漸近龍吟録

反便利、反インターネット的

完璧主義とは何か

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 私は、他人とはあまり「完璧主義」について議論したり話したりしないようにしている。それは、「完璧主義」についての抑々の認識が異なっているからだ。
 
 「完璧主義」で検索すると大体「どうやってなおすか」といったような話ばかり出てきて、まるで病気扱いである。
 
 多くの人が思っている完璧主義とは、「完璧を目指す(目指そうとしている)態度、姿勢」のことであり、完璧な世界を目指す人のことを「完璧主義者」と言っている。
 
 私は完成された完璧な世界そのものだと思っている。
 
 ここに認識の違いがある。
 
 だから、他人が「完璧主義っていうのは、少しのミスも許さない、許せないような空気を作ってしまって、世界がギチギチで息苦しいものになってしまうんだよね」などと言っているのを聞くと「息苦しくなってしまうんだったら、それは、じゃあ、完璧じゃないじゃん」と思ってしまう。
 
 「そんな完璧な世界は、進歩のない停滞した世界ですよね」などと言っているのを聞くと「だったら、そこも完璧じゃないじゃん」と思ってしまう。もし、進歩のない停滞した世界をつまらない世界だと思っているなら、そういうちょっとでもつまらない点がある時点で完璧ではない。
 
 「息苦しい」などという不都合な事態が起こるなら、それはもう全然「完璧」ではないわけで、「いきやすい」ほうが「完璧」だろう。
 
 「でも誰かにとって生きやすい世界は、他の誰かにとっては生き苦しい世界なんですよ」と言う人がいるが、そんな不都合が起こってしまうなら、それもやはり「完璧」ではないだろう。
 
 「完璧主義はこれこれこういうところが問題なんですよね」という発言を聞くたびに、私はムズムズ、イライラする。「どんなことであれ“問題”があるんだったらそれはその時点で完璧じゃないだろう」と思ってしまう。
 
 あなたがたの言う「完璧主義」は「完璧を目指す主義」なのだ。
 
 
 
 ただしこれは、そんなに何もかもが完璧な世界というものがあり得るかどうか、という話とは別の話である。
 
 私はそんな「完璧な世界」があり得るとは思っていない。
 
 一方で、もっとずっと完璧に近い世界というのはあり得ると思っている。今の世の中は「完璧な世界」からほど遠い存在であり、そして今よりずっと完璧に近い世界に到達することはそんなに無茶なこととも途方もないことだとも私は思っていない。
 

利用者証明用電子証明書のスマホへの格納はマイナンバーカードなしでできるようにしてほしい

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 先日、読売新聞が伝えたところによると、政府は、マイナンバーカードに内蔵されている公的な電子証明書を、スマートフォンにも搭載することができるよう関聯法案の法改正に入る予定だという。
 
 
 しかしこれ、スマホへの格納に、マイナンバーカードが必要だというのだ。
 
 やり方としては、以前はオンライン方式を考えていたようだが、本人確認を厳格にするために、役所の窓口に行って手続きをするやり方に変わったようだ。
 
 だが。
 
 窓口で厳格に本人確認を行うのなら、電子証明書は直接、スマホに入れてくれればよいではないか。これではまるで、「モバイルSuicaをご利用になる場合は、まず一旦、カードを購入していただいて、そのカードをスマートフォンに当てて…」と言っているようなものだ。
 
 モバイルSuicaを利用しようとして、わざわざ一旦、プラスチックのSuicaカードを購入しようとする人はいない。
 
 なぜこんな手間を?
 
 技術的に難しいのだろうか。それとも他にもっと何か問題が?
 
 ぜひ、マイナンバーカードなしでできるようにしてほしい。
 
 
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国の「プッシュ」型サポートの問題点

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 マイナポータルの“売り”の一つに「プッシュ通知」がある。
 
 今までとちがって、行政側からプッシュ型でお知らせしますよ、ということである。
 
 一見、良い事のように見えるが、プッシュ通知は無視する人も多い。今でもパソコンを使っている時に、OSやらブラウザやらアプリやらから、いろんな通知が次々と表示されるが、今急いで何か目的をもってしようとしていることと全然違う内容の通知が来ても、読むのがめんどくさくて、または「また後で読む」ことにして、取り敢えず右上の✕ボタンで閉じてしまってる人も多いだろう。
 
 国は今、「プッシュ型」を推し進めている。平成28年熊本地震や平成30年7月の西日本豪雨でも、国による「プッシュ型支援」が行われたと聞いている。これは被災地の要請を待たずに、とにかく必要と思われるものを国から被災地に送り届けよう、という支援の形である。
 
 ここで気をつけたいのは、同じ「プッシュ」という言葉を使っていても、「プッシュ型支援」と「プッシュ通知」はかなり似て非なるものだということである。
 
 プッシュ通知は単なる「お知らせ」である。「健康診断が受けられますよ」とか「あなたはこれこれの受給資格がありますよ」とか、そういった区(市)からのお知らせは、マイナポータルが始まる以前から、紙で郵便で届いていた。
 
 これでは結局、「いちおう、お知らせしましたからね。これを利用したかったらちゃんと期日までに申請してくださいよ」という、従来の申請主義と変わらない。
 
 災害の時には踏み込んだ支援ができるというなら、災害ではない平時における日常生活で苦しんだり困ってる人たちに対して、もっと踏み込んだ支援ができるような仕組みをつくるべきだ。
 

危ないアボリジニー 〜クルマ社会を疑わない人々〜

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 オーストラリアの先住民族アボリジニー
 
 19世紀にオーストラリア大陸にやって来たイギリス白人。
 
 そのイギリス白人たちの会話。
 
アボリジニーの人たちって危ないよね」
 
「ここは私たちの射撃場なのに」
 
「『立入禁止』ってちゃんと書いてあるのに、あの人たち字ぃ読めないのかなあ」
 
「わかる。この間、私も射撃を楽しんでたら、アボリジニーが急に飛び出して来てひやっとした」
 
「ほんと、危ないからここら辺を横断するのやめてほしいよね」
 
「このあいだも、射撃を楽しんでいた人が夜間に急に飛び出してきたアボリジニーを撃ち殺してしまったってニュースでやってたね」
 
「しかも、そのアボリジニーは体に蛍光色とか光るものを何も身に着けていなかったんだって」
 
「うわ。夜間にアボリジニーを見分けるとか無理ゲー」
 
「うわぁ。それはさすがに撃ち殺してしまった人がかわいそう。一生、人を殺してしまったという重荷を背負って生きていかなきゃいけないなんて」
 
アボリジニーたちは頼むから、夜間に出かけるときは蛍光色の服を着ていてほしい。ほんとに危ないから。射撃する側からどんなに見えないかということを知ってほしいよね」
 
 
 「危ない」という言葉は不思議な言葉で、交叉点で子どもとトラックが出会い頭に衝突しそうな場所では、子どもの側から言ったら「トラックが危ない」と言い、トラックの側からは「飛び出す子どもが危ない」と言う。子どもには「クルマが危ないから気をつけてね」と言い、運転者には「飛び出す子どもが危ないから気をつけてね」と言う。
 
 クルマと子ども、いったいどっちが「危ない」のか。
 
 このアボリジニーの喩えは、日頃、クルマを運転する人たちが歩行者に向かって言っていることである。
 
 バスの車内では「道路の横断歩道がない場所での無理な横断はたいへん危険ですのでおやめください」というアナウンスが繰り返し流れている。自動車を優先し、横断歩道を何十メートルも先に作っておきながら、歩行者の「無理な横断」を咎める。
 
 「歩道橋」という、歩行者に信じられないほどの労力を使わせる設備もある。
 
 
 白人たちは事故が多発していることを知りながらも、あくまでも「アボリジニーが危ない」「アボリジニーたちにきちんとルールを解らせなければ」と言い、「銃が危ない」とは決して言わない。自分たちが手に入れた便利な道具、楽しいおもちゃを失うのが嫌だからだ。
 
 
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蒸気機関車と頭の固い現実主義者たち

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 頭の固い現実主義者たちとどう闘っていくか、ということが自分の中でもう何年も前から課題になっている。
 
 特に日本には頭の固い現実主義者が多い気がする。
 
 
 明治時代、ある村で蒸気機関車を通すか通さないかに対して賛成派と反対派に意見が分かれている。
 
 反対派「反対です。村の自然が壊れる。線路によって村が分断されてしまう」
 
 賛成派「賛成です。蒸気機関車が走るようになれば村が活性化します。この田舎の村にも文明を取り入れ賑わいを取り戻すべきです」
 
 反対派「こんな牧歌的な田舎の村に蒸気機関車は似合いません。あんな真っ黒い鉄の塊が村の真ん中を疾走するなんて危険です」
 
 賛成派「反対派の人たちはもっと現実を見てください。徳川の御世は終わったのです。今や文明開化の時代。我が国も蒸気機関車を取り入れなければ西欧列強に追いつけません」
 
 反対派「蒸気機関車は騒音も大きいし、吐き出す煙によって空気も汚れます。断固反対です」
 
 賛成派「文明開化のこの時代に文明を否定するなんて馬鹿げています。あなたたちが否定しようとも、世の中はもう文明化の方向に進んでいるのです。これからの時代、蒸気機関車はますます増えて行くことはあっても減ることはありえません。そんなに文明が嫌なら、あなたたちだけ馬や人力車にでも乗っていたらいいと思います」
 
 おそらく、反対派と賛成派の間で、このような応酬が交わされていたことであろう。
 
 私みたいな守旧派タイプ、伝統や自然を大切にするタイプの人間は、もし明治時代にこの村に居たら、反対派に加わっていただろう。
 
 反対派の人間から見たら賛成派の人たちは国家主義的に見える。「富国強兵」、市民の生活よりも国を富ますことを優先する考え方のように見える。
 
 だが賛成派の大半の人々は「国家」などという大きなことを考えているのではなく、もっと卑近な「現実」を考えているのだ。彼らは国家主義者でも軍国主義者でもなく、ましてや「戦争好き」なわけでもない。「現実主義者」なのだ。
 
 賛成派の人々にとって蒸気機関車は「現実」なのだ。もちろん、「誇らしい気持ち」というのはある。こんな田舎の村に文明の利器がやって来たことも何となく誇らしい気持ちだし、日本国に蒸気機関車が走れば西欧列強の国々に肩を並べたような気持ちで誇らしい。
 
 だが「誇らしい気持ち」だけで賛成しているわけではない。それ以上に「現実」なのだ。そういう世の中の流れ、時代の流れなのだ。今はもう徳川の御世とは違って文明開化の時代なのだから、その時代の流れに「沿う」ことがもっとも現実的な判断だと考えている。
 
 反対派の人たちが言う「村が線路で分断する」、「騒音がうるさい」、「空気が汚染される」というのも分からないではないが、もうそんなことを言ってもしょうがない、日本中が文明開化の方向に進んでいるのに、うちの村だけ時代の流れに逆行するわけにもいかない。これも時代の流れなんだから粛々と受け入れるしかない、というのが賛成派の人たちの考え方だ。
 
 
 だが。
 
 私はこの賛成派の人たちの言う「しょうがない」が気になる。本当に時代の流れだから「しょうがない」のか?
 
 私が反対を叫ぶと賛成派の人たちは「あなたは蒸気機関車を嫌ってますけど、あなたがどんなに蒸気機関車を嫌ってもこの世からなくなりませんよ。これからの時代、蒸気機関車はますます増えていくことはあっても減ることなんてありませんよ」と言う。
 
 しかし、それから100年余後、今の世の中に蒸気機関車が走っているか。観光用で一部走っているものを除けば、今の日本に蒸気機関車は走っていない。「これからどんどん増えていくことはあっても減ることはない」とあの時言っていた賛成派の人間たちの言葉は嘘だった。
 
 彼らはよく「しょうがない」という言葉を口にする。「しょうがない」とは「仕様がない」、「他にやりようがない」という意味の諦めの言葉だ。
 
 賛成派の中には積極的賛成派だけではなく消極的賛成派の人もたくさんいる。「私もたしかにあの音はうるさいと思います。でも文句を言ってもしょうがないでしょう。これも時代の流れなんですから」と言うタイプの人だ。
 
 そしてこういう消極的賛成派のために、多数決をとれば賛成派が上回り、蒸気機関車敷設計画は可決される。
 
 彼らはとっても狭い「現実」しか考えていない。移動手段なら他にも考えられる、とか、富国強兵なら他の方法で国を富ますこともできる、とか、そういう発想をしない。「これが現実。これが時代の流れ。人力車から蒸気機関車へという時代の流れは誰にも止められない。それに文句を言ってもしょうがない。私たちは現実に即して生きていくしかない」。
 
 だから日本ではイノベーションが起こらない。海外や国や大企業から与えられたものを「これが今の世の中の流れだから」と言って淡々と受け入れる。
 
 彼らが蒸気機関車に拘って、昭和後期になっても蒸気機関車に乗り続けていたなら私は敬意を表したい。だがそんな人はいない。彼らは「蒸気機関車主義者」なのではなく単なる「現実主義者」だから。電車が「現実」の時代になったら電車に乗り換える。
 
 すぐに「しょうがない」という物言いをする現実主義者たちが嫌いだ。本当に他にやりようがないか考えたのか。電車や自動車について考えてみたことはあるのか。彼らが「今は蒸気機関車の時代だから」と言うとき、まるで時代の定義が所与のものとしてあるかのようだ。今を「蒸気機関車の時代」にするかどうかは自分たちが決めることなのだ。
 
 こういう頭の固い現実主義者たちは今でも多い。明治時代の蒸気機関車を例にして書いたが、似たような問題は現代でも無数にある。そこにあるのは「経済優先か環境保護か」、「経済成長か持続的安定か」といったような対立ではなく、どちらにしろ「現実」に従って行くであろう多数の現実主義者たちとの闘いである、と私は思っている。
 
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日本社会はキャッシュレス化すべきか

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 キャッシュレス化が叫ばれている。
 
 中国のキャッシュレス化がいかに進んでいるか。それにくらべて日本はいかに遅れているか、ということが頻りに語られている。
 
 「日本もキャッシュレス化を」と言う人は多いが、なぜキャッシュレス化をしなければいけないのか分かって言っている人が少ないように思う。
 
 多くの人は、「スウェーデンは現金禁止の店まであるらしい」、「中国ではほとんどの店でスマホQRコードを使って決済できるらしい」と言って、海外の国では進んでいて、それにくらべて日本社会が大きく遅れていることに対する不安からキャッシュレス化を言っている。
 
 「我が日本が世界に遅れをとるわけにはいかない。世界に追いつけ追い越せ」という精神でいたら、日本はいつまでたっても世界の後進国だしアジアでも後進国のままだろう。
 
 キャッシュレスが素晴らしいのではないし、キャッシュ社会が遅れているということでもない。
 
 問題は現金を使わないでもいい場面でキャッシュレスで支払う手段がない、ということである。逆に言えば、現金で済むものをわざわざ無理やりキャッシュレス化するのもおかしい。
 
 キャッシュレスはお金の電子化である。電子化のメリットはお金を電子機器やインターネットで扱いやすくするところにある。紙幣や硬貨に依存せずに支払いなどができるようになる。
 
 この「電子化」は所謂「電子マネー化」とは違う。お金の電子化は、「電子マネー」より広義の概念である。
 
 現金には現金の良さがあるのに、なんでもキャッシュレス化が良いものだと信じて、電子マネーの普及を叫ぶ人もいる。
 
 現金の良さは依存度の低さである。「ウチには現金を数えられる機械が無いので現金での支払いは勘弁してください」という店は少ない。一方、売上をコンピューターで管理するとしたら、結局、紙幣や硬貨を数えてそれを手入力しなければならない手間が発生する。
 
 私は、電子マネーは現金よりも使い勝手が劣ると思う。依存度が高すぎる。◯◯ペイは使えるけど、△△ペイは使えない、とか、Androidでは使えるけどiPhoneでは使えない、とか、そのような条件があまりにも多すぎる。
 
 キャッシュレス化に拘るのではなくお金の電子化と捉えて、当然に電子化すべきところは電子化を進め、同時に現金で充分な場面では現金を残していい。当面の併存を主張する理由は、今の「電子マネー(カードでもスマホでも)」では到底、現金の代替ができるとは思えないからだ。
 
 キャッシュレス社会は目的ではなく、キャッシュレスというのはその先の目的に至るための手段である。キャッシュレス化の本来の目的を忘れて、「なんか外国とくらべて日本は遅れてるみたいだから急いでキャッシュレス化しなければ」と言っていたのでは道を誤る。
 

サッカーと戦争

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サッカーと戦争は似ている

 
 過去のワールドカップなどの大会で戦争がどのように影響してきたか、戦争によって中止になった大会とか出られなくなった国とかそういう話ではなく。
 
 サッカーと戦争は何が違うのか、という考察。
 
 「何が違うのかって、そんなの簡単でしょう。サッカーと戦争は全然違うじゃないですか。戦争は殺し合いだけどサッカーはゲームじゃないですか」と言う人もいるだろう。
 
 サッカー(ワールドカップ)と戦争はとてもよく似ている。どちらも国同士の戦いであり、国民の関心度も非常に高い。大半の国民が熱狂し、そして自分の国の勝利を強く願う。勝ったらお祭り騒ぎになり、負けたら、戦った人たちや指揮官に対してたくさんのバッシングが寄せられる。そして国全体が意気銷沈する。
 
 「ゲーム」という言葉は日本語では、「娯楽」「遊び」といった意味合いの強い言葉として使われているが、英語では必ずしも遊びを意味しない。
 
 日本人の感覚だと「サッカーはゲームじゃないですか。戦争とは違うでしょう」ということになるが、西洋人の感覚では、戦争も「ゲーム」である。数学の一分野であるゲーム理論は戦争に勝つために使われた。
 
 「それでも、サッカーは所詮スポーツであり、命を賭けている戦争とは違うでしょう」
 
 だが、海外ではかつてオウンゴールを上げた選手が怒った国民に殺されるという事件もあった。サッカーも命懸けのところはある。
 
 考えれば考えるほど、サッカーと戦争はよく似ている。
 
 

サッカーと戦争の違い其の一:審判の存在

 
 私はサッカーと戦争の本質的な最大の違いは、審判がいるかいないか、だと思っている。
 
「今のはファウルだ」
「いや、ファウルではない」
 
「故意だ」
「故意ではない」
 
 両者の意見が食い違う。どちらもが“正しさ”を主張している。どっちの言い分が正論なのか。戦争では、この対立は平行線をたどる。「こっちが正しくてこっちが間違い」と言ってくれる審判の存在が無い。そういう存在があったとしても、間違いだと言われた方、あなたが悪いと言われた方は、その裁定には従わないだろう。それが戦争だ。
 
 サッカーでも判定に不満があって審判に食ってかかる選手はいるが、そういう選手は審判によって退場を命じられる。その退場の命令にまで従わない選手はいない。審判に絶大な力がある。
 
 サッカーの勝敗は、誰の目にも明らかな「結果」によって決まっていると思われがちだが、そうではない。
 
 「1対0」なら前者の勝ち。「2対4」なら後者の勝ち。どちらが勝者かを説明する必要はないと思われる。だが試合中に審判がファウルを取るか取らないかでPKの有無が変わってくる。PKが有るのと無いのとでは点数も変わってくる可能性が高い。審判の微妙な判断で「幻のゴール」となることもある。
 
 だから、サッカーの勝敗は誰が見ても明らかな「客観的な基準」によって決まっているのではなく、審判によって決まっている。
 
 戦争の勝敗は、審判のような第三者が決めるのではなく、「負けました」とどちらかが白旗を上げることで決まる。
 
 この、どちらかが「負けました」と言うことで勝敗が決まる、似たようなルールのゲームとして将棋がある。
 
 

サッカーと戦争の違い其の二:制限時間

 
 もう一つ、サッカーと戦争の大きな違いは、ゲーム終了までの時間が決まっているかいないか、だと思う。
 
 サッカーは、あらかじめ試合時間が決まっている。通常は前後半45分づつで90分。それに少しのアディショナルタイム。場合によっては、それに前後半15分づつ計30分の延長戦が加わり、さらに場合によってはPK戦の時間が追加になることもある。
 
 何れにしても時間が決まっている。どちらかの選手が遅延行為を行っても審判によって警告の反則を取られるし、その分はアディショナルタイムとして加算される。
 
 戦争には制限時間がない。決められた時間がない。だから終わりが見えない。勝ち戦にしろ負け戦にしろ、誰もこの戦いがいつ終わるのか分からない。
 
 もっともサッカーの試合終了の笛は審判が吹く。後半の45分が過ぎて、さらにアディショナルタイムの5分もとっくに過ぎていることが誰の目にも明らかなのに、審判がいつまでも笛を吹いてくれなかったら、試合は終わらない。そういう意味ではゲームの制限時間というのも審判のコントロール下にあるので、「審判の存在」と「制限時間」は二つに分けずに「審判の存在」一つに纏めてしまっていいかもしれない。
 
 

戦争の「終了時間」

 
 戦争における審判の存在については、国連がその役割を果たそうとしてきたが、なかなか上手くいかない。
 
 私はもう一つ、制限時間を考えてみてはどうかと昔から思っている。「戦争してはいけない」ではなく、戦争の開始年月日と終了年月日を双方で話し合って、あらかじめ決めておく。そしてその期間は思う存分、戦争をしていいということにしておく。
 
 戦争に使っていい武器、使ってはいけない武器についての議論はたびたび行われている。それに加えて「終了時間」、「制限時間」についての議論があってもいい。
 
 こんなことを言ったら「そんな荒唐無稽な」、「小学生の発想みたい」と言われるであろうことは分かってはいる。戦争は“怒り”や“欲”を根本にしているので、そんな単純な話ではないことは分かっている。
 
 私は、戦争の辛さは、それが“殺し合い”であることももちろんだが、“果てしなさ”、“いつ終わるか分からない”という辛さが大きいと思っている。
 
 だから、この、戦争における「終了時間の導入」という考えを半分くらいは真剣に考えているのである。
 
 
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