漸近龍吟録

反便利、反インターネット的

置き去りにされる「孤独」

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 現代、日本語の「孤独」の意味は二極化している。
 
 一つは、一人で寂しい、辛いという意味の孤独。loneliness。
 
 もう一つは、ただ一人であるという意味の孤独。寂しさはない。solitude。
 
 前者はネガティブな意味の孤独。後者はポジティブな意味の孤独。
 
 最近、このポジティブな意味の孤独に脚光が当たってきている。
 
 つまり、「一人だけど別に寂しくないんです。構わないでください。ほっといてください。一人でも楽しいんです」という人たちが声を上げ始め、「一人だからかわいそう」とかそういう目で見ないでください、と主張し始めた。
 
 世間には確かにこういうタイプの人たちが一定数いる。「一人でも楽しめる」タイプの人たちである。こういうタイプの人は美術館とかは一人で行きたいのだと言う。他人と一緒だと気を遣って疲れるのだと言う。自分の好きな絵を自分のペースでゆっくり見たいのだと言う。こういうタイプの顕著な人はカラオケも旅行も一人で行く。他人に気を遣うことなく好きな歌を好きなだけ歌えるのが楽しいのだと言う。
 
 こうした一人で楽しめるタイプの人たちにとって「孤独」というのは、ただ単に一人であるという意味しかなくて、別に寂しいわけでもつまらないわけでもない。だが世の中には「一人だときっと寂しかろう」と思う人がたくさんいて、そういう人たちが結婚を薦めてきたり、恋人や友達を作ることを薦めてきたり、話しかけてきたり、いろいろとお節介を焼いてくる。そういうお節介が煩わしくて、「いや、別に一人でも寂しいわけじゃないんで」と言う。このタイプの人たちは、この種のお節介と、「一人は寂しい、哀れ、可哀想」という世間の目に苦しんでいる。
 
 だから最近は「お一人様のススメ」とか、積極的に「一人を楽しもう」という流れを作り出して来ている。一人は別に可哀想なんじゃない、一人でも充分楽しいんです、と。
 
 だが、こうした流れが強くなってきているために、「一人は寂しい」という従来の「孤独」が置き去りにされてきている。
 
 一人でいることに強く寂しさを感じるタイプの人。こういうタイプの人にとっては受難の時代というか、ますます生きづらくなってきている。ただでさえ「余計なお節介はやめましょう」という風潮がある中、「ほっといてあげよう」、「あの人はきっと一人が好きなんだよ」と先回りされてしまい、誰からも声をかけられない。
 
 solitudeの人たちが「お一人様で何が悪いんですか」と声をあげればあげるほど、世間は「ですよね。ほっといてあげましょう」という方向にむかう。その結果lonelinessの人たちはますます誰からも声をかけてもらえなくなり、とてつもない寂しさに苛まれる。
 
 他人を気にかけたり手助けしたりすることが面倒くさいと日頃から思っている人たちにとっては、「お一人様は別に『可哀想』じゃないんです」という声は、他人に関わらなくてもいいという自己の正当化、後押しになる。
 
 「一人でも充分楽しい」という声が大きくなればなるほど、一人で楽しめないタイプの人の「孤独」は置き去りにされる。
 
【関連記事】

「そんなんだからモテないんだよ」

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 私はこんな残酷な言葉を知らない。
 
 モテたいのにモテずに苦しんでいる男性がいる。長年のあまりの苦しみに耐えかねて、突発的によからぬ行動、不適切な行動に出る。
 
 と、待ってましたとばかりに周囲の人間たちはこぞって「そんなことするからモテないんだよ」と言う。
 
 こんなにひどい言葉があるか。
 
 そんなことをしないでも、ずっとモテなかったのではないか。「そんなことするから」というのは後付けの理由である。「こんなことをするような人だからやっぱりモテないはずだね」と結果論的に言って、後から理由をくっつけている。
 
 一人の人間をずっと苦しい状況に置いておいて、そして皆でよってたかって益々苦しい状況に追い込み、窮地に追い込まれたその人が窮鼠猫を噛むように暴発したら、「それ見たことか。あの人間はああいう不適切行動をとる人物なのです。あんな人間がモテるわけがありませんよね」と言う。
 
 このように、皆でよってたかって窮地に追い込んで、当人の暴発を待ってから「ほらね」という例は「モテ」に関することだけではない。
 
 例えば「就職」でもそうだ。「え?心が傷ついて引き籠ってる?そんな甘ったれてるから就職できないんだよ」。
 
 しかし引き籠っていなかった時期も就職できなかったのではないのか。何十社、何百社と応募してきて、五百社目から不採用通知を受け取ったところでついに心がポキっと折れて引き籠もりになる。するとそれを待っていたかのように皆一斉に「引き籠もりとか、そんな甘ったれたことしてるから就職できないんだよ」。
 
 「そんなんだから結婚できないんだよ」も同様だ。これは、じゃあ「そんなん」ではなかったら結婚できたのか、というと決してそんなことはないのだ。
 
 「マザコンは結婚できない」。じゃあ、マザコンをやめたら結婚できるのか、というとそんなことはない。「不潔な男はモテない」。じゃあ、清潔にしていればモテるのかというとやはりそんなことはない。
 
 屁理屈と膏薬はどこにでも付くと昔から言うが、この「そんなんだからモテないんだよ」論法は、自分たちがその人を苦境に追い込んだことの負い目から目を逸らすために、後付けでもっともらしい理屈を付けて、自分たちを正当化させて自分たちは正しかったのだと納得するために言ってるだけだ。
 
 そしてこの言葉のひどさは、ただでさえ追い込まれて自暴自棄になってしまっている人間にトドメを刺しているところにある。
 

電子マネーは無言で使えるようにしたい

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 ↑を読んで。
 
 私も以前から常々同じことを感じている。
 
 電子マネーはコンビニ等で使うときにいちいち「エディーで」などと言わなければいけないのがとてもダサい。
 
 「電子」なのにまるでアナログに退化したかのようだ。
 
 「それぐらい別に声を出して言えばいいじゃないですか」と思う人もいるかもしれないが、私は声に出して言うのが面倒だというわけではない。その一言を言うのが決して面倒なわけではなく、ダサくて阿呆らしいのだ。
 
 いちいち言わなければいけないのは店側の都合上だと聞いたことがある。スマホの中にSuicaEdy、iD、QUICPayなど複数の電子マネーが入っている場合、どれを使って支払うのかを言ってくれなければ分からない、というわけだ。
 
 だが。
 
 スマホの中に一つの電子マネーしか入っていない場合を考えてほしい。
 
 例えば今、あなたのスマホの中にはQUICPayしか入っていないとしよう。あなたはコンビニのレジに行って、スマホを機械に翳す。あなたはスマホの持ち主だから自分のスマホにはQUICPayしか入ってないことを知っている。当然、QUICPayで支払うつもりでタッチする。
 
 一方、タッチされた機械の側でも迷うことはない。SuicaEdyやiDは入っていないのだから反応のしようがなく、こちらも当然QUICPayとして受け取り処理するだろう。
 
 つまりこの場合、お金を支払う客にとってもQUICPayで支払うことは自明で、お金を受け取る機械にとってもQUICPayであることは自明なのである。タッチする客もタッチされる機械も双方が「これはQUICPayでしかない」と諒解しているのに、言わば「第三者」である店員に、「今、QUICPayで支払いをしようとしてますよ」ということを教えるためにわざわざ声に出して言わなければいけないのである。これは阿呆らしい。
 
 冒頭の文章を書いた人にはまったく同感である。それは声を出すのが面倒くさいとか、店員とコミュニケーションを取りたくない、ということではない。そうではなくて、場合によっては「自明」のことをわざわざ口に出して言うという仕組みがあまりにも阿呆らしいからだ。
 
 電子マネーを日本で普及させたいと思っている関係者がいっぱいいるようだが、先ずはこういうダサさから直していくべきではないだろうか。
 

気象庁2018年夏の3か月長期予報答え合わせ

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 天気予報は年々精度が上がってよく当たるようになったと言われる。だがそれは明日や明後日の天気であって、週間予報とか長期予報になればなるほど、まだまだ精度は低いとも言われている。
 
 そこで気象庁が発表した今夏(2018年夏)の長期予報がどれくらい当たっていたのか検証してみたい。
 
 発表したのは夏に突入する直前の5月の終わり頃(5月25日)である。
 
 下記が気温に関する予想。2018年の夏は記録的暑夏であったが、それを予想できていたかどうか。
 
気温・6月
東日本→「ほぼ平年並」
西日本→「ほぼ平年並」
気温・7月
東日本→「高い」
西日本→「高い」
気温・8月
東日本→「平年並か高い」
西日本→「平年並か高い」
 
(2018年5月25日気象庁発表)
 気象庁の発表では1か月ごとに気温は5段階に分けて予想している。
 
低い
平年並か低い
ほぼ平年並
平年並か高い
高い
 
の5段階である。
 
 7月の気温は、北日本→「平年並か高い」東日本→「高い」西日本→「高い」沖縄→「高い」と予想しており、ほぼ的中と言っていい。
 
 8月の気温は全国的に「平年並か高い」と予想している。東京では8月は涼しい日と猛烈に暑い日が交互に訪れていた感じだったので、体感的にもほぼ合っている。
 
 そして6〜8月の3か月まとめての気温予想でも「高い」とはっきり書いており、平年より暑い夏になるという予想は当たっている。
 
 降水量に関しては7月の東日本太平洋側が「平年並か少ない」と予想しており、実際、関東地方は今年は6月中に梅雨明けした。6月と7月の東日本の降水量は平年並だったのでこれもまあ的中と言っていいだろう。
 
 西日本の7月の降水量は「平年並か少ない」となっている。7月上旬の西日本豪雨を思うと、これは外れているようにも感じるが、このような突発的な事象はなかなか長期予報には織り込むのは難しいだろう。
 
 私は、気象庁の長期予報というのは当たらないものだと思っていたが、こうして見ると、少なくとも今夏の予報に関してはよく当たっている。
 
 「予報のポイント」として「全国的に暖かい空気に覆われやすく、向こう3か月の気温は高いでしょう」と言い切っている。
 
 気温に関しては「(平年より)高い」と言ってるだけで「記録的猛暑になる」というような表現はどこにもないが、もし自分が予報の担当者だったとしたら「記録的猛暑になる」とは思っても言いたくない。
 
 また、「予想される海洋と大気の特徴」のところで「全球で大気全体の温度が高いでしょう」と予想しており、これは今夏の日本だけではなかった世界的な暑夏も言い当てている。
 
 5月下旬にこの長期予報を見たとき「9月になったらこの予報がどれだけ外れていたかを検証することになるだろう」と予想したが、その私の予想は外れて、今夏に関しては3か月予報がよく当たっていた、という結果になった。
 
※私が参照した気象庁の予報資料はすでに気象庁のサイトから無くなってしまっているので、代わりに同じ2018年5月25日にウェザーマップ気象予報士によって書かれたこちらの記事などを参考してください。
 

マイナンバー制度と申請主義

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 山口道宏編著『「申請主義」の壁!』を読む。この本には日本の申請主義の問題点が豊富な事例によって紹介されている。申請主義にどんな問題点があるかは、この本ではいやというほど挙げられている。

「申請主義」の壁!―年金・介護・生活保護をめぐって

「申請主義」の壁!―年金・介護・生活保護をめぐって

 
 
 申請主義は職権主義に対するものとして登場したと聞いたことがある。職権主義はイメージが悪い。職権を持つ者がその職権を濫用する印象がある。そのような濫用は許さず、民主的な(民が主役の)仕組みにしていかなければならない。そういう思想から「申請主義」は生まれた。
 
 だが、その後、申請主義は行政側、あるいは企業側に都合よく使われてきた。
 
 離婚した、子どもが生まれた、家族の人数が変わった、別居になったので世帯主が変わった、年老いた親を同居させて扶養することになった、テレビは見ていません、ウチにはテレビがありません、昨年まで働いていましたが体調を崩し、今年からは働いておらず収入はありません…。
 
 そうした生活状況の変化に対し、行政側は一様に「そんなことは知りません」、「あなたの家の中のことなんて、そっちから教えてもらわないかぎり私どもは知りようがありません」と言ってきた。
 
 「あなたの家の家庭内事情なんて、こっちは知りようがない」と言う一方で、行政・企業側は「徴収」に関するときはめちゃくちゃ詳しく調べて把握してくる。
 
 「あなた、最近、家族構成変わりましたよね」、「扶養義務のある家族が一人減りましたよね」、「あなた先月からバイト始めて一定の収入がありますよね」、「ベランダにテレビの受信機がありますよね」、etc…。
 
 税金や受信料など「徴収」のときは、あなたが言わなくても「知ってるぞ」と言い、社会保障などサービスを施す側のときは、あなたの方から言ってくれなければ「知りようがない」と言う。
 
 これが、あまりにも都合が良すぎる申請主義の実態だ。
 
 マイナンバー制度が国民に不評なのは、結局のところ税の徴収のことしか考えていないのが見え見えだからだ。国にとっては大きなメリットだろうが、国民にとってはメリットがなさすぎる。
 
 マイナンバー制度が浸透する社会とは「知りませんでした」が通用しなくなる社会だ。
 
 「あなた、隠れ収入があるでしょ」、「あなた、別の銀行に預貯金があるでしょ」、「あなたの財産はすべてお見通しですよ」と言う。見通せるということは知っているということだ。
 
 マイナンバーを通してすべて「お見通し」てしまうということは、知りたくなても困窮具合も知ってしまうということだ。そして人の困窮を知りながら助けないのは目の前の川で人が溺れているのに助けないようなものだ。
 
 「たしかに私はその時間、そこの川岸を歩いていましたが、人が溺れているのには気づきませんでした」。
 
 今まではそういって知らん顔して“面倒なこと”に関わらないでこられたかもしれないが、もう、溺れていることは知っているのである。マイナンバーを使えばすぐにわかることなのである。たとえ川岸から遠く離れた所にいたとしてもマイナンバーを通して“知っている”のである。
 
 マイナンバー制度の実施・普及を機に、申請主義を見直すべきだ。「国民・市民の方から申し出てくれなければ、こちらとしては知りようがない」はもう“嘘”だからだ。
 
 マイナンバーという“筒”を通して国民を把握できるようになる、ということは、知ってしまった以上は国民を助ける義務も出てくる、ということだ。
 
 マイナンバー制度の普及は、申請主義の見直しとセットでなければならない。
 

東京オリンピック2020のマラソンは時間帯を早めるのではなく

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 2020年東京オリンピックのマラソンを猛暑の中で行うことに批判が出ている。
 
 東京オリンピックが行われる7月から8月は、一年で最も暑い時期であり、そんな猛暑の中を選手に走らせるのは熱中症などの虞があり危険である、という声だ。こうした声を受けて、組織委員会は従来の予定では午前7時半だったマラソンのスタート時刻を午前7時に繰り上げた。
 
 だが、私は、こうしたスタート時刻の繰り上げは、暑さ対策としてはあまり効果がないと思う。その理由は「東京の朝は暑い」からである。
 
 
 埼玉県熊谷市。関東地方では「暑い街」として有名であり、全国でも「日本一暑い街」として知られている。この熊谷と東京を比べたらどっちが暑いと思うだろうか。それはもちろん熊谷の方が暑い。だが、時間帯によっては東京の方が暑いのである。
 
 一日の時間帯による暑さの違いに注目してほしい。
 
 下記の表はオリンピックが開かれる7月24日〜8月9日の過去15年間の時間帯別平均気温を東京と熊谷で比較したものである。(気象庁のデータより抽出)。

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 この表をグラフにしたのが下図。
 

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 赤い線が東京で緑の線が熊谷である。「熊谷の夏の気温が32.1度?」と驚く人もいるかもしれないが、颱風や雨で涼しい年もあるので平均するとこうなる。
 
 熊谷が東京の気温を上回っているのは、昼から晩にかけての時間帯であることが分かる。そして午後8時以降、夜間はずっと東京の方が暑い。朝を迎えてもずっと東京の方が暑く、熊谷が東京に追いつくのはやっと午前11時頃になってからである。
 
 熊谷は昼と夕方が暑いが、東京は夜と朝が暑いところに特徴がある。
 
 多くのマラソンランナーが走っているであろう午前8時の時点で東京はすでにかなり暑いのである。午前7時半のスタートを僅か30分早めて午前7時にしても、やっぱり暑いのである。上の表は平均気温なので涼しめに感じるが、猛暑の年だったら東京は朝8時の時点で30度近くに達する。
 
 熊谷のような街なら、朝のスタート時間を早めることで少しは「暑さ減」が期待できるだろう。だが東京のように夜間・朝が暑い街ではそこまでの効果が期待できない。サマータイムを導入してさらに二時間早めて、午前5時にスタートするようにしてはどうか、という意見も出ているが、午前5時の東京の気温の高さを見てほしい。熊谷より平均1.5度も高く、これは一日の中でも最大の差である。
 
 何が言いたいかというと、東京の夏は夜と朝が暑い!というところに東京の夏の暑さの特徴があるので、朝のスタート時間を多少早めても、他の街ほどの効果は見込めない、ということ。
 
 なので、スタート時間を早めるよりも、マラソンを東京以外の街で実施した方がよっぽど「暑さ減」が期待できる。例えば北海道とか。
 
 「『東京』オリンピックなんだから、マラソンコースが北海道というわけにもいかないでしょう」と思う人がいるかもしれないが、東京以外で行われる競技はたくさんある。実際、サッカーの一部の試合は北海道で行われる。IOC委員が認めさえすれば、東京以外で行うことは可能である。
 
 夏の暑さの話をする時は、一日の時間帯別でも見てほしい。東京の夏の暑さの特徴は、夜と朝が暑い、というところにあることをもっと多くの人に知ってほしい。
 

障碍者雇用水増し問題の責任は誰がとるのか

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 中央省庁による障碍者雇用の水増し問題が明らかになった。

 これは官房長官が言うように「あってはならないこと」で、経済産業大臣が言うように「ゆゆしき問題」である。当然、責任者、トップに立つ者は責任をとって辞任しなければならない。 

 これでもし誰も責任をとらなかったら、これはもう丸山眞男のいう「無責任の体系」そのものである。 

 「辞任するばかりが責任のとり方ではない。引き続き職務を全うし、再発防止策に努め、規律を正していきたい」などという言い訳は通らない。 

 なぜなら、今回の問題は法令を無視して障碍者を雇用しなかった、という問題だからだ。

 障碍者の雇用が守られず、無責任な「責任者」の雇用は守られる、などということは絶対に許されない。