漸近龍吟録

反便利、反インターネット的

副政府CIOが保険証有料化に言及

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 6月12日の日経xTECHの記事で副政府CIOがインタビューに答える形で保険証の有料化に言及している。
 
 上記の記事は有料記事なので、要点を書くと、
 
 国では、今後のマイナンバーカードの普及策として、
 
1. 自治体ポイントにプレミアムポイントを付与する
2. 保険証として使う
 
の2点を考えているとのこと。
 
 で、保険証としてのマイナンバーカードを普及させるためのアイデアとして、 
保険証をマイナンバーカードとは別に持ちたいという要望には、有料で発行する議論ができるようになるでしょう。保険証が有料化されれば、マイナンバーカードの普及は一気に進みます。
と言っている。
 
 このような邪悪な方向に進んではいけない。
 
 制度や道具は「あったら便利」なものにすべきで、「なかったら不便」な方向に持って行ってはいけない。
 
 マイナンバー及びマイナンバーカードの問題は、国だけではなく私たち国民にも問題があると思っている。保険証発行の有料化などという声が出たら国民はもっと怒らなければいけない。
 
 「まだ決まったことじゃありません」と言うのだろうが、決まってからでは遅すぎるのだ。そういう声が出た時点で怒らなければいけない。
 
 国民はマイナンバーカードについては「なんで絶対に知られてはいけないはずの番号が券面に印字されてるんだ」などといった文字通り“表面的な”ことしか批判せず、核心部分については何も言わない。そして、ふるさと納税の返礼品やら、◯◯ペイのお得ポイントやらに夢中になっている。だから、副政府CIOから、
人気のふるさと納税と結び付けるのも手でしょう。民間企業がQRコード決済で展開したキャンペーンでも分かるように、お得なものには人はものすごく反応するので、期待しています。 
などと言って馬鹿にされるのである。
 
 酷いことになる前に、きちんと声を上げていかなければならない。
 
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萩原慎一郎の長すぎた“滑走路”

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 歌人、詩人の萩原慎一郎が32歳の若さで亡くなってから今日で二年。
 
 ずっと萩原慎一郎の人生を考えてきた。
 
 私は萩原の人生をほとんど知らない。会ったこともないし、関係者でもない。昨年2018年に、テレビで少し紹介されていて、その時初めて知った。ネットで調べても大した情報は出てこない。萩原の人生は萩原本人しか知らない。だからここに書くことは私の勝手な想像である。
 
 ウィキペディアでもテレビでも、「中学高校時代のいじめを起因とする精神の不調から自死した」と紹介されている。
 
 私立武蔵中学高校という都内でも屈指の進学校を卒業し、いじめの後遺症に苦しみながら通信制早稲田大学に通い卒業した。大学卒業後はアルバイトや契約社員など非正規雇用で働いていた。
 
 文学活動の方は高校生の頃から始め、大学在学中から賞を取ったり本を出版したりするなど活躍していたようだ。
 
 萩原の代表的歌集『滑走路』にこんな歌がある。
 
非正規の友よ、負けるな ぼくはただ書類の整理ばかりしている
 
 現代、「非正規」が大きな社会問題になっていること、萩原自身が歌にしていることも相まって「非正規歌人」と呼ばれている。
 
 「非正規」。正規ではないという意味だ。萩原の自死の理由は本当に中高時代のいじめだけだったのだろうか。
 
シュレッダーのごみ捨てにゆく シュレッダーのごみは誰かが捨てねばならず
 
 私の勝手な想像だが、武蔵高早大卒の秀才がシュレッダー係をしている。隣の会議室では正社員たちが会議をしている。萩原は正社員の皆様の大量の書類をシュレッダーに入れながら、時々、書類にふと目を落とし、いくつもの誤字を見つける。この程度の簡単な漢字も書けない人たちが立派な会議室の席に座って、ああでもないこうでもないと議論している。彼らよりずっと優秀な萩原は彼らの「ゴミ」を黙々とシュレッダーに突っ込み続ける。
 
 大学教員が試験監督の仕事がものすごく苦痛だ、という話を聞いたことがある。試験監督なんて朝から夕方まで何もしないで座っているだけで給料がもらえるんだから楽な仕事じゃないか、と思う人もいるかもしれない。だが大学教員は毎日論文を読み、世界の研究から一秒たりとも遅れないようにと思い、日夜必死で研究をしている。そんな頭脳の仕事をしている人たちにとって「今日は読書も調べ物もせずに何も考えないで座っていてください」と言われるのは極めて苦痛なことなのだ。
 
 大学教員にとって頭をまったく使わない仕事が苦痛であるのと同様、萩原にとってシュレッダー係だの書類綴じだの、頭を使わない仕事が苦痛だったであろうことが想像できる。
 
 萩原がどんな職歴を送ってきたのかはわかっていない。身近にいた萩原の歌の先生でさえわからないと言っている。ひょっとしたら家族ですら把握していないのではないか。萩原はずっと一人で孤独な転職活動と仕事を続けてきた。
 
 「どんな仕事だって大変だよ。楽な仕事なんてないよ」と言う人がいる。だが仕事には適性というものがある。萩原のような頭のいいタイプの人間は、頭を使って高い成果を出すことを求められるような仕事は寧ろ得意なのだ。しかし職歴と経験がない萩原は、おそらくそれとは逆の頭脳労働ではない仕事に就かされることが多かった。
 
 中高時代のいじめの影響で大学卒業が遅れ、新卒採用の波に乗り遅れ、その後もずっと苦難の人生を歩むことになった。萩原のような秀才でさえ、一度躓くと底辺コース確定になってしまう。そんな日本社会に生まれ育ってしまった。そしておそらく職場でもいじめを受け、仕事のできない役立たずだと言われ、それらをずっと一人で受け止めて来た。
 
 中高時代のいじめだけが原因だったとは思えない。その後の人生もずっと苦しみの連続だったのだ。その苦しみを萩原は全部一人で受け止めてきたのだ。
 
 萩原には、もしかしたら就職をサポートしてくれるサポーターが身近にいたかもしれない。こういう周囲のサポーターが心に傷を持ってる人に対してやりがちなのは、「だいじょうぶですよ。今度の会社はせかせかした雰囲気じゃないし、電話も取らなくていいし、皆さんのんびりした雰囲気の職場で、萩原さんも書類のファイリングとかシュレッダーとか自分のペースでゆっくりやってくれればいいって人事部長さんもおっしゃってくれてましたよ」と言ってしまうことだ。
 
 つまり萩原のような大人しくて心優しいタイプの人はきっと効率や成果を厳しく求められる会社は向いてないだろうから、求められることの少ないのんびりした会社を紹介してあげようと思うのだ。
 
 でもそういう配慮が果たして萩原のためになっているかどうか。萩原はおそらくもっと仕事ができる自信があった。いじめなどの怖い思い、嫌な思いさえなければ、仕事に専念できる環境さえあればじゅうぶんに仕事はできたはずだ。だが与えられる仕事は書類の整理やシュレッダーなどのまったく頭を使わない仕事ばかり。
 
 萩原のことをネットで知った人が「この人は歌の方面でがんばっていけばよかったのに」とコメントしているのを見た。会社の正規雇用とかそんなことに拘らないで、短歌の世界で活躍し始めていたのだから、そっちの方面で伸びていけばいいじゃないか、というわけだ。
 
 だが、歌集を出したとはいえ、その歌集の売り上げで食べていけるとは誰も思わないだろう。萩原も文学で食べていくなんてことは不可能だと思っていたに違いない。だからこそ、普通の会社での仕事に拘った。萩原にとっては歌と会社の仕事は飛行機の両翼のようなもので、どちらがなくても駄目だった。
 
鳩よ、公園のベンチに座りたるこの俺に何かくれというのか
 
 歌の世界での活躍とは裏腹に“現実”世界での萩原はずっと惨めな思いを抱えていた。
 
 たしかに数々の名だたる賞を受賞し、歌集まで出版していた萩原は、歌の世界では十分に羽ばたいていたように見える。一方で、働いてお金を稼いで生きていくという現実の世界では、萩原はずっと飛び立つことができず、滑走路を走り続けていたように見える。
 
きみのため用意されたる滑走路きみは翼を手にすればいい
 
 これは自分と同じような境遇に苦しんでいる人々への言葉でもあるが、萩原が自分自身に言っている言葉でもあるだろう。「手にすればいい」、たったそれだけのことだったはず。
 
 長時間、飛行を続けるだけの能力も体力もある。他の人より速く高く飛ぶ能力さえある。あとは翼だけだった。きっかけさえあれば飛べる準備が整っていたのに、萩原という飛行機は茨の道を走り続けることを余儀なくされた。飛行機は陸を走るように作られているのではないのに。
 
 中高時代に萩原のことをいじめていた人間はその後立派な正社員になっていることだろう。彼らが「正」しくて、萩原は「非正規」、「正しからざる」。なぜなのか。こんな才能がいじめだの非正規だのといったつまらない「社会」に潰される。「しょうがない」と思う?私は思わない。しょうがないで終わらせたくない。
 
「抑圧されたままでいるなよ」「まだあきらめきれぬ夢がある」「ヘッドホンしているだけの人生で終わりたくない」「翼を見つけ出さねば」
 
 こうした言葉からも、萩原にはもっとずっとずっと高い志があったことが窺える。その萩原の思いに比しては、あまりにも長すぎる滑走路だった。
 
 
 
 萩原の思いを少しでも受け取りたい、萩原に少しでも近づきたいと思って書いてみたものの、まったく近づけていない。萩原に託けて、私が自分が主張したいことを書いているだけの文章になった。
 
 所詮、燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや。私に萩原慎一郎の志がわかろうはずもない。
 
 
(※文中、引用は『滑走路』角川書店より)
 
歌集 滑走路

歌集 滑走路

 

 

はてなスターの衝撃

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 初めて「はてなスター」を知った時は衝撃だった。
 
 はてなスターというものがある。フェイスブックの「いいね!」、ツイッターの「ふぁぼスター(現在はハートマーク)」、YouTubeの「Like(高評価)」ボタンなどと同じで、賛意を示すボタンである。
 
 しかし、はてなスターは、それらの賛意ボタンとは本質的に大きく異なるところがある。
 
 はてなブックマークというサービスがあって、昔からよく見ていた。が、自分では使っていなかった。はてなに登録していなかった。だからブックマークコメントに付いているはてなスターが、賛意や支持を示すものであることは分かっていたものの、自分がスターを付けたり付けられたりすることはなかった。
 
 数年経って、はてなにユーザー登録し、自分も他の人のブックマークコメントにスターを付けることができるようになった。また、自分もコメントをすることができるようになった。そしてコメントをしていたある日、初めて自分のコメントにスターが付いた。そうか、自分のコメントにスターが付くこともあるのか。初めてスターをもらってうれしかった。そして急にスターにどんな意味や価値があるのか、興味を持って調べ始めた。そしたら、衝撃の事実が待っていた。
 

衝撃その1、金銭的価値が無い 

 
 このスターを集めたらどんな良いことがあるんだろう、と急に興味を持って調べ始めた。 スター1個につき1円と交換できる、とか。Amazon楽天ポイントに交換できる、とか、そういうのがあるのかも。 
 
 なかった。
 
 そのような金銭的価値はまったくなかった。
 
 しかし、はてなには「はてなポイント」という自社サービス内で流通する独自のポイント制度があったはず。ところが、これにすら連携していなかった。はてなポイントを使ってカラースターを購入することはできるが、スターを使ってはてなポイントを購入することはできない。
 
 自社ポイントにも交換できない「はてなスター」とはいったい何なのか。
 

衝撃その2、連打ができる

 
 しかし、金銭と交換できないボタンというのは、他にもある。
 
 フェイスブックの「いいね!」、ツイッターの「ふぁぼスター」、YouTubeの「Like」ボタン等々。これらのボタンは金銭的価値は無いものの、「いいね!」や「高評価」をたくさん集めることでブランド価値を高めることができる。だから、フェイスブックでも社員や関係者を総動員して「いいね!」ボタンを押させて、その商品ページの価値を高めようとしたり、YouTubeでもやはり友人やファンに高評価を押してもらって動画価値を高めようとする動きがある。
 
 ところが、はてなスターは、これらのボタンと決定的に違っているところがある。それは、連打ができてしまう、というところだ。これは些細な違いのようで大きな違いだ。「連打ができる」と知ったときの衝撃は大きかった。そんなのは聞いたことがない。
 
 これらの似た意味を持つボタンたちとはてなスターを比較してみよう。
 
  • YouTube「高評価」:一人一回まで押せる。「低評価ボタン」もある。
 
 こうして見ると、他サービスの賛意ボタンが必ず「一人一回まで」という決まりを設けているのに、はてなスターにだけその制限が無い。
 
 フェイスブックのいいね数や、YouTubeの高評価数がある程度参考値として機能しているのは、一人の人が(普通は)連続で押せない、ということが前提にある。もし連打できてしまったら、本人や関係者による連打合戦になり、そのうち、いいね数や高評価数はまったく当てにならない、ということになるだろう。普通はそのように設計するものだ。
 

衝撃その3:誰がスターを押したかわかる

 
 はてなスターは誰がスターを押したかがわかる。スターを付けてもらった人だけではなく、関係ない第三者でもわかる。だから一人の人が連打していたら、それも全部わかってしまう。
 

はてなスターの価値

 
 つまり、はてなスターは、1.金銭的価値と結び付いてない(何のポイントにも還元できない)、2.連打できる、3.誰が押したかわかる、という三つの大きな特徴により、まったく「無価値」なものになっている。
 
 しかし、逆にこれこそが、はてなスターの「価値」と言えよう。
 
 よく、こんな不思議な設計にしたと思う。もし、はてなスターが「1個1円」などと換金できる仕組みだったら、はてなの世界はもっと俗悪なものになっていただろう。金稼ぎが目的の悪徳低質な記事やコメントで溢れかえり、バトルももっと酷いものになっていただろう。
 
 また、「連打ができる」という普通はなかなか思いつかない発想も、上手く機能していると思う。
 
 はてなブックマークで、自分のお気に入りのコメントを上位に押し上げり目立たせるためにスターを連打することは可能である。だが、誰がいくつスターを付けたかわかってしまうため、自作自演や隠れた“犯行”のようなことはできない。連打で意図的に上位コメントを操作しようとしてもすぐにバレてしまう。結果的に、はてなブックマークコメント欄では、ほとんどの人がスターは1回か多くても3回くらいまでしか押してない。連打して反対意見の「相手」を上回ろうとすることは可能だが、そうすると相手も負けじと連打してくるだろうから、それは消耗戦になってしまってお互い疲れるだけになる。だから誰もやらない。
 
 つまり、連打という悪さをしようと思えばできるけど、誰でもできてしまうが故に、そしてスターを集めたところで何も得することがないが故にやらない、という仕組みが見事に成り立っている。
 
 「いいね!をいくら押してもお金には換えられませんよ」というところまではフェイスブックツイッターと同じだが、「連打できる」という機能はフェイスブックツイッターも成し得なかった、はてなの発明なのではないか、と言ったら大袈裟だろうか。
 
 連打できるという性質が「いいね数(スターの数)」さえ無価値にした。はてなスターには「もらったらうれしい」という意味しかない。その圧倒的無価値こそが、他の賛意ボタンにはない、はてなスターの異色の点であり長所と言えるだろう。
 
 やや難しい言い方をするなら、はてなスターだけが資本主義的価値観の世界から少し抜け出しているとも言えなくもない。
 
 はてなブックマークはてなブログのある程度の質を支えているのは、もしかしたらこの圧倒的無価値の性格をもったはてなスターかもしれない。
 

エスカレーター片側空け問題の愚

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 「エスカレーター片側空け問題」という定期的に話題になる問題がある。
 
 エスカレーターで片側に立ってもう片方を歩く人のために空けるべきか、それとも両側に立つべきか。マナー的にはどうなのか、ルールとしてはどうなっているのか、安全面ではどうなのか、効率面ではどうなのか、そういったことが侃々諤々、議論されている。
 
 「急ぐ人のために片側を空けるべきだ」と言う人もいるし、「そもそも鉄道会社が『片側を空けずにお乗り下さい』『エスカレーターは歩かないで下さい』と言っているのだから両側に立つのがルールだ」と言う人もいる。
 
 私がこの種の議論を見ていて愚かだと感じるのは、この手の話をしている人が皆、自分がふだんよく利用するエスカレーターを思い浮かべながら話をしている、というところである。
 
 ひとくちに「エスカレーター」と言っても千差万別でとても一概に語れるものではない。
 
 もう十年以上昔のことだが、私は、東京では右空け左立ち、関西では左空け右立ちであることを知って興味深く思い、「これ、全国で調べてみて都道府県ごとに色分けしてみたら面白いんじゃないか」と思ったことがある。それで全国各地に所用で行く際に、その街々でエスカレーターのどちらに人々が立つかを観察してみたことがある。
 
 その調査の結果は「どちらでもない」だった。そもそもほとんどの地方にはエスカレーターの片側を空けるという文化がない。片側を空けるという文化は東京や大阪など人口の多い都市にしかない文化である。全国の大半の都市ではエスカレーターでわざわざ片側を空けるほど人が乗っていない。左側に立っている人がいてもそれは左立ちのルールに則って立っているわけではない。自分以外誰も乗っていないのだから、右だろうが左だろうがどこに立っても他人に迷惑にはならないし、たまたま左に立っているだけである。そしてもっと田舎に行けば「そもそもエスカレーターが無い」。
 
 エスカレーターを両側に立つべきか片側に立って片方を空けるべきか、というのは一概に論じられるべき性質の話ではない。都会の朝の駅のエスカレーターと田舎の昼間のスーパーのエスカレーターでは、話の条件がまったく違ってくる。
 
 都会のエスカレーターでも、信じられないほど短いエスカレーターもあれば想像以上に長いエスカレーターもある。スピードが速いエスカレーターもあればびっくりするほど遅いエスカレーターもある。一人幅しかないエスカレーターもある。「世の中には一人幅のエスカレーターと二人幅のエスカレーターがある」と思っている人は多いかもしれないが、一・五人幅のエスカレーターというのもある。
 
 「急いでいる人は階段を使え」と言うが、近くに階段がないエスカレーターもある。
 
 以前、あるスーパーに行ったとき、エスカレーターを歩いて上ろうとしたら上れなかったことがあった。足取りが妙に重いのである。おそらく駅のエスカレーターよりも段差が大きく作られているのだろう。買い物客に老人や子どもが多いので安全のためかもしれないし、単に店の容積上の問題で急勾配にしているのかもしれない。とにかく世の中には物理的に歩けない(歩きづらい)ようにしてあるエスカレーターも存在する。
 
 この手の問題で、数理モデルを示して「片側を空けるよりも両側に乗った方が効率がいい」と証明している人もいる。しかしそんなのは、その場その場の状況を無視した机上の空論でしかない。
 
 エスカレーター片側空け問題を考える時は、その場その場の状況というものを考えなければいけない。朝の駅のエスカレーターと映画館内の帰りのエスカレーターでは、状況が全然違う。映画館の帰りのエスカレーターは混雑するが、そもそも映画の帰りに急いでいる人はいない。本当に急いでいる人はエンドロールの前に部屋を抜け出てまだガラガラのエスカレーターを下りて行くだろう。
 
 東京のような都会の駅では多くの人がエスカレーターを歩く。「立ち止まって乗るのがルールだ」と言う人がいるかもしれないが、なぜ歩くのか。それはホームに人が溢れて危険な状態だからである。降車した人は早くエスカレーターを通って広いところへ移動しなければならない。電車は次々にやって来る。自分たちがホームに滞留していたらすぐに次の電車がやって来て、その電車の人たちはホームに降り立つことすらできなくなる。次々に素早く「ハケなければ」いけないのである。
 
 一方で、このような時に人々が左側に乗ろうとして行儀よく行列に並んでしまって右側がガラ空きになっていることがある。これはよくない。その左側の長蛇の列がエスカレーター入り口付近だけでなくホーム上にまで延びてホーム上の混雑を圧迫してしまっている。上りのエスカレーターだとして、私はそのような時は自分が右側を歩いて上って先鞭をつける。するとだいたい後に続く人が出てくる。そこで先頭の私が急に立ち止まってしまったら後続の人に迷惑だろう。なのでエスカレーターの上の辺りまで来たら減速する。そうすることで私の後ろには容易く渋滞が発生し二列乗りが出現する。もちろん一番上まで歩ききってしまってもいいのだが、そもそも人々が左側に固執しているのは「こんな長いエスカレーターを上まで歩きたくない」という思いがあるからなので、こういう時は両側乗りの状態を出現させた方がよい。いつ現れるかわからないたった一人の「急ぐ人」のためにエスカレーターの片側がまったく使われていない状態は、できるだけ早くハケなければいけない状況ではよろしくない状態である。
 
 また、都会のある巨大な駅付近のビルでは複数のエスカレーターが一つの長い動線のようになっているところがある。そこでは朝は片側歩きどころか「両側歩き」という光景が出現する。「その時間帯はほぼ全員がビジネスマンである」、「途中までほぼ全員、行き先が同じである」、「一つ一つのエスカレーターがそんなに長くない」、そのような条件が揃っている時は、誰が言うとなく両側歩きが出現する。
 
 ある駅のエスカレーターは極端に短く、しかもそのすぐ隣に幅広の階段がある。明らかに、急いでいる人は階段を使ったほうが早い。そんなエスカレーターで片側空けを愚直に守るのは愚かしい。
 
 一方で階段が近くにない、とても長いエスカレーターがある。そのエスカレーターが下りの場合、急いでいる人にとっては、それだけの長い時間歩けないのは心理的苦痛であろう。さらに、そのエスカレーターが両側びっしり詰まっていれば「しょうがない」と思うだろうが、ぽつぽつと人がみぎひだりに点在していたら、「右側を歩かせてほしい」と思うだろう。エスカレーターの込み具合によっても心理的な違いが出てくる。
 
 長い下りのエスカレーターがある。下りきった先に電車のホームがあって電車が入って来ているのが見える。このような状況だったら走らないまでも最後の数段を歩いて下りれば電車に間に合いそうだなと誰もが思う。地下鉄の駅によってはエスカレーターを下りきってから電車のホームが見えない駅もある。そのようなエスカレーターでは歩かない。見え方によっても人の心理は違ってくる。
 
 エスカレーターの片側空け問題を語る時、「片側を開けるべきだ」も「両側に乗るべきだ」も、全国のエスカレーターを一律で論じるのは愚かしい。
 
都会の込んでるエスカレーターと田舎の人もまばらなエスカレーター
込んでる時間帯、空いてる時間帯
駅のエスカレーターとデパートのエスカレーター
スピードが速いエスカレーターと遅いエスカレーター
近くに階段があるエスカレーターと無いエスカレーター
段差が大きいエスカレーターと小さいエスカレーター
主な利用者が若いビジネスマンのエスカレーターと高齢者のエスカレーター
片側空けの文化を知らない外国人が多いエスカレーターと少ないエスカレーター
 
 昔から言い古されている月並な言い方だが「時と場合による」。エスカレーターの片側空けはルールでもマナーでもない。人々が自分の都合と他の人の都合を考えて取った“ふるまい”の結果である。
 
 ネット上でこの問題を議論している人たちは一度、「私がイメージしていたのはこういうエスカレーターなんです」と言う反対意見の人にそこのエスカレーターに連れて行ってもらうといい。あなたはきっと「ああ、ここのエスカレーターなら片側空け(あるいは両側乗り)しようと確かに思いますわ」と言うだろう。
 
 私はエスカレーター片側空けの問題を議論するのがくだらないと言うのではない。そうではなくて、世の中には多種多様なエスカレーターがあるのにその違いを無視して、各人が銘々に自分が普段よく利用するエスカレーターを思い浮かべながら議論しているのが愚かしいということが言いたくて、この記事を書いた。
 

ビットコインを通貨として普及させる方法を考える 〜ビットコインピザデーに〜

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 米国のプログラマーLaszlo Hanyeczが世界で初めてビットコインで買い物をしてから今日で9年になる。
 
 この9年でビットコインの価値は飛躍的に高まった。Laszlo Hanyeczはピザ2枚を10,000BTCで買ったが今ならおそらく0.01BTC以下で買える。しかし、それはあくまでもピザ屋がビットコインを受け入れてくれればの話だ。
 
 世界でビットコインで買い物をしたことがある、という人は全然増えていない。あれから9年も経っているのに。この間、ビットコイン知名度は高まったが、依然として多くの人はビットコインを投機の対象として捉えている。
 
 私は以前よりビットコインは通貨として、つまり決済手段として広まってほしいと思っている。だが「ビットコインボラティリティ(価値の変動)が大きいから決済の手段としては向いてない」と言う人も多い。「ビットコインは単なる通貨ではない。他の機能がある」と言う人もいるし、「ビットコインは通貨というよりは金(ゴールド)である」と言う人もいる。それらの意見が正しいとしても、私はビットコインにもっと「通貨」として普及してほしい、と思っている。
 
 そこで、Bitcoin Pizza Dayの今日、どうやったらビットコインが普段使いの「お金」として使ってもらえるか、考えてみた。
 
 先ずは、支払われる側の問題がある。
 
 ビットコインでの支払いを受け付けます、という店が増えなければいけない。今のところは少ないが、これはもう少し増やすことができるのではないか。ビットコインを受け付けている店が少ないのは「ビットコインで支払われるのが嫌だから」というよりも「なんか難しそう」という理由で敬遠している店も多いと思われる。アプリとコンタクトレスまたはQRコードでもいいが、簡単なスキームを作って提供することで、受け付ける店は増えると思う。
 
 次に支払う側の問題がある。
 
 例えば今でも、ビックカメラのようにビットコインでの支払いを受け付けている店はある。そこに円とビットコインを持ってる人が買い物に行ったとして、円とビットコインのどちらで払うか。おそらく円で払うだろう。なぜかと言うと、ビットコインはそのまま手元に持っていた方が後々価値が上がるのではないか、という気持ちを持っている人が多いからだ。つまり、今ビットコインを持ってる人たちは買い物でビットコインを手放したくない、という強い心理が働いている。自分たちのウォレットに大切にしまい込んでしまっていることがビットコインの通貨としての普及を妨げている。
 
 なので、支払う瞬間に円からビットコインに変わるアプリを作ったらどうだろう。
 
 アプリの中で自分の銀行口座と結びついている。デビットカードのように使うことができる。支払いの具体的な方法は、NFCでもQRコードでもオンラインでも他の方法でも、それは何でもいい。1300円の品を買う時、買い物客はアプリに「1300円」と入力して送信ボタンを押す。「このレートで支払います。よろしいですか?」という確認画面が出るので「はい」を押す。
 
 買い物客の銀行口座からは1300円が即座に引き落とされるので、払っている方としては確かに円で払っている感覚である。そしてアプリがその場ですぐにその時点でのレートでのBTCに変換する。例えば2019年5月現在だったら、1300円は約0.0015BTCだ。店は0.0015BTCを受け取る。
 
 このアプリの肝は、支払う側が「あくまでも円で払っている」、「自分が所有しているビットコインを手放していない」という感覚が持てるところだ。
 
 ビットコインATMを決済アプリにするようなものだ。ビットコインATMは円やドルのような法定通貨からBTCに換えてしまうから手放したくなくなる。アプリで支払う瞬間にその時点でのレートで変換する。客は円で支払い、店はBTCで受け取る。
 
 実際、客側から出ていくのは1300円きっかりなので問題ない。問題があるとしたら店側の方で、レートの変動が大きく、瞬間的にかなり損な価格でBTCを受け取ってしまうかもしれない。だが、今の時期はまだ、多くの人が将来的にはビットコインの価値は上がっていくのでは、と思っている時期だから、瞬間的には多少安い価格で支払われてしまったとしても、長い目で見たらビットコインが手元に入ってくるのは得だと考えるのではないか。
 
 日本のCoincheck Paymentなどがやっているように、ビットコイン自身が抱える遅延や手数料の問題は運営会社が調整することで、店と客には負担をかけない。
 
 あとは、そのアプリを作って運営している会社が取る手数料はどうするのか、収益はどうやって上げるのかとか、法律上の問題はどうなるのかとか、考えなければいけないことは他にもいろいろあるが、とりあえず大まかにはこんなアプリが作れれば、ビットコインがもっとカジュアルに街の中に流れるのではないか。
 
 今はまだビットコイン決済手段として広まるか広まらないかの分岐点にある。こういうアプリを作ったらすぐに広まるというわけではないだろうが、きっかけにはなるのではないか。
 
【関連記事】

6つの個人間送金アプリ比較一覧(2019年版)

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(※2019年5月時点のまとめです。公式サイトで最新の情報をご確認ください。)
 
 日本で使われている個人間送金サービスアプリ6つをピックアップして、それぞれの特徴、メリット、デメリットを調べてみました。比較するのは、
 
 
の6つです。
 

個人間送金とは?

 個人間送金とは、個人間(たとえば親から子へ)でお金を送ることです。これら6つのサービスはスマホアプリで使います。iOS、AndroidOSともに対応しています。従来は離れた所に暮らす親から子への送金は銀行振込が一般的でしたが、これらのサービスを使えば振込手数料なしに送金することができます。
 
 わかりやすいように比較表を作ってみました。
 

【チャージ方法比較】

 

◇銀行口座について
 LINE Payが最も多くの銀行に対応しています。Kyashは銀行口座からのチャージには対応していません。
 
◇チャージ方法の多さについて
 ご覧のように、LINE PayとKyashが多様なチャージ方法に対応しています。LINE PayはファミマでQRコードでもチャージができ、Kyashはクレカ、デビカ、ペイジーでのチャージに対応しています。
 
 

【チャージ限度額、送金限度額、手数料の比較】

 

 

◇チャージ限度額について
 Money Tapは銀行口座から銀行口座への直接の送金となり、「チャージ」という行程はありません。
 
◇送金限度額について
 現時点ではJ-coin Payがもっとも多く送金できそうです。
 
◇送金手数料について
 基本的にどこも無料です。
 
◇出金手数料について
 「出金」とはアプリの中のお金を自分の銀行口座に送って現金化(紙幣化)することです。pringとJ-coin Payは無料です(※pringは1日1回まで)。KyashとPayPayは出金できないので、電子マネーとして買い物する形で使います。
 
 

各サービスの特徴、メリット、デメリット

LINE Pay
<特徴> 
  • QRコード決済でもお馴染み。LINEの登録とは別にLINE Payへの登録が必要
<メリット>
  • 大手銀行が対応している
  • 相手も使っている可能性が高い。LINEは普及しているので他人にも薦めやすい
<デメリット>
  • LINEアカウントが必要
  • 出金手数料がかかる
 
Kyash
<特徴>
  • 基本的には前払式支払手段発行業。簡単に使い始めることができる分、現金化はできない
<メリット>
  • 使い始めるまでの手間が少ない
  • チャージ方法が多様
  • デビットカードも登録できる
<デメリット>
  • 銀行口座紐づけができない
  • 出金ができない
 
pring
<特徴>
  • タップス系。銀行口座紐づけの送金で仕組みはシンプル
<メリット>
  • 出金手数料が無料(1日1回まで)
  • 仕組みがシンプルでわかりやすい
  • ネット銀行が多数対応している
<デメリット>
  • ゆうちょ、三菱UFJの大手2行が利用できない
 
Money Tap
<特徴>
  • SBIリップルアジアが手がける。チャージという形を取らず、自分の銀行口座から相手の銀行口座へ直接の送金となる
<メリット>
  • 送金する相手がMoney Tapアプリを使ってなくてもよい
  • お金がスマホに滞留しないので紛失リスクがない
<デメリット>
  • 今のところ対応している銀行がほとんどない
  • 支払いには使えない
 
PayPay
<特徴>
  • ソフトバンクとヤフージャパンが手がける。個人間送金サービスより決済サービスの方が話題
<メリット>
  • ゆうちょ銀行が使える
  • 相手も使っている可能性が高い
<デメリット>
  • Yahooウォレット、Yahoo JAPANカード等との連携が必要で仕組みが複雑
 
<特徴>
<メリット>
  • 地方銀行が多く参加している
  • 出金手数料が無料
<デメリット>
 
 

まとめと感想

 まだ始まって日の浅い個人間送金サービスですが、今のところ、LINE Pay、Kyash、pringの3つが力を入れている印象です。LINE Pay、Kyash、PayPayあたりは、決済サービスの方も力を入れているので、送金されたお金をそのまま使える店が多いです。Yahoo JAPANのIDを持ってる人はPayPayでもいいかと思います。pringはセブン銀行ATMで出金できる点が大きな利点です。
 
 pringとMoney TapとJ-coin Payは仕組みがシンプルでわかりやすいです。特にチャージという行程すらないMoney Tapは個人間送金という目的から言えば一番シンプルなサービスなので、J-coin Payもそうですが、今後、提携銀行が増えて行けば魅力的なサービスだと思います。
 
 今後は、d払い(NTTドコモ)やプラスメッセージ(大手携帯キャリア3社)、Bank Pay(J-Debit)あたりも個人間送金サービスに参入してくるかもしれません。
 

世界コンピュータ将棋選手権を観ての感想

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 ゴールデンウィーク中に開催されていた第29回世界コンピュータ将棋選手権を観た。観たと言っても会場まで行ったわけではなく、ネットで一部を観戦しただけだが。
 
 観ていろいろ思うところがあった。一つは、相入玉の将棋について。もう一つは、AI(人工知能)の考える範囲について。
 
 私は「将棋ソフト」が「将棋AI」なのかどうか解っていない。つまり、「将棋ソフト=将棋AI」と言っていいのかどうか。ネットでざっと見たところ、コンピュータ将棋ソフトのことを「将棋AI」と表現しているものが多々見つかるので、この記事でも「コンピュータ」と言ったり「ソフト」と言ったり「AI」と言ったりする。
 
 

入玉の将棋の捉え方について

 コンピュータ同士の将棋では、やたらと相入玉の将棋が出てくる。「相入玉」とはお互いの王様が相手の陣地に入ってしまってなかなか捕まらない形になる将棋のことである。この相入玉の将棋は人間同士の対局ではそんなには出てこないが、コンピュータ将棋選手権ではよく出てきた。
 
 で、この相入玉の将棋のことを「(将棋とは違う)別のゲーム」と言う人がいる。プロ棋士でもそのように言う人は多い。相入玉になると、もう相手の王様を詰ますことはできないので、点数勝負になる。駒をたくさん持っていた方が勝ちになるので、とにかく駒をたくさん取ることを目指す。つまり、将棋とは本来、相手の王様を詰ますことが目的のゲームである、しかし相入玉の将棋は相手の王様を目指さず、駒をたくさん取ることを目的としてしまっているので(本来の将棋とは)別のゲームである、というわけだ。
 
 だが、この「別のゲーム」という感覚はおそらく人間だけが持っている感覚だろう。コンピュータは「別のゲーム」とは思っていないはずだ。人間は相入玉を「特殊な形」と思っているが、コンピュータはそうは思っていない。どんな形であれ、それが将棋のルールの範囲内なら、当然思考対象の内である。最後に駒の数が点数になるというルールがあるのなら、初めから駒の数を考慮しながらゲームを進めて行くだろう。
 
 もし、「それは“本来の”将棋ではない!別のゲームだ!」と感じるなら、わたしたち人間は、相入玉の将棋に関してルールの再考を求められていると言えるだろう。
 
 

AIの「役割」の範囲について

 大会を観ていて感じたもう一つのことは「千日手」が多いということだった。千日手というのはお互いに同じ手を繰り返すことで千日経っても終わらないことからその名が付いている。人間同士の対局ではあまり発生しない。どちらかが折れなければしょうがないので、普通はどちらかが妥協して手を変える。どちらも意地を張って手を変えなかった場合はその対局は終了となり、あらためて初手からの指し直しとなる。
 
 コンピュータの場合は「空気を読んで妥協する」ということもないし、常に最善の手を指そうとすればお互いに同じ手を繰り返してしまうのかもしれない。大会では、千日手は指し直しではなく、引き分け扱いになるルールだった。勝ちが1勝、引き分けが0.5勝、負けが0勝である。
 
 で、問題は決勝リーグで起こった。
 
 6回戦を終わった時点で「やねうら王」というソフトと「Kristallweizen(クリスタルヴァイツェン)」というソフトが5勝1敗の成績で並んでいた。他に5勝しているソフトは無く、優勝はこの2者に絞り込まれていた。
 
 最終7回戦は、このやねうら王とKristallwezenの直接対決だった。つまり決勝戦である。勝った方が優勝、負けた方が2位。では、引き分けたらどうなるのか。その場合は他の細かい条件の点数によって順位が決まる。サッカーW杯で言うところの得失点差とか総得点数とかそういう感じの点数である。この細かい点数がやねうら王の方が上回っていたため、引き分けた場合はやねうら王の優勝となることが決まっていた。
 
 そこで、やねうら王の作者は、決勝戦前にチューニングを行い、ソフトに積極的に千日手を指すように“指示”を出した。この調整が見事的中し、決勝戦は短手数で千日手が現れ、勝負は引き分けとなり、やねうら王はみごと優勝を飾った。
 
 千日手引き分けによる優勝、というこのあっけない幕切れに、やねうら王作者の戦略に感心するとともに、Kristallweizenの作者は何をやっていたのか、とも思った。やねうら王は二次予選と決勝リーグで二度、Kristallweizenと戦ったが一度も勝てなかった。それなのに優勝したのである。
 
 将棋に勝つことと大会に勝つことは別だということである。
 
 私が感じたのはソフトが考える範囲の「広さ」についてである。
 
 この大会で二次予選以上に残るようなソフトは、どれも「深さ」についてはものすごく深く読んでいる。数億手とか10億手も手を読んでいるらしい。超優秀である。
 
 私は、そんな超優秀なソフトが「引き分けたら(千日手を指したら)優勝できない」という、この程度の簡単なことを理解していなかったことに衝撃を受けた。
 
 千日手を指したら「負け」ではなく「引き分け」である。それは当該対局のみについて言えばその通りである。だが、「大会」として考えた時には、それでははっきり「優勝」を逃す。
 
 将棋の目的は目の前のゲームに勝つことだが、大会参加の目的は優勝することである。
 
 このような状況は二次予選でも現れた。2つのソフトが最終戦で戦って、引き分けてしまったらかなりの確率で2者とも決勝リーグに進めない可能性が高かったのに、お互いに千日手を指してしまった。(他のソフトの成績の関係で1者はたまたま運良く決勝リーグに行けたのだが。)決勝リーグに進むのが大事なことなのだから、千日手は避けるべきところである。避けたら自分が不利な局面になって負ける可能性も出てくるが、引き分けで決勝に進めない確率の高さにくらべたらマシである。
 
 勝敗数が並んだ時の他の細かい点数計算は、それほど複雑なものではない。人間にでも計算できるものである。そしてそれを計算したら自分が今何位なのか、次の対局で引き分けてしまったら優勝はできない、なんてことは、人間だったら特別に頭の良い人ではなくても普通レベルの頭の人でも解ることだ。
 
 それを、その程度のことを、10億手も先を読めるソフトが自分で判断できない。
 
 そういう「大会に優勝するためにはどうすればいいか」という部分もソフトに考えさせるべきではないか。
 
 それとも今のAIはまだそのレベルに達していないのだろうか。
 
 これはまるで飼い主の人間と飼い犬の関係のようだ。
 
飼い主「ウチの犬はとっても賢いんですよ〜。すごい複雑な計算だってできちゃうんだから」
 
犬「ご主人様。考えたのですが、この大会で優勝するためには、、」
 
飼い主「うるさい!おまえは余計なことは考えないで目の前のゲームに勝つことだけに集中してればいいんだよ。大会で優勝するための戦略とかそういうことは私が考えるから」
 
犬「……」
 
 大会のルールの中に「ソフトは将棋のことだけ考えて、大会全体のことを考えさせてはいけない」というルールでもあるのだろうか。
 
 これからの時代のAIは「深さ」よりも「広さ」を考えていくべきだと思う。将棋ソフトはもしそこにAI(人工知能)があるのなら、将棋のルールだけを理解するのではなく、大会のルールも理解して、大会で優勝するためにはどうしたらいいか、という戦略も自ら考えるべきだと思う。
 
 ということを、世界コンピュータ将棋選手権を観て思った。
 
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