
 辞書的にはそういう意味だ。
 
 だが、「非モテ」が問題として語られる時、それは単に「モテない人」という意味の言葉ではなくなる。
 
 NHKにこんな記事があった。
 日本では古くから語られている「非モテ」の問題が欧米社会でも問題になっている、と。だが、この記事を読んで、「ああ、『非モテ』を全然解っていないな」と感じた。
 
 「モテなくてもいい」のだったら、それは何の問題もない。時々、「私は別にモテなくてもいいです」と言う人がいる。それだったら、モテなくても何ら問題はない。
 
「30歳。非モテです。今まで女性と付き合ったことがありません。今まで本気で女性を好きになったことがありません。」
 
 こういう独白をたまに見かけるが、女性を好きになったことがないのなら、女性と付き合ったことがないことは何の問題もないし、それは「非モテ」とは言わない。「非モテ」とは、「モテたい」と思いつつも、それが叶わないでモテずに苦しんでいる人のことを言うのだ。
 
 女性を本気で好きになり、その人と両想いの関係になりたい、恋人同士の関係になりたい、と強く願いつつも、その願いが叶わずひどく苦しんでいる状態にある人のことを「非モテ」と言うのである。
 
 ところが、現代、かなり多くの人が、「非モテ」というのは「世間体」の問題だと思っている。つまり、「この歳で彼女がいたことがない、とか恥ずかしいですよね?」という問題だと。
 
 世間体の問題は問題として別に存在するかもしれないが、それは非モテの問題の本質からは外れる。非モテとは「モテないことの苦しみ」が根底にあらねばならない。「別にモテなくてもいいんだけど、世間体的に彼女とかいたほうがいいですよね」と言うのは、この「苦しみ」が無い時点で非モテではないのだ。
 

「結婚できない」人の問題

 これと同じ構図が「結婚できない問題」にもある。結婚できない問題とは、基本的に「結婚“したいのに”できない」人がたくさんいる、という問題である。ところが、この問題を話し合っている時に、必ずと言っていいほど「一人のほうが気楽でいい」と言う人が口を挟んでくる。
 
「結婚って自由を束縛されるじゃないですか」
「独身でいることのメリットもあると思うんです」
「大人になったら皆結婚しなくちゃいけない、みたいな風潮が良くないんじゃないですかね。」
「いい歳して一人でいるのは恥ずかしい、みたいな世間の風潮がよくない」
「今の時代、一人で生きるっていう生き方もあっていいと思うんです」
「他人に気を遣いながら生活するっていうのが嫌なんですよね」
 
 そう言う人たちは、どうぞ心ゆくまで一人でいてください。私は別に「大人になったら結婚すべき」とか「日本は少子化なんだから結婚すべき」とか、そんなことは言わない。結婚したくないなら結婚しなければいい。話はそれで終わりだ。
 
 「でも結婚しなければいけないみたいな風潮がある」? 私はそうは思わない。私はそんな圧力は感じない。
 
 「あんまり結婚したくないんだよね」、「一人のほうが気楽でいい」。そう言う人たちは、お願いだから「結婚(したいのに)できない問題」を議論している場に口を挟んでこないでくれ。議論の道筋がずれていってしまうから。
 
 

意味がずれていった「ニート

 これと似たような構図が「ニート」という言葉にもある。「ニート」とは「働いていない若者」という意味だ。辞書的にはそうだ。だが、この言葉が日本で普及した背景には、そもそも就職氷河期で、大量に「(就職したいのに)就職できない若者」が生まれたことがある。つまり、「ニート」は「働きたいのに働けない若者」だった。ところが一部の若者が、
「働くことがすべてなんですかね?」
「そういう考え方って古いんじゃないですか?」
「ブログ書いてアフィリエイトで食べていくっていう生き方があってもいいと思うんです」
などと言った。
 
 それに対して老人たちが「何をー!」「昔から“働かざる者食うべからず”と言ってだなー!」と怒った。
 
 一部の“若者”の声が、議論の方向を捻じ曲げ、「就職したいのに就職できない」という問題の問題点がぼやけていった。
 
 

「童貞」の問題

 「童貞」という言葉にも同じ問題を見る。
 
 女性がよく「童貞は別に恥ずかしいことではありません」と書いているのを見かける。上記のNHKの記事で社会学者が「あなたの価値は性交渉できるか否かとは関係ない」と言ってるのも同じである。
 
 たしかに一部の男性は童貞の問題を世間体の問題として語っている。「この歳で童貞でいるのって恥ずかしいですかね」ということである。
 
 でも、そうではない。問題として語られる時の「童貞」というのは、性欲があり、「女性と交わりたい」と強く願いつつも、それが叶えられないでひどく苦しい状態にある人のことである。
 
 単に性的経験がない人も広義の童貞ではあるが、本人が「性欲がない」「別に女性と交わりたいと思わない」と言うのであれば、それは童貞でも何ら問題はない。
 
 

強く望みながら望みが叶えられず苦しんでいることが問題の前提

 以上見てきたように、「非モテ」にしろ「独身」にしろ「ニート」にしろ「童貞」にしろ、そこには共通して「強く望んでいるのに、その望みが叶えられないでひどく苦しく辛い状態にある」ということがある。
  
 この前提が忘れ去られると、問題の核心はどんどんぶれていく。私は過去、そういうぶれまくった議論を幾つも見てきた。
 
 議論がぶれてしまう理由の一つとして、「世間体を気にする派」の人たちが、この種の議論に口を挟んで来ることが上げられる。そして今の時代はこの「世間体を気にする(気になる)派」の人が意外と多い。
 
 現代日本には結婚(したいのに)できない人がたくさんいる、という問題を話し合っている時に、
「『一人でいるのはよくない』みたいな風潮が問題なんじゃないですかね」
「『結婚がすべて』という旧来の考え方を見直す時代に来てるんじゃないしょうか」
と言って来る人をたくさん見てきた。
 
 そういう社会の風潮や同調圧力といった問題はたしかにあるかもしれないが、それは「結婚できない問題」や「非モテの問題」とはまた別の問題である。
 
 「彼女がほしいと思わない」、「一人のほうが気楽でいい」という人は、どうかこの種の問題に口を挟んでこないでほしい。
 
 非モテの問題には、仏教で言うところの求不得苦(求めても得られない苦しみ)が根底にある。
 
 「求めてもいない、苦しんでもいない、ただ一人でいると周りがうるさいから困っているだけで…」という人たちは、そういう人たちで集まって別のところで話し合ってほしい。
 
 いまさらこんな「非モテ」の定義から話し始めなければならないことに私は軽い眩暈をおぼえる。
 

ピケティ『21世紀の資本』批判  〜ピケティが見落としている「格差」〜

目次

日本について歯切れが悪いピケティ

 ピケティは確かに新しい一面があった。
 
 資本(資産)と所得の別を明らかにして、多くの人びとにそのことを意識させたというところで功績があった。日本では特にそうだった。
 
 ピケティは著書(『21世紀の資本』)の中でも講演の中でも何度も日本について言及しているが、「日本の場合」について語る時のピケティはどこか歯切れが悪い。
 
 WSJにも「日本は逆に格差は縮小しているのでは?」とか「日本は世界的に見ても格差が小さい国だというデータがあるがどう思うか?」と突っ込まれている。
 
 資産と所得に分けて論じたとしても、ストックとフローに分けて論じたとしても、それだけでは格差を語るには不十分なのだ。
 

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西洋社会と日本社会の違い

 ピケティの格差の話を即座に日本社会に当てはめて考えるのには無理がある。
 
 『21世紀の資本』は2013年にフランスで刊行されたものだが、その時はそれほどの大ヒット、大ブームでなく、2014年にアメリカで英語版が発売されるや否や、たちまち大ベストセラーとなった。このことからも、多くのアメリカ人にとって「ピンとくる!」内容のものだったことが分かる。
 
 アメリカ社会には、日本よりもずっと厳然、明瞭たる「格差」がある。「富裕層」や「貧困層」がまるで生まれつきの人種のように、はっきりと存在する。住んでいる地区も厳然と分かれている。「あの地区に住んでいる人は全員富裕層」、「あの地区はみんな貧困層の人たち」、そうした区別がはっきりと存在する。まるで、明治時代の日本で、「あの人は貴族。あの人は平民」と言っていたように。
 
 日本にもゆるやかにはあるが、しかし、「あの地域は富裕層エリア。あの地域は貧困層エリア」などと明瞭には決まっていない。
 
 アメリカでは富裕層の家の子どもと貧困層の家の子どもは、付き合わない、一緒に遊ばない、ということさえあるが、日本ではそもそも、同年代の友達を見て「あの子は富裕層の子、あの子は貧困層の子」などというレッテル貼り自体がないだろう。多くのアメリカ人にとって、あるいは西洋人にとって、ピケティの著書は、普段自分たちが感じている格差の問題を鋭く論じてくれた画期的な書だった。
 
 欧米社会には、大きな格差がある。それは「資産格差」である。だからピケティがその資産格差に注目し、「資産に課税しよう」と言うのは、もっともなことだと思う。
 
 だがアメリカで有り難がられる本が、日本でも同様の重要性を持つわけではない。
 

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ハーバード大学東京大学の「難関」の意味の違い

 ハーバード大学東京大学はどちらも、それぞれ米国と日本を代表する「入るのが難しい大学」である。しかし、「難しい」の意味が違う。
 
 東京大学に入るのが難しいのは“学力的に”難しいのである。ハーバード大学は学力的にも難しいが、それ以上に“金銭的に”難しい。ハーバード大学の入学金や授業料はべらぼうに高く、「イイとこの」お坊っちゃん、お嬢ちゃんでないと入学するのは難しい。どんなに学力があっても、家が上流階級の家柄でハーバード大学の出身者とコネクションがあり、且つ経済的に裕福でなければ、入学は叶わない。
 
 東京大学ではそんな話は聞かない。家が裕福とか貧乏だとか上流階級とか下層だとか、そんな話は聞かない。東京大学に入るのが難しいのは偏に「学力的な」問題であって、学力さえあれば入学は可能だ。東京大学の入学金や授業料は、一般的な私立大学に比べても安いくらいである。
 
 この、ハーバード大と東大の「難関」の意味の違いが象徴している。私はピケティがなぜ、欧米社会しか見られていないと言うのか。ピケティの批判は、欧米社会とりわけ米国的社会を念頭に置いて行われている批判なのだ。
 
 ピケティは、こういう「ハーバード大的不平等」が許せなくて『21世紀の資本』を書いた。「どんなに勉強して学力を身に付けても、親の経済力が低いという理由でハーバード大に入れないのはずるいでしょう?」という思いが根底にあった。
 
 ハーバード大のような“良い大学”に入れなければ“良い会社”に入れない。良い会社に入れないと収入は低く、子どもが生まれても、良い学校に通わせてあげられない。「もっとチャンスは万人に平等に与えられるべきしょう?」というのがピケティの思いだ。
 
 だが、ピケティ流の考え方でいくなら日本は「チャンスが皆に公平に与えられている平等な国」ということになる。
 

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世代間格差の問題

 では、日本は「不公平が少ない平等で理想的な国」なのだろうか。
 
 ピケティは全然触れていないが、日本では「格差」とは「経済格差」だけではないのである。ピケティは経済格差以外のさまざまな格差を見落としている。
 
 「見落とすも何も、ピケティは初めから経済格差のことについてしか語っていない」と反論する人もいるかもしれない。だが何故、経済格差を語るのか。それはお金が人生の幸福や不幸に影響するからであり、そうであるなら、「格差」を語るには、やはりお金だけに注目しているのでは不十分なのだ。
 
 日本において重要な意味を持つ「格差」の一つは「世代間格差」である。
 
 東大に入れるか入れないかは、親が裕福か貧乏かよりも、自分が18歳の時の子どもの数の方がよっぽど影響が大きい。子どもの数が多い時代は「受験戦争」などと呼ばれ、少子化の時代には「大学全入時代」などと言われるのである。
 
 就職も同じである。日本においては、就職できるかどうかは、親の経済力が物を言うのではなく、自分が22歳の時の日本の景気が良いか悪いかに圧倒的に大きく左右されるのである。バブル期だったらどんなに頭が悪くても資格を一つも持っていなくても良い会社に入れるし、氷河期だったらどんなに頭が良くても資格を十も二十も持っていたとしても就職できないのである。
 
 フランス人のピケティには信じられないかもしれないが、日本では、大学入学のチャンスは人生で一回しかないし、新卒一括採用主義が強固な日本では、就職のチャンスも人生でたった一回きりしかないのである。(※「中途採用もある」と反論する人は中途採用の応募条件に「経験者のみ」と書かれていることに注意。)
 
 ピケティはいろんな人から「あなたの理論は日本には当て嵌まらないようですが」と突っ込まれたときに、首を傾げて、確かに日本にはどうもうまく当て嵌まらないようだ、と言った。そして、「高齢少子化が進む日本では世代間格差が大きい」という指摘を受けたときも、「世襲資本主義に注意しなければならない」と言うのが精一杯だった。
 
 『21世紀の資本』の中には「世代」という言葉は数回出てくるが、それは「世代を超えて富裕層と貧困層の格差が各家庭で受け継がれる」という意味で使われているだけだ。日本語では「世襲型資本主義」という言葉で説明されていることが多い。
 

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資本(資産)で親孝行ができるか?「初給料で親に奢る」経験格差の問題

 ピケティの本を読むと、まるで資産にしろ所得にしろ金持ってることには違いないだろう、と言ってるように読めてしまう。
 
 朝日新聞の記事によれば、ピケティは東大の講義で「人口減少が進む日本や欧州では特に、相続する資産がものを言う「世襲社会」が復活していると指摘した」と。
 
 資産が資産を生むにしろ、労働による収入が多いにしろ、金持ちは金持ちだ。だが両者の意味は異なる。
 
 例えば次のような例を考えてみよう。
 
 稼ぎ(労働所得)はない。でも親の資産があるからそれほど金に困窮するわけではない。
 
 実際、日本では「氷河期」に就職できなかった多くの若者が非正規雇用やアルバイトで働くことを余儀なくされ、それ以前の世代に比べて格段に収入が下がった。しかし、この氷河期世代の若者たちが餓死したかというとそんなことはなく、彼らは20代になっても30代になっても40代になっても親の資産に“助けられて”、薄給にもかかわらず、ずっと食い繋いでいくことはできている。
 
 「え?そんないい歳して、親に払ってもらってるの?それはまたいい御身分じゃないか」と思うだろうか。
 
 まともな職に就けず、まともな給料を貰えなかったこの世代は、“普通の”親孝行すらできなかった。社会人になって初めて自分で稼いだ初給料で、親を高級レストランに連れて行って奢る。そんな、それ以前の世代が当たり前にできていた親孝行すら、この世代はできなかった。大人になってからもずっと親の経済力に依存せざるを得なかったからだ。
 
 この「初給料で親に奢る」というような孝行経験は「収入の金」ではできるが、「資産の金」ではできない。口座に金があったとしてもそれは親からの援助金なので、その金で親に奢ることはできない。
 
 これは、単に「金があればいい」という問題ではないことを示す好例である。ピケティが重要視する「相続財産」で親孝行ができるか?相続財産を受け取る時に親は生きているか?
 
 「働いて金を得る」というのは人生における貴重な経験である。どんな形であれ金があればいい、という問題ではないのだ。
 
 こうした「経験」の重要さ、などもピケティの話からは抜け落ちている。
 

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経済成長への不十分な考察

 成長があれば経験格差、世代間格差が生じる。人間は「成長」の中の一部分しか生きない。
 
 ピケティは「私は経済成長に反対しているわけではない」と言う。ピケティが経済成長について言っていることはそれだけだ。このもどかしさ。
 
 経済成長により社会環境が激変し、多くの「経験格差」が生まれる。そうした格差についてピケティは何も語らない。
 
 「この10年で最も重要な経済書だ」というクルーグマンの評が象徴的だ。「21世紀の」と銘打っているわりには、ピケティの本は、あまりにもtemporaryなのである。21世紀を代表する歴史的な書にはなり得ない。
 
 ピケティは「g>rだったのは20世紀だけ。戦争ですべてがゼロになったり、その後の異常な高度経済成長が特別だった。21世紀は再び、19世紀以前のようなr>gの時代に戻る」と言う。
 
 しかし、そんな“特殊な”20世紀にこそヒントがある。激動の世紀の中で “特殊な”、“一回きり” の刻印を押される世代がある。
 
 私はピケティの説に反対ではない。「資産に課税しよう」というピケティの意見には反対どころか賛成である。
 
 だが、ピケティの『21世紀の資本』では、あまりにもgが軽んじられすぎなのだ。私が軽んじられていると言うのは、gの「功」ではなく、gの「罪」である。「私は経済成長に反対しているわけではない」と言うピケティは、結局、gに対する眼差しがその程度しかないのだ。
 

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抜け落ちる経(たていと)

 特殊な一回きりがpermanentになる。永続的と思われていたストックが永続的ではなくtemporaryになる。
 
 日本の場合の問題点は、「固定化」である、という山田昌弘氏の指摘は鋭い。 欧米は確かに日本よりも経済格差(貧富の格差)が大きいが、流動性がある。追いついたり逆転したりするチャンスがある。日本にはない。
 
 この山田昌弘氏の指摘も、permanentの問題である。日本では、このpermanentの問題こそが非常に重要な問題なのに、圧倒的にそのpermanentに対する視点が抜け落ちている。
 
 p>tの問題を考えよう。
 
 そこにあるのは、教育的視座の欠如。次世代のことを考えられない。同世代の貧富の格差にばかり目が行って、次の世代のことは考えられない。
 
 今頃になって、会社の中の年齢構成が歪だ、とか、それによって技術の継承が困難になっている、などと言って騒いでいる。あるいは売り手市場で正社員の確保がたいへんだと言って騒いでいる。「不況だから」という理由で、特定の世代の雇用を極端に絞ってきた結果がこれだ。
 
 「格差」にはいろいろある。
 
 格差と言ったら「経済格差(お金の格差)」のことしか考えられないのは、経済学者の頭の貧しさでもあり、その読者たちの頭の貧しさでもある。
 
 日本語の「経済」という言葉には、わざわざ「経(たていと)」という言葉が入っているのに、日本の著名な経済学者の誰一人として縦糸を編み込まない、読み込まないのは、いったいどういうことなのか。
 
 所詮、現代の経済学者たちにとって経済学は「経世済民の学」ではなくて、「お金の学」でしかないのだろう。
 
 トマ・ピケティ、47歳の誕生日、おめでとう。
 

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東京=金持ち=高学歴ではない

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 つい最近、北海道の田舎の底辺校から東大に行ったら、そこに居た人たちがあまりに恵まれた人ばかりで驚いた、という内容の文章があって、それに対して賛否両論が巻き起こっているのを見た。
 
 私はこれを読んだとき、随分と雑な文章だと思った。
 
 「田舎→東京」という移動と「底辺→上流」という移動を同時に行い、同時に論じてしまっている。この二つは本来、分けて論じるべきことである。それをごっちゃにして「東京の上流階層の人たちは恵まれてる!」と言ったら、「東京」だから恵まれてるのか、「上流階層」だから恵まれてるのか、読んでる人も分からなくなる。
 
 これに賛意のコメントをしている人たちは、「田舎では情報が少なくそんな選択肢があることを想像することすらできないのだ」ということを強調する。しかし、私はこれは単に「田舎の人は都会を想像できない」という話だと思う。逆もまた然りで「都会の人は田舎を想像できない」というだけの話だ。
 
 私は東京生まれ、東京育ちである。東京でも都会の方で育ったので「大都会育ち」と言っていい。
 
 私がこういう雑な文章に反撥を感じるのは、「東京」と一括りで語っているところだ。「駒場には恵まれた人たちがいっぱいいました」って、駒場という町がある目黒区は、23区でも富裕な人たちがたくさん住んでいるエリアである。一方で、そうではない地域もたくさんある。
 
 上記の文章の筆者は、一口に北海道と言っても札幌のような都会と自分が育った釧路みたいな田舎ではだいぶ違うんです、というようなことを言っている。だったら「東京」にもいろいろな地域があることにもっと配慮すべきである。
 
 はてな界隈を見ていると、「東京=金持ち=高学歴」、「田舎=貧乏=低学歴」と決めつけたような言い方をしている人を屢々見かける。
 
 「東京は人口が900万人以上もいるから中には貧しい人もいるでしょう」というようなレアケースな話ではない。東京にも普通に貧しい人はたくさんいるし、低学歴の人もたくさんいる。高学歴だけど貧乏な人もたくさんいるし、低学歴だけど金持ちな人もたくさんいる。田舎にだって金持ちもいれば、高学歴の人もいるだろう。
 
 私の小中学校時代のクラスメートには、貧しい家の子がたくさんいた。田舎の人たちには想像もつかないだろうが、四畳半一間に家族四人で暮らしていたり、屋根裏のような極小の空間で暮らしている友だちもいた。
 
 そういう「貧しい都会っ子」を身近にたくさん見てきているだけに、「東京=金持ち=高学歴」のような論調には怒りすら感じる。
 
 たしかに都道府県別の経済指標などで、東京都は日本で一番裕福な都道府県かもしれない。しかしそれは、東京には大金持ちがたくさん住んでいて平均を大きく引き上げているからであって、それ以上に貧しい人もたくさん住んでいるのだ。
 
 誰かのコメントで「田舎と都会の格差を論じるなら、田舎の底辺校と都会の底辺校を比べなければ意味がない」というようなことを言っていて、もっともだと思った。それを駒場辺りに住んでいる東大生を見て「東京は恵まれてる!」ってそれはおかしいだろう。
 
 なぜ、「東京=金持ち=高学歴」みたいな誤ったイメージが全国に拡がっているのか。
 
 私はそれはテレビの影響もあるのではないかと思っている。
 
 たまに「都会育ち vs 田舎育ち」みたいな番組がある。それぞれのグループの芸能人が「都会育ちあるある」「田舎育ちあるある」を語り合い、そのギャップを面白がる番組だ。
 
 私は「こういう番組はステレオタイプや偏見を助長するから良くない」とは言わない。別にそういう差異をポジティブに楽しむのは悪いことではないと思っている。
 
 ただ、こういう時に都会代表で出てくる芸能人が「麻布育ち」だったりすることが多い。そして「小学生の時はパパのベンツで送ってもらっていました」というような話をする。それに対して田舎代表の芸能人が「ウチなんか軽トラックの荷台でしたよ!」と返したりする。
 
 しかしベンツか軽トラックか、という話は、これはもう「金持ちか貧乏か」という対比の話であって「東京か田舎か」の話ではない。
 
 むしろ大半の東京人は車なんか持っていないのである。語るなら「ウチは車がありませんでした。お父さんもお母さんも持っていなかったし、私は車の免許も持っていません」と言う話のほうがずっと“いかにも東京人っぽい”エピソードなのである。ベンツやポルシェで送り迎えをしてもらっていました、などという話は、まったく東京人っぽくない。
 
 しかし、それこそ田舎の人は「情報の入手経路が限られている」ので、そういうテレビを見て「東京=金持ち」というイメージが刷り込まれてしまうのかもしれない。
 
 「東大の合格者は東京の高校が多い」というような話も時々聞くが、地元なんだから多くて当たり前である。それより「東大が日本で唯一の立派な大学」というような認識、または現状の方をどうにかすべきである。
 
 もっともこういう話をするからと言って、私は東京の一極集中はよしとは思っていない。ここ数十年の東京の一極集中は異常であり是正すべきものである。しかし、それはまた別の話だ。
 
 「東京=金持ち=高学歴」という間違ったイメージがこれ以上拡がってほしくない。
 

医療等IDへの期待と不安

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 巷間でほとんど話題になっていないが、この2018年4月から「医療等ID」がひっそりと段階的にスタートした。
 
 医療等ID(仮称)は、マイナンバーとは別に付与される個人個人の番号のようなものだが、「見えない番号」であるため自分が知ることはない。医療や介護の分野で連携的に個人をサポートできるよう導入される。
 
 「なんで新しい番号を作るの? 保険証の番号じゃ駄目なの?」
 
と思う人がいるかもしれない。私も最初、そう思った。保険証の番号は保険者が変わると変わってしまう。だから一人の人間を追尾的にサポートできないのだ。
 

縦割り、盥回しをなくすための医療等ID

 私はこの医療等IDにとても期待している。今まで「それは私の専門外だから知りません」、「ウチの管轄外なので他所に行って聞いてください」と、縦割りで盥回しにしてきたようなことがなくなるのではないかと思うからだ。
 
 そもそも保険証を使う人、医療機関にかかる人というのはだいたい体調が悪いわけで、そんな人を盥回しにしてはいけない。
 
 今までは「知らない」、「ウチでは分かりようがない」と言って逃れ得ていたことも、医療等IDが普及すれば知らないことではなくなる。医療や介護の分野において包括的、連携的なサポートが期待できる。
 
 一方で不安もある。三つほど上げる。
 

マイナンバーとは別になった医療等ID

  一つ目の不安。
 
 なぜ、個人番号(マイナンバー)では駄目なのか。
 
 医療等IDがマイナンバーとは別に作られたのは、それが機微情報に当たるから、という理由がある。マイナンバーで統一すると、「お金」と「医療情報(病歴等)」が結びつく。綱引きの原理で「お金」の側から綱をするすると手繰り寄せて、病歴等を悪用できてしまう危険性を防いでいる。性悪説に立って、センシティブな情報は守りましょう、という考え方である。
 
 だが、一方で医療行為はお金とも不可分に結びついている。病院にかかるのも介護を受けるのもお金がかかる。一人の人間を本当にサポートしようと思ったら、結局はお金の問題も出てくる。「あなたはお金を持ってないからお断り」と病院で門前払いされてしまったら、何のための医療等IDか。
 

意識の問題

  二つ目の不安は、人々の意識の問題。連携する仕組みを作っても、それを活用する人々の意識が「私はそんなことまで知らない」「私は関係ない」という意識のままだったら、せっかくの医療等IDも、公園の使われない遊具のようにそこに佇んでいるだけだ。
 

世界的拡張性の問題

  三つ目の不安は、世界的拡張性の問題。
 
 先日、NHKで、日本にやってくる外国人観光客が日本の保険に入っていないので治療費を払えない、という問題を取り上げていた。
 
 このようなID制度は、将来的な世界(外国)への拡張を視野に入れて作るべきだ。今や誰でも海外旅行は行くし、海外で病気や怪我になることもある。外国の医療ネットワークとも連携できてこそ、真のIDだ。これは今すぐやれ、ということではなく、将来的な連携を視野に入れた制度設計をすべきだということだ。
 
 また、これはマイナンバーに対しても同じことが言える。「マイナンバーは日本の制度なんだから日本国内のことを考えて作られているのは当たり前」と言うのではなくて、将来的には外国の類似した個人番号制度との統一、すなわち「世界統一ID」を視野に入れた制度設計が必要である。
 

医療等IDへの不安と期待と

  マイナンバーカードに保険証の機能が付く、というニュースが流れた時に、「逆に保険証にマイナンバーを載せればいいのに」とコメントしてる人がいた。
 
 それと似たようなことは来年2019年の7月から起こる。マイナンバーカードを持たない人のために、保険証の番号が少し変わって、マイナンバーではないものの、個人を追尾できるようになる。
 
 いくつか不安はあるものの、医療等IDの導入によって、今までの縦割りから横への連携が拡がって、より良い社会に近づくのではないかと期待している。そして人々の意識が変わっていくことも。