漸近龍吟録

反便利、反インターネット的

【追悼Hagex】Hagexさんの正義

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 Hagexこと岡本顕一郎さんが福岡で刺殺されて今日で一年が経つ。
 
 私はまだこの事件についてうまく心の整理ができていない。
 
 私は、Hagexさんとは知り合いではない。事件が起きるまで顔も本名も知らなかった。ネット上で言葉を交わしたこともなかった。ブログ「Hagex-day.info」の購読者でもなかった。なので、以下の文章は多少、推測で書いている部分もある。ただ数年前から一方的にHagexさんのことは知っていた。はてなブックマークで時々、Hagexさんの書いた記事がホットエントリ入りしている時に、たまに見ていた。
 
 知り合いではなく一方的に知っていただけの人なのに、事件のショックは大きかった。こんなに釈然としない理不尽な事件もないと思った。
 
 事件後、初めてHagexさんのブログをトップページから見てみた。Hagexさんの考えていたことを少しでもわかりたいと思ったから。しかし見てみて驚いた。何万にも及ぶ厖大な過去記事があった。とても読みきれない。毎日どころか一日に複数回更新しているのである。
 
 そしてもう一つ驚いたのは、ブログ記事の大半は2ちゃんねるからの転載文だったことだ。2ちゃんねるから一部の文章を切り取って転載し、そこに「これはこわい」「これはすごい」など、たった一言コメントをつけているだけの中身のない記事だった。ざっと見、9割方はそうした中身のない記事で、たまに自分の言葉で書いた記事がありそれがはてなブックマークでホットエントリ入りしていた。
 
 なぜHagexさんはこんなにたくさんの中身のない記事を量産していたのか。それを考察する過程で少しづつHagexさんが考えていたことが朧気に見えてきた。
 
 世間の反応の中には“誤解”と思われるものも少なくない。ここではその誤解を一つ一つ解いていくとともに、Hagexさんの「正義」とは何だったのかを考えたい。
 
目次

闇の事件ではない 

 事件後、新聞では「IT講師」、「ダークウェブの専門家」といった紹介がなされていた。これを見た人は「インターネットの闇の世界に詳しかったから、闇の世界の人に殺されてしまったのだろう」と誤解した人もいたのではないか。Hagexさんは本業では確かにダークウェブのことには詳しかったようだが、事件は「はてな」という「表ウェブ」の世界をきっかけにして起きた。闇でもなんでもなく、堂々と表のウェブの世界の話だった。
 
 容疑者は、はてなで「低能先生」と呼ばれていた。そうやってからかわれていたから逆上して犯行に及んだのだ、からかっていた人たちの自業自得な面もある、事件の経緯に詳しくない人の中にはそう思っている人もたくさんいるようだ。
 

低能先生」はHagexさんが使い始めた言葉ではない

 しかしHagexさんが容疑者のことを「低能先生」と呼び始めたわけではない。むしろ「低能」という言葉は容疑者の方から先に使い始めた言葉だった。容疑者ははてな匿名ダイアリーはてなブックマークで、いろんな人に向かってIDコールで「低能」だの「馬鹿」だのという中傷の言葉を投げかけていた。あまりにもそれがエスカレートしていたので、それでいつしか、はてなブックマークユーザーたちから「低能先生」と呼ばれるようになっていった。「低能」の後に「先生」を付け始めたのが誰かはわからないが、Hagexさんではないだろう。
 

通報は他のみんなのため 

 Hagexさんがブログで「低能先生」に言及しているのは、私が見た限りではたった一回くらいで、「いわゆる『低能先生』と呼ばれている人がいる」と書いている。そして、IDコールによる誹謗中傷という迷惑行為について、はてな運営に通報したと書いている。Hagexさん自身もたびたび罵詈雑言をかけられ、「私のように罵詈雑言に慣れている人は問題ないけれど、いきなり罵倒がくると、たいていの人は怖がってしまう」から通報しているのだと、他の人を思いやっての通報なのだと書いてあった。
 
 容疑者は次々とIDを変えていたが、Hagexさんらの通報により、はてなサービス上で口を封じられ、それが怒りに繋がっていったと思われる。
 

低能先生は復讐の相手を間違えている

 今回の事件が許せないのは、もし容疑者の“復讐”という気持ちに同情するとしても、復讐する相手を間違えているからだ。ネットの「お前ら」への復讐だと言うならネットの「お前ら」全員に復讐すべきであって、なぜHagexさんが狙い打ちされなければならなかったのか。
  

「Hagexの自業自得」ではない

 「Hagexの自業自得」みたいな言い方をする人も多い。「Hagexはネットで人をおちょくったり、からかったりしていたから、こういう痛い目に遭ったのだ」と。
 
 しかし、Hagexさんがおちょくったり、からかったりする対象にしていた人たちは、今回の容疑者とはまったく別の人たちである。たしかにHagexさんは何年かに渡って特定の有名人を批判の対象にしていた。そういう対象にされていた人が逆上して犯行に及んだ、というのならまだ分かる。だが容疑者は違う。Hagexさんにずっとからかわれていたわけでもなく、言い争いになっていたわけでもない。私の把握している限りでは、Hagexさんは容疑者(低能先生)については、ブログで一回、ブックマークコメントでも一回程度しか言及していない。
 

Hagexさんの“いじり”は怒りからくる“批判”

 「Hagexのいじりは度が過ぎていた」と言う人もたくさんいる。Hagexさんの誰かに対する批判は、たしかに“いじり”、つまり「おちょくり」や「からかい」の形式を取っていることが多かったが、“いじり”の形式をとった“批判”であった。つまり不正(とHagexさんが感じること)に対して批判していたのであって、どうでもいいことを暇つぶしにからかっているわけではなかった。
 

Hagexさんの“いじり”は必ず自分より強い者に向けられていた

 これはとても肝腎なことだと私は思っている。Hagexさんの“いじり”は必ず自分(Hagexさん自身)より強い人に向けられていた。「いじりはいじり、いじめはいじめ、じゃないか」と言う人がいるが、弱い者いじめとはまったく違う。自分より強い人への批判を「いじめ(いじり)」と言うか?Hagexさんがブログで長期にわたって批判の対象としていた人は、ネットの世界でもリアルの世界でも、Hagexさんよりずっと大きな影響力を持った有名人だった。Hagexさんは自分より弱そうな人は批判(いじり)の対象にはしなかった。
 

「Hagexは調子に乗っていた」?

 私が残念に思うところの一つは、多くの人が「Hagexは調子に乗りすぎていた」と思っていそうなところだ。そして実際にはHagexさんはそこまで調子に乗っていなかったというところだ。調子に乗っていたならまだいいのだ。
 
 Hagexさんがサングラスをして舌を出している写真がある。割と有名な写真で、こういう写真のおかげで「調子に乗っている」というイメージがあるかもしれない。
 
 Hagexさんはかなり昔からブログ「Hagex-day.info」を書いていたようだが、記事がはてなブックマークに頻繁にホットエントリ入りするようになったのは、ついここ6〜7年のことであり、さらにリアルの世界で活動をし始めたのは2018年頃からである。つまり、ネットで有名になったのもつい最近のこと。リアルの世界では、Hagexさんが批判の対象としていた人たちがずっと昔からリアルで大活躍しているのにくらべて、Hagexさんはまったく活躍してなく(本業の仕事は知らない)、2018年に入ってから漸く、リアルの世界で活躍の幅を広げていこうとしていた矢先だった。福岡の講演会も、まさにその一歩だった。
 
 ブログを更新し続けること苦節十数年。30代後半になってようやくネット上で少し有名になることができ、40代になってようやくリアルで少しだけ活躍の場が出てきた。これが「調子に乗っていた」人の人生か?
 
 Hagexさんは、私たちが思っているほど調子に乗れていたわけではなかった。
 

危機感が足りなかったわけではない 

 今回の事件を受けてネット上には「荒らしはスルーするにかぎる」とか「やっぱり顔出しとかしちゃいけないんだ」と言っている人がたくさんいたのも残念だ。
 
 「荒らしはスルーするにかぎる」。自己の保身のみを考えるならそれは正しい。しかしみんなが自分の身の安全のことだけを考えてスルーしていたら、荒らしは荒らし放題、誹謗中傷し放題になる。Hagexさんはネットが好きだったからこそ、ネットの世界がそのように荒れ放題になってゆくのは嫌だったのだろう。「低能先生」を通報したのも、「ネット私刑」、「ネットリンチ」として面白がって通報していたわけではなく、「私のように罵詈雑言に慣れている人は問題ないけれど、いきなり罵倒がくると、たいていの人は怖がってしまう」から、初めての人、慣れていない人が怖い思いをしなくて済むように、という思いからの行動だった。 
 
 Hagexさんはネットセキュリティのプロだから、もちろん顔バレ、身バレはしないように細心の注意を払ってはいた。しかし、思うに、Hagexさんはそういう世界が嫌だったのではないか。2018年からリアルの世界に軸足を移しだしたのも、「もっと顔を合わせて話し合おうよ」という気持ちがあったのではないか。Hagexさんは、「ネットでいがみあっている人たちも会ってみれば案外いい奴」という世界をどこかで信じていたのだという気がする。
 

Hagexさんの“いじり”、“いじめ”に対する考え方

 Hagexさんのことが「いじめっ子」に見えていた人がいる、というのも意外だ。Hagexさんは決して自分より弱いものに攻撃を向けなかった。それはHagexさんがブログに書いていた次のような言葉からも分かる。
 
「毒舌」は私も好きですが、これって「強い人」にぶつけないと、イジメなんですよね。非難される前の小保方さんに対してこの記事をぶつけたら「素敵な毒舌」なんだろうけど、周りからフルぼっこ状態でこの記事じゃ「単なるイジメ」じゃん。(2014年3月25日の記事より) 
 自分が毒舌であること、そして、それは必ず強い人に向けるように意識していたことが、この言葉からも分かる。
 

「Hagexはダブルスタンダード」?

 「Hagexはダブスタだった」と言う人もいる。いじめは良くないと言いつつ自分もいじりをしていたではないか、というわけだ。
 
 「いじり」は揶揄、からかいである。揶揄は自分より強い者にも弱い者にも向けられる。総理大臣や大統領を揶揄したりすることもある。だが「いじめ」は自分より弱い者に向けられるものだ。
 
 Hagexさんは自分より強い者を「いじる」ことはしても、自分より弱い者を「いじる」ことはしなかった。弱い者をいじることは「いじめ」なのだとHagexさんは言う。まだ問題が広がる前の小保方氏ならともかく、すでに多方面から非難を浴びて弱い状態にある小保方氏をいじってはいけない、とHagexさんは言う。
 

Hagexさんは相手を選んでいた 

 Hagexさんは、ブログで取り上げる対象にする人を慎重に選んでいた。誰でもいいからおちょくっておけ、というスタイルではなかった。それは次のような言葉からも窺える。
 
私もこの日記でいろいろと書いてるけど、ターゲットが「自殺」したらどうなるか? はいつも考えている。ネットでは大言壮語だけどガラスのようなハートを持った人もいるので、個人的には気を使っている(2013年6月25日の記事より)
 自分自身が人を傷つける側に回らないよう、気を遣っていたことがわかる。例えば、Hagexさんは家入一真氏を“対象”として取り上げていたが、途中からだんだん家入氏に対する見方が変わってきたようで、一人の人物として“認めている”印象すら受ける。そして家入さんみたいな人だったら自分も安心して取り上げることができる、という趣旨のことを言っている。ここには(家入さんの方が力が上だから自分みたいな弱小ブロガーが少しくらいのことを言っても大丈夫だ)という前提がある。
 
 HagexさんのブログのPVが増えてきて、自分自身が、今まで批判の対象として来た人たちの影響力に近づいて来た頃には、こんな自重の言葉も残している。
 
「PVなんか気にせず、好きなことを書くのがブログの醍醐味であり、そうあるべき」というのが私の信条なんですが、アクセス数が増えると、やはり慎重になってしまうんですよね。ブログやSNSで「未成年の飲酒だぜ、けけけ」というコンテンツを見つけても、昔のように晒し上げのエントリーを書けません。やるときは、やるけど、どーしてもPVが多いと慎重になります。個人的には「アクセス数がある、影響力のあるサイトは無責任に運営してはいけない」とも考えている(2014年6月25日の記事より)
 

Hagexさんはゲスな人ではなかった

 「ゲス」とよく言われたが、Hagexさんはゲスな人ではなかった。ゲスなフリをしているだけの人だった。「自分でもゲスだなぁと思いますけど」と言っていたが、彼のブログをよく読めば、そんなにきつい言葉や酷い言葉を使っていなかったことがわかる。
  

ブログの更新は“たたかう”ため

 なぜ、猛烈な勢いでブログを更新していたのか。そのヒントらしき言葉が、2011年の大晦日に書かれた記事の中にある。
 
2011年は、ヘッポコ日記が飛躍した年でありました。2011年1月では月間69万5000PVでしたが、6月に月間100万PV、9月以降は月間200万PVを突破しております(12月は220万PV)。アクセス数は自己満足の1つではありますが、個人的には「ケンカ」をするときに、大変有効な武器になると考えています。PVは充分に稼げたので、来年これを使っていろいろと花火を上げたいと思いますので、応援をよろしくお願いします。(2011年12月31日の記事より)
 言わばネットの専門家であったHagexさんには、普通の人には見えない、巧妙な釣りや大掛かりなステマがよく見えた。だからそういった巨悪を取り上げて批判したかった。だが何の肩書もない弱小ブロガーが批判したところで、大悪人たちは痛くも痒くもない。そういった強い悪人たちと喧嘩するためには先ずは自分がある程度強くならなければならなかった。強くなるというのは影響力を持つということ。Hagexさんがブログを猛烈な勢いで更新してPVを増やしていたのは、アフィリエイト収入のためではなく、ネット上の強い人たちと闘えるだけの影響力を獲得するためだった。
  

Hagexさんはなぜ殺されなければならなかったのか

 Hagexさんの事件はあまりにも理不尽である。Hagexさんが対象としてよく取り上げていたH氏という女性やI氏という有名な男性ブロガーに殺されるのならまだ分かるが、低能先生はHagexさんの“対象”ではなかった。
 
 低能先生は次々とはてなアカウントを凍結されて恨みを持っていたという声もあるが、はてな運営に通報していたのがHagexさんだけとは限らない。しかもHagexさんが通報していたのは個人的な復讐だとか面白がって、という理由ではなく、他のみんなが怖がらなくてすむためであったことは上記にも書いた通りだ。
 
 Hagexさんはむしろ、どちらかと言えば、低能先生のような弱い者の味方だった。絶対に攻撃対象ではなかった。
 
 低能先生はネット上だけでHagexさんを見、頭の中に勝手に「Hagex像」を作り上げて恨みを募らせ、兇行に及んだ。実際に会って話してみたら、自分の敵ではない、むしろ味方なのだということが分かったはずなのだ。
 
 福岡はHagexさんの故郷だった。勉強会は規模は小さいながらも「故郷に錦を飾る」ものであったはずだった。
 
 低能先生は襲撃した時に、自分は「低能先生」でおまえに恨みを持っていた、とHagexさんに伝えたのだろうか。それとも、Hagexさんはその男が誰で、なぜ自分を襲ったのかも分からず亡くなっていったのだろうか。
 
 こんなつまらない殺され方が返す返すも残念だ。
 

Hagexさんが思い描いていた世界

 これは私の勝手な想像だが。
 
 Hagexさんがネットでやっていたことは、からかいやおちょくりといった方法を取ってはいたが、基本的には、私たち一般人が悪質な「釣り」やら「ステマ」やらに引っかからなくて済むように注意喚起をしてくれる善意の啓蒙活動だった。
 
 最期の3か月ほどの短い期間、友人だったというフミコフミオ氏がHagexさんから「フミコさんもネットから出ましょうよ」と言われたという話が印象に残っている。
 
 2018年、Hagexさんは、確実にネットからリアルに軸足を移そうとしていた。
 
 もうネットは充分。もう自分はネットではじゅうぶん力を蓄えた。これからはリアルの世界でたくさんの人と直接会って話し合ったり、自分がネットで得た様々な知見を広めていきたい。その活動の一つが「かもめ勉強会」だった。
 
 ネットのからくり、釣りやステマフェイクニュースの仕組み、ネット上の傍若無人な人との接し方、闘い方、そういったものを教え、でもその力を弱い者いじめに使わないでくださいね、必ず「悪いことではなく正義のために使ってください」ね、それがHagexさんの「遺言」になった。
 
 ふだんあまりテレビドラマを見ない私だが、2018年10月にNHKのドラマ『フェイクニュース』を見た。ドラマの最後に流れるクレジットに、Hagexさんの本名が流れた。北川景子主演のこのドラマには、悪意のある嘘ニュースを流す人物と、そうした根も葉もない情報に流されてしまう大衆が描かれていた。みんなネットの情報に踊らされていませんか?、もっと直接会って話し合いましょう、人を信じましょう、そういうメッセージが込められたドラマだったと思う。そしてこれはおそらくHagexさんのメッセージでもあったのではないか。
 
 Hagexさんにとってこれまでのネット上の活動は、言わば助走期間だった。力を蓄えてその力をリアルの世界で良いことのために使っていく。これからが本番だった。もう「ネットのゲスな自分」は卒業して、(いや、ひょっとしたらそっちも引きつづき続けていたかもしれないが)、勉強会を開いて今までの知見を人々に還元していきたい、そして「正義の味方」を少しづつ増やしていきたい、そんなことを考えていたのではないか。
 
 だからこそ、Hagexさんという人物が、その「前半生」だけで評価を下されるのが私は悔しい。
 
 ネットを愛していた。誰よりも詳しかった。ネットの表も裏も知り尽くしていたがゆえに、邪悪なからくりや人々の流されっぷりもよく見えた。Hagexさんが取り上げていたのは「未成年の飲酒」などという小さな不正ではなく、大きな不正だった。あそこまで大きな不正を暴く芸当ができる人は他になかなかいない。「正義」であったかどうかは置いといても、少なくとも「正義」についてまじめに考えていた。
 
 私もネットの世界ばかりに籠もりがちになるところがある。そして気づいたら自分の知識がネットで得た情報ばかりで、視野が狭くなっているのではないかと感じることがある。「まだネットなんかしてるんですか」というHagexさんの声が聴こえてきそうだ。
 

Libraホワイトペーパーを読んで

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フェイスブックがLibraの詳細を発表 

 フェイスブックが暗号通貨「Libra」のホワイトペーパーを発表した。文書の最後に「ぜひご意見をお寄せください」と書いてあったので、感想文を。
 
 私は、Libraには今はまだ懐疑的だ。ホワイトペーパーを読んでも「すごい!」という感想はなく、ただパートナー企業はすごい顔ぶれだとは思った。
 
 ホワイトペーパーには良いことが書いてある。
世界中で、貧しい人ほど金融サービスを受けるのにより多くのお金を払っているのが現状です。一生懸命働いて得た収 入は送金や借越やATMの手数料に消えていきます。
  立派な心がけだ。
人には合法的な労働の成果を自分でコントロールする生まれながらの権利がある、と私たちは考えます。
私たちには全体として、金融包摂を推進し、倫理的な行為者を支援し、エコシステムを絶え間なく擁護する責任がある、と私たちは考えます。 
 口座を持たない貧しい人々に届くサービスを作りたい、という理念は一見すばらしい。「倫理的な行為者を支援し」と書いてある。フェイスブックをはじめ、参加企業が本当に倫理的に行動するなら、それはすばらしいことだと思うし、応援したい。
 
 しかし、本当だろうか。
 
 もし、このLibraの発表でフェイスブックの株が上がるのなら、それは「貧しい人々のため」ではなく「フェイスブックのため」だ。
 

私が感じる三つの懐疑点 

一、電子マネーと何が違うのか
二、フェイスブック主導でオープンなサービスができるか
三、貧しい人々が救われるか
 

一、電子マネーと何が違うのか

 Libraは、いわゆる従来の「電子マネー」と何が違うのだろう。Libraはステーブルコインだという。とすると、価値の源はドルにある。Libra自体に価値はない。Libraの価値があるとすれば、それはおそらく「使い勝手」にある。使い勝手をある程度自分たちで自由にデザインできる。デジタルであることの使いやすさはもちろん、初めから参加企業が多いので、使う用途も豊富にありそうである。ただ、それ以上の新しい魅力を今のところ見出だせない。ブロックチェーンを使う理由も見出だせない。従来の電子マネーで実現できそうなことになぜブロックチェーンを使うのかがわからない。 
 

二、フェイスブック主導でオープンなサービスができるか 

 「オープンソースにする」と言っているし、「オープン」にこだわっている。ブロックチェーンも最初は許可型だがいずれ非許可型に持っていきたいと言っている。
 
 だが、私の中のイメージでは、フェイスブックはオープンとは逆の世界から来た企業だ。
 
 フェイスブックはオープンなインターネットの世界の中に、会員制のクローズドなサービスを作った。フェイスブックが楽しくないというのではない。会員になったらおそらく楽しいだろう。そういうサービスは他にもいっぱいある。アマゾンもグーグルも楽天も、アカウント登録さえすればそこには便利で楽しい世界が広がっている。
 
 しかし、オープンにして貧しい人々にサービスを届けるということは、フェイスブックがこれまでやってきたクローズドなサービスとは真逆のことである。「会員登録したら便利で楽しいサービスが使えますよ」というのは当たり前なのである。それは「銀行に口座を作ったらなにかと便利ですよ」と言ってるに等しい。
 
 銀行の口座を持てない人たちにも届くように、という理念で始めるサービスなら、なんらかの「会員制」の形を取ってはいけない。Libraは最初は「許可型ブロックチェーン」から始めるがゆくゆくは(5年以内には)「非許可型ブロックチェーン」に移行したいと言っている。だが、合意形成アルゴリズムとしてBFT(Byzantine Fault Tolerance)を採用しているらしい。この「会員制」の性格が強いアルゴリズムでどうやって非許可型ブロックチェーンに持って行くのだろうか。(追記:5年以内にPoS(Proof of Stake)に移行する予定であるとのこと。)
 
 今までさんざんクローズドなサービスを提供してのし上がって来たフェイスブックが、オープンなサービスを作っていけるのだろうか。 
 

三、貧しい人々が救われるか 

 銀行口座を持てない貧しい人々を救いたい、という理念からの行動であれば、私は応援したい。
 
 しかし「金融包摂」というのは難しい。
 
 インターネット自体がそうだが、ネットワークというものは双方向性を持っている。今まで金融ネットワークに繫がっていなかった人たちが、Libraネットワークに包摂されることで、却ってGAFAのような大企業に搾取されやすくなるのではないか、という危惧がある。
 
 ステーブルコインはビットコインよりも法定通貨に近い。それは人々の生活を助ける利便性の高さという利点でもあり、弱肉強食の市場原理に絡め取られやすいという欠点でもある。
 

まとめ

 今回の発表を見て感じたのは、参加企業の顔ぶれのすごさである。ebay、PayPal、stripe、Coinbase、xapo、VISA、等々。これだけの企業が集まれば、確かに世の中にたいして何らかの影響力を及ぼすものになるかもしれない。
 
 それだけに心配なのだ。これらの大企業が社会的責任を第一義に考えて行動できるか、それとも「わたしたち会員企業が儲かりました」に終わるのか。フェイスブックは今やチャレンジャーではない。世界的な大企業である。その大企業が本当に「自分たちの利益のため」よりも「貧しい人々のため」に行動できるか、暫く注視したいと思う。
 
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副政府CIOが保険証有料化に言及

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 6月12日の日経xTECHの記事で副政府CIOがインタビューに答える形で保険証の有料化に言及している。
 
 上記の記事は有料記事なので、要点を書くと、
 
 国では、今後のマイナンバーカードの普及策として、
 
1. 自治体ポイントにプレミアムポイントを付与する
2. 保険証として使う
 
の2点を考えているとのこと。
 
 で、保険証としてのマイナンバーカードを普及させるためのアイデアとして、 
保険証をマイナンバーカードとは別に持ちたいという要望には、有料で発行する議論ができるようになるでしょう。保険証が有料化されれば、マイナンバーカードの普及は一気に進みます。
と言っている。
 
 このような邪悪な方向に進んではいけない。
 
 制度や道具は「あったら便利」なものにすべきで、「なかったら不便」な方向に持って行ってはいけない。
 
 マイナンバー及びマイナンバーカードの問題は、国だけではなく私たち国民にも問題があると思っている。保険証発行の有料化などという声が出たら国民はもっと怒らなければいけない。
 
 「まだ決まったことじゃありません」と言うのだろうが、決まってからでは遅すぎるのだ。そういう声が出た時点で怒らなければいけない。
 
 国民はマイナンバーカードについては「なんで絶対に知られてはいけないはずの番号が券面に印字されてるんだ」などといった文字通り“表面的な”ことしか批判せず、核心部分については何も言わない。そして、ふるさと納税の返礼品やら、◯◯ペイのお得ポイントやらに夢中になっている。だから、副政府CIOから、
人気のふるさと納税と結び付けるのも手でしょう。民間企業がQRコード決済で展開したキャンペーンでも分かるように、お得なものには人はものすごく反応するので、期待しています。 
などと言って馬鹿にされるのである。
 
 酷いことになる前に、きちんと声を上げていかなければならない。
 
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萩原慎一郎の長すぎた“滑走路”

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 歌人、詩人の萩原慎一郎が32歳の若さで亡くなってから今日で二年。
 
 ずっと萩原慎一郎の人生を考えてきた。
 
 私は萩原の人生をほとんど知らない。会ったこともないし、関係者でもない。昨年2018年に、テレビで少し紹介されていて、その時初めて知った。ネットで調べても大した情報は出てこない。萩原の人生は萩原本人しか知らない。だからここに書くことは私の勝手な想像である。
 
 ウィキペディアでもテレビでも、「中学高校時代のいじめを起因とする精神の不調から自死した」と紹介されている。
 
 私立武蔵中学高校という都内でも屈指の進学校を卒業し、いじめの後遺症に苦しみながら通信制早稲田大学に通い卒業した。大学卒業後はアルバイトや契約社員など非正規雇用で働いていた。
 
 文学活動の方は高校生の頃から始め、大学在学中から賞を取ったり本を出版したりするなど活躍していたようだ。
 
 萩原の代表的歌集『滑走路』にこんな歌がある。
 
非正規の友よ、負けるな ぼくはただ書類の整理ばかりしている
 
 現代、「非正規」が大きな社会問題になっていること、萩原自身が歌にしていることも相まって「非正規歌人」と呼ばれている。
 
 「非正規」。正規ではないという意味だ。萩原の自死の理由は本当に中高時代のいじめだけだったのだろうか。
 
シュレッダーのごみ捨てにゆく シュレッダーのごみは誰かが捨てねばならず
 
 私の勝手な想像だが、武蔵高早大卒の秀才がシュレッダー係をしている。隣の会議室では正社員たちが会議をしている。萩原は正社員の皆様の大量の書類をシュレッダーに入れながら、時々、書類にふと目を落とし、いくつもの誤字を見つける。この程度の簡単な漢字も書けない人たちが立派な会議室の席に座って、ああでもないこうでもないと議論している。彼らよりずっと優秀な萩原は彼らの「ゴミ」を黙々とシュレッダーに突っ込み続ける。
 
 大学教員が試験監督の仕事がものすごく苦痛だ、という話を聞いたことがある。試験監督なんて朝から夕方まで何もしないで座っているだけで給料がもらえるんだから楽な仕事じゃないか、と思う人もいるかもしれない。だが大学教員は毎日論文を読み、世界の研究から一秒たりとも遅れないようにと思い、日夜必死で研究をしている。そんな頭脳の仕事をしている人たちにとって「今日は読書も調べ物もせずに何も考えないで座っていてください」と言われるのは極めて苦痛なことなのだ。
 
 大学教員にとって頭をまったく使わない仕事が苦痛であるのと同様、萩原にとってシュレッダー係だの書類綴じだの、頭を使わない仕事が苦痛だったであろうことが想像できる。
 
 萩原がどんな職歴を送ってきたのかはわかっていない。身近にいた萩原の歌の先生でさえわからないと言っている。ひょっとしたら家族ですら把握していないのではないか。萩原はずっと一人で孤独な転職活動と仕事を続けてきた。
 
 「どんな仕事だって大変だよ。楽な仕事なんてないよ」と言う人がいる。だが仕事には適性というものがある。萩原のような頭のいいタイプの人間は、頭を使って高い成果を出すことを求められるような仕事は寧ろ得意なのだ。しかし職歴と経験がない萩原は、おそらくそれとは逆の頭脳労働ではない仕事に就かされることが多かった。
 
 中高時代のいじめの影響で大学卒業が遅れ、新卒採用の波に乗り遅れ、その後もずっと苦難の人生を歩むことになった。萩原のような秀才でさえ、一度躓くと底辺コース確定になってしまう。そんな日本社会に生まれ育ってしまった。そしておそらく職場でもいじめを受け、仕事のできない役立たずだと言われ、それらをずっと一人で受け止めて来た。
 
 中高時代のいじめだけが原因だったとは思えない。その後の人生もずっと苦しみの連続だったのだ。その苦しみを萩原は全部一人で受け止めてきたのだ。
 
 萩原には、もしかしたら就職をサポートしてくれるサポーターが身近にいたかもしれない。こういう周囲のサポーターが心に傷を持ってる人に対してやりがちなのは、「だいじょうぶですよ。今度の会社はせかせかした雰囲気じゃないし、電話も取らなくていいし、皆さんのんびりした雰囲気の職場で、萩原さんも書類のファイリングとかシュレッダーとか自分のペースでゆっくりやってくれればいいって人事部長さんもおっしゃってくれてましたよ」と言ってしまうことだ。
 
 つまり萩原のような大人しくて心優しいタイプの人はきっと効率や成果を厳しく求められる会社は向いてないだろうから、求められることの少ないのんびりした会社を紹介してあげようと思うのだ。
 
 でもそういう配慮が果たして萩原のためになっているかどうか。萩原はおそらくもっと仕事ができる自信があった。いじめなどの怖い思い、嫌な思いさえなければ、仕事に専念できる環境さえあればじゅうぶんに仕事はできたはずだ。だが与えられる仕事は書類の整理やシュレッダーなどのまったく頭を使わない仕事ばかり。
 
 萩原のことをネットで知った人が「この人は歌の方面でがんばっていけばよかったのに」とコメントしているのを見た。会社の正規雇用とかそんなことに拘らないで、短歌の世界で活躍し始めていたのだから、そっちの方面で伸びていけばいいじゃないか、というわけだ。
 
 だが、歌集を出したとはいえ、その歌集の売り上げで食べていけるとは誰も思わないだろう。萩原も文学で食べていくなんてことは不可能だと思っていたに違いない。だからこそ、普通の会社での仕事に拘った。萩原にとっては歌と会社の仕事は飛行機の両翼のようなもので、どちらがなくても駄目だった。
 
鳩よ、公園のベンチに座りたるこの俺に何かくれというのか
 
 歌の世界での活躍とは裏腹に“現実”世界での萩原はずっと惨めな思いを抱えていた。
 
 たしかに数々の名だたる賞を受賞し、歌集まで出版していた萩原は、歌の世界では十分に羽ばたいていたように見える。一方で、働いてお金を稼いで生きていくという現実の世界では、萩原はずっと飛び立つことができず、滑走路を走り続けていたように見える。
 
きみのため用意されたる滑走路きみは翼を手にすればいい
 
 これは自分と同じような境遇に苦しんでいる人々への言葉でもあるが、萩原が自分自身に言っている言葉でもあるだろう。「手にすればいい」、たったそれだけのことだったはず。
 
 長時間、飛行を続けるだけの能力も体力もある。他の人より速く高く飛ぶ能力さえある。あとは翼だけだった。きっかけさえあれば飛べる準備が整っていたのに、萩原という飛行機は茨の道を走り続けることを余儀なくされた。飛行機は陸を走るように作られているのではないのに。
 
 中高時代に萩原のことをいじめていた人間はその後立派な正社員になっていることだろう。彼らが「正」しくて、萩原は「非正規」、「正しからざる」。なぜなのか。こんな才能がいじめだの非正規だのといったつまらない「社会」に潰される。「しょうがない」と思う?私は思わない。しょうがないで終わらせたくない。
 
「抑圧されたままでいるなよ」「まだあきらめきれぬ夢がある」「ヘッドホンしているだけの人生で終わりたくない」「翼を見つけ出さねば」
 
 こうした言葉からも、萩原にはもっとずっとずっと高い志があったことが窺える。その萩原の思いに比しては、あまりにも長すぎる滑走路だった。
 
 
 
 萩原の思いを少しでも受け取りたい、萩原に少しでも近づきたいと思って書いてみたものの、まったく近づけていない。萩原に託けて、私が自分が主張したいことを書いているだけの文章になった。
 
 所詮、燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや。私に萩原慎一郎の志がわかろうはずもない。
 
 
(※文中、引用は『滑走路』角川書店より)
 
歌集 滑走路

歌集 滑走路

 

 

はてなスターの衝撃

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 初めて「はてなスター」を知った時は衝撃だった。
 
 はてなスターというものがある。フェイスブックの「いいね!」、ツイッターの「ふぁぼスター(現在はハートマーク)」、YouTubeの「Like(高評価)」ボタンなどと同じで、賛意を示すボタンである。
 
 しかし、はてなスターは、それらの賛意ボタンとは本質的に大きく異なるところがある。
 
 はてなブックマークというサービスがあって、昔からよく見ていた。が、自分では使っていなかった。はてなに登録していなかった。だからブックマークコメントに付いているはてなスターが、賛意や支持を示すものであることは分かっていたものの、自分がスターを付けたり付けられたりすることはなかった。
 
 数年経って、はてなにユーザー登録し、自分も他の人のブックマークコメントにスターを付けることができるようになった。また、自分もコメントをすることができるようになった。そしてコメントをしていたある日、初めて自分のコメントにスターが付いた。そうか、自分のコメントにスターが付くこともあるのか。初めてスターをもらってうれしかった。そして急にスターにどんな意味や価値があるのか、興味を持って調べ始めた。そしたら、衝撃の事実が待っていた。
 

衝撃その1、金銭的価値が無い 

 
 このスターを集めたらどんな良いことがあるんだろう、と急に興味を持って調べ始めた。 スター1個につき1円と交換できる、とか。Amazon楽天ポイントに交換できる、とか、そういうのがあるのかも。 
 
 なかった。
 
 そのような金銭的価値はまったくなかった。
 
 しかし、はてなには「はてなポイント」という自社サービス内で流通する独自のポイント制度があったはず。ところが、これにすら連携していなかった。はてなポイントを使ってカラースターを購入することはできるが、スターを使ってはてなポイントを購入することはできない。
 
 自社ポイントにも交換できない「はてなスター」とはいったい何なのか。
 

衝撃その2、連打ができる

 
 しかし、金銭と交換できないボタンというのは、他にもある。
 
 フェイスブックの「いいね!」、ツイッターの「ふぁぼスター」、YouTubeの「Like」ボタン等々。これらのボタンは金銭的価値は無いものの、「いいね!」や「高評価」をたくさん集めることでブランド価値を高めることができる。だから、フェイスブックでも社員や関係者を総動員して「いいね!」ボタンを押させて、その商品ページの価値を高めようとしたり、YouTubeでもやはり友人やファンに高評価を押してもらって動画価値を高めようとする動きがある。
 
 ところが、はてなスターは、これらのボタンと決定的に違っているところがある。それは、連打ができてしまう、というところだ。これは些細な違いのようで大きな違いだ。「連打ができる」と知ったときの衝撃は大きかった。そんなのは聞いたことがない。
 
 これらの似た意味を持つボタンたちとはてなスターを比較してみよう。
 
  • YouTube「高評価」:一人一回まで押せる。「低評価ボタン」もある。
 
 こうして見ると、他サービスの賛意ボタンが必ず「一人一回まで」という決まりを設けているのに、はてなスターにだけその制限が無い。
 
 フェイスブックのいいね数や、YouTubeの高評価数がある程度参考値として機能しているのは、一人の人が(普通は)連続で押せない、ということが前提にある。もし連打できてしまったら、本人や関係者による連打合戦になり、そのうち、いいね数や高評価数はまったく当てにならない、ということになるだろう。普通はそのように設計するものだ。
 

衝撃その3:誰がスターを押したかわかる

 
 はてなスターは誰がスターを押したかがわかる。スターを付けてもらった人だけではなく、関係ない第三者でもわかる。だから一人の人が連打していたら、それも全部わかってしまう。
 

はてなスターの価値

 
 つまり、はてなスターは、1.金銭的価値と結び付いてない(何のポイントにも還元できない)、2.連打できる、3.誰が押したかわかる、という三つの大きな特徴により、まったく「無価値」なものになっている。
 
 しかし、逆にこれこそが、はてなスターの「価値」と言えよう。
 
 よく、こんな不思議な設計にしたと思う。もし、はてなスターが「1個1円」などと換金できる仕組みだったら、はてなの世界はもっと俗悪なものになっていただろう。金稼ぎが目的の悪徳低質な記事やコメントで溢れかえり、バトルももっと酷いものになっていただろう。
 
 また、「連打ができる」という普通はなかなか思いつかない発想も、上手く機能していると思う。
 
 はてなブックマークで、自分のお気に入りのコメントを上位に押し上げり目立たせるためにスターを連打することは可能である。だが、誰がいくつスターを付けたかわかってしまうため、自作自演や隠れた“犯行”のようなことはできない。連打で意図的に上位コメントを操作しようとしてもすぐにバレてしまう。結果的に、はてなブックマークコメント欄では、ほとんどの人がスターは1回か多くても3回くらいまでしか押してない。連打して反対意見の「相手」を上回ろうとすることは可能だが、そうすると相手も負けじと連打してくるだろうから、それは消耗戦になってしまってお互い疲れるだけになる。だから誰もやらない。
 
 つまり、連打という悪さをしようと思えばできるけど、誰でもできてしまうが故に、そしてスターを集めたところで何も得することがないが故にやらない、という仕組みが見事に成り立っている。
 
 「いいね!をいくら押してもお金には換えられませんよ」というところまではフェイスブックツイッターと同じだが、「連打できる」という機能はフェイスブックツイッターも成し得なかった、はてなの発明なのではないか、と言ったら大袈裟だろうか。
 
 連打できるという性質が「いいね数(スターの数)」さえ無価値にした。はてなスターには「もらったらうれしい」という意味しかない。その圧倒的無価値こそが、他の賛意ボタンにはない、はてなスターの異色の点であり長所と言えるだろう。
 
 やや難しい言い方をするなら、はてなスターだけが資本主義的価値観の世界から少し抜け出しているとも言えなくもない。
 
 はてなブックマークはてなブログのある程度の質を支えているのは、もしかしたらこの圧倒的無価値の性格をもったはてなスターかもしれない。
 

エスカレーター片側空け問題の愚

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 「エスカレーター片側空け問題」という定期的に話題になる問題がある。
 
 エスカレーターで片側に立ってもう片方を歩く人のために空けるべきか、それとも両側に立つべきか。マナー的にはどうなのか、ルールとしてはどうなっているのか、安全面ではどうなのか、効率面ではどうなのか、そういったことが侃々諤々、議論されている。
 
 「急ぐ人のために片側を空けるべきだ」と言う人もいるし、「そもそも鉄道会社が『片側を空けずにお乗り下さい』『エスカレーターは歩かないで下さい』と言っているのだから両側に立つのがルールだ」と言う人もいる。
 
 私がこの種の議論を見ていて愚かだと感じるのは、この手の話をしている人が皆、自分がふだんよく利用するエスカレーターを思い浮かべながら話をしている、というところである。
 
 ひとくちに「エスカレーター」と言っても千差万別でとても一概に語れるものではない。
 
 もう十年以上昔のことだが、私は、東京では右空け左立ち、関西では左空け右立ちであることを知って興味深く思い、「これ、全国で調べてみて都道府県ごとに色分けしてみたら面白いんじゃないか」と思ったことがある。それで全国各地に所用で行く際に、その街々でエスカレーターのどちらに人々が立つかを観察してみたことがある。
 
 その調査の結果は「どちらでもない」だった。そもそもほとんどの地方にはエスカレーターの片側を空けるという文化がない。片側を空けるという文化は東京や大阪など人口の多い都市にしかない文化である。全国の大半の都市ではエスカレーターでわざわざ片側を空けるほど人が乗っていない。左側に立っている人がいてもそれは左立ちのルールに則って立っているわけではない。自分以外誰も乗っていないのだから、右だろうが左だろうがどこに立っても他人に迷惑にはならないし、たまたま左に立っているだけである。そしてもっと田舎に行けば「そもそもエスカレーターが無い」。
 
 エスカレーターを両側に立つべきか片側に立って片方を空けるべきか、というのは一概に論じられるべき性質の話ではない。都会の朝の駅のエスカレーターと田舎の昼間のスーパーのエスカレーターでは、話の条件がまったく違ってくる。
 
 都会のエスカレーターでも、信じられないほど短いエスカレーターもあれば想像以上に長いエスカレーターもある。スピードが速いエスカレーターもあればびっくりするほど遅いエスカレーターもある。一人幅しかないエスカレーターもある。「世の中には一人幅のエスカレーターと二人幅のエスカレーターがある」と思っている人は多いかもしれないが、一・五人幅のエスカレーターというのもある。
 
 「急いでいる人は階段を使え」と言うが、近くに階段がないエスカレーターもある。
 
 以前、あるスーパーに行ったとき、エスカレーターを歩いて上ろうとしたら上れなかったことがあった。足取りが妙に重いのである。おそらく駅のエスカレーターよりも段差が大きく作られているのだろう。買い物客に老人や子どもが多いので安全のためかもしれないし、単に店の容積上の問題で急勾配にしているのかもしれない。とにかく世の中には物理的に歩けない(歩きづらい)ようにしてあるエスカレーターも存在する。
 
 この手の問題で、数理モデルを示して「片側を空けるよりも両側に乗った方が効率がいい」と証明している人もいる。しかしそんなのは、その場その場の状況を無視した机上の空論でしかない。
 
 エスカレーター片側空け問題を考える時は、その場その場の状況というものを考えなければいけない。朝の駅のエスカレーターと映画館内の帰りのエスカレーターでは、状況が全然違う。映画館の帰りのエスカレーターは混雑するが、そもそも映画の帰りに急いでいる人はいない。本当に急いでいる人はエンドロールの前に部屋を抜け出てまだガラガラのエスカレーターを下りて行くだろう。
 
 東京のような都会の駅では多くの人がエスカレーターを歩く。「立ち止まって乗るのがルールだ」と言う人がいるかもしれないが、なぜ歩くのか。それはホームに人が溢れて危険な状態だからである。降車した人は早くエスカレーターを通って広いところへ移動しなければならない。電車は次々にやって来る。自分たちがホームに滞留していたらすぐに次の電車がやって来て、その電車の人たちはホームに降り立つことすらできなくなる。次々に素早く「ハケなければ」いけないのである。
 
 一方で、このような時に人々が左側に乗ろうとして行儀よく行列に並んでしまって右側がガラ空きになっていることがある。これはよくない。その左側の長蛇の列がエスカレーター入り口付近だけでなくホーム上にまで延びてホーム上の混雑を圧迫してしまっている。上りのエスカレーターだとして、私はそのような時は自分が右側を歩いて上って先鞭をつける。するとだいたい後に続く人が出てくる。そこで先頭の私が急に立ち止まってしまったら後続の人に迷惑だろう。なのでエスカレーターの上の辺りまで来たら減速する。そうすることで私の後ろには容易く渋滞が発生し二列乗りが出現する。もちろん一番上まで歩ききってしまってもいいのだが、そもそも人々が左側に固執しているのは「こんな長いエスカレーターを上まで歩きたくない」という思いがあるからなので、こういう時は両側乗りの状態を出現させた方がよい。いつ現れるかわからないたった一人の「急ぐ人」のためにエスカレーターの片側がまったく使われていない状態は、できるだけ早くハケなければいけない状況ではよろしくない状態である。
 
 また、都会のある巨大な駅付近のビルでは複数のエスカレーターが一つの長い動線のようになっているところがある。そこでは朝は片側歩きどころか「両側歩き」という光景が出現する。「その時間帯はほぼ全員がビジネスマンである」、「途中までほぼ全員、行き先が同じである」、「一つ一つのエスカレーターがそんなに長くない」、そのような条件が揃っている時は、誰が言うとなく両側歩きが出現する。
 
 ある駅のエスカレーターは極端に短く、しかもそのすぐ隣に幅広の階段がある。明らかに、急いでいる人は階段を使ったほうが早い。そんなエスカレーターで片側空けを愚直に守るのは愚かしい。
 
 一方で階段が近くにない、とても長いエスカレーターがある。そのエスカレーターが下りの場合、急いでいる人にとっては、それだけの長い時間歩けないのは心理的苦痛であろう。さらに、そのエスカレーターが両側びっしり詰まっていれば「しょうがない」と思うだろうが、ぽつぽつと人がみぎひだりに点在していたら、「右側を歩かせてほしい」と思うだろう。エスカレーターの込み具合によっても心理的な違いが出てくる。
 
 長い下りのエスカレーターがある。下りきった先に電車のホームがあって電車が入って来ているのが見える。このような状況だったら走らないまでも最後の数段を歩いて下りれば電車に間に合いそうだなと誰もが思う。地下鉄の駅によってはエスカレーターを下りきってから電車のホームが見えない駅もある。そのようなエスカレーターでは歩かない。見え方によっても人の心理は違ってくる。
 
 エスカレーターの片側空け問題を語る時、「片側を開けるべきだ」も「両側に乗るべきだ」も、全国のエスカレーターを一律で論じるのは愚かしい。
 
都会の込んでるエスカレーターと田舎の人もまばらなエスカレーター
込んでる時間帯、空いてる時間帯
駅のエスカレーターとデパートのエスカレーター
スピードが速いエスカレーターと遅いエスカレーター
近くに階段があるエスカレーターと無いエスカレーター
段差が大きいエスカレーターと小さいエスカレーター
主な利用者が若いビジネスマンのエスカレーターと高齢者のエスカレーター
片側空けの文化を知らない外国人が多いエスカレーターと少ないエスカレーター
 
 昔から言い古されている月並な言い方だが「時と場合による」。エスカレーターの片側空けはルールでもマナーでもない。人々が自分の都合と他の人の都合を考えて取った“ふるまい”の結果である。
 
 ネット上でこの問題を議論している人たちは一度、「私がイメージしていたのはこういうエスカレーターなんです」と言う反対意見の人にそこのエスカレーターに連れて行ってもらうといい。あなたはきっと「ああ、ここのエスカレーターなら片側空け(あるいは両側乗り)しようと確かに思いますわ」と言うだろう。
 
 私はエスカレーター片側空けの問題を議論するのがくだらないと言うのではない。そうではなくて、世の中には多種多様なエスカレーターがあるのにその違いを無視して、各人が銘々に自分が普段よく利用するエスカレーターを思い浮かべながら議論しているのが愚かしいということが言いたくて、この記事を書いた。
 

ビットコインを通貨として普及させる方法を考える 〜ビットコインピザデーに〜

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 米国のプログラマーLaszlo Hanyeczが世界で初めてビットコインで買い物をしてから今日で9年になる。
 
 この9年でビットコインの価値は飛躍的に高まった。Laszlo Hanyeczはピザ2枚を10,000BTCで買ったが今ならおそらく0.01BTC以下で買える。しかし、それはあくまでもピザ屋がビットコインを受け入れてくれればの話だ。
 
 世界でビットコインで買い物をしたことがある、という人は全然増えていない。あれから9年も経っているのに。この間、ビットコイン知名度は高まったが、依然として多くの人はビットコインを投機の対象として捉えている。
 
 私は以前よりビットコインは通貨として、つまり決済手段として広まってほしいと思っている。だが「ビットコインボラティリティ(価値の変動)が大きいから決済の手段としては向いてない」と言う人も多い。「ビットコインは単なる通貨ではない。他の機能がある」と言う人もいるし、「ビットコインは通貨というよりは金(ゴールド)である」と言う人もいる。それらの意見が正しいとしても、私はビットコインにもっと「通貨」として普及してほしい、と思っている。
 
 そこで、Bitcoin Pizza Dayの今日、どうやったらビットコインが普段使いの「お金」として使ってもらえるか、考えてみた。
 
 先ずは、支払われる側の問題がある。
 
 ビットコインでの支払いを受け付けます、という店が増えなければいけない。今のところは少ないが、これはもう少し増やすことができるのではないか。ビットコインを受け付けている店が少ないのは「ビットコインで支払われるのが嫌だから」というよりも「なんか難しそう」という理由で敬遠している店も多いと思われる。アプリとコンタクトレスまたはQRコードでもいいが、簡単なスキームを作って提供することで、受け付ける店は増えると思う。
 
 次に支払う側の問題がある。
 
 例えば今でも、ビックカメラのようにビットコインでの支払いを受け付けている店はある。そこに円とビットコインを持ってる人が買い物に行ったとして、円とビットコインのどちらで払うか。おそらく円で払うだろう。なぜかと言うと、ビットコインはそのまま手元に持っていた方が後々価値が上がるのではないか、という気持ちを持っている人が多いからだ。つまり、今ビットコインを持ってる人たちは買い物でビットコインを手放したくない、という強い心理が働いている。自分たちのウォレットに大切にしまい込んでしまっていることがビットコインの通貨としての普及を妨げている。
 
 なので、支払う瞬間に円からビットコインに変わるアプリを作ったらどうだろう。
 
 アプリの中で自分の銀行口座と結びついている。デビットカードのように使うことができる。支払いの具体的な方法は、NFCでもQRコードでもオンラインでも他の方法でも、それは何でもいい。1300円の品を買う時、買い物客はアプリに「1300円」と入力して送信ボタンを押す。「このレートで支払います。よろしいですか?」という確認画面が出るので「はい」を押す。
 
 買い物客の銀行口座からは1300円が即座に引き落とされるので、払っている方としては確かに円で払っている感覚である。そしてアプリがその場ですぐにその時点でのレートでのBTCに変換する。例えば2019年5月現在だったら、1300円は約0.0015BTCだ。店は0.0015BTCを受け取る。
 
 このアプリの肝は、支払う側が「あくまでも円で払っている」、「自分が所有しているビットコインを手放していない」という感覚が持てるところだ。
 
 ビットコインATMを決済アプリにするようなものだ。ビットコインATMは円やドルのような法定通貨からBTCに換えてしまうから手放したくなくなる。アプリで支払う瞬間にその時点でのレートで変換する。客は円で支払い、店はBTCで受け取る。
 
 実際、客側から出ていくのは1300円きっかりなので問題ない。問題があるとしたら店側の方で、レートの変動が大きく、瞬間的にかなり損な価格でBTCを受け取ってしまうかもしれない。だが、今の時期はまだ、多くの人が将来的にはビットコインの価値は上がっていくのでは、と思っている時期だから、瞬間的には多少安い価格で支払われてしまったとしても、長い目で見たらビットコインが手元に入ってくるのは得だと考えるのではないか。
 
 日本のCoincheck Paymentなどがやっているように、ビットコイン自身が抱える遅延や手数料の問題は運営会社が調整することで、店と客には負担をかけない。
 
 あとは、そのアプリを作って運営している会社が取る手数料はどうするのか、収益はどうやって上げるのかとか、法律上の問題はどうなるのかとか、考えなければいけないことは他にもいろいろあるが、とりあえず大まかにはこんなアプリが作れれば、ビットコインがもっとカジュアルに街の中に流れるのではないか。
 
 今はまだビットコイン決済手段として広まるか広まらないかの分岐点にある。こういうアプリを作ったらすぐに広まるというわけではないだろうが、きっかけにはなるのではないか。
 
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