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今上天皇と光格天皇、五つの共通点

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 天皇陛下光格天皇の面影を見る。
 平成28年、天皇陛下が“生前退位”の御意嚮を示された。
 実現に向けて、皇室典範を改正するか、特例法で対応するか、特例法で対応するとしたらどのような内容にするか議論が続いている。
 畏れながら、陛下のお気持ちを勝手に忖度すると、陛下が生前退位のお気持ちを示された背景には、光格天皇に対する“思い”がおありだったのではないか。私には、第百二十五代天皇と第百十九代天皇のお姿がダブって見える。
 

“最後の譲位”を行った江戸後期の光格天皇

 光格天皇。江戸後期に在位された第119代天皇。今の天皇陛下のおじいちゃんのひいおじいちゃんに当たる。

 江戸時代の天皇はとかく存在感がない。「江戸時代の将軍の名前を言いなさい」と言われればたくさん言えても、「江戸時代の天皇の名前を挙げなさい」と言われても一人も思い浮かばない、という人も多いのではないだろうか。

 江戸時代、天皇の権威は低かった。権威は徳川幕府にあり、天皇は“お飾り”のようなものだった。しかしその後の幕末の尊王攘夷運動を経て、明治天皇において天皇の権威はピークに達する。この天皇の地位向上への先鞭をつけたのが光格天皇だった。

 現代に至るまで最後に譲位した天皇であり、最後の上皇である光格天皇。昨年、譲位(生前退位)のお気持ちを表明された今上天皇と重なるところがいくつもある、と私は思っている。

 以下、私が感じる今上天皇光格天皇の共通点を五つばかり挙げる。

 

一、儀式、お務めを重んじる

 光格天皇は、古代からの行事や儀式など数多くの儀礼を復活させた。途絶えていた儀式を復活させることにより、朝廷の権威を高めた。

 一方、今上天皇は、一年間に千の書類に目を通し、二百を超える行事に御出席されていると言われている。また被災地への御訪問など、天皇としての「お務め」をとても大切にされている。

 

二、学問を好まれる

 光格天皇は、学問を好まれ、博学であられた。幼少の砌より学問好きとして知られ、後見役の後桜町上皇は公家たちに「みんなこの子を見習ってもっと勉強しなさい」と仰せになったほど。

 今上天皇もまた、学問を好まれることはつとに有名である。特に魚類学者として数々の業績を残されている。

 

三、民衆に寄り添う

 光格天皇が在位されていた江戸後期、天明時代に、「御所千度参り」という出来事があった。 「天明の大飢饉」に苦しんだ民衆が天皇に助けを求めて御所の周りをぐるぐる廻ったという出来事である。その数、数万とも言われる。哀れに思った朝廷は、後桜町上皇がりんご三万個を庶民に配り、光格天皇は「なんとか助けてやれないものだろうか」と幕府に相談された。「相談しただけかい!」と思うかもしれないが、当時は禁中並公家諸法度で朝廷が政治のことに口を出すのは固く禁じられていた。民衆を助けたいという思いからの行動だった。この時は幕府からの咎めはなかった。
 今上天皇の国民に寄り添う気持ちの大きさは、改めて書くまでもない。太平洋戦争の犠牲者への慰霊の旅を続けられ、大きな災害のあった時には被災地を訪れ、膝をついて被災者の人たちの話に耳を傾けられる。
 

四、時の政府に御注文

 光格天皇はそれほど幕府と対立されていたわけではなかった。いろいろと行動はされていたが基本的には朝廷内の行動に留まるものだった。禁中並公家諸法度の決まりにも従っていたが、父親典仁親王が軽んじられていることだけには耐えられなかった。法律の決まりではどうしても親王である父親の順位が低くなってしまう。そこで父、典仁親王に「太上天皇」の尊号を贈りたい、と仰せられた。世にいう「尊号一件」と呼ばれる出来事である。しかし、天皇の任についたことのない方にそのような尊号を贈ることはできないと言って、これは幕府から咎められた。この時は光格天皇の意は通らなかったが、その後も諡号天皇号にこだわり続け、御自身が崩御された後に、ついに「光格天皇」という名で呼ばれるようになり、平安中期の村上天皇以来途絶えていた「天皇」という呼び名を約九百年ぶりに復活させた。

 だが、この諡号に関しても、幕府は「格別の御訳柄」、つまり今回ばかり「特例」として認めますよ、ということだった。

 今上天皇は、内々の近しい人(宮内庁の人)に譲位のお気持ちを話された時に再考を促された、と言われている。譲位は二百年、例がなく、譲位となれば皇室典範の改正を始めとしてさまざまな問題が出てくる。御公務が大変ということなら、御公務の数を減らすなり、摂政を置くなりして対処できます、どうか譲位のお気持ちを表明されるのは思い止まってくださいませ。

 皇室典範は、言わば現代の禁中並公家諸法度である。天皇の行動をかなり束縛するものである。光格天皇今上天皇も基本的にはそのルールに従っておられたが、唯一、光格天皇は「父君の位だけは尊重してほしい」、今上天皇は「退位くらいは自由に認めてほしい」という希望を仰せられた。

 今上天皇は周囲の反対を押し切ってでも「お気持ち」を表明された。禁中並公家諸法度でガチガチに雁字搦めにされ「朕はこう思うんだけど」と自分の気持ちを述べることさえ許されなかった時代に、思い切って時の政府(幕府)にお気持ちを伝えた光格天皇と、印象が重なる。
 決まりに背くことは知っているけれども、あえて「お気持ち」を表明された点、周囲から再考を促された点が光格天皇の時と今上天皇の時とよく似ている。そして、今上天皇の「お気持ち」は、特例法、つまり「今回だけ特別」という形で実現されようとしている。これも光格天皇諡号が「今回だけ特別」として幕府に認められたのと似ている。
 

五、譲位

 そして譲位。

 前回、光格天皇が譲位されたのがちょうど二百年前の1817年。今年か来年に今上天皇の生前退位が実現すれば約二百年ぶりの譲位であり、おそらく二百年ぶりの上皇誕生ということになる。

 譲位の理由は異なる。今上天皇の場合は、年齢による健康問題、またそれに伴う「象徴としての天皇の務め」を果たすことができなくなることを懸念されての譲位である。

 

面影が重なる今上天皇光格天皇

 以上の五つの点からも、光格天皇今上天皇の共通点を感じる。

 今からちょうど二百年前。光格天皇は現在の皇統の祖でもある。

 近代以降だと、昭和天皇明治天皇今上天皇大正天皇が私の中ではイメージが重なる。昨年平成28年に、天皇陛下がビデオメッセージで譲位のお気持ちを伝えられたとき、ふと前回の譲位をされた光格天皇のことを思い起こした。
 もちろん、天皇陛下と二百年前の光格天皇が何から何まで同じというわけではないが、ただ私の中ではなんとなく面影がかぶるのである。そこにはひょっとしたら、陛下の光格天皇に対する“思い”が少しはあるのではないだろうか。
 
 
【参考文献】
藤田覚『幕末の天皇
 
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