私は、他人とはあまり「完璧主義」について議論したり話したりしないようにしている。それは、「完璧主義」についての抑々の認識が異なっているからだ。
「完璧主義」で検索すると大体「どうやってなおすか」といったような話ばかり出てきて、まるで病気扱いである。
多くの人が思っている完璧主義とは、「完璧を目指す(目指そうとしている)態度、姿勢」のことであり、完璧な世界を目指す人のことを「完璧主義者」と言っている。
私は完成された完璧な世界そのものだと思っている。
ここに認識の違いがある。
だから、他人が「完璧主義っていうのは、少しのミスも許さない、許せないような空気を作ってしまって、世界がギチギチで息苦しいものになってしまうんだよね」などと言っているのを聞くと「息苦しくなってしまうんだったら、それは、じゃあ、完璧じゃないじゃん」と思ってしまう。
「そんな完璧な世界は、進歩のない停滞した世界ですよね」などと言っているのを聞くと「だったら、そこも完璧じゃないじゃん」と思ってしまう。もし、進歩のない停滞した世界をつまらない世界だと思っているなら、そういうちょっとでもつまらない点がある時点で完璧ではない。
「息苦しい」などという不都合な事態が起こるなら、それはもう全然「完璧」ではないわけで、「いきやすい」ほうが「完璧」だろう。
「でも誰かにとって生きやすい世界は、他の誰かにとっては生き苦しい世界なんですよ」と言う人がいるが、そんな不都合が起こってしまうなら、それもやはり「完璧」ではないだろう。
「完璧主義はこれこれこういうところが問題なんですよね」という発言を聞くたびに、私はムズムズ、イライラする。「どんなことであれ“問題”があるんだったらそれはその時点で完璧じゃないだろう」と思ってしまう。
あなたがたの言う「完璧主義」は「完璧を目指す主義」なのだ。
ただしこれは、そんなに何もかもが完璧な世界というものがあり得るかどうか、という話とは別の話である。
私はそんな「完璧な世界」があり得るとは思っていない。
一方で、もっとずっと完璧に近い世界というのはあり得ると思っている。今の世の中は「完璧な世界」からほど遠い存在であり、そして今よりずっと完璧に近い世界に到達することはそんなに無茶なこととも途方もないことだとも私は思っていない。