漸近龍吟録

反便利、反インターネット的

ゴーン出国事件に見る日本の2つの病理

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 2019年大晦日カルロス・ゴーン被告(以下、ゴーン)が日本を出国してレバノンにいる、というニュースがあった。
 
 この事件を受けて、NHKがゴーンの弁護を担当する弘中弁護士にインタビューしたニュ―ス。ゴーン被告の弁護士が取材に応じる「寝耳に水でびっくり」 | NHKニュース
 
 このニュースに対して、NewsPicksで肩書きが「弁護士」となっている人たちによる同業者擁護の意見の数々。
 
「当然だろう。一私人たる弁護士がゴーンの逃亡を完全に防ぐことは不可能である。」
「事前に知らされていた筈がないです。」
「弘中弁護士が知っているはずがないです。」
「当然、知らないでしょう。せっかく勝ち取った保釈だったのに、海外逃亡をされるというのは弁護士にとって裏切られたようなものですから。私には幸いにして経験がありませんが、保釈中の被告人に逃げられて「メンツ丸つぶれになった」と嘆いていた弁護士が何人かいました。」
 
 知っていたか知らなかったか、が問題なのではない。コメントを求められて「寝耳に水でびっくりした」などという、そこら辺の通りすがりの一般人のようなコメントをしていることが問題なのである。そこら辺を歩いている一般人に「ゴーンがレバノンに出国したそうですけどどう思いますか?」とインタビューしたら、「びっくりした」「驚いた」と皆言うだろう。
 
 責任の一端がある関係者でありながら、そこら辺の一般人のようなコメント。またその酷いコメントに対する同業者たちのこれまた酷い擁護コメントの数々。「裏切られた」とか、急に被害者のような物言い。
 
 弁護士たちは一体何のために仕事をしているのだろう。「メンツ丸つぶれ」。ああ。言っちゃった。正直と言うのか何と言うか。この人たちは自分のメンツのために仕事をしているのか。そこら辺の一般人と同じことしか言えないなら弁護士の資格を返上したらどうか。
 
 法律家たちは、何か出来事に対してコメントを求められた時に「罪に問われる可能性があります」とよく言う。私はそれを聞くたびに何とつまらない戯言だろうと思う。罪に問われたら何なのだ。罪に問われようが、それは罰を伴う、ということとセットになっていなければ意味はない。罰が伴わないのであれば、法を踏み倒す方法があるのであれば、人は法律を無視するだろう。ゴーンにとっては端金のたった15億円だかの金を払えば堂々と逃げさせてもらえるのなら逃げるだろう。
 
 また、これは、12月31日昼頃の第一報に近いニュースで、NHKが“関係者”たちにコメントを取って回ったもの。ゴーン被告 出国か “レバノン到着”報道 保釈条件は渡航禁止 | NHKニュース
 
弁護団「何も知らない」
検察幹部「把握していない」
法務省幹部「確認中」
外務省幹部「把握していない」
日産幹部「驚いた」
 
 見事なまでの、把握していない、驚いた、のオンパレード。これが日本の無限無責任の体系。
 
 NewsPicksに集まっている弁護士たちもおそらく勘違いをしている。「本当は知ってるのに知らないって嘘ついてるんじゃないですか?」と問われていると思っているのだろうか。だから仲間たちまで集まって「本当に何も知らないんだって!」と言っているのか。そうではなくて、「把握しているべき立場なのに『何も知らない』では駄目なんじゃないですか?」ということが問われているのだ。それが解っていないから上記のようなコメントになってしまう。
 
 通りすがりの一般人でも、「ゴーンがどうやって出国したかご存知ですか?」とインタビューされたら「知らない(把握していない)」と言うだろう。
 
 すべての人、機関が、「自分の仕事の範囲はここまで。その先は知ったこっちゃない」という態度である。だからこういう事態が起こっても、みな他人事であり、誰も責任を取ろうとしない。真っ先に「知らない」「聞いてない」と言うことで自分のところに責任が降りかかってこないようにすることを第一に考える。と言うか、それしか考えていない。
 
 この無限無責任の体系が日本の第一の病理。
 
 二つ目は、「長い物には巻かれろ」という諺に表される「弱きに厳しく、強きに甘い」という国民性。
 
 先日の熊澤蕃山の記事でも書いたが、生活保護を受給しているような貧しい人たちに対しては「生活保護なめんな」と言うくせに、相手がゴーンのようなVIPになると途端に何も言わなくなる。ネットでこの事件に対するコメントをいろいろ見てみたが、「映画化決定*1」「何か面白そうなことになってきたな」などと茶化すのが精一杯で、誰も「日本の法律なめんな」とは言わない。こういう時こそ「日本の法律なめんな」というジャンパーを作ってみんなで着たらどうですかね、日本のお役人さんたち。
 
 紛争や貧困に苦しむ外国人が入国しようとして来ることに対しては「不法入国だ」と言ってあんなに厳しく取り締まるくせに、相手がVIPだったら堂々と空港から飛び立たせてあげる。
 
 どこまでも無責任な態度と、強い者に対するほど寛大になる姿勢。この2つの病理を治していかないかぎり、日本の病はますます深刻になるばかりだ。

*1:映画化なんて茶化される前にゴーン側が準備している。

「儒服を着けた英雄」熊沢蕃山と現代の“無告“の人

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目次

 

現代の生活保護バッシング

 貧困と貧乏は違う。
 
 貧乏は単にお金がない、という意味だが、貧困はお金以外にも社会的リソースがないことを意味する。お金だけでなく、人脈、知識、経験、方法、手段、体力、健康がない。
 
 「無告の民」という言葉がある。「告げることができない」、あまりに何も無さすぎて苦しみを訴えることすらできない人、という意味の言葉だ。
 
 この「無告」という言葉がどれくらい古くから使われているかわからないが、江戸時代前期には思想家の熊澤蕃山が著書の中で使っている。
 
 「生活保護バッシング」というものがある。生活保護を受給して暮らしている人たちのことをネット上などで叩いたり馬鹿にしたりすることだ。
 
 以前、NHK生活保護で暮らしている女子高校生が取り上げられたことがあった。取材のカメラが入ったその高校生の部屋にアニメグッズやらエアコンやら、やや高価なものが映っていたことから、炎上に発展し、大きなバッシングが巻き起こった。生活保護を受けるほど「貧しい」はずの人が、なんでそんな高価な物を持っているのか。実際にはそんなに貧しくないのに生活保護の申請をして金を不当にせしめているのではないか。そういう声がネットを中心に起こった。
 
 一頻りバッシングの嵐が巻き起こった後に、「生活保護バッシングは醜い」という反対側からの批判の声も上がった。
 
 NHKで取り上げられた女子高校生の例はほんの一例であって、他にも多くの生活保護バッシングがある。2017年には小田原市の職員が「HOGO NAMENNA(保護なめんな)」などと書かれたジャンパーを着ながら業務を行っていた事件があった。いったいいつから日本人はこんなに醜くなってしまったのだろう。現代の日本人は随分と見下げたものだ。そう思っていた。
 
 しかし最近、江戸初期の思想家、熊澤蕃山の著書を読んでいたら、今の時代の生活保護バッシングとまったく同じような状況を目にし、蕃山がそれを嘆いていた。
 
 日本人のこういう醜い性根は少なくとも400年前からあったわけだ。
 

『集義外書』に見る400年前の“生活保護バッシング”

 現代の生活保護バッシングとほぼ似たようなことが江戸時代にもあった。江戸初期の思想家、熊澤蕃山が著書『集義外書』に記している。少し長くなるが引用しよう。原文では読みづらいと思うので筆者による意訳で紹介する。
 
凶作の年に民が飢えている。職を望む者が男女となく道路に溢れ、「給料はいらないから雇ってご飯をください」とお願いしても、雇ってくれる人は誰もいない。乞食や捨て子をたくさん見ても武士たちは「かわいそう」と言わない。百姓の民が食べるものがなくて草を食べたりすることがある。そんな状態でも乞食にさえならなければ、「ほら、百姓どもは貯蓄があるから乞食にならないのだ」と武士たちは言う。百姓の民はいったいどんな仇があってこんなに憎まれなければならないのか。
武士は安定した給料をもらってるから、たとえ凶作の年であったとしても「難儀だ」と言うだけで飢えることはない。百姓は一年中苦労して作ったものを残らず年貢に取られ、そのうえ年貢が払えない者は催促され、妻子を売らされ、田畑山林牛馬まで売らされて、家庭は崩壊し、流浪し、行方知れずの者は乞食となり、運良く村里に居場所を見つけたとしても、凶作の年には餓死を免れない。ひどいのに至っては、財産の有無に関わらず、水責め、簀巻き、木馬などの拷問にかけられる。これによって、病死したり、あるいは病人になって働くことができなくなってしまうこともあるが、憚られることなので訴えることもできない。百姓の家でも50〜100家の中に1、2家は富裕の家がある。これを見て武士たちは「百姓は生活に余裕があって奢っている」と言っている。豊作の年には薪藁や木の実を売って、祝い事の時には酒肴を求めることもあるだろう。祝いの席には大勢の人が出席するので一つの村から一人か二人ぐらいの出席でも、城下町でこれを見たらたくさんの人が出席しているように見えるだろう。こういう光景を見て武士たちは「百姓たちは蓄えがある」と言う。百姓も人である。こんなことまでしてはいけないというのは、あまりに「不仁(思いやりがない)」である。春から冬に至るまで、朝から晩まで、一年中苦労して、私たち武士を養ってくれている人たちなのだから、そんな百姓の人たちが少しの酒肴を求めるのは本来なら喜ぶべきことなのに、それを非難するのは、武士の品性が下がって卑しくなってしまったからである。武士の若い人たちは、幼い頃から大人たちがそのように百姓を非難しているのを聞いて、そういうものだと思い込んでしまっている。よくよく己の心に省みてみれば恥ずかしいことではないか。社会全体が卑しくなってしまったからだ。嘆かわしいことである。
 
 どこかで見覚えのある光景だ。現代にそっくりである。武士たちが、百姓が祝いの席で料理を楽しみ酒を飲んでいるのを見て、「どこにそんな金があるんだ。百姓どもは困窮しているんじゃなかったのか」と言っている。そういう、武士たちによる百姓バッシングを蕃山は嘆いている。
 
 ふだん生活に困窮している女子高校生の部屋にパソコンがあるのが、一瞬テレビに映り込む。ふだん生活に困窮している百姓がたまに祝事の席で料理や酒を楽しんでいるところが目撃される。その「一瞬」を見た人たち、武士たちが、「どこにそんな金があるんだ。やっぱり困窮していると言っていたのは嘘だったのか」、「貧困詐欺。私たちかわいそうかわいそう詐欺。贅沢する金があるんじゃん」と言う。
 

「儒服を着けた英雄」

 400年前と現代とそっくりである。
 
 蕃山は「なぜ百姓たちはこんな風に言われなければいけないのか」と憤っている。百姓たちだってそりゃ偶にはささやかな贅沢をすることもあるだろう。百姓が祝席で酒や料理を楽しんで何がいけないのか。その程度の楽しみがない人生を誰が耐えられるだろう。ささやかな贅沢を許さず、そのような一端を見て、普段の困窮を嘘だと言う。
 
 自らも武家である蕃山が武士の品性の堕落を批判している。
 
 日本人の性根が400年前から変わっていないことがよく分かる。400年も経って成長なし。生活保護を受給して暮らしている貧しい人たちの映像を見て、「ゲーム機はあるんだ」「スマホは持ってるんだ」「旅行に行くお金はあるんだ」と小さな贅沢を論う。「そういう物を買うお金はあるのに生活保護を受給してるんだ」とイヤミを言う。
 
 蕃山の言葉を借りれば、貧しい人たちが小さな贅沢にありつけたのなら「よかったね」と言ってあげるべきところだ。貧困家庭の人だって現代に生きているのだからそりゃエアコンもスマホも必要だろう。たまには「遊び」もしなければ生きていくのがあまりにもしんどいだろう。
 
 自分たちより上ではなく下の方に攻撃を向ける。これを蕃山は嫌った。蕃山は武士、すなわち自分の身分に厳しい目を向けることができる人だった。勝海舟が「儒服を着けた英雄」と評した理由がわかる。
 

400年変わらない日本人の性根 

 こうして見ると、自分の立場には甘く、自分より下方の人間に攻撃(口撃)の矛先を向ける心根は、昔の日本人も今の日本人も変わっていないように見える。
 
 私が『集義外書』を読んで新鮮に感じたのは、現代の「生活保護バッシング」に見られるような弱者叩きが、400年前にも行われていたことを知ったことだった。しかも、酒肴を楽しんでいる百姓を見て「あの人たちは貧しいと言いながら酒を飲む金はあるんだ」と武士たちがイヤミを言う姿は、現代人が「いま一瞬、部屋にゲーム機が置いてあるのが映った。生活保護を受給していながらゲーム機を買う金はあるんだ」とイヤミをつけるのとまったく同じである。
 
 こうした性根は、日本人が人として落ちぶれてしまったからだと考えていたが、いつの時代にも400年前にもいたということだ。そして蕃山は、そういうことを言う武士を「武士の心くだりて、いやしく成たる」と厳しく糾弾している。
 
 「拷問にかけられ、病気になって働くことができなくなってしまうこともあるが、憚られることなので訴えることもできない。」こうした人のことを蕃山は「無告の民」と呼んだ。誰にも自らの窮状を告げることができない人だ。
 

無告の人にもっと目を向けていこう

「こんな厳しい社会で生き抜いていくには、自分の力で人生を切り拓いていかなきゃ」
「自ら『助けて!』と声をあげなきゃ」
 
 そう言う人もいる。そう言う人は、本当に奈落に突き落とされている人、生き地獄の渦中にいる人は助けて!という声をあげることもできないし、仮にあげたとしても地上まで遠すぎてまったく届かない、誰にも聞こえない、のだということが解っていない。
 
 声をあげる発声機関を持っていない。声が届く範囲のところに誰も人がいない。
 
 「昔はそうだったかもしれないけど、今はインターネットもあるわけだからツイッターとかで声を発信できるじゃないか」と言う人もいる。だがツイッターのフォロワー数は0人なのである。フォロワー数0人のツイッターで声をあげて、いったい誰の耳に届くのか。YouTubeチャンネルを開設しようにもカメラを買う金もない。なんとか動画公開まで漕ぎつけたとしても、高評価ゼロ、低評価ゼロ、コメントゼロ、再生回数ゼロ。YouTubeにもツイッターにもこのような誰にも見られていないアカウントはたくさんある。発信しても誰にも届かない声なき声だ。
 
 「告げることができない」というのは単に「発信できない」という意味ではない。発信できたとしても誰にも届いていないのだったら意味はない。それも「無告」なのである。
 
 現代にもたくさんの「無告」の人がいる。苦しみを訴えることすらできない人々。たまにがんばって発信しても、バッシングによってその声は押さえ込まれてしまう。
 
 蕃山の時代から400年。私たち人間はもうちょっと成長していいのではないか。形を変えて400年前と同じことを繰り返しているのは能がない。
 
 蕃山はこうした無告の人々に目を向けた。そして口ばかりでなく実際に、川の上流に森林を養成したり河川を改修して水害を減らし、人々を苦しみから救う活動をした。
 
 今から400年前の日本に生まれた、この先駆的思想家の視点に現代の私たちは目を向けなければならない。
 
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頭の固い明治時代人とライト兄弟

 
 常識に捉われた物の考え方しかできない頭の固い人間が嫌いである。
 
 何か提案したり批判したりする度に「そんなのは理想論だ」とか「そんなのできっこない」と言う人たちは現代にもたくさんいるし、昔もたくさんいただろう。
 
 彼ら頭の固い現実主義者たちの口ぶりは大抵決まっている。
「そんなのできっこない」
「現実問題として」
「常識的に考えて」
「そんなのは理想論」
 

 
 明治時代の人たちの会話。
 
「というわけで今度みんなでアメリカに行くことになりました」
 
(私は船は苦手なので乗りたくありません)
 
「そんなこと言ってもしょうがないでしょう。船に乗らないでどうやってアメリカに行くんですか」
 
「あなた一人だけ泳いで行きますか?それとも空を飛んで行くの?(笑)」
 
「空を飛ぶなんて無理。人間にはそんなことは絶対できません。」
 
「未来永劫、人間が空を飛ぶなんてあり得ません。ええ、断言できますよ。なぜなら過去、人類の長い歴史の中で空を飛んだ人間なんて一人もいないからです。考えてもごらんなさい。あなたは空を飛べたらいいなと思ってるかもしれないけど、あなたが考える程度のことは、世界にも同じようなことを考えている人が他にたくさんいるんですよ。それなのに現に空を飛ぶ方法は無い。なぜだと思いますか?不可能だからです。これぐらいのこと、私がいちいち説明しなくても、ちょっと考えればわかりそうなものだけど…」
 
「あなたは無知だから知らないでしょうが、大英帝国ニュートン博士という人が『重力』というものを発見したんです。重力という力であらゆる物体は地面に引きつけられているんです。だから人間も飛べないし、機械に乗って空を飛ぶこともできないんです」
 
「もし、人間が空を飛べるんだったら、今ごろ誰かがそういうものを発明して空を飛べてるはずですよね?」
 
「あなたもいい大人なんだからそんな子どもみたいなこと言ってないで、もっと現実を見ましょうよ」
 
「Bさんを見てごらんなさい。あの人だって本当は船は苦手なんですよ。でも文句一つ言ってないでしょ?そりゃ誰だって何十日間も船に揺られるのは嫌ですよ。でもそれに文句を言ったところで始まらないでしょ?」
 

 
 なぜ「始まらない」のか。始まらないのはあなた方のほうだ。
 
 これが日本人。「私は船は苦手です」と言っただけで、方々から「そんなことに文句を言ってもしょうがない」、「もっと現実を見ろ」の大合唱。
 
 そこで、「彼が船が苦手なら、船を使わずに異国に行ける方法をみんなで考えよう!」となぜ言えないのか。
 
 そういう頭の柔らかい考え方ができるのがアメリカ人なんだと思う。アメリカで次々にイノベーションが生まれて日本でちっとも生まれないのは、こういう国民の思考性の違いにあると思う。
 
 ライト兄弟に「人間は空を飛べない」という常識をひっくり返されたにもかかわらず、それでもなお現代の日本人もこの明治時代人たちとまったく同じことを言い続けている。曰く、「そんなことに文句を言ってもしょうがない」「そんなことできっこない」「ちょっとググればわかりそうなものだけど」。
 
 グーグルを万能だと思い、あなたが考える程度のことはグーグルに答えが載っていると言い、グーグルに載っていない=できない、と見做す。「ちょっとググればわかる」などと言っている人間はグーグルの範囲内でしか生きられない。グーグルを突破するイノベーティブな発想ができない。
 
 「人類誕生以来、過去に一度もなかった」ということを論拠にして、「だから未来にも絶対にない」と断言する人もたくさんいる。そういう人たちはライト兄弟の飛行を目の当たりにしても、自分の過去の発言は忘れて、「まさかこんな時代が来るとはねぇ」と言うだけだ。
 
 私は基本的に「反便利の精神」なので、ライト兄弟は好きではない。だが、それ以上に頭の固い人が嫌いなので、そういう人たちの鼻を明かしてやったという点において、ライト兄弟は好きなのである。
 

年末年始休という謎の休み

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Andreas Lischkaによる画像

 昔からずっと不思議だった。
 
 年末年始はなぜ休みなのか。
 
 カレンダーを見てみる。1月1日は赤くなっている。だがそれ以外の12月30日も31日も1月2日も3日もすべて黒字で書かれている。
 
 年末年始は企業も行政機關も当たり前のように休むけど、いったい何の根據があって休んでいるのか。
 
 調べてみた。
 
 企業や店は法律はなく、ただ慣習で休んでいるだけ。
 
 公務員の場合、「一般職の職員の勤務時間、休暇等に関する法律」という法律があって、その14条で12月29日から1月3日までは休日と定められている。この法律を元に休んでいるわけだ。
 
 しかし、この法律は公務員や行政機関にのみ適用される。企業、店、病院等は特に決まった法律があるわけではない。そしてこの法律の起源は明治6年に定められた太政官布告である。
 
 こういうことを言うと「年末年始くらい休ませろ!鬼か!」と言う人が出てくるが、私は普段好きな時にもっとどんどん休みをとればいいと思う。
 
 ゴールデンウィーク、盆休み、年末年始。大体の日本人にとってまとまった休みは、一年でこの三回だけである。そしてたったのこの三回に皆で一斉に休みを取る。なぜ「いっせーのせ」なのか。
 
 毎年、12月29、30日頃には帰省ラッシュのニュース、1月3日、4日頃にはUターンラッシュのニュース。東京駅で新幹線から降りてきたお父さんがぐったり疲れきった様子で「明日からまた仕事です」とTV局のインタビューに答えている。
 
 これで「休んだ」ことになるのか?日本人は渋滞や長蛇の列に並ぶのが趣味なのか?全国で同時期に一斉に休むからこういうことになる。
 
 「実家に帰って正月を迎える準備をしなければ」と言う人もいるかもしれない。私の祖母は伝統的なしきたりや慣習をとても重んじる人で、11月頃から何週間もかけて正月をきちんと迎える準備をしていた。たったの一日や二日で何が準備できると言うのか。
 
 「せめて三が日ぐらいまでは正月気分でいたい」と言う人がいるかもしれない。だが、それもおかしいのである。今のお年寄りたちに話を聞くと、昔は1月20日くらいまでは正月気分で、会社に行っても働いているような働いていないような、という雰囲気で、20日を過ぎた頃くらいから徐々に元通り真面目に働き出す、という会社が多かったらしい。それは会社だけではなく店も同じで半分休業半分営業という雰囲気が世の中全体にあったと言う。
 
 つまり、昔はもっと「正月」というものは長かったのに、段々と短くなっていって、今では1月2日にはもうすでに正月気分はない。
 
 「正月」は昭和の頃に比べてどんどん短くなり、ほんの数日にぎゅっと圧縮され、その僅かな間に慌てて帰省し慌てて戻る。休み中は子ども相手と渋滞ラッシュでくたびれ果て、次の日からすぐ仕事。
 
 こんな「苦行年中行事」は改めるべきだ。
 
 時代に合っていない旧い法律を改めて公務員は年末年始も働くようにした方がいい。もともと法律に縛られていない民間企業は率先して年末年始も働こう。
 
 あと、「年末年始まで働けと言うのか!鬼!」と言う人は、年末年始に電車に乗って初詣に行くべきではない。鉄道会社の人がかわいそうだろう。年末年始にインターネットも使うべきではない。インターネットプロバイダー会社の人がかわいそうだろう。
 
 私の職場は、12月は31日まで仕事。1月は2日から仕事だ。1月1日は何故休みかって?1月1日は元日(がんじつ。元旦ではない)という祝日だから休みだ。
 
 昭和の頃に年末年始が休みだったのは、その後1月20日過ぎまでなんとなくダラダラ休める、ということがセットとしてあった。だが今はもうとっくにそんな雰囲気は無い。それなのに年末年始休という旧習だけが残っているのは徒に日本国民を苦しめているだけだ。
 
 公務員の法律も、「なんとなく習慣だから」で年末年始を休みにしている会社や店も、在り方を見直すべきである。

日本人のデジタル音痴

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Sara Tordaの画像
 
 「デジタル音痴」と言うと一般的には、パソコンやスマホを使いこなせない人、という意味になる。「いますよね、今どきパソコンを使えなかったりスマホを触ったこともない人」。
 
 だが、ここで私が言う「デジタル音痴」とはそういう意味ではない。「デジタル」に対するセンス(感覚)の無さ、である。
 
 例えば、もう10年以上前から時々話題になる「デジタル教科書」。なぜデジタル教科書を導入するか、と問うと、「デジタル教科書にすると、今まで紙の写真では分からなかった動物の動きなどがよりリアルにより鮮やかに感じ取れるようになるんです」と言う。
 
 これが日本人の「デジタル」に対する考え方である。
 
 だから日本企業はテレビを「より高画質に」することに何十年も力を注いできた。「動植物の動きがより鮮やかにリアルに感じられる」、その程度の理由ならデジタル化することに大したメリットはない。紙の教科書にはそれを上回るメリットがたくさんある。そうではなくて、デジタル化の本質は「情報化」にある。たとえば教科書がインターネットに繋がってそこからたくさんの情報にアクセスできるようになることがデジタル化の意義である。
 
 これは、デジタル黒板、電子お薬手帳でも同じことである。それがネットに繋がっておらず、単に紙を電子に置き換えただけのものなら、それにどれだけのメリットがあるだろう。セキュリティ上敢えてそうしている場合を除いて、インターネットに繋がっていないパソコンやスマホに何の意義があるだろう。        
 
 で、その最たるものはマイナンバーカードに対する国民の認識である。マイナンバーカードは批判が多くほとんど好かれていないが、たまにマイナンバーカードを褒める声を見る。
 
「コンビニで住民票を取得できるのが便利だ」
 
というような声である。紙の住民票を、わざわざ役所まで取りに行かないでコンビニで取れることを喜んでいる。この声には日本人のデジタル音痴っぷりが見事に象徴されているように思う。コンビニまで歩いて行って、コンビニのコピー機で紙の住民票を手にして、それを便利だ!と言っているのである。
 
 マイナンバーカードというのは、あらゆる手続きをオンラインでできるようにするために作られたカードである。コンビニまで行ってそこでカードを使って紙の住民票を取得できるようになることが「デジタル」なのではない。
 
 最近も、全国の小中学生に国が一人一台のパソコンを普及させる、というニュースがあった。どうも日本人は「パソコンこそデジタル」と思ってる節がある。パソコンは単なる手段であって学校内にネット環境を充実させることこそ肝腎である。
 
 繰り返しになるが、私の言う「日本人のデジタル音痴」とは、「パソコンやスマホを使うのが苦手」「使いこなせていない人がいっぱいいる」ということではなく、デジタルに対するセンス(感覚)の問題である。住民票をデジタル化することを考えずに、紙の住民票をカードでコンビニのコピー機で取得できるようになって便利!と言ってしまうようなセンスである。
 
 パソコンやスマホを使いこなせるかこなせないか、などというのは些細な問題である。別にそんなものは使いたくない人は使わなければいい。だが、国としてあらゆる手続きをオンラインでできる環境というのは整えておかなければならない。そしてそういう声を上げる人の少なさに、私はこの国の人々の「デジタル音痴っぷり」を感じるのである。
 

「確定申告」という謎の行事

 
 確定申告。
 
 この言葉を聞くと憂鬱な気分になる人も多いだろう。
 
 私は前から、この「確定申告」という行事の意味がわからない。どういう理由で何のために行われるのか。なぜこんなにもたくさんの国民が確定申告に頭を悩ませているのか。
 
「複雑すぎて自分ではとても解らないから、税務署に行ったら、税理士さんが解りやすく書き方を教えてくれた」。
 
 そういう話をよく聞く。だが、なぜ国民が計算しなければならないのか。
 
 国民一人一人の納税額は税務署(国税局)側が計算するべきではないのか。マイナンバーを使えばわかるはずである。
 
 銀行にもマイナンバーを届け出ている。証券会社にも届け出ている。会社にも届け出ている。扶養家族の情報も住民票から分かる。税務署はマイナンバー連携を使って市役所から住民情報を教えてもらうことで、家族構成や世帯主も把握することができる。これだけのことを把握できて、国民(例えば私)の所得税額がわからない、などということがあるだろうか。
 
 「預金額とか家族構成とかはプライバシーなので、マイナンバーをそういうことに使っちゃいけないんでしょう」と思ってる人がいるかもしれない。
 
 たしかにマイナンバーは利用目的の「3本柱」と言って、「税」「社会保障」「災害対策」の3つ以外の目的で利用してはいけない、という厳しい決まりがあるが、税務署は「税」を取り扱っているので、マイナンバーを使える立場にある。
 
 マイナンバーで、会社の給与も銀行も証券会社も家族構成までもがっちり把握できるのに、どうして納税額が計算できないのか。
 
 基本的な考え方が逆なのである。
 
 納税額は税務署の方で計算する。もし、わからない・不明な点があれば、国民のところに聞きに行けばよい。不明な点がなければ計算し終わったものを国民に通知する。国民はその金額に異議がある場合は税務署に連絡する。異議がなければ「いいよ」のボタンをタップする。そしてその瞬間に銀行口座から税金が引き落とされる。
 
 国民は税務署からスマホに届いた書類にざっと目を通し、「いいよ」をタップする。これだけ。これが納税のあるべき姿ではないのか。どうして国民に複雑な計算をさせ、難解な書類を書かせるのか。
 
 繰り返しになるが、「国民が計算して分からなかったら税務署に聞きに行く」のではなく、「税務署が計算して分からなかったら国民に聞きに行く」のが筋である。
 
 私はもう長年「確定申告」が謎でしかたない。どうして「申告」なのか。冗談ではなく深刻な問題である。
 
 私は(直接の)確定申告をしたことがないので、この分野に詳しい人がいたら「どうして」「何のために」確定申告があるのか教えてほしい。
 
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天皇制という名の皇統ブロックチェーン

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by cvkcvk
 
 天皇制とブロックチェーンはよく似ている。
 
 ブロックチェーンは知ってるけれど天皇制についてはよく知らない、という人のために、今日は天皇制をブロックチェーンに擬えて説明してみようと思う。因みにこの記事で単に「ブロックチェーン」と書いている場合はビットコインブロックチェーンのことを指す。
 

天皇制とブロックチェーン、七つの共通点

 天皇制とブロックチェーンには共通点がある。
 
一、連綿と繋がる長いブロック
二、長いことに価値がある
三、多くのノードによって検証されている
四、初代は不明
五、いざという時のためのサイドチェーンが用意されている
六、ハードフォークの危険を孕む
七、改竄不可能の性格
 
 以下、一つ一つ見ていこう。
 
一、連綿と繫がる悠久のブロック
 ブロックチェーンは今から約10年前の1ブロック目から始まって2ブロック目、3ブロック目…と続き、2019年現在は約600000ブロック目あたりまで連なっている。
 
 天皇制の方は初代神武天皇から続き、現在は126代目まで続いている。
 
二、長いことに価値がある
 ビットコインブロックチェーンが途中で途切れることなく連綿と続いていることに価値があるように、天皇制もまた途中で途切れることなく続いていることに価値がある。
 
 今の時代、ブロックチェーンは幾つもあるが、その中でビットコインが尊ばれる理由に「歴史が長い」ということがある。長いノーダウンタイムが信頼に繫がっている。また分岐が起きたときも長いチェーンの方が正統と見なされる。サトシ・ナカモトは"The longest chain"と書いた。「長い」ということが重要なのである。
 
 天皇がなぜ尊ばれているかというと、その理由は「皇統が長い」ということにある。皇統が長いとはどういうことかというと、「父の父の父の…」という具合にずっと祖先を辿っていくことができるということである。もちろん、天皇ではなくても、一般の人でも「父の父の父」はいるし、10代前の父も100代前の父もいる。でも100代前の「父」がどんな人であったかは証明できない。
 
 天皇家では、それが一本のブロックチェーン上に記録されている。そしてそれは民間人が勝手に作る「家系図」とは違って「改竄不可能」である性質を持つ。たしかに繫がっていることが証明できるからこそ”VALUE”が生まれる。
 
三、多くのノードによって検証されている
 ビットコインは多くのノードによって検証されていることが、その価値を高めることに繫がっている。
 
 皇統もまた多くのノード(国民)によって検証されていると言える。その時代には検証されていなくても、後世の歴史家によって遡って厳しい検証の目にさらされているので、少なくとも他の家系にくらべれば不明な継承は少ないと言える。
 
四、初代が不明
 ビットコインの黎明期が謎に包まれているように、天皇制の黎明期もまた謎に包まれている。
 
 ビットコインのすべてのブロックは一つ前のブロックを参照している。すべてのブロックがその正しさを一個前のブロックの正しさに依拠している。だが、いちばん最初の0ブロック目にあたるジェネシスブロックだけには一個前のブロックが存在しない。ジェネシスブロックの前には創造者(サトシ・ナカモト)しか無い。
 
 天皇制も現在の天皇からずっと祖先を辿っていくと初代神武天皇につきあたる。では、その神武天皇は誰から生まれたのか。神武天皇は天上の神から生まれたことになっている。すべての天皇は先代の天皇の子孫なのに、神武天皇だけが先代の天皇がいない。天上の神の世界から、いきなり地上界に人間の形をもって生まれた。
 
 ビットコインも初期の頃は謎に包まれた部分が多い。ビットコインが誕生したのは2009年だが、その頃はまだ世界でもごく限られた人しかビットコインの存在を知らなかった。天皇も初代だけではなく、25代目くらいまでは実在したのかどうかすらよく分かっていない霧のようなベールに包まれている。
 
五、世襲親王家というサイドチェーン
 ビットコインブロックチェーンには、RootstockやLiquidのようなサイドチェーンがある。これらのサイドチェーンは主にメインチェーンの機能拡張を担うが、同時にメインチェーンを補佐する役割もある。
 
 皇統もチェーンが一本だけという状態は不安定である。そこで、室町時代後花園天皇世襲親王家というサイドチェーンを作った。江戸初期に皇位の継承が不安定になった時も、当代随一の学者、新井白石閑院宮家というサイドチェーンをつくった。
 
 皇統の血(ハッシュ値)を引くもう一本のチェーンを側に走らせておくことによって、メインチェーンが新規ブロック生成に失敗した場合はサイドチェーンである閑院宮家から皇嗣を立てることができるようにした。世襲親王家はメインチェーン(天皇家)にもしものことがあった場合に皇統ブロックチェーンの継続を担う役割があった。
 
六、ハードフォークの危険を孕む
 ブロックチェーンは分岐が起こる。正統でないチェーンに接続したブロックの取り引きは「なかったこと」になる。チェーンが2本存在すると「二重支払い」と呼ばれる問題が起きる。皇統ブロックチェーンも2本存在すると、例えば詔勅や勅許が二つ存在することになってしまう。
 
 分岐の中でも怖ろしいのは「ハードフォーク」と呼ばれる固い分岐である。
 
 いちばん有名なハードフォークは2017年に起きたものだろう。この時分岐したチェーンは「ビットコイン」を名乗らず、「ビットコインキャッシュ」という別名を名乗ることになった。
 
 皇統もまたハードフォークの危険が常に付き纏う。こちらのいちばん有名な分岐は15世紀に起こった「南北朝」である。多くの争いと悲劇を生んだ。
 
七、改竄不可能の性格を持つ
 多数の目(ノード)により、厳しい検証の目に晒されているので、皇統を改竄することは実質不可能である。過去、「熊沢天皇」のようにブロックチェーン家系図)を改竄して正統を主張する者が現れたことがあったが相手にされなかった。また、「父の父の父の」という具合に遡って天皇家よりも長い家系図を提出して証明できれば尊ばれるかもしれないが、ビットコインのメインチェーンより長いチェーンをつくるのが不可能なのと同じように、少なくとも日本では天皇家よりも長い家系図を証明するのは不可能である。
 

マイニングと側室制度、皇統の血とハッシュ値

 天皇制は、今後どこまで安定して続いていくだろうか。
 
 ビットコインは一見安定しているようにも見えるが、その価値はまだまだ乱高下していて不安定である。
 
 天皇制は目下のところ、後継者不足という問題に直面している。新しいブロックが生成されにくくなっている。
 
 明治天皇以前の時代には不測の事態に備えてたくさんのマイナーがいた。これを「側室制度」と言う。だが大正天皇の代に側室制度は事実上廃止され、一人のマイナーが新たなブロックの生成という重責を担うようになった。
 
 皇統ブロックチェーンにおいてはハッシュ値Y染色体である。しかし「Y染色体」という言い方はいかにも現代的な言い方であって、要は男系で繋がって来た。なので男系の出自が天皇と繋がっていれば、仲継ぎ的に女性の天皇が立てられることもあった。ただし、江戸時代の後桜町天皇以来、最近200年以上、女性の天皇は出ていない。 
 

男性永世皇族制の問題

 明治以降に皇統ブロックチェーンの安定性を高めるために編み出されたのが、男性皇族の永世皇族制である。
 
 しかし、このような仕組みは明治以前には無く、ビットコインブロックチェーンにも無い。ビットコインブロックチェーンにおいては正しいチェーンに繋がっていないブロックは「無かった」ことになる。
 
 明治以前の皇統ブロックチェーンにおいても、「正しい」ブロックである皇嗣の男性以外の「その他の男性」は出家をするなどして皇室から離れるのが一般的だった。
 
 現代のこの男性永世皇族制は、マイナー(側室)の廃止による皇位継承の不安定さを解消する役割を持っている。だが一方で、「男系」を基本プロトコルとしている皇統ブロックチェーンにおいて、男性皇族がたくさんいることは、常にハードフォークの危険を孕むことになる。今の時代は偶然、皇族の中に圧倒的に女性が多く男性が少ない状況にあるため、このハードフォークの問題は認識されていない。
 

天皇制とブロックチェーンはお互いに学び合える

 私は以前からずっと天皇制とブロックチェーンは似ていると思っていた。どちらもブロックが連綿と連なる一本の鎖である。その鎖が「長い」ということに価値を置いている。南北朝は一種のハードフォーク事件である。ブロックチェーンにおいてはreorg(リオルグ:チェーンの再編成)によってハードフォークが防がれているが、南北朝の問題も後亀山天皇北朝へのreorgを行うことで解決している。(ただしブロックチェーンのreorgと違って、南朝北朝に帰一したものの、ブロックとしては南朝チェーンが番号を採られている。)
 
 暗号資産界隈の一部には今、Proof of WorkからProof of Stakeへの流れがある。これは側室制度廃止の流れだ。側室制度がなくなった時にどうやって皇位継承の安定性を維持し続けるのか。皇統ブロックチェーンにおいてはそこで出した答えが男性永世皇族制だったが、これは今はたまたま男性皇族よりも女性皇族の方が圧倒的に多いので問題として顕在化していないが、潜在的にはハードフォークの危険を招く。
 
 暗号資産の方のブロックチェーンは、スケーリング問題やガバナンス問題に苦しんでいる。ガバナンス問題はコンセンサスの問題だ。皇統ブロックチェーンにおいては長年、合議制で解決してきた。合議に参加するのは一部の有力貴族や将軍などの支配者層であり、これは中央集権的である。一方、暗号資産のブロックチェーンの多くは非中央集権的であり、DPoS(Delegated Proof of Stake)のような形を取るところもある。ただし皇統ブロックチェーンは1945年以降、より”Decentralized”な形を取るようになった。
 
 こうして比較してみると、ビットコインがそのブロックチェーンの安定性向上のために今までやってきた施策の多くは、過去に天皇制維持のために行われてきた施策に似ていることがわかる。例えば、ビットコイン開発陣が考え出したサイドチェーンというアイデアは今から300年以上前に新井白石が皇統の安定性のために考え出した閑院宮家のアイデアにそっくりだ。天皇制とビットコインにはブロックチェーン構造にとても似たところがあるからだ。
 
 ということは、ブロックチェーンが今後もっと安定性を高めていくためのヒントが天皇制の中にきっとある。ブロックチェーンが今後出遇うであろう問題も、その解決方法も、千数百年の歴史を持つ天皇制の歴史の中に見出すことができるだろう。南北朝の失敗に学ぶことで、ビットコインキャッシュビットコインSVのような悲劇(正統性論争)を防ぐことができる。一方、今、男子が極端に少なく皇位継承の安定性が危ぶまれている皇室においても、その解決方法のヒントをブロックチェーンに求めることができる。例えばビットコインで今までたくさん出されてきたBIP(Bitcoin Improvement Proposals)の中に良いアイデアが見つかるかもしれない。
 
 天皇制とビットコインはお互いにお互いを参考にし学ぶことで、そのブロックチェーンをよりたしかなものにしていくことができる。
 
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