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漸近龍吟録

反便利、反インターネット的

「小さな成功を積み重ねていこう」というのはよくわからない

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 何事もうまく行かない。何をやってもうまく行かない。

 そう歎くと、「失敗したことを数えるんじゃなくて、上手く行ったことを数えよう。小さなことでもいいから成功したこと、今日これだけのことができた、ということを数えて積み重ねていけば自信に繫がると思うよ」と、アドバイスをくれる人がいる。直接ではなくても、本やネットなどで間接的にそういうアドバイスを見ることも多い。

 だが、このアドバイスは私にはよく分からない。

 「小さな成功」と言うと、どんどんレベルが下がっていくような気がする。「今日は朝、起きられた」とか「一人で靴が履けた」とか。

 例えば「今日は洗濯できた」と。「晴れた」という意味では少し幸運だし、「捗った」という意味では確かに小さな成功かもしれないが、しかしそれは喜ぶべきことなのか。洗濯はよほど苦手意識のある人でないかぎり誰でもできる。ボタンを押すだけ。干すだけ。畳むだけ。特別な才能も要らないし、特殊な技術や知識を必要とするわけでもない。

 こんなことを「成功」の内に数えることに私は抵抗がある。「やり遂げた」「成し遂げた」というほどのことではない。洗濯ができることなんて「当たり前」のことのように思える。寧ろ、何週間も何か月も何らかの理由で洗濯ができなかったら、そっちの方が異常である。

 「小さな成功を見つけてそれを積み重ねていって自信に繫げよう」と言う人は多い。でも、そんなに「小さな成功」とばかり言っていると、そのうち「箸が持てた!」とか「瞼を開けたら目が見えた!」とか、どんどんレベルが下がっていくのではないかという不安を感じるのだ。もちろん身体障碍者とかなら話は別だが、箸が持てたということに小さな感動を覚え、それを「成功」だと思う?

 むしろ今まで当たり前にできていたことが逆に困難なことになっていくのではないか。今まで箸を持つことを、幼稚園時代はともかく、それを成功だの失敗だのと考えてみたこともなかった。それを「小さな成功」と見てしまうと、今度から箸を持つことがなにかハードルが高いことのように感じられてしまうのではないか。

 今日の他の失敗には目を向けず、「今日は箸が持てたから良し」とするのか?箸が持てたら自信に繫がるのか?

 自信に繫がっていくどころか、自らハードルを下げに行っている、レベルを下げていることによる不安の方が大きくなっていく。走り高跳びでこれだけバーを下げたらそりゃ誰だって飛べますよ、と思う。こんなことで、この程度のことで満足している自分が不安になっていく。

 こういう考え方の背景には何を「常態」と捉えるか、の違いがあると思う。例えば電車は時間通りに来るのが「普通」だと思うか、時間通りに来ないのが「普通」だと思うか。一般に日本は前者で多くの外国では後者だと言ったりする。育った国や地域の違いによって何を普通と捉えるかも変わってくる。

 私は電車は時間通りに来るのが普通だと思うが、「時間通りに来てラッキー!」と捉えた方が幸せになれるよ、と人は言う。だが、その国は日本よりレベルが低くなっているでしょう?

 「電車が珍しく時間通りに来た!」と言って喜ぶためには、普段は時間通りに来ない、という前提がいる。普段から時間通りに来る国の人はそれを「成功」や「ラッキー」とは捉えない。

 「『僕は赤信号に引っかかってばかり』と歎くんじゃなくて、青信号をうまく通過できた回数を数えるんだよ!」と言う。だが地域によってはほとんど信号というものが無い街もある。そういう街に住んでる人々は当然、赤信号なんかに引っかからず日々の生活を送っている。ラッキーもアンラッキーもない。

 いじめっ子に毎日殴られて辛いと言う人に、「殴られた回数を数えるんじゃなくて殴られなかった日を数えるんだよ。『あ、今日は一日、一回も殴られなかったな。ラッキー』って。そうすれば気持ちが楽になるよ」と言う。

 どうして殴られることが「普通」になっているのか。「都市部に住んでる以上、信号があるのはしかたない」と言う人は常識に囚われすぎている。「いじめはどこ行ってもあるよ」と言う人は、いじめがない学校もある、ということを知らない。

 

 そんなのは「成功」ではない。「小さな成功」でもない。

 「小さな成功」とは何なのか。

 私にはよく分からない。