漸近龍吟録

反便利、反インターネット的

颱風後の反応に見る「批判を許さない」日本人の思考体質

f:id:rjutaip:20190914204854j:plainNickyPeによる画像
 
 2019年9月9日に猛烈な勢いを持った颱風15号が関東地方を直撃し、死者こそ出なかったものの、交通機関の大混乱や千葉県での広域停電を齎した。
 
 このことに対するネット上の反応でたくさん見られたのが、「JR東日本東京電力の社員さんたちは懸命に復旧に向けて頑張っておられるのだから文句を言うな」「責めるのはかわいそう」「インフラのありがたみを感じろ」という声だった。
 
 例えばこれは、東電が復旧作業をしているというNHKのニュースに付いていたはてなブックマークの人気コメント。
停電42万戸余 東電 復旧見通しツイッターで順次公表 | NHKニュース

日頃お世話になってるインフラのありがたみを感じるべき場面で、あろう事か逆に復旧の遅れを責めるブコメまで出る始末。馬鹿につける薬はないね。都市の脆弱性より都市に住む人間の脆弱性の問題やで。

2019/09/11 11:32
 
 また、これは、JRの計画運休を「大失敗」と批判した鉄道評論家の冷泉彰彦氏の文章に対して付いたはてなブックマークの人気コメント。
JR「計画運休」の大失敗。台風直撃で露呈した低スキル首都・東京 - まぐまぐニュース!

事故無し&ケガ人も無し。「よくやった」でいいでしょ。

2019/09/11 11:47
JR「計画運休」の大失敗。台風直撃で露呈した低スキル首都・東京 - まぐまぐニュース!

はいはい。12時運行開始予定って案内しておいて、朝8時の時点で安全確認できていたら今度は「4時間も人の時間を奪った。もっと早く再開できたはずなのになぜそんなに待たせたのか!」っていうんだよねわかってる。

2019/09/11 13:09
 
 「JRや東電を批判するな。感謝しろ」と言う人の多さに、私はつくづく日本人には奴隷根性が骨の髄まで浸み込んでいるのだと感じた。
 
 批判はしてよいのである。批判があることで課題が見えてくるし、次回以降のより良い対策へと繋がっていくのである。
 
 「現場で作業に当たっている社員さんたちは睡眠時間たったの5時間で不眠不休で頑張っていらっしゃるんです!」と根性論を語る。
 
 批判というのは「睡眠時間5時間は長すぎる。4時間で対応しろ!」ということではない。一生懸命頑張っていらっしゃるんだから批判するな、というのは思考停止である。こういう日本人の思考体質は戦前から変わっていない。
 
「現場の兵隊さんたちは命がけで頑張っていらっしゃるんです」。
 
「失敗?そう?アメリカと日本の国力の差を考えれば充分頑張ってるほうだと思いますよ。現場では兵隊さんたちが必死で頑張っていらっしゃるのに、こんな時に感謝こそすれ批判なんかするべきではないと思います」。
 
 現代でこそ、戦時中の日本軍の作戦のまずさなどに対していろいろと批判があるが、戦時中は一切そうした批判は封じられていた。国によって封じられていただけでなく、国民自らが封じていた。
 
「なんで、私たちのためにあんなに命をかけて頑張ってくださっている兵隊さんたちに批判を向けるんだ!」            
 
 日本人の思考体質は戦時中からちっとも変わっていない。批判はしていいのである。批判をすることで問題点が見えてきて、「もっといい作戦があるんじゃないか」という風により良い方向に持って行けるのである。
 
「颱風なんだから文句を言ってもしょうがないじゃないか」
「戦時という非常事態なんだから文句を言ってもしょうがないじゃないか」
 
「ちょっとぐらいの、寒いとか暑いとかお腹空いたとか、それぐらいのことで文句を言うな!現場の兵隊さんたちはもっと苛酷な状況で働いてるんだよ!」
 
 流している汗水の量を元に批判してはいけないと言うのは根性論である。戦時中の日本軍は死に向かう間抜けな作戦を、まさに一生懸命汗水垂らして遂行していたのである。
 
 批判を向ける対象の違いというのもあるかもしれない。批判をする人たちはJR東の上層部、東電の上層部、日本軍の上層部、を思い浮かべながら批判をしている。「文句を言うな」と言う人たちは、「現場の作業員」を思い浮かべている。これからは批判をする人たちは、「JR東(上層部)」、「東電(上層部)」などと、いちいち「(上層部)」を付けて批判したらいいかもしれない。
 
 私は、この「批判を許さない」という日本人の思考体質が日本を弱くしていると思っている。戦争に負けるのも然り。サッカーワールドカップでも、監督や選手や戦略のまずさを指摘すると、「日本のチームを批判している反日分子はどこだ」となる。試合に勝ったら「日本は絶対負けるって言ってた奴どこ行った」となる。
 
 だから、日本軍も日本のサッカーもいつまで経っても弱いまま。颱風に対しても弱いまま。「あんなに一生懸命頑張ってくださってるのに、なんで責めるんだ。馬鹿につける薬はないね」と、汗水の量で批判を封じ込めてしまう日本人の思考体質が、日本を弱いままにしてしまっている。
 
 「JRや東電のせいじゃないだろ。颱風のせいだろ」、「颱風は自然のことなんだからしょうがないじゃないか」と言ってる人たちは、颱風は「自然のこと」でも電車の運行や電力の供給は「自然のこと」ではなく「人工のこと」である、ということが解っていない。
 
 より良くするために考えうるべきこともできることもたくさんあるのに、国民がこんな思考では、また次回颱風が来たときも同じように苦しむだけだろう。
 
 
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LINE Payが本命になるであろう理由

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 「ナントカペイ」が乱立している。20以上?いや、もっとありそうだ。その中でも、今のところユーザー数が多いのは、PayPay、LINE Pay、楽天ペイの3つだろう。
 
 もし、この3つの中で1つだけが覇権を握るとしたら、私はLINE Payが本命になるだろうと思う。私はLINEの回し者ではないが、以下、LINE Payが本命になるであろう理由をいくつか挙げてみたい。
 
1.使い始めのハードルの低さ
2.使える店の多さ
3.オンライン決済を押さえている
4.マーケティングの上手さ
5.給与支払いを睨んだ動き
 
 
1.使い始めのハードルの低さ
 LINEは、今では日本人のほとんどが使っているので、LINE Payは使い始めるにあたっての心理的ハードルの低さがある。
 
2.使える店の多さ
 メルペイ、au Pay、7pay、ゆうちょペイなどと比べても、圧倒的に使える店が多い。
 
 
 と、ここまではわりと普通の理由だが、LINE Payが本命になるであろう理由はこの先だ。
 
3.オンライン決済を押さえている
 LINE Payがすごいなと思うところは、流行りのQRコード決済だけ力を入れているのではなく、オンライン決済もしっかり押さえているところである。日本のQRコード決済ブームの「師匠」である中国でも、支付宝はオンライン決済をしっかり押さえている。日本人は形や見た目に捉われるので、日本ではオンライン決済は話題にすらなっていないが、いくら話題になっていなくてもそういうところをきっちり押さえているのはLINE Payはさすがだと思う。他の◯◯ペイの大半は、オンライン決済は疎かにしている。
 
4.マーケティングの上手さ
 ゆうちょペイが始まったとき、ツイッターで大々的なキャンペーンを行なった。今どき時代遅れな戦隊モノのゆるキャラを使い、「抽選で当たるかも!?」キャンペーンを実施。抽選結果をツイッターで応募してきた個々人のアカウントに報告していた。その結果、その時期にツイッター検索で「ゆうちょペイ」で検索すると、「残念ながら結果はハズレ」というツイートが何百何千と連なり、さながらスパムのような様相を呈していた。
 一方、同時期にLINE Payがツイッターでやっていたのは、「#ここがヘンだよLINEPay」というハッシュタグを使って、LINE Payの不満点、改善点をユーザーに指摘してもらうことだった。そして実際にユーザーからの要望に応えて、LINE PayをLINEアプリとは別個のアプリとして独立させた。
 さすが本業だけあって、SNSの使い方を熟知していると思った。このツイッターの使い方一つを取ってみても、LINEの巧さが際立つ。
 
5.給与支払いを睨んだ動き
 LINE Payが最近つくったサービスに「LINE Payかんたん本人確認」と「LINE Payかんたん送金サービス」がある。
 この二つは、いずれも将来的な給与のデジタルマネー支払い解禁を睨んだ動きだ。いずれもニュースとしての取り上げられ方は小さかったが、私は重要な動きと見ている。特に、本人確認は地味ながら重要で、LINE PayはNECと組んでこれを実現させている。
 給与のデジタルマネー払いが解禁されれば、会社は社員の銀行口座ではなく、LINE Payに直接、給与を送金することになる。その時に、今のうちに作っているこうした地味なサービスが生きてくる。
 
 
 と、LINE Payを褒めてばかりきたが、ひとつ疑問に思っていることがある。それは「LINEバンク」の存在だ。
 
 LINEとみずほ銀行が組んで「LINEバンク」を設立するという話がある。だがもし、給与のデジタルマネー払いが解禁になれば、会社は給与を銀行には振り込まず、社員のLINE Payに直接送ることになる。給与振込は銀行の大きな強みなので、それを奪うということはつまりLINE Payの存在は銀行の首を絞めるものになるはずなのだ。となると、LINEバンクは「給与の口座振込に頼らない形の銀行」を目指すのだろうか。
 
 ともかく、LINE Payは確実に未来を見据えている。
 
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ATMに並んでいる人

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 街なかで見かける。
 
 ATMに並んでいる人たちが気の毒だ。
 
 彼らは何を思って並んでいるのだろう。辛抱強く忍耐強く並んでいる。
 
 キャッシュレス社会に生きる未来の人たちはATMに並ばない。過去の人たちもATMには並んでいない。江戸時代の人も縄文時代の人たちもATMには並ばなかった。
 
 ATMなんかに並んでいるのは現代人だけだ。
 
 このように私が言うと、「しょうがないでしょう。私たちが生きているのは江戸時代でもなく22世紀でもなく現代なのですから。現代に生きる私たちは現代の流儀に従って生きていくしかないでしょう」と皆言う。
 
 だが、その「流儀」や「常識」はもっと簡単に変わる。百年後とか、そんな遠い未来に変わるのではない。
 
 昭和時代には、成人男性は皆タバコを吸ってるのが「当たり前」だった。職場でも飲食店でも。しかし一人の人生の間にその「当たり前」は劇的に変化し、今や吸わない方が当たり前になった。
 
 昭和時代には遠方の人にメッセージを送る時は葉書か手紙で送るのが「常識」だった。そこから電子メールが「常識」に取って変わるまで、ほんの十数年しかかからなかった。
 
 
将来の子ども「私のおじいちゃんはどうして亡くなったの?」
 
「おじいちゃんは、真夏にATMの列に並んでいて熱射病で倒れて亡くなったのよ」
 
子ども「そんなくだらない理由で亡くなったの?」
 
「まあ、そうねえ、当時はそれが普通だったから」
 
子ども「何のためにATMに並んでたの?」
 
「当時は今みたいにクレカや電子マネーで買い物ができる店が少なくてまだまだ現金が必要だったから、ATMに行ってお札を下ろす必要があったのよ」
 
子ども「じゃあ、ATMがたくさんあったの?」
 
「うん、今よりはずっとたくさんあったわね。でも、当時は銀行の経営効率化の名の下に、コストがかかるATMは急激に台数を減らされていたの。だから一台のATMにたくさんの人が並んでいたのよね。給料日とか連休前には長蛇の列ができるのがおなじみの恒例行事のような光景だったわね」
 
子ども「それで、おじいちゃんは20分も並んでて倒れたの?誰も不満は言わなかったの?」
 
「今はもう街なかでATMはほとんど見かけないし、今振り返ってみれば、ATMにあんなに長時間並んでいたのはあの頃だけだったわね。でもあの頃はあれが普通で当たり前のことだと思っていたのよ。誰もそれをおかしいことだとは思わなかった。しょうがないって思ってたわ」
 
 
 私が関心があるのは、いつだって今この一瞬のことだ。
 
 今の人は二言目には「コスパコスパ」と言う。ATMは設置と維持に大きなコストがかかると言う。銀行の経営改善、効率化のためにATMを減らしましょう、と言う。
 
 銀行は効率化するかもしれないが、人々の生活はどうなるのだ。たくさんの国民が何十分もボケーっと並んでいるのは効率が良いと言えるのか?
 
 充分にキャッシュレスで生活できる環境を整えてATMを無くすのでもない。ATMの台数を増やすのでもない。まだまだ現金を必要としている環境の中でATMの台数を減らしていく。
 
 「今は過渡期ですから」と言う。
 
 その過渡期に倒れた人の人生はもう二度と戻って来ない。
 
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西日本豪雨と熊澤蕃山

 平成30年西日本豪雨災害から一年が経つ。
 
 梅雨前線が長く停滞し、西日本の広範囲に渡って大きな被害を齎した。200名以上の人が亡くなり、家の全半壊1万棟以上、床上床下浸水3万棟以上の大災害となった。
 
 7月6日には岡山県でも大きな被害が出た。豪雨被害は、九州から始まり、西から順番に東へと移動して行ったため、順番から言って岡山県はほぼ最後の方だった。川が氾濫し、倉敷市真備町でたくさんの人が亡くなった。
 
 この災害の時に私が思い起こしたのは、約400年前、岡山の治水、治山に尽力した思想家、熊澤蕃山のことだった。
 
 岡山県という所は昔から「晴れの国」と言われるぐらい一年を通しての晴天率が高い。その一方で、一度雨が降ると水害が起こる。
 
 岡山県内には大きな川が三つあり、さらにはそれぞれの川の支流がある。中国山脈から瀬戸内海までの距離が短いため、おのずと川は急流になる。こうした構造は隣の広島県も似た感じになっている。そのため、岡山県は晴れの国であるにもかかわらず、歴史的にたびたび大きな水害に見舞われて来た。
 
 特に明治時代には大きな水害が立て続けに起こり、危機感を感じた宇野圓三郎という人が対策に乗り出した。今の岡山県の安全は、この時、宇野圓三郎が施した水害対策に負うているところが大きい。
 
 宇野圓三郎は、吉井川、旭川高梁川のような大きな川よりも、むしろ支川の方で氾濫、洪水の危険が高いということをすでに明治時代に指摘している。平成の大洪水で氾濫したのも小田川という小さな川だった。
 
 この宇野圓三郎が岡山県の人々に治水事業の重要性を説く時に口にしていたのが、江戸時代の思想家、熊澤蕃山の名だった。
 
 熊澤蕃山は江戸時代初期の頃の人。その思想は江戸時代の他の思想家の思想と比べて、国土を論じたところにその特徴がある。蕃山は国土、土木、治水といったことに関心が高かった。やがて、名君として名高い岡山藩藩主の池田光政に雇われることになり、長く岡山県に住んだ。
 
 江戸時代にも、岡山県はたびたび大水害に見舞われていた。特に承応三年の大水害は被害が大きかった。この時の大水害をきっかけに蕃山は旭川の氾濫から岡山の城下町を救うため、百間川という川を新たに“作った”。
 
 蕃山が指摘したのは、当時森林伐採が進み、山の保水力が弱くなっていることと、干拓によって水捌けが悪くなっている、ということだった。この二つによって河川の氾濫が起きやすくなっていると分析した。主著『集義外書』に次のように言う。
水上の水、流域の谷々、山々の草木を切り尽くして、土砂を絡み保留することがないから、一雨一雨に川の中に土砂が流入して、川床が高く、川口が埋もれるのである。その根本をよくしないで、末端だけのやりくりをしてはどうして成功しようか。(『集義外書』)
 行き過ぎた森林伐採によって山が一度禿げ山になってしまうと植林を進めてもうまくいかない。ふだん雨が降らない「晴れの国」であることが裏目に出て、なかなか木が育たないのだ。蕃山は藩主に進言し、山の行き過ぎた森林伐採をやめさせた。 
 
 しかし時代が経つと人々は教訓を忘れてしまう。
 
 明治時代には再び禿げ山が目立つようになり、上述の大災害が起こり、宇野圓三郎が立ち上がって、ふたたび治山治水事業を行った。宇野圓三郎は岡山の治山治水事業の大先輩である蕃山を尊敬しており、基本的には蕃山の思想を継承した対策を行った。
 
 岡山県には、江戸時代には熊澤蕃山、明治時代には宇野圓三郎がいた。そして水害とたたかい、治水の重要性を訴えた。そういう歴史があってもなお、今回の大水害を防げなかった。
 
 平成の大洪水の時は、山を禿げ山にしていたわけではなかった。真備地区は近隣の都会である倉敷市総社市ベッドタウンとして人口が増えて行った。住民の多くが昭和40年代以降に住み始めた比較的新しい街だったという。だからおそらく、そこがどういう経緯や由来を持った土地なのかという歴史を知ることがなかった。歴史が語り継がれなかった。土地の古老から歴史を聞くことがなかった。
 
 そうしたことが今回の大きな被害に繫がってしまったのだと思う。
 
 今年生誕400年の記念の年であることを契機にして、治山治水の大切さを訴えた熊澤蕃山の思想を見つめ直したい。二度とこのような悲劇を繰り返さない。そのためのヒントがきっとある。
 
 
(参考文献・サイト)
熊澤蕃山『集義外書』
宇野圓三郎『治水植林本源論』

富永仲基とビットコイン(後篇)

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Miloslav Hamříkによる画像 ) 
前篇はこちら

 

安藤昌益と富永仲基の共通点と相違点

 「忘れられた思想家」として有名な安藤昌益と富永仲基の共通点は、どちらも当時の権威である儒教を批判したところだ。
 
 では相違点は何か。
 
 安藤昌益の思想はもっと無政府主義的であり、政府や法律なんてものには縛られず、個人はもっと自由に生きるべきだ、という考え方だった。仲基は違った。仲基は儒教批判はしたが、幕府や法には抗わなかった。抗わないどころか逆に法や秩序を遵守して「当たり前」に生きることを説いた。
 

ビットコインコア開発陣とクレイグ・ライトの対立

 クレイグはビットコインコア開発陣と激しく対立している。対立の理由はいろいろあるが、その中の一つに思想の違いがある。
 
 ビットコインの中心的開発陣、ビットコインの草創期から携わっている人たちの中にはサイファーパンクの精神が流れている。
 
 サイファーパンクというグループの思想は、例えばグループの中心的存在だったティム・メイが1988年頃に起草し1992年に発表した「クリプト無政府主義宣言」に端的に表れている。
暗号学的手法は企業の意義、経済取引における政府介入の意義を根本から変えてしまう。勃興する情報市場と相まって、「クリプト無政府主義」は言葉と画像に置き換えられるいかなるもの、すべてのものの流動市場を作り出す。(中略)立ち上がれ!「有刺鉄線」のフェンス以外に失うものはないのだから。(一部を抜粋、訳文はコインテレグラフジャパンより引用)
 この檄文に感銘を受けて立ち上がった人たちが黎明期のビットコインに関わって来た。彼らの思想は、政府や大企業といった既存の権威に立ち向かおう、政府に管理され法律に縛られるのはまっぴらだ、個人はもっと自由になろう、という思想である。
 
 クレイグもまた、サイファーパンクのメンバーの一員であったにもかかわらず、クレイグはこういう思想には賛同していなかった。クレイグは政府や法律の枠組みに従って生きることをたびたび主張している。
 

対比の構図 

 安藤昌益と富永仲基は同時代人だが、互いに面識はなかったと思われるので対立していたわけではない。だがこうして見ると、思想面での対比の構図が見えてくる。すなわち、
 
安藤昌益=ビットコインコア開発陣
 
富永仲基=クレイグ・ライト
 
である。
 
 安藤昌益=ビットコインコア開発陣は法と政府の支配に抵抗する無政府主義的思想であり、富永仲基=クレイグ・ライトは法と秩序を重んじる。
 
 私には、ビットコインコア開発陣に対するクレイグが、安藤昌益に対する仲基に見える。
 

仲基とクレイグの“秘匿”に対する考え方 

 クレイグが仲基を好きな理由は他にも考えられる。それは“秘匿”に対する考え方である。
 
 仲基は、儒教、仏教だけではなく神道も批判したが、その批判方法として「秘匿批判」を行なった。例えば、仲基が残した次のような言葉に見える。(※現代語訳は筆者による。)
扨又神道のくせは、神秘・秘傳・傳授にて、只物をかくすがそのくせなり。凡かくすといふ事は、僞盜のその本にて、幻術や文辭は、見ても面白、聞ても聞ごとにて、ゆるさるゝところもあれど、ひとり是くせのみ、甚だ劣れりといふべし。それも昔の世は、人の心すなほにして、これをおしえ導くに、其便のありたるならめど、今の世は末の世にて、僞盜するものも多きに、神道を教るものゝ、かへりて其惡を調護することは、甚だ戻れりといふべし。
 
現代語訳(さてまた神道の悪い「くせ」は、神秘・秘伝・伝授などと言って、モノを隠すところである。だいたい隠すということは嘘や盗みの元であって、仏教徒の幻術や儒教徒の言葉巧みは見たり聞いたりして面白いところがあるのでまだ許されるけれども、神道のこのくせは駄目である。それも昔だったらまだ人々の心も素直だったので、教え導く便利な方法としてアリだったのかもしれないけれど、今は末の世で、嘘をついたり窃盗する人間も多いのだから、神道を教える者は却ってその悪を擁護することになってしまっている。これは甚だ道理に反することだ。)(『翁の文』第十六節)
 こういうところにも、クレイグが仲基を好きな理由があるように思われる。クレイグはビットコインの匿名性を強く批判している。
 
 ビットコイン開発陣は、今、どちらかと言えば、ビットコインにもっと匿名性を持たせよう、という方向に向かっている。個人のプライバシーは大事であり、プライバシーを守るためにも、ビットコインにはもっと匿名性を高める技術を加えるべきだ、というのがビットコイン開発陣の主張である。
 
 しかし、仲基とクレイグは、この「秘匿」が嫌いなのである。そして、クレイグが最も気に入っている仲基の言葉「隠すことは嘘つきと窃盗の始まりだ」に繫がるのである。
 
 ただ、クレイグはけっしてプライバシーを嫌ってはいない。どういうことなのか。
 

クレイグの匿名とプライバシーの考え方 

 クレイグはプライバシーを嫌うどころか、プライバシーをとても重視している。プライバシーを大切にしたいといつも言っている。
 
 ビットコインの開発に携わっている多くの人々は、「匿名=プライバシー」と考えている。だからゼロ知識証明やコインジョインのような匿名化技術を推し進めようとしている。
 
 クレイグの中では、匿名とプライバシーは分かれているのである。二つを別のことだと捉えているからこそ、プライバシーは守るべきものだが匿名化は止めるべきもの、という考え方に至る。
 

富永仲基のビットコイン

 「富永仲基とビットコイン」というタイトルで書いてきたが、なんだかクレイグ・ライトの擁護記事のようになってしまった。
 
 冒頭の疑問に戻って、クレイグは富永仲基の著書を読んでいるかだが、私は読んでいるだろうと思う。そうでなければここまで自分の思想と合致する人物をなかなか引っ張っては来れない。仲基の主著のうち『出定後語』はともかく『翁の文』は間違いなく読んでいるだろう。
 
 サトシ・ナカモトの由来が江戸時代の思想家、富永仲基だとすると、ビットコインは富永仲基の思想が具現化されたもの、と言えなくもない。
 
 300年の時を超えて…。
 
 富永仲基は現代の日本でもほとんど知られていない思想家である。ネット検索で「富永仲基」と入力すると第2ワードに「天才」と出てくる。数少ない富永仲基のことを知っていて関心を寄せている人たちは、仲基のことを天才と見なしているということか。たしかに18世紀前半の日本の思想家としては異色の存在であり突出していた。
 
 今、ビットコインコミュニティでは、新たな匿名化技術を導入すべきか否かが議論になっている。富永仲基がビットコインのことを知ったらどう思うだろう。やっぱり匿名化には反対するだろうか。
 
 匿名化は政府に対する市民側の強力な武器になる。しかし同時に犯罪にも使われやすくなるという反面がある。仲基は嘘を言ったり盗んだりする人が多いことを危惧していた。幕府の教えを批判しつつも、法や秩序は守らなければいけないという考え方だった。富永仲基のビットコイン、それは「法や秩序に従うビットコイン」を意味する。
 
 国に協力的にも敵対的にもなり得るビットコインの存在をどう考えればいいのだろう。私にはまだビットコインの立ち位置がよく解っていない。どこまでビットコインの独立性を保ち、かつ犯罪に使われる可能性を小さくしていくか、というのは難しい問題だ。奇しくもビットコインの発明者に“なった”富永仲基に考えを聞いてみたい。
 
前篇はこちら↓

富永仲基とビットコイン(前篇)

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江戸時代のビットコインの発明者?

 富永仲基という江戸時代の思想家がいる。この富永仲基とビットコインが関係している、と言ったら驚かれるだろう。江戸時代にはビットコインなんて無かった。勘のいい読者の方は「仲基(なかもと)」という名前にピンと来るかもしれない。今回はこの富永仲基とビットコインの関係について思想の面から探っていく。書いていたら長くなってしまったので二回に分けて。
 

登場人物基礎知識 

【サトシ・ナカモト(Satoshi Nakamoto)】
 ビットコインの発明者とされる人物。正体不明。国籍、性別、年齢等、一切判っていない。個人なのかグループなのかも明らかではない。英語を使う。2011年頃から表舞台から姿を消している。
 
【クレイグ・ライト(Craig S. Wright)】
 2016年に「私がサトシ・ナカモトだ」と名乗り出た1970年生まれのオーストラリア人男性。草創期の頃よりビットコインの存在を知っていたようだが、自分がサトシ・ナカモトであることを証明できていない。世間の反応は「偽者だ」という声が多い。
 
【富永仲基(とみながなかもと)】
 18世紀の日本の思想家。八代将軍徳川吉宗の頃の人。大坂の有名な私塾「懐徳堂」で学ぶ。31歳の若さで亡くなるも、後に一回り年下の伊勢の思想家本居宣長に評価され、その名を知られるようになる。
 

「自称サトシ・ナカモト」が語った名前の由来 

 ビットコインの発明者「サトシ・ナカモト」が誰であるのかは長年謎だった。今でも謎である。
 
 クレイグ・ライト(以下、クレイグ)が「私がサトシ・ナカモトだ」と名乗り出た時は驚いた。が、それ以上に驚いたのは、彼が語った「サトシ・ナカモト」という名前の由来である。
 
 「なぜ、日本人みたいな名前なのか」。これは私たち日本人は特に気になるところだ。サトシ・ナカモトはネット上で活動していた頃は日本語を使ったことはなく流暢な英語しか使っていない。
 
 クレイグが「サトシはポケモンの主人公『サトシ』から。ナカモトは18世紀の日本の哲学者『トミナガナカモト』から取った」と言った時は衝撃を受けた。
 
 クレイグは富永仲基を知っているのか?
 
 いや、その前にポケモンには一体どのような深い意味があるのか。それにその理屈から言うなら、名字+下の名前なのだから、「トミナガサトシ(Satoshi Tominaga)」にするべきだったのでは?なぜ、下の名前と下の名前を繫げたのか。
 
 だが紛らわしいことに「なかもと」という名前は日本人の下の名前としては珍しく、むしろ名字っぽい名前であることから「なかもとさとし」という名前の人は普通に居そうではある。
 
 ポケモンの方は私はよく分からないが、富永仲基の方は興味深い。
 
 クレイグ・ライトが言ってることがそもそも全部嘘だったら、この先の話はすべて成り立たない。以降の話は「クレイグが嘘を吐いていないとしたら」という前提での話になる。
 

クレイグ・ライトはどこまで富永仲基を知っているか 

 クレイグはどこまで富永仲基のことを知っているのだろう。仲基の著書を読んだのだろうか。
 
 クレイグは、富永仲基に関して次のように発言している。
「Tominaga taught us that “concealment is the beginning of the habit of lying and stealing.”(富永は語った。「隠すことは嘘つきと窃盗の習慣の始まりである」と。)」

( Satoshi Nakamoto - Craig Wright (Bitcoin SV is Bitcoin.) - Medium より)

 これは、仲基の主著の一つである『翁の文』に出てくる次の部分のことを指していると思われる。 
「凡かくすといふ事は、僞盜のその本にて、(『翁の文』第十六節)」 
 ということは、クレイグはやはり仲基の著書をしっかり読んでいたのか。と言うと簡単にはそうとも言い切れない。ウィキペディア英語版の「富永仲基」のページに「As he always said, "hiding is the beginning of lying and stealing”.(彼はいつも「隠すことは嘘つきと窃盗の始まりだ」と言っていた。)」と書いてあるのだ(2019年5月確認)。仲基の数ある言葉の中からここだけをピックアップして引用していることを考えると、単に「ウィキペディアで見た」という程度の知識である可能性もある。
 
 つまり、クレイグは自分が「サトシ・ナカモト」であると偽るために、「どうしてナカモトというハンドルネームにしたんですか?」と聞かれたとき用に、ウィキペディアで「Nakamoto」で検索してみた。そうしたら18世紀の日本の哲学者で「Nakamoto Tominaga」なる人物がいることを発見し、その哲学者の思想と言葉が気に入ったからなのだ、というもっともらしい理屈を構築した。と、そういう可能性がある。
 
 大嘘吐きのクレイグ・ライトがウィキペディアで見つけた知識を強引にこじつけて、もっともらしい理屈を作り上げた。この結論でこの話は終わってもよさそうである。
 
 ところが、富永仲基の思想をもっと深く探っていくと、クレイグと仲基の関係が単なる「無理やりなこじつけ」とも言えない関係であることが見えて来るのである。よく富永仲基を見つけてきたなというくらい、仲基とクレイグの思想的立ち位置はよく似ている。
 

富永仲基とクレイグ・ライトの3つの共通点 

 クレイグ・ライトと富永仲基には、その思想に共通点がある。以下、大きく3つの共通点をあげる。

 

1. 時代の常識に挑む 
 仲基は、当時の日本の常識であった儒教を批判した。儒教儒学)は徳川幕府が唯一公式に認めた学問であり、どのような学徒であっても儒教批判など到底認められない時代に批判を展開した。
 
 クレイグは当人が嘘を吐いていないとすれば、ビットコインを創った。これは今までの常識であった法定通貨への挑戦である。
 
2. 批判する対象のグループメンバーだった 
 クレイグは無政府主義的な思想を強く批判しているが、自身が無政府主義的思想を持った人間の集まりであるサイファーパンクというグループのメンバーだった。
 
 仲基もまた、批判の対象であった仏教を学んでいた。仏教を学ぶというのは、当時は(今でもそうだが)、仏の道を信じ、より深く仏教について学びたいと思う者が学ぶのが普通だった。だが仲基は違った。仲基はあくまでも仏教の外にいた。仲基は仏教徒でもなく仏教を信仰しているわけでもなく、あくまで学びの対象として捉えて勉強していた。そして後にその該博な知識でもって仏教批判を展開するのである。そもそも仲基が在籍していた懐徳堂にしても儒教を教える塾である。そんな塾のメンバーとして在籍しながら、後に儒教批判を展開するのである。
 
3. 法と秩序に従って「当たり前に生きよ」と説く 
 仲基は当時の常識である儒教を批判したが、にもかかわらず、政府や法律や常識には逆らわず「当たり前」に生きなさい、と言った。
今の世の日本に行はるべき道はいかにとならば、唯物ごとそのあたりまへをつとめ、(『翁の文』第六節)
 
 クレイグもまた、ビットコインを創っておきながら、政府や法律には従って生きなさい、という考えを主張している。
 
 
 この3点が二人の共通点だ。ただ、これだけではそれほど「似ている感」が伝わらないかもしれない。もっと似ている感を感じてもらうために後篇では、対比の対象として安藤昌益にご登場いただこう。
 
後篇はこちら↓
 
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デジタル化とは何か

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 最近の政府のデジタル化に関する施策を見ていると、「デジタル化」を勘違っているのではないか、デジタル化とは何かということが解っていないのではないか、と心配になる。
 
 政府が今進めている「デジタルガバメント実行計画」。私は当初、この計画に賛成だった。特に横の連携を重視する「コネクテッドワンストップ」の理念に大きく共感していた。
 
 今でも、
 
1. デジタルファースト
2. ワンスオンリー
3. コネクテッドワンストップ
 
の三原則の内、2番と3番に関しては賛成である。
 
 だが。1番の「デジタルファースト」が気になる。
 
 政府の人間は「今どき紙なんてもう古い。これからはデジタルの時代です」と言って、あらゆる手続きを紙からデジタルに移行しようとしている。もし「デジタルファースト」の意味が「紙からデジタルへの移行」を意味しているのなら、私はこの計画には反対である。
 
 「デジタル化」とは、当然にデジタルでもできなければいけない手続きをデジタルでもできるようにすること、である。
 
 紙をなくすことには大きく二つの害がある。
 
一つは、デジタル機器の操作が苦手な高齢者が困ること
二つは、ネットの大規模障害があった時の代替手段がなくなること
 
である。
 
 世の中にはパソコンやスマホの操作が苦手な高齢者がいっぱいいる。これを「老害」と言って切り捨ててはいけない。
 
 また、インターネットの大規模通信障害や大規模停電といったことは過去にも起こっていることである。そうした非常時にも手続きができるよう、紙の手続きは残さなければならない。
 
 これはちょうどかつて「バックアップ」を誤解していた人たちに似ている。
 
 昔はパソコンがよく壊れた。それでパソコンの中に保存していた写真などのデータが取り出せなくなることがよくあり、「バックアップ」の重要性が言われた。その時にパソコンの中のデータを外付けハードディスクなどに移して、「バックアップした」と言っている人がたくさんいた。バックアップとは、カット&ペーストではなく、コピー&ペーストである。「移行する」のではなく、同じデータを二つ以上の場所に同時に保存しておくことである。
 
 それと同じような誤ちを政府は繰り返そうとしている。
 
 デジタル化推進担当には、政府内でもITに詳しいデジタル好きな人が選ばれるのだろう。そういう人に任せると、「紙なんて今どき古いから、ぜんぶデジタル化しましょう」と言って、紙を廃止する方向に持って行く。
 
 今の人は、すぐに「コスパ」、「効率化」と言う。たしかにデジタルと紙の並立はコストがかかる。効率も悪いかもしれない。だが、コストがかかっても、やらなければいけないことはやらなければいけないのである。
 
 デジタル化はそれが「便利」だから進めるのではない。当然にやらなければいけないことだからやるのである。
 
 今、日本の会社内では、ほとんどの手続きがデジタル化されている。ところが役所だけが、平日の日中に(!)役所まで足を運んで何枚もの紙の申請用紙に記入しなければ手続きをしない、と言って、会社勤めの人たちを徒に苦しめている。
 
 ヨーロッパのいくつかの国ではとっくにデジタル化(手続きのオンライン化)がなされており、技術的に決してできないという話ではない。
 
 デジタルの手続きと紙の手続きは両方なければいけない。「デジタル化」ということをなんとなく「紙からデジタルに移行すること」と捉えていたら、大きく道を誤る。
 
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