漸近龍吟録

反便利、反インターネット的

ウィンウィン批判 ―「Win-Winの関係」を疑う―

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ポイントカードは誰のため?

 私には「Win-Winの関係」というのはよくわからない。

 例えば、私はポイントカードの類をほとんど持っていない。「持たない主義」とかそういうことを思う前、まだ若い頃から持っていなかった。もちろん、いろんな店でいろんな店員から勧められた。「今ならお得」、「今なら無料」、「今ならポイント2倍!」。

 それでも首を縦に振らない私を店員は訝った。「どうしてですか?お客様は何も損はしないんですよ?会員登録してカード作るのには一円もかからないし、お客様はメリットしかないんですよ?」

 私は子供の頃から、自分の利得ということにあまり興味がなかった。そういう子供だった。自分の利得よりも、どちらかというと相手の利得の方に興味があった。よく、「他人は関係ない」と言う人がいるが、私はそういう考え方はできなかった。どう考えても、ポイントカードを作る、あるいは会員登録をする、という一連の行動において双方の「利得の差」というのは重要なことだと感じていた。

 ポイントカードや会員登録を勧めてくるのは、店側にもメリットがあるからだ。(当たり前だけど。)決して、私のためを思って言ってくれてるのではない。「お客様のため」かもしれないが「店のため、会社のため」でもあり、店員としては「双方にメリットがあってWin-Winじゃないですか」と思っている。

 お客様はポイントが貯まってお得な商品と交換できる。店側は客の囲い込みができて儲かる。両者にとって良いことづくめ!お互いに得するのになんで作らないんですか?お客様は得することこそあれ、損することは何もないんですよ?

 そうだろうか?

 

ゼロサム」という考え方

 小学生だったか中学生の頃にゲーム理論の本を読み、「ゼロサム」という考え方に出会った。自分と相手とでプラスマイナスがゼロになる関係のことだ。

 一番分かりやすいのは例えば将棋で、将棋はゼロサムゲームである。一対一で戦い、どちらかが勝ってどちらかが負ける。「両者勝ち」とか「両者負け」ということはない。損得が完全にプラマイゼロの関係になっており、もし自分が「飛車」という駒を取られたら、自分は飛車一枚分の損をし、相手は飛車一枚分の得をする。

 「Win-Win」という言葉の出所を私は知らないが、この言葉は元々、こうしたゼロサム的な物の見方に対する異論として提出されたものだと聞いたことがある。世の中の人間関係というのは実際にはもっと複雑で、ゼロサムで捉えられるような単純な関係ではないんですよ、と。人間関係というのは必ずしも一対一ではなくて、一対多の場合もあれば多対多の場合もある。複数の個人やグループの利害関係が複雑に絡まり合っているのが現実社会であり、ゼロサムで捉えてしまうのはあまりに単純すぎる、と。

 しかし、私は、この複雑な現実社会にも、ゼロサムはその根底に強固に流れていると思っている。Win-Winという言葉の出現は、この強固なゼロサムを見えにくくしてしまった。ゼロサムはそう簡単には破れない。

 これも将棋を例にとって考えよう。Win-Winを唱える人は次のように言う。「将棋は40枚の駒でスタートする。この40枚という限りある資源を二人で奪い合うからゼロサムになる。石油に代わる新しいエネルギー資源を発掘したり、イノベーションで新しい価値を作り出すように、例えば新しい駒を他から借りてくるなり、自分で新たに作ってしまえばいい。自分が新しく作って盤上に増やした駒は、将来的には相手も使えるようになる可能性があるのだから、Win-Winだ」。

 だがちょっと待ってほしい。その新しく作った駒を相手に取られたら将来的に自分を苦しめることになるだろう。

 「そうなったらまた更に新しい駒を作ればいいんですよ」。

 そうだろうか?

 ポイントが溜まるほど客に何回も買い物をしてもらったとしても、本来、有料の商品をタダでプレゼントするのである。有料の商品は有料にしたまま、客がそれでも買い物に来てくれるのが理想である。「有料の商品をタダでプレゼントする」ことと「何回も繰り返し買い物に来てもらう」ことは「トレードオフ」の関係にある。

 ポイントが溜まって貰える商品が安物だったら魅力はない。高価であればあるほど魅力的であり、ぜひポイントを溜めようと思う。となると、店側は高価な商品をプレゼントするためにどこかを削るなり犠牲にしなければならない。豪華な商品は魔法のように出て来るわけではない。従業員の労働時間を長くしたり、給料を安く抑えて人件費を削ったり、リストラしたり新規採用を抑えて人件費を削ったり。豪華なプレゼントができるというのは、それだけどこかに大きな皺寄せが行っている。

 つまり、「Win-Winの関係」というのは、その場の店員(企業)と客のことしか捉えていない。例えば安い時給で働いている非正規社員のことは捉えられていない。その非正規社員たちの時給を極めて安く抑えておくことで、豪華プレゼントをあげる余裕が生み出されている。

 マイナス部分をどこか外に追い遣って隠している。私は基本的には「Win-Win」を信じず、「マイナス探し」をする。

 もし店員が「お客様がポイントカードを作ってしまうと、ウチの店は損なんです!」と泣きながら言ってきたら、その時は私もポイントカードを作ろうという気にもなろう。自分(私)が得る利益がどこから生み出されているかが分かりやすいからだ。

 

Win-Win」は関係性を示す概念

 それでもまだ、「相手がどうあれ、自分が得するならそれでいいんじゃないの?」と言う人もいるかもしれない。

 「Win-Win」という言葉を「(相手の)Win-(自分の)Win」と考えるならば、それは二番目のWinについてのみ考える考え方である。相手が得してるか損してるかに関係なく、とりあえず自分が得しているのだからそれでいいじゃないか、とする考え方である。

 だが、「Win-Win」というのは、あくまで関係を示す言葉である。

 それは釣り針の先に付いた餌を食べる魚のようなものである。とりあえず目の前の餌を食べられるのだから、その時点では「Win」である。おいしくて満足である。しかし数分後には自分自身が人間に食べられる。

 他の魚「私が食べた餌には釣り針は付いていませんでした!」

 「だからWin」と考えるのは早計である。長い目で見れば餌付けをされているのであり、最もおいしく食べ頃の状態になった時に人間に取って食べられるのである。

 人間は言う。「私は魚が釣れてWin。あなたも餌が食べられてWin。お互い、Win-Winじゃないですか!」

 もし私が魚だったら、これをWinだとは思わない。Win-Winというのは、「少なくとも自分はWin」ということではなくて、何か(誰か)との関係の概念なのだ。自分は少なくとも餌を食べられたから満足、ということではなくて、「対人間」という対比の関係において、これは人間の「勝ち」で私(魚)の「負け」である。

 そういう意味でも相手の利得を測ることは重要なことなのだ。その利得が自分の利得よりも大きければ、私は「Win」とは感じない。私にとってWinとは、自分の利得が相手の利得を上回ることである。

 「〜の関係」と言うぐらいなのだから、「Win-Win」は相手との対比において捉えられるべきであって、「少なくとも自分は得」という考え方には違和感を感じる。「他人は関係ない!自分が得ならそれでいいじゃないか」という意見には到底賛同できない。

 このように考えると、私にはもうほとんど「Win-Winの関係」というのは見えてこない。Win-Winの関係というのは私にはよく分からない。

 ところで最近、「トレードオフ」という言葉を巷間でよく耳にするようになってきた。長年「Win-Win」という言葉に目眩まされてきた人たちが、漸く元に戻ってくるのではないかという感じがしている。