漸近龍吟録

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ピケティ『21世紀の資本』批判  〜ピケティが見落としている「格差」〜

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日本について歯切れが悪いピケティ

 ピケティは確かに新しい一面があった。
 
 資本(資産)と所得の別を明らかにして、多くの人びとにそのことを意識させたというところで功績があった。日本では特にそうだった。
 
 ピケティは著書(『21世紀の資本』)の中でも講演の中でも何度も日本について言及しているが、「日本の場合」について語る時のピケティはどこか歯切れが悪い。
 
 WSJにも「日本は逆に格差は縮小しているのでは?」とか「日本は世界的に見ても格差が小さい国だというデータがあるがどう思うか?」と突っ込まれている。
 
 資産と所得に分けて論じたとしても、ストックとフローに分けて論じたとしても、それだけでは格差を語るには不十分なのだ。
 

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西洋社会と日本社会の違い

 ピケティの格差の話を即座に日本社会に当てはめて考えるのには無理がある。
 
 『21世紀の資本』は2013年にフランスで刊行されたものだが、その時はそれほどの大ヒット、大ブームでなく、2014年にアメリカで英語版が発売されるや否や、たちまち大ベストセラーとなった。このことからも、多くのアメリカ人にとって「ピンとくる!」内容のものだったことが分かる。
 
 アメリカ社会には、日本よりもずっと厳然、明瞭たる「格差」がある。「富裕層」や「貧困層」がまるで生まれつきの人種のように、はっきりと存在する。住んでいる地区も厳然と分かれている。「あの地区に住んでいる人は全員富裕層」、「あの地区はみんな貧困層の人たち」、そうした区別がはっきりと存在する。まるで、明治時代の日本で、「あの人は貴族。あの人は平民」と言っていたように。
 
 日本にもゆるやかにはあるが、しかし、「あの地域は富裕層エリア。あの地域は貧困層エリア」などと明瞭には決まっていない。
 
 アメリカでは富裕層の家の子どもと貧困層の家の子どもは、付き合わない、一緒に遊ばない、ということさえあるが、日本ではそもそも、同年代の友達を見て「あの子は富裕層の子、あの子は貧困層の子」などというレッテル貼り自体がないだろう。多くのアメリカ人にとって、あるいは西洋人にとって、ピケティの著書は、普段自分たちが感じている格差の問題を鋭く論じてくれた画期的な書だった。
 
 欧米社会には、大きな格差がある。それは「資産格差」である。だからピケティがその資産格差に注目し、「資産に課税しよう」と言うのは、もっともなことだと思う。
 
 だがアメリカで有り難がられる本が、日本でも同様の重要性を持つわけではない。
 

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ハーバード大学東京大学の「難関」の意味の違い

 ハーバード大学東京大学はどちらも、それぞれ米国と日本を代表する「入るのが難しい大学」である。しかし、「難しい」の意味が違う。
 
 東京大学に入るのが難しいのは“学力的に”難しいのである。ハーバード大学は学力的にも難しいが、それ以上に“金銭的に”難しい。ハーバード大学の入学金や授業料はべらぼうに高く、「イイとこの」お坊っちゃん、お嬢ちゃんでないと入学するのは難しい。どんなに学力があっても、家が上流階級の家柄でハーバード大学の出身者とコネクションがあり、且つ経済的に裕福でなければ、入学は叶わない。
 
 東京大学ではそんな話は聞かない。家が裕福とか貧乏だとか上流階級とか下層だとか、そんな話は聞かない。東京大学に入るのが難しいのは偏に「学力的な」問題であって、学力さえあれば入学は可能だ。東京大学の入学金や授業料は、一般的な私立大学に比べても安いくらいである。
 
 この、ハーバード大と東大の「難関」の意味の違いが象徴している。私はピケティがなぜ、欧米社会しか見られていないと言うのか。ピケティの批判は、欧米社会とりわけ米国的社会を念頭に置いて行われている批判なのだ。
 
 ピケティは、こういう「ハーバード大的不平等」が許せなくて『21世紀の資本』を書いた。「どんなに勉強して学力を身に付けても、親の経済力が低いという理由でハーバード大に入れないのはずるいでしょう?」という思いが根底にあった。
 
 ハーバード大のような“良い大学”に入れなければ“良い会社”に入れない。良い会社に入れないと収入は低く、子どもが生まれても、良い学校に通わせてあげられない。「もっとチャンスは万人に平等に与えられるべきしょう?」というのがピケティの思いだ。
 
 だが、ピケティ流の考え方でいくなら日本は「チャンスが皆に公平に与えられている平等な国」ということになる。
 

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世代間格差の問題

 では、日本は「不公平が少ない平等で理想的な国」なのだろうか。
 
 ピケティは全然触れていないが、日本では「格差」とは「経済格差」だけではないのである。ピケティは経済格差以外のさまざまな格差を見落としている。
 
 「見落とすも何も、ピケティは初めから経済格差のことについてしか語っていない」と反論する人もいるかもしれない。だが何故、経済格差を語るのか。それはお金が人生の幸福や不幸に影響するからであり、そうであるなら、「格差」を語るには、やはりお金だけに注目しているのでは不十分なのだ。
 
 日本において重要な意味を持つ「格差」の一つは「世代間格差」である。
 
 東大に入れるか入れないかは、親が裕福か貧乏かよりも、自分が18歳の時の子どもの数の方がよっぽど影響が大きい。子どもの数が多い時代は「受験戦争」などと呼ばれ、少子化の時代には「大学全入時代」などと言われるのである。
 
 就職も同じである。日本においては、就職できるかどうかは、親の経済力が物を言うのではなく、自分が22歳の時の日本の景気が良いか悪いかに圧倒的に大きく左右されるのである。バブル期だったらどんなに頭が悪くても資格を一つも持っていなくても良い会社に入れるし、氷河期だったらどんなに頭が良くても資格を十も二十も持っていたとしても就職できないのである。
 
 フランス人のピケティには信じられないかもしれないが、日本では、大学入学のチャンスは人生で一回しかないし、新卒一括採用主義が強固な日本では、就職のチャンスも人生でたった一回きりしかないのである。(※「中途採用もある」と反論する人は中途採用の応募条件に「経験者のみ」と書かれていることに注意。)
 
 ピケティはいろんな人から「あなたの理論は日本には当て嵌まらないようですが」と突っ込まれたときに、首を傾げて、確かに日本にはどうもうまく当て嵌まらないようだ、と言った。そして、「高齢少子化が進む日本では世代間格差が大きい」という指摘を受けたときも、「世襲資本主義に注意しなければならない」と言うのが精一杯だった。
 
 『21世紀の資本』の中には「世代」という言葉は数回出てくるが、それは「世代を超えて富裕層と貧困層の格差が各家庭で受け継がれる」という意味で使われているだけだ。日本語では「世襲型資本主義」という言葉で説明されていることが多い。
 

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資本(資産)で親孝行ができるか?「初給料で親に奢る」経験格差の問題

 ピケティの本を読むと、まるで資産にしろ所得にしろ金持ってることには違いないだろう、と言ってるように読めてしまう。
 
 朝日新聞の記事によれば、ピケティは東大の講義で「人口減少が進む日本や欧州では特に、相続する資産がものを言う「世襲社会」が復活していると指摘した」と。
 
 資産が資産を生むにしろ、労働による収入が多いにしろ、金持ちは金持ちだ。だが両者の意味は異なる。
 
 例えば次のような例を考えてみよう。
 
 稼ぎ(労働所得)はない。でも親の資産があるからそれほど金に困窮するわけではない。
 
 実際、日本では「氷河期」に就職できなかった多くの若者が非正規雇用やアルバイトで働くことを余儀なくされ、それ以前の世代に比べて格段に収入が下がった。しかし、この氷河期世代の若者たちが餓死したかというとそんなことはなく、彼らは20代になっても30代になっても40代になっても親の資産に“助けられて”、薄給にもかかわらず、ずっと食い繋いでいくことはできている。
 
 「え?そんないい歳して、親に払ってもらってるの?それはまたいい御身分じゃないか」と思うだろうか。
 
 まともな職に就けず、まともな給料を貰えなかったこの世代は、“普通の”親孝行すらできなかった。社会人になって初めて自分で稼いだ初給料で、親を高級レストランに連れて行って奢る。そんな、それ以前の世代が当たり前にできていた親孝行すら、この世代はできなかった。大人になってからもずっと親の経済力に依存せざるを得なかったからだ。
 
 この「初給料で親に奢る」というような孝行経験は「収入の金」ではできるが、「資産の金」ではできない。口座に金があったとしてもそれは親からの援助金なので、その金で親に奢ることはできない。
 
 これは、単に「金があればいい」という問題ではないことを示す好例である。ピケティが重要視する「相続財産」で親孝行ができるか?相続財産を受け取る時に親は生きているか?
 
 「働いて金を得る」というのは人生における貴重な経験である。どんな形であれ金があればいい、という問題ではないのだ。
 
 こうした「経験」の重要さ、などもピケティの話からは抜け落ちている。
 

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経済成長への不十分な考察

 成長があれば経験格差、世代間格差が生じる。人間は「成長」の中の一部分しか生きない。
 
 ピケティは「私は経済成長に反対しているわけではない」と言う。ピケティが経済成長について言っていることはそれだけだ。このもどかしさ。
 
 経済成長により社会環境が激変し、多くの「経験格差」が生まれる。そうした格差についてピケティは何も語らない。
 
 「この10年で最も重要な経済書だ」というクルーグマンの評が象徴的だ。「21世紀の」と銘打っているわりには、ピケティの本は、あまりにもtemporaryなのである。21世紀を代表する歴史的な書にはなり得ない。
 
 ピケティは「g>rだったのは20世紀だけ。戦争ですべてがゼロになったり、その後の異常な高度経済成長が特別だった。21世紀は再び、19世紀以前のようなr>gの時代に戻る」と言う。
 
 しかし、そんな“特殊な”20世紀にこそヒントがある。激動の世紀の中で “特殊な”、“一回きり” の刻印を押される世代がある。
 
 私はピケティの説に反対ではない。「資産に課税しよう」というピケティの意見には反対どころか賛成である。
 
 だが、ピケティの『21世紀の資本』では、あまりにもgが軽んじられすぎなのだ。私が軽んじられていると言うのは、gの「功」ではなく、gの「罪」である。「私は経済成長に反対しているわけではない」と言うピケティは、結局、gに対する眼差しがその程度しかないのだ。
 

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抜け落ちる経(たていと)

 特殊な一回きりがpermanentになる。永続的と思われていたストックが永続的ではなくtemporaryになる。
 
 日本の場合の問題点は、「固定化」である、という山田昌弘氏の指摘は鋭い。 欧米は確かに日本よりも経済格差(貧富の格差)が大きいが、流動性がある。追いついたり逆転したりするチャンスがある。日本にはない。
 
 この山田昌弘氏の指摘も、permanentの問題である。日本では、このpermanentの問題こそが非常に重要な問題なのに、圧倒的にそのpermanentに対する視点が抜け落ちている。
 
 p>tの問題を考えよう。
 
 そこにあるのは、教育的視座の欠如。次世代のことを考えられない。同世代の貧富の格差にばかり目が行って、次の世代のことは考えられない。
 
 今頃になって、会社の中の年齢構成が歪だ、とか、それによって技術の継承が困難になっている、などと言って騒いでいる。あるいは売り手市場で正社員の確保がたいへんだと言って騒いでいる。「不況だから」という理由で、特定の世代の雇用を極端に絞ってきた結果がこれだ。
 
 「格差」にはいろいろある。
 
 格差と言ったら「経済格差(お金の格差)」のことしか考えられないのは、経済学者の頭の貧しさでもあり、その読者たちの頭の貧しさでもある。
 
 日本語の「経済」という言葉には、わざわざ「経(たていと)」という言葉が入っているのに、日本の著名な経済学者の誰一人として縦糸を編み込まない、読み込まないのは、いったいどういうことなのか。
 
 所詮、現代の経済学者たちにとって経済学は「経世済民の学」ではなくて、「お金の学」でしかないのだろう。
 
 トマ・ピケティ、47歳の誕生日、おめでとう。
 

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