漸近龍吟録

反便利、反インターネット的

蒸気機関車と頭の固い現実主義者たち

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 頭の固い現実主義者たちとどう闘っていくか、ということが自分の中でもう何年も前から課題になっている。
 
 特に日本には頭の固い現実主義者が多い気がする。
 
 
 明治時代、ある村で蒸気機関車を通すか通さないかに対して賛成派と反対派に意見が分かれている。
 
 反対派「反対です。村の自然が壊れる。線路によって村が分断されてしまう」
 
 賛成派「賛成です。蒸気機関車が走るようになれば村が活性化します。この田舎の村にも文明を取り入れ賑わいを取り戻すべきです」
 
 反対派「こんな牧歌的な田舎の村に蒸気機関車は似合いません。あんな真っ黒い鉄の塊が村の真ん中を疾走するなんて危険です」
 
 賛成派「反対派の人たちはもっと現実を見てください。徳川の御世は終わったのです。今や文明開化の時代。我が国も蒸気機関車を取り入れなければ西欧列強に追いつけません」
 
 反対派「蒸気機関車は騒音も大きいし、吐き出す煙によって空気も汚れます。断固反対です」
 
 賛成派「文明開化のこの時代に文明を否定するなんて馬鹿げています。あなたたちが否定しようとも、世の中はもう文明化の方向に進んでいるのです。これからの時代、蒸気機関車はますます増えて行くことはあっても減ることはありえません。そんなに文明が嫌なら、あなたたちだけ馬や人力車にでも乗っていたらいいと思います」
 
 おそらく、反対派と賛成派の間で、このような応酬が交わされていたことであろう。
 
 私みたいな守旧派タイプ、伝統や自然を大切にするタイプの人間は、もし明治時代にこの村に居たら、反対派に加わっていただろう。
 
 反対派の人間から見たら賛成派の人たちは国家主義的に見える。「富国強兵」、市民の生活よりも国を富ますことを優先する考え方のように見える。
 
 だが賛成派の大半の人々は「国家」などという大きなことを考えているのではなく、もっと卑近な「現実」を考えているのだ。彼らは国家主義者でも軍国主義者でもなく、ましてや「戦争好き」なわけでもない。「現実主義者」なのだ。
 
 賛成派の人々にとって蒸気機関車は「現実」なのだ。もちろん、「誇らしい気持ち」というのはある。こんな田舎の村に文明の利器がやって来たことも何となく誇らしい気持ちだし、日本国に蒸気機関車が走れば西欧列強の国々に肩を並べたような気持ちで誇らしい。
 
 だが「誇らしい気持ち」だけで賛成しているわけではない。それ以上に「現実」なのだ。そういう世の中の流れ、時代の流れなのだ。今はもう徳川の御世とは違って文明開化の時代なのだから、その時代の流れに「沿う」ことがもっとも現実的な判断だと考えている。
 
 反対派の人たちが言う「村が線路で分断する」、「騒音がうるさい」、「空気が汚染される」というのも分からないではないが、もうそんなことを言ってもしょうがない、日本中が文明開化の方向に進んでいるのに、うちの村だけ時代の流れに逆行するわけにもいかない。これも時代の流れなんだから粛々と受け入れるしかない、というのが賛成派の人たちの考え方だ。
 
 
 だが。
 
 私はこの賛成派の人たちの言う「しょうがない」が気になる。本当に時代の流れだから「しょうがない」のか?
 
 私が反対を叫ぶと賛成派の人たちは「あなたは蒸気機関車を嫌ってますけど、あなたがどんなに蒸気機関車を嫌ってもこの世からなくなりませんよ。これからの時代、蒸気機関車はますます増えていくことはあっても減ることなんてありませんよ」と言う。
 
 しかし、それから100年余後、今の世の中に蒸気機関車が走っているか。観光用で一部走っているものを除けば、今の日本に蒸気機関車は走っていない。「これからどんどん増えていくことはあっても減ることはない」とあの時言っていた賛成派の人間たちの言葉は嘘だった。
 
 彼らはよく「しょうがない」という言葉を口にする。「しょうがない」とは「仕様がない」、「他にやりようがない」という意味の諦めの言葉だ。
 
 賛成派の中には積極的賛成派だけではなく消極的賛成派の人もたくさんいる。「私もたしかにあの音はうるさいと思います。でも文句を言ってもしょうがないでしょう。これも時代の流れなんですから」と言うタイプの人だ。
 
 そしてこういう消極的賛成派のために、多数決をとれば賛成派が上回り、蒸気機関車敷設計画は可決される。
 
 彼らはとっても狭い「現実」しか考えていない。移動手段なら他にも考えられる、とか、富国強兵なら他の方法で国を富ますこともできる、とか、そういう発想をしない。「これが現実。これが時代の流れ。人力車から蒸気機関車へという時代の流れは誰にも止められない。それに文句を言ってもしょうがない。私たちは現実に即して生きていくしかない」。
 
 だから日本ではイノベーションが起こらない。海外や国や大企業から与えられたものを「これが今の世の中の流れだから」と言って淡々と受け入れる。
 
 彼らが蒸気機関車に拘って、昭和後期になっても蒸気機関車に乗り続けていたなら私は敬意を表したい。だがそんな人はいない。彼らは「蒸気機関車主義者」なのではなく単なる「現実主義者」だから。電車が「現実」の時代になったら電車に乗り換える。
 
 すぐに「しょうがない」という物言いをする現実主義者たちが嫌いだ。本当に他にやりようがないか考えたのか。電車や自動車について考えてみたことはあるのか。彼らが「今は蒸気機関車の時代だから」と言うとき、まるで時代の定義が所与のものとしてあるかのようだ。今を「蒸気機関車の時代」にするかどうかは自分たちが決めることなのだ。
 
 こういう頭の固い現実主義者たちは今でも多い。明治時代の蒸気機関車を例にして書いたが、似たような問題は現代でも無数にある。そこにあるのは「経済優先か環境保護か」、「経済成長か持続的安定か」といったような対立ではなく、どちらにしろ「現実」に従って行くであろう多数の現実主義者たちとの闘いである、と私は思っている。