漸近龍吟録

反便利、反インターネット的

中学時代、部長にさせられた思い出

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 このニュースを読んで、自分の中学時代を思い出した。部活動の部長にされた時の思い出。
 
 中学時代の部活動。私の部は男子は私一人だけで、あとの部員は全員女子だった。
 
 あたらしく部長を決めなければいけない話し合いの日。
 
 顧問の女の先生が「部長に立候補したい人ー?」と問いかけたが誰も手を上げず。誰も部長をやりたくないのだ。
 
 全員が心の中で(自分はぜったいにやりたくない。他の人が引き受けてくれますように)と思っていた。私もそう思っていた。立候補する人がいないのは想定通りだった。
 
すると先生が「それでは他薦にします。だれか推薦する人ー?」
 
女子A「はい。私は、りゅうたいぷさん(筆者)がいいと思いまーす」
 
先生「他には?」
 
みんな沈黙。
 
先生「それでは部長はりゅうたいぷさんがいいと思う人ー?」
 
女子全員がすかさず手を上げる。
 
先生「というわけで全員一致で部長はりゅうたいぷさんに決まりました」
 
先生と女子全員すかさず大拍手。
 
 (嵌められた)と思った。私は部長を引き受けるとは一言も言ってない。立候補する人は一人もいないだろう、というところまでは想定内だったが、その後の推薦の流れを考えていなかった。女子は全員友達同士であり、前々から部長はりゅうたいぷさんにやってもらおう、と決めていたのだろう。私一人が他の人を推薦したとしても数の力(多数決)で勝てない。
 
 先生も、他の部でも部長決めが難航していることは知っている。部長なんてめんどくさい役職は誰もやりたくないのだ。だから、「立候補を一応聞いてみる→ゼロ→推薦を聞いてみる→一人の名前が上がる→その人でいいと思う人?→おそらくその人以外の全員の手が上がる→その人に決まりましたー→大きな拍手で決めてしまう」という流れを考えていたのだと思う。
 
 先生の一連の持って行き方が実にスムーズで、ほんとに一分もかからないで決まってしまった感じだった。先生としては、これくらい強引に決めないと、話し合いだの本人の気持ちだのと言っていたのでは日が暮れても決まらない、と思っていたのだろう。
 
 結局、私は部長をやらされることになった。
 
 その後の人生でも私は望まないリーダー的なポストをやらされることが多く、そのたびに「やっぱりこういうのは男子が…」と女子たちが言うのをたびたび耳にしてきた。
 
 「このニュースを聞いて性差別じゃないって言ってる人は何なの?」とコメントしている人がいたが、私自身そのような経験をしてきたので気持ちはわかる。
 
 越大津市長の問題提起と背景調査に期待したい。
 

「ナントカペイ」とガラパゴス化の構造

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 所謂「ガラパゴス」は好む人と好まない人がいる。私はあまり好まない。
 
 ガラパゴス化というのは、マラソンに例えると、マラソンの先頭を走っているようなものだ。ただし、一人だけ違うコースを。
 
 あとで「どうやらコースはこっちじゃないらしい」と気づいて数キロメートル戻る。
 
 日本でいちばん有名な「ガラパゴス」であろうガラパゴスケータイは、当時、機能面では世界の最先端を走っていた。
 
 だが、その後、日本国民は皆「不便な」スマートフォンに乗り換えた。今でこそスマホにもいろいろな機能が搭載されるようになってきたが、日本に登場したばかりの頃のスマホは、ガラケーにくらべてできないことがとても多かった。それでも人々はその不便なスマホに乗り換えた。コースを逆走したのだ。
 
 日本はいまキャッシュレス決済の分野で再びコースを逆走しようとしている。QRコードという、日本では20年以上前に聞いた地点まで戻ろうとしている。
 
 日本はキャッシュレス決済分野ではずっとFeliCaというコースを走って来た。それは世界の最先端を行ってるはずだった。ところが今ごろになって「どうやらコースはこっちじゃないらしい」と言って、来た道を戻ろうとしている。しかも正しいコースの名は「QRコード」というらしいのである。
 
 QRコード、懐かしい響きだ。それもそのはず、QRコードはもう20年以上前に日本で生まれて一時期流行った技術だ。今、日本は「ナントカペイ」が乱立して、その大昔の地点まで戻ろうとしている。
 
 日本がQRコードの導入、普及に必死になるのは、中国に対して遅れているという焦りを感じているからだ。だが、日本で無事にQRコード決済が普及したころには、中国はQRコードを捨てて、生体認証決済にでも移っているだろう。日本の店舗が銀聯カードにいっしょうけんめい対応した頃には、中国人は銀聯カードから支付宝、微信支付に移っていたように。
 
 日本は世界に遅れまいとするが、コースを逆走すれば、当然世界からは遅れる。
 
 コースを逆走するのは、コースをよく確認しないで我が道を独走するからである。
 
「ここは日本なんだから、世界がどうとか関係ない。あくまで私たち日本人の日常生活が便利であればいい」
 
 そう言う人は多い。もちろんそういう考え方はあっていい。だが、それならそれでガラケーで突っ走るべきであり、“不便な”スマホに乗り換えるべきではないのだ。
 
 FeliCaを愛用する人の意見は概ね、
 
「タッチした時の反応が速くて便利だから」
「このカードとこのカードを結びつけるとチャージの手間が省けて便利だから」
「このカードだとポイントが貯まってお得だから」
 
といった「卑近な便利」を語るものばかりだ。
 
 日本人は卑近な便利について考えるか、世界の真似をしようとしてコースを逆走することしかしない。
 
 日本でガラパゴス化が加速するのは、日本人が皆、卑近な便利ばかり考えているからだ。
 
 消費者は皆、ポイントが貯まってうれしい。企業は利用者が増えてうれしい。ここに「閉じたウィンウィンの関係」ができてしまうので、皆このんでその道を行く。誰もそのコースから外れようとは思わない。いつしか日本のメインストリートになってしまう。日本人は大道になればなるほど安心するという特性があるので、「私も、私も」と参加者が増えて、それがますますガラパゴス化を加速する。
 
 だから日本がガラパゴス化の道を走らないようにするためには、ある程度、国策で道を正していく必要があるのだが、国はそんなことは考えていないし、そもそも大企業とはズブズブの関係にあるので、国にはそんなことはできない。
 
 だとしたら、私たち国民がもっと賢い選択をしていくしかないのだ。
 
 いつまでガラパゴス独走と逆走を続けるつもりなのか。
 
 
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「地方」と「田舎」の違い

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 ネット上で「地方」という言葉と「田舎」という言葉の混用がよく見られる。
 
 「地方」は、日本では、東京から離れているところが地方である。
 
 「田舎」は、商業施設などが発展していないところ。
 
 地方の対義語は「東京(圏)」や「首都(圏)」。
 
 田舎の対義語は「都会」。
 
 「地方」ではあるけれど「田舎」ではない例としては、札幌市や福岡市などを上げることができる。札幌市や福岡市は「地方の都会」である。
 
 「田舎」ではあるけれど「地方」ではない例としては、東京都檜原村などが上げられる。東京都、神奈川県、埼玉県、千葉県あたりにはこうした街は多くある。東京駅や新宿駅まで電車で一時間もかからないので「地方」とは言えないが、地元は森や畑ばかりで見渡すかぎりコンビニも無い、というようなところは「東京圏の田舎」と言っていい。
 
 「地方」という言葉と「田舎」という言葉はしっかりと使い分けないと、東京近郊の田舎民や、札幌市民や福岡市民のような地方の都会民はモヤモヤするだろうと思う。
 
 札幌や福岡は間違いなく「都会」であって「田舎」ではない。だけど東京から離れているので「地方」ではある。
 
 「地方あるある」とか「田舎あるある」の話は読んでいて面白いけれども、たまに「それは地方ではなく田舎の話では?(あるいはその逆)」と思うことも屢々あるので、もう少し使い分けが広まってほしいと思う。
 
 
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追悼〜賢君・源実朝【没後800年】

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目次

 

覆されつつある従来のイメージ

 
 800年前の今日、雪の舞う鶴岡八幡宮で一人の若者が兇刃に斃れた。26歳の若さで喪うにはあまりに惜しい賢君だった。
 
 昔から、源実朝には特別な思いがある。日本史上の歴代の将軍、天下人たちとくらべても“違う人”だという感じがする。
 
 ほとんどの日本人にとって、源実朝のイメージは、おそらく、「源氏の最後の将軍」、「鶴岡八幡宮で暗殺された人」くらいのイメージだろう。教科書でも覚えるべきことはそれくらいだ。もう少し詳しい人は「金槐和歌集の作者で文学の才能があった」と言うだろう。
 
 ともかく「文の道は優れていたが、武の道や政治方面では特にパッとしなかった人」というイメージなのではないか。
 
 文学の才能はあるけど武士としては“ひ弱”。だが近年、何人かの研究者たちの研究によって、そうした「文弱の将軍」という従来のイメージが覆されつつある。
 
 

実朝は戦争をしなかった

 
 実朝は争い事を好まなかった。不思議な人である。あの冷血な源頼朝と強欲な北条政子の子供とは思えない、いったい誰に似たのだろうか。
 
 戦争の無い時代だった、というわけでもない。実朝が生きていた時代は、関東の御家人たちの間で、殺すか殺されるかという抗争が繰り広げられていた時代だった。
 
 源氏の将軍が強すぎて誰も戦えなかったのでは?と思う人がいるかもしれないが、それも違う。カリスマ的存在だった父・頼朝は実朝が幼いころに亡くなっているし、実朝はそれほど絶大な強さを誇っていたわけではないし、実際に各方面から命を狙われていた。
 
 若すぎたのでは?というのはある。ただ10代の頃はともかく20歳にもなれば戦いくらいはできるだろう。だが、実朝は20代も戦争をしなかった。20歳の時に「和田合戦」という戦いがあったが、これは襲われた戦いに応戦しただけであって、実朝のほうから戦いに行ったわけではない。
 
 あれだけの抗争の時代に生きていながら、一度も戦争をしていないというのは不思議な人である。
 
 

恨みつらみを残さない裁定

 
 実朝自身は戦争をしなかったが、周囲には権力欲の強い人間がたくさんいて争い事も起きており、将軍である実朝のところにはときどき「罪人」が引っ捕らえられて来るのであった。
 
 実朝は将軍としてそうした「罪人」たちを裁かなければいけないのだが、大抵は「許す」か「刑を軽くする」方向に持って行っている。そして必ず言い分を聞く。だから謀反を企てた「罪人」についても、その場で殺さず生け捕りにして自分のところに連れて来い、と言う。
 
 「殺さず生け捕り」を命じていたのは、自分の周囲の人が信用できないから、という理由もあっただろう。本当に謀反の企てがあった「罪人」だったかどうかは怪しいのだ。
 
 実朝時代は、北条時政、義時に操られた傀儡政権などと言われることもあるが、実朝は、そうなりがちであることをおそらく分かっていたから、取り巻きたちに任せず自分で裁定するようにしていたのだ。
 
 とりわけ私が注目するのは、実朝は必ずどちらか一方の肩を持つことがないよう、「将軍様はあっち側の贔屓をしている」と思われてどちらの側にも恨みつらみが残らないよう、なるべく喧嘩両成敗的な裁きを心がけている、ということだ。
 
 そしてその喧嘩両成敗も「両者死刑」という方向ではなく、いろいろと理屈を付けて両者無罪か、両者とも刑を軽くする方向に持って行くのである。当時の感覚なら「斬首」でもおかしくない場合でも「配流」などにして命だけは助けてやっている。
 
 

勘違い落命

 
 建保7年1月27日、実朝は雪の降りしきる鶴岡八幡宮にて、甥っ子の公暁に斬られた。
 
 公暁は「親の敵はかく討つぞ」と叫んで斬りかかったと伝えられている。
 
 殺し方が「かく」のとおりで正しかったかどうかは分からないが、少なくとも殺す相手は間違えていた。公暁の本当の「敵」は北条義時など別の人間であって、実朝ではなかった。あきらかな人違い、勘違い殺人であった。
 
 特定の勢力から恨みを買わないように賢政をすすめていた実朝が、何もわかっていない若造に斬られて命を落としてしまったのは本当にもったいないことであった。なにか実朝に恨みを持った敵対する勢力の人間に討たれるならまだ分かるが、誰が敵なのかも分かっていない若者の思い込み勘違いにやられたのではたまったものではない。
 
 特定の勢力から恨みを買わないようになるべく公平な裁定を注意深く心がけてきた実朝が、最期には「勘違い恨み」で殺されるというのはなんとも皮肉なことである。
 
 

実朝が目指していたもの

 
 実朝は歳の近い後鳥羽院との“ダブルトップ”による平和な世の中をつくることを目指していた。
 
 実朝の賢さは22歳の若さでつくったとは思えない和歌のレベルの高さにも表れているが、政治手法にも表れている。実朝がいくつかの権限を将軍である自分の元に集中させていったのは、周囲に権力欲の強い人間が多くて危険だと判断したからだろう。
 
 関西は後鳥羽院が、関東は自分が治める。
 
 後鳥羽院も権力欲の強い人だが、将軍である自分には強硬な態度は取ってこないだろう。もし強硬な態度で来たら、共通の趣味である歌の話でもすれば機嫌をとることができるだろう。
 
 となると、あとは将軍である自分が天皇に刃向かわないかぎり大きな戦争は起こらない。
 
 武断政治から文治政治へ。後鳥羽院と自分だったらできる。
 
 そういう思いがあったに違いない。
 
 

実朝がもっと長生きしていたら

 
 実朝がもっと長生きしていたら、きっと名君と謳われていただろう。26歳という短い人生でもその片鱗を十分に見せている。
 
 日本史上の歴代「将軍」の中で一番の「名君」は誰であろうか。
 
 庶民にとっての名君という意味なら徳川家光徳川吉宗とか、あるいは近年「犬公方」から一転して評価が高まってきている徳川綱吉とか。「巧さ」という点から言えば豊臣秀吉徳川家康とか、実朝の父親である源頼朝も評価は高い。
 
 実績重視の観点から言うなら源頼朝足利尊氏徳川家康など「初代」はみな評価が高くなる。実際にそれだけの実績を作り出したのだから。
 
 しかし単なる政治的手腕だけではなく、人間味なども加味して考えたとき、最も「賢君」であったのは実朝ではないか。
 
 『源実朝』の著者、坂井孝一氏は「憂愁の貴公子」と評した。まさに、その表現がぴったりだと思う。暴力的で権力欲の強い人物たちに囲まれながら、ひとり平和の政治を模索していた。孤高の将軍であった。
 
 私は、実朝こそが日本史上の歴代「将軍」の中で、いちばんの「名将軍」だったと思っている。
 
 現代でも、生徒を怒鳴りつけ、恐怖指導によって全国優勝へと導く部活の監督はいる。そういう監督が「名監督」だろうか。たくさんの人間を殺戮して国を統一した人物が「偉大」なのか。手腕、手法を問わずに、ただ実績を残した人だけが「名君」だろうか。私はそうは思わない。
 
 実朝は、その26年の短い生涯の中で“賢さ”の片鱗が随所に見られる。“恐怖”に寄らなくても、じゅうぶんに統治していける賢さを見せた。
 
 「たらればを言ってもしょうがない」と人は言うが、実朝があの日、殺されていなければ、承久の乱はなかった。たくさんの血が流れずにすんだ。こういう賢い人が、つまらない人間につまらない理由によって殺されたのは、返す返すも残念でならない。
 
 大江広元に昇進の早さを諌められたとき、「源氏の代は自分で終わるのだから」と言った実朝は、まるで自分の運命を予見していたかのようだ。
 
 子どもがいなかった。つくらなかったのか、できなかったのか。
 
いとほしや 見るに涙もとどまらず 親もなき子の母を尋ぬる (金塊和歌集)
 
という歌を遺すほど子どもへの眼差しが深かった人に、子どもがいなかった。この事実が、実朝の美しさを増さしめている。
 
 源実朝。「憂愁の貴公子」であると同時に、源氏の「有終の美」を飾るに相応しい人だった。
 
世中に かしこきこともわりなきも 思ひしとけば夢にぞ有りける (金塊和歌集)
 
 
【参考文献】 
源実朝 「東国の王権」を夢見た将軍 (講談社選書メチエ)

源実朝 「東国の王権」を夢見た将軍 (講談社選書メチエ)

 

 

悲境に生きる 源実朝 (日本の作家21)

悲境に生きる 源実朝 (日本の作家21)

 

  

金槐和歌集 (岩波文庫)

金槐和歌集 (岩波文庫)

 
 
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リバーシブルスマホはなぜ無い

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 前々からずっと思っている。
 
 「スマホの背面って無駄だなぁ」と。しげしげとスマホの背面を見つめながらいつも思う。
 
 スマホの背面は何にも使われていない。
 
 近頃、中国や韓国で「折りたたみスマホ」が出るかも、という話題を耳にする。折りたたみスマホって、日本でいうところの「ガラケー」ではないか。そんなものに今さら戻りたい?
 
 私は折りたたみ式にする必要はまったく感じなくて、ただ、今のスマホの背面にディスプレイを付ければいいのに、と思う。
 
 リバーシブルなタイプのスマホって、どうしてどこのメーカーも作らないんだろう?
 
 「そんなのを作ったら背面に指が触れているときに誤作動を誘発する」と言う人がいるかもしれないが、誤作動なんかしない。指の接地のしかたや、本体の傾きセンサーによって背面になっている側を触っても動作しないようにすることは、今ある技術でも十分に可能である。
 
 「背面に画面がある必要を感じない」という人も多いかもしれないが、背面に画面があったらいろいろな楽しみ方が広がる。
 
 カメラにしてもそうである。
 
 今のスマホは背面に二つも三つもカメラを並べて「広角」を謳ったりしているが、そんなことより早く前後のカメラが同時に使えるようにしてほしい。
 
 背面のカメラと前面のカメラで同時にシャッターが切れるように、また、背面のカメラと前面のカメラで両方同時に動画が撮れるようにしてほしい。せっかく背面と前面にカメラが付いているのだから。
 
 二台のスマホを背中合わせに両面テープでくっつければリバーシブルスマホっぽくはなるが(私は実際そのようにしてみたことがあるが)、やはりそれは「二台のスマホ」であって一台のスマホではない。
 
 折りたたみスマホなんて要らないから、リバーシブルスマホをどこかのメーカーが作ってくれないものか。
 
 今のスマホの背面、無駄だと思いませんか?
 

横井小楠にみる儒家としての責任感

国是三論 (講談社学術文庫)

 今年2019年は横井小楠歿後150年ということで、主著『国是三論』を読んでみたが、小楠の儒家としての責任感が感じられる言葉を見つけて感心した。
 
士たる者の弟次男のごときは、年比となりても妻を迎へざるは天下一同武家の制なれば、誰人異とせざれ共、壮より老に至る迄夫婦父子の大倫を廃して知る事を得ざる故、是が為に不行跡に至る者もまた多し。最可憐の至なり。当今富国強兵を事とすべき時勢なれば、此の輩をして各其の用に充べきなれば、先づ其の才力の長短によりて是に多少の俸禄を与へ、差当る衣食の急を免かれしめ、其の用る処に随て是に居所を与ふ(「(天)富国論 」)
 以下、現代語訳。
「当主の弟や次男などが年頃になっても妻をむかえないのは、武家社会一般の習慣であって誰も不思議に思わないけれど、彼らは壮年から老年にいたるまで、夫婦父子の人間関係を経験することができないため、非行にはしるものが多いのも気の毒のかぎりである。いまは富国強兵をめざすべき時勢であるから、この連中にも仕事をあたえなければならない。そこで各人の能力に応じて多少の俸禄をあたえ、さしあたり生活を安定させ、そのつかせる仕事に応じて、住む家をあたえてやる。」
 
 結婚もできず、子供もできず、仕事も与えられないのは可哀想だ、と言っている。
 
 江戸時代、武家の次男以下の男性は、生涯結婚できない人は多かった。「家」を基本としていた当時は、長男が家督相続で家を継ぐため、次男三男坊は、運良く養子に迎え入れられたり婿入りできたりしなかったかぎり、一生結婚もできず、もちろん家族も持てず、仕事も与えられなかった。
 
 儒教は、五倫を基本的な「人の道」として説く。倫理は「あいだがらのことわり」、すなわち関係の理屈である。人間は間柄的存在である、と言ったのは和辻哲郎だが、儒教では人間を関係性の中に位置づけている。
 
 ある男性は「何の何某」という名前の一人の人間だが、妻の友達からは「◯◯さんのご主人」と言われ、子どもの幼稚園に行けば「◯◯くんのパパ」であり、父親の友人に会えば「◯◯さんの息子さんですか」と言われる。
 
 そうした様々な関係の中に生きているのが“人間”である。
 
 夫としては夫らしい振る舞いが求められ、父親としては父親らしい振る舞いが求められ、息子としては息子らしい振る舞いが求められる。友人としては友人らしい、彼氏としては彼氏らしい振る舞いが求められる。
 
 夫婦は仲睦まじくしなさい、親には孝行するのが当然だ、我が子は慈しみなさい、友は信じなさい、彼女は大切にしなさい、それが人としての基本の道だ、と説くのが儒教の考え方である。
 
 しかし、「家を出ているので親とは同居していません。結婚していないので妻はいません。もちろん、子どももいません。友人も彼女もいません」という男性はどうしたらいいのか。
 
 我が子を慈しみたいのはやまやまだが、その我が子がいないのだ。妻や彼女はいれば大切にするつもりだが、その妻も彼女もいないのだ。そんな環境で、どうやって「人としての根本の道」を学ぶのだろう。
 
 小楠は、人はそうしたことを“経験することができないため”「不行跡に至る」のだと言う。逆に言えば、経験できるからこそ、倫理を、人の道を知るのである。
 
 私は儒教徒ではない。小楠は儒教徒である。儒教の教えでは五倫をとても大切なこととしている。そうであるならば、すべての人が正しい五倫の道に進めるようにしてやってこそ、偉大な先儒たちの教えをよく受け継いでいると言える。結婚できない人がたくさんいる状況をほったらかしておいて夫婦の道を説くなどというのは愚かの極みであり、そんなのは真の儒教徒ではない。
 
 現代では儒教の教えに疑問を抱く人も少なくないかもしれないが、教えの内容は置いておいたとしても、小楠の思想には儒家としての責任感が感じられる。
 
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稀勢の里の力士人生を縮めた国民

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 大相撲の横綱稀勢の里が引退を発表。
 稀勢の里に対して「この人はメンタルが弱い」と言う人がたくさんいたが、私はそうは思わない。
 
 メンタルが弱かったのではなく、単に相撲が弱い、実力がなかったということだと思っている。
 
 ただし実力がないというのは横綱としては、ということであって、大関としての実力は十分にあったと思っている。横綱の器ではなかった。
 
 大関のままでいればもっと相撲を長く取り続けていられただろう。横綱になると「基本的に全部勝つ」ことを求められるが、大関ならギリギリ勝ち越しラインの成績でもそこまで騒がれない。9勝6敗、8勝7敗のような決して褒められたものではない成績を取り続けながら大関に長く在位した力士は過去にたくさんいた。
 
 怪我の影響を言う人もいる。怪我のことはさすがに本人に聞いてみないと分からないが、場所前の稽古では調子が良さそうだったり、親方が怪我の影響はもうほとんどない、といったような発言があってから場所が始まってみると負けてしまう、というようなことを繰り返していたので、稀勢の里が勝てなかったのが怪我の影響が大きかったからなのかどうかは疑問である。
 
 だから「稽古の時に勝てて本番で勝てないのはメンタルが弱いのだ」と言う人が出てくるのだが、私はメンタルでもないと思う。
 
 多くの国民が「日本人横綱」を望んだ。
 
 「白鵬鶴竜もいいんだけど、やっぱり日本人に横綱になってもらいたいよねぇ」と言う人がたくさんいた。
 
 朝青龍白鵬日馬富士鶴竜、といった横綱が続き、国全体に「日本人横綱」誕生の期待が高まっていた時に、いちばん横綱に近い位置にいたのが稀勢の里だった。そして稀勢の里はその国民の期待を一身に背負うことになった。
 
 2017年1月、横綱審議委員会は国民の期待に押される形で稀勢の里横綱に推挙し、稀勢の里横綱になることが決まった。
 
 横審は本来なら、国民の総意とは関係なく、力士が心技体、成績、実力、品格を含めた総合的な観点から横綱として相応しい人かどうかを審査するのが役目なのだが、国民の圧倒的な期待に押し切られる形で、全会一致で横綱に推挙してしまった。
 
 その時のことは、稀勢の里横綱に決まった2017年1月にこのブログでも書いている。
 横綱の実力がないのに横綱にされてしまった。そしてすべての取組に勝つことを求められた。負けたら悲鳴が上がる。大関のままでいたならそこまでの成績も求められなかった。
 
 「横審とマスコミが悪い」と言う人がいるが、私は横審、マスコミだけではなく、「日本人横綱」を期待した国民も、結果的には稀勢の里を追い詰めてしまったと思う。
 
 「日本人横綱」を期待してはいけない、ということはないが、その過剰な期待が結果的に一人の力士人生を縮めてしまったことは心に留めておくべきことだと思う。