漸近龍吟録

反便利、反インターネット的

選択的夫婦別姓が話題になっては消えて行く理由

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 選択的夫婦別姓の問題は、もうだいぶ昔から話題になっては消えて行くことを何度も繰り返している。
 
 最近もIT企業の社長が提起して話題になったが、その後、盛り上がらない。
 
 この話題が消えて行くのは、「賛成」の人が少ないからである。
 
 と言うと、「私は賛成ですよ」とか「アンケートでたくさんの人が賛成って答えてますよ」と言う人がいるだろう。
 
 しかし、それらは真の賛成ではない。以前の朝日新聞のアンケートでの「容認」という言葉がなにより物語っている。多くの人々は「賛成」ではなく「容認」なのである。賛成と容認は全然違う。
 
「私は結婚して夫婦で別姓にするつもりはないですけど、それを望む人がいるんなら別にいいんじゃないですか?」
「私は反対しませんよ」
「好きに選べるようにしたらいいんじゃないですかね」
 
 要するに「他人事」なのである。自分の事ではなく、それを望む人がいるんなら私は反対したり阻止したり邪魔したりしませんよ、という意思表明なのである。
 
 そういうのは「容認」もしくは「消極的賛成」というのである。「賛成」というのはもっと積極的な賛成である。自分が夫婦別姓を選びたい、ぜひそうしたい、と強く願う人がたくさんいれば、世の中はそのように変わっていくのである。
 
 翻って反対派の人たちの「反対」は「積極的反対」なのである。「別に姓制度を変えなくてもいいんじゃないですかね」ではなく、「どうしても姓制度を変えてほしくない」なのである。エネルギー量が違うのである。
 
 「それにしても、なんで反対するのか、その理由がわからない」と言う人が多い。「自分が別姓にしたくないなら自分が別姓にしなければいいだけのことで、なんでそれを他人にまで強制しようとするのかがわからない」
 
 そういう人のために反対派の人たちがなぜ反対するのかを、サッカーを例にとって説明してみよう。
 
 ここにサッカーファン(サッカーに詳しい人)と、サッカーのことをまったく知らない人がいたとする。
 
 知らない人「どうして手を使っちゃ駄目なんですか?手を使えないとすごく不便だと思うんですよ。手を使いたい人は手を使えるようにルールを改正するのは良いことだと思いますけど」
 
 詳しい人「私は、そのルール改正には反対です」
 
 知らない人「いいですか?私たちが主張しているのはあくまでも『選択的』ということなんです。私たちは何も『手を使え』って言ってるんじゃないんです。従来通り、手を使いたくない人は手を使わなくていいんです。使いたい人だけが使えばいいんです。選択肢が増えるのはいいことじゃないですか?」
 
 しかしそんなことを認めてしまったら、サッカーはお終いである。サッカーファンなら誰もがそう思うだろう。ゴールキーパー以外、手を使えないということがサッカーの醍醐味であり魅力である。「使いたい人は使う」「手を使うか使わないかは選手個人個人の自由」などというルールにしたら、もちろんみんな手を使う。その方が圧倒的に有利だからだ。「手を使ってはいけない」というルールを自分一人だけではなく、全選手に課していることにこそ意味がある。
 
 反対派の人たちは全員に統一ルールを課すことに魅力を感じているのである。
 
「それなら私たち賛成派だって、『選択的自由』に強い魅力を感じています」
 
 そうかもしれないが、あなたがたが重い価値を置いている「選択的自由」は、別に姓制度という場で発揮されなくてもいいのだ。あなたがたは姓制度には関心はなくて、選択的自由を訴えているだけなのだ。
 
 選択的夫婦別姓制度の話が一時的に盛り上がってすぐに消えて行ってしまうのは、賛成派の人々が言うように「老人たちが頑固に反対するから」ではなく、「別姓を望んでいる人がどこかにいるんでしょ?だったら、その人たちが好きに選べるようにしてあげたらいいじゃないですか」「私は反対しませんよ」という、どこまでも他人事な態度の人たちが、今の世の中に大多数だからである。