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覆されつつある従来のイメージ
800年前の今日、雪の舞う
鶴岡八幡宮で一人の若者が兇刃に斃れた。26歳の若さで喪うにはあまりに惜しい賢君だった。
昔から、
源実朝には特別な思いがある。日本史上の歴代の将軍、天下人たちとくらべても“違う人”だという感じがする。
ほとんどの日本人にとって、
源実朝のイメージは、おそらく、「源氏の最後の将軍」、「
鶴岡八幡宮で暗殺された人」くらいのイメージだろう。教科書でも覚えるべきことはそれくらいだ。もう少し詳しい人は「
金槐和歌集の作者で文学の才能があった」と言うだろう。
ともかく「文の道は優れていたが、武の道や政治方面では特にパッとしなかった人」というイメージなのではないか。
文学の才能はあるけど武士としては“ひ弱”。だが近年、何人かの研究者たちの研究によって、そうした「文弱の将軍」という従来のイメージが覆されつつある。
実朝は戦争をしなかった
実朝は争い事を好まなかった。不思議な人である。あの冷血な
源頼朝と強欲な
北条政子の子供とは思えない、いったい誰に似たのだろうか。
戦争の無い時代だった、というわけでもない。実朝が生きていた時代は、関東の
御家人たちの間で、殺すか殺されるかという抗争が繰り広げられていた時代だった。
源氏の将軍が強すぎて誰も戦えなかったのでは?と思う人がいるかもしれないが、それも違う。カリスマ的存在だった父・頼朝は実朝が幼いころに亡くなっているし、実朝はそれほど絶大な強さを誇っていたわけではないし、実際に各方面から命を狙われていた。
若すぎたのでは?というのはある。ただ10代の頃はともかく20歳にもなれば戦いくらいはできるだろう。だが、実朝は20代も戦争をしなかった。20歳の時に「和田合戦」という戦いがあったが、これは襲われた戦いに応戦しただけであって、実朝のほうから戦いに行ったわけではない。
あれだけの抗争の時代に生きていながら、一度も戦争をしていないというのは不思議な人である。
恨みつらみを残さない裁定
実朝自身は戦争をしなかったが、周囲には権力欲の強い人間がたくさんいて争い事も起きており、将軍である実朝のところにはときどき「罪人」が引っ捕らえられて来るのであった。
実朝は将軍としてそうした「罪人」たちを裁かなければいけないのだが、大抵は「許す」か「刑を軽くする」方向に持って行っている。そして必ず言い分を聞く。だから謀反を企てた「罪人」についても、その場で殺さず生け捕りにして自分のところに連れて来い、と言う。
「殺さず生け捕り」を命じていたのは、自分の周囲の人が信用できないから、という理由もあっただろう。本当に謀反の企てがあった「罪人」だったかどうかは怪しいのだ。
実朝時代は、
北条時政、義時に操られた傀儡政権などと言われることもあるが、実朝は、そうなりがちであることをおそらく分かっていたから、取り巻きたちに任せず自分で裁定するようにしていたのだ。
とりわけ私が注目するのは、実朝は必ずどちらか一方の肩を持つことがないよう、「
将軍様はあっち側の贔屓をしている」と思われてどちらの側にも恨みつらみが残らないよう、なるべく喧嘩両成敗的な裁きを心がけている、ということだ。
そしてその喧嘩両成敗も「両者死刑」という方向ではなく、いろいろと理屈を付けて両者無罪か、両者とも刑を軽くする方向に持って行くのである。当時の感覚なら「斬首」でもおかしくない場合でも「配流」などにして命だけは助けてやっている。
勘違い落命
建保7年1月27日、実朝は雪の降りしきる
鶴岡八幡宮にて、甥っ子の
公暁に斬られた。
公暁は「親の敵はかく討つぞ」と叫んで斬りかかったと伝えられている。
殺し方が「かく」のとおりで正しかったかどうかは分からないが、少なくとも殺す相手は間違えていた。
公暁の本当の「敵」は
北条義時など別の人間であって、実朝ではなかった。あきらかな人違い、勘違い殺人であった。
特定の勢力から恨みを買わないように賢政をすすめていた実朝が、何もわかっていない若造に斬られて命を落としてしまったのは本当にもったいないことであった。なにか実朝に恨みを持った敵対する勢力の人間に討たれるならまだ分かるが、誰が敵なのかも分かっていない若者の思い込み勘違いにやられたのではたまったものではない。
特定の勢力から恨みを買わないようになるべく公平な裁定を注意深く心がけてきた実朝が、最期には「勘違い恨み」で殺されるというのはなんとも皮肉なことである。
実朝が目指していたもの
実朝の賢さは22歳の若さでつくったとは思えない和歌のレベルの高さにも表れているが、政治手法にも表れている。実朝がいくつかの権限を将軍である自分の元に集中させていったのは、周囲に権力欲の強い人間が多くて危険だと判断したからだろう。
後鳥羽院も権力欲の強い人だが、将軍である自分には強硬な態度は取ってこないだろう。もし強硬な態度で来たら、共通の趣味である歌の話でもすれば機嫌をとることができるだろう。
となると、あとは将軍である自分が
天皇に刃向かわないかぎり大きな戦争は起こらない。
そういう思いがあったに違いない。
実朝がもっと長生きしていたら
実朝がもっと長生きしていたら、きっと名君と謳われていただろう。26歳という短い人生でもその片鱗を十分に見せている。
日本史上の歴代「将軍」の中で一番の「名君」は誰であろうか。
実績重視の観点から言うなら
源頼朝や
足利尊氏、
徳川家康など「初代」はみな評価が高くなる。実際にそれだけの実績を作り出したのだから。
しかし単なる政治的手腕だけではなく、人間味なども加味して考えたとき、最も「賢君」であったのは実朝ではないか。
『
源実朝』の著者、坂井孝一氏は「憂愁の貴公子」と評した。まさに、その表現がぴったりだと思う。暴力的で権力欲の強い人物たちに囲まれながら、ひとり平和の政治を模索していた。孤高の将軍であった。
私は、実朝こそが日本史上の歴代「将軍」の中で、いちばんの「名将軍」だったと思っている。
現代でも、生徒を怒鳴りつけ、恐怖指導によって全国優勝へと導く部活の監督はいる。そういう監督が「名監督」だろうか。たくさんの人間を殺戮して国を統一した人物が「偉大」なのか。手腕、手法を問わずに、ただ実績を残した人だけが「名君」だろうか。私はそうは思わない。
実朝は、その26年の短い生涯の中で“賢さ”の片鱗が随所に見られる。“恐怖”に寄らなくても、じゅうぶんに統治していける賢さを見せた。
「たらればを言ってもしょうがない」と人は言うが、実朝があの日、殺されていなければ、
承久の乱はなかった。たくさんの血が流れずにすんだ。こういう賢い人が、つまらない人間につまらない理由によって殺されたのは、返す返すも残念でならない。
大江広元に昇進の早さを諌められたとき、「源氏の代は自分で終わるのだから」と言った実朝は、まるで自分の運命を予見していたかのようだ。
子どもがいなかった。つくらなかったのか、できなかったのか。
いとほしや 見るに涙もとどまらず 親もなき子の母を尋ぬる (金塊和歌集)
という歌を遺すほど子どもへの眼差しが深かった人に、子どもがいなかった。この事実が、実朝の美しさを増さしめている。
源実朝。「憂愁の貴公子」であると同時に、源氏の「有終の美」を飾るに相応しい人だった。
世中に かしこきこともわりなきも 思ひしとけば夢にぞ有りける (金塊和歌集)
【参考文献】