漸近龍吟録

反便利、反インターネット的

COVID-19禍と天平の疫病大流行~特別定額給付金と「賑給」~

f:id:rjutaip:20200519075957j:plain
 
 世界的なCOVID-19禍の中で私が思い起こしたのは今から約千三百年前、天平九年に起こった「天平の疫病大流行」だ。日本の国が駄目になってしまうのではないかと思われるほどの未曾有の疫病危機。その中で困窮する人々に支給された「賑給」について。
 
「全国民に一律10万円の給付金。」
 
 政府のこの発表を聞いた時、私は天平時代の「賑給」を思った。
 
 賑給とは、平安時代に時の政府が貧窮する国民に対して、薬や食料品、貨幣としての稲、等を支給したことだ。この賑給が行われる時機は二つのタイミングがあって、一つは天皇の代替わりや改元など、おめでたいことがあった時、もう一つは自然災害、疫病、飢饉など大きな国難に見無われた時。そのような時に貧窮者に対して政府から施しが与えられるのが賑給だった。
 
 この賑給が「緊急出動」する出来事があった。それが今から約千三百年前、天平九年に起こった「天平パンデミック天平の疫病大流行)」である。このとき流行った疫病は天然痘で、当時は疱瘡(もがさ)と呼ばれ恐れられた。天平七年に九州から流行したが、二年後の天平九年に大流行。全国で猛威を奮い、時の政権中枢にいた人たちまでもが次々に病に斃れ、日本は未曾有の大パニックに陥った。
 
 この時、非常緊急事態ということで賑給が出された。今で言うところの給付金である。何しろ政権中枢の人たちが病にたおれているので、政府の人間にとっても他人事の事態ではなかった。急遽、特別に食料、稲が支給されることになった。その後、時代が経過すると、賑給は段々と年中行事化していき、毎年五月の定例の行事として賑給が支給されるようになった。
 
 特別定額給付金は「現代の賑給」のようにも見える。平安時代に賑給が支給されたのは改元や疫病などの災害があった時。今の日本は昨年2019年に令和に改元されたばかりでCOVID-19という疫病が大流行している最中。そして五月。これだけ条件が揃っていれば、私でなくとも、特別定額給付金を現代の賑給に擬えて見る人はいるのではないだろうか。
 
 だが支給対象に決定的な違いがある。
 
 賑給が、現代の特別定額給付金と異なる点は、支給される対象となる人である。特別定額給付金は裕福な人、貧しい人関係なく全国民に支給される。賑給は、貧窮する人に支給された。では「貧窮する人」とは具体的にどういう人のことだったか。
 
 疫病に罹っている病人、高齢者、「鰥寡孤独(鰥寡惸獨とも)」の人がそれである。「鰥(かん)」は老いて妻のない男、「寡」は老いて夫のない女、「孤」は親のない子ども、「独」は子どものない老人、を意味する。つまり、よるべのない人たちのことである。
 
 こうした誰にも頼ることができず孤立している人に賑給は施された。より弱い人、自力だけでは生きていくのが大変な人、そういう人を助けようという精神が賑給にはあった。千三百年前の政府にできたことが、どうして今の政府にできないのだろう。
 
 天平の疫病大流行とCOVID-19大流行には共通点もある。
 
 COVID-19禍で在宅勤務を命じられた社員が「でもハンコを押してもらうために出社しなければいけない」というニュースがネットで報じられていた。ハンコ社会日本らしいニュースである。一方で、「このような非常事態なので押印の省略も認める」という対応をしている会社も出てきているらしい。
 
 天平時代の疫病大流行の時もこれと似たような出来事があった。
 
 籔井真沙美氏は論文『八世紀における賑給の意義と役割』で、官符を発行する太政官が、本来なら天皇御璽をもらわなければいけないところを、緊急事態だからということでそれを省略して地方に下していることを指摘している。令和時代の日本が、約千三百年前の天平時代の日本とほぼ同じようなことをしていることに驚く。
 
 先日、こんな記事を読んだ。
 
 この記事に出てくる33歳の男性は、頼るべき友人も知人も家族もいないという点では「鰥寡孤独」の人である。COVD-19禍により勤めていた飲食店は休業し「来なくていい」と言われた。収入も絶たれ、それまで住んでいたネットカフェにも住めなくなった。国からの援助の給付金もない。10万円の特別定額給付金も住所がある人のところにしか申請書は届かない。この男性はそもそも携帯電話の充電もできなくなってしまったので、そういう給付金制度があることすら知ることができない。「飲食店に勤めてて収入がある時にアパートを借りていたらよかったじゃないか」と言う人がいるかもしれない。だが今の日本には住宅を借りる際には保証人制度というものがあって、家族や友人がいない人にとっては家を借りるのは容易ではない。
 
 これが、「よるべのない人」の困窮である。現代の「給付金」よりも天平時代の「賑給」の方が優れていたのではないか。天平時代には、誰にも頼ることのできない「真に困っている人」が見えていた。
 
 天平時代の賑給が令和時代の特別定額給付金より優れていた点は少なくとも三つある。
 
 第一点目は、困窮する者に優先して支給できたこと。
 現代の特別定額給付金は、最初は富裕層には支給しなくてもいいのではないかという話も出ていたが、高所得者の家と低所得者の家を分ける事務作業が大変だ、という理由で、全国民一律で支給することになった。
 
 第二点目は、困窮する者に申請させなかったこと。
 上のNHKの記事に出てくる男性もそうだが、本当に困窮している人は給付金制度があることも知らないし、そういう情報に辿り着けない。申請の仕方も誰からも教えてもらえない。そもそも住所がないので申請用紙も届かない。賑給は困窮している本人からの自己申告制ではない。
 
 第三点目は、スピード感。
 上記、籔井氏の論文には、速やかに賑給を支給していた当時の律令政府のことが書かれている。「奈良時代と現代とでは人口が全然違うではないか」と言う人がいるかもしれないが、千三百年も後の時代でありながら、奈良時代のスピードに追いつけていないのは情けない。
 
 私は歯痒くてしかたがない。千三百年前の政府にできたレベルのことがなぜ今の政府にできないのだろう。国民を思う気持ちがないからだ。昔はもっと為政者と国民の距離が近く、為政者は国民の窮状をよく見ていた。未曾有の緊急事態下で困窮する国民を助けようとしたあの必死の思い。
 
 上記論文の中では、天平時代の賑給は、天平九年に頻度が増えていることや支給物の内容から、単に天皇(および政権)の徳を知らしめるためではなく本当に困っている人を救おうという気持ちがあったのだと分析されている。豪邸のソファで高級犬を撫でているような為政者には解らないことである。
 
 「こんな疫病の大流行は初めてのことだからわからない」という言い訳のような台詞をよく聞くが、初めてではない。あなたにとっては初めてかもしれないが人類にとっては初めてではない。何度も経験してきたことだ。千三百年前のことを思い出し「あの時はどうしたんだっけ?」と考えれば、もっと自ずとやるべきことは見えてくるはずだ。
 
【参考文献】
(この論文を大いに参考にした)
 
 
【関連記事】

受け継がれるフローレンス・ナイチンゲールの精神【生誕200年】

f:id:rjutaip:20200511220447j:plain

 
 2月~3月ごろ、COVID-19がパンデミックの猛威を奮い始めたころ、私が想起していたのは今年生誕200年の記念の年になる、フローレンス・ナイチンゲールのことだった。
 
 ナイチンゲールは、看護師、また統計学者のイメージが強いが、社会変革家でもあった。しかし生誕200年ではなかったとしても、今の状況では誰もがナイチンゲールのことを思い起こさずにはいられないだろう。
 
 ウイルス対策という衞生面でも、ナイチンゲールは手洗いと換気の大切さを繰り返し説いている。現代の私たちは「手洗いや換気が大事なんて当たり前じゃないか」と思ってしまうが、今では“常識”となっているこれらのこともナイチンゲールの時代にはまだ常識ではなかった。
 
 そしてまた、今は多くの人が日々、目にする統計に対して疑問を抱いている。
 
「感染者数だけではなく陽性率を調べないと意味がないのではないか」
「この数字に軽症者は含まれているのか」
「回復した人は含まれているのか」
「集計方法に問題があるのではないか」
「そもそも日本は検査数が少なすぎるのではないか」
等々。
 
 もしナイチンゲールが現代に生きていたら、こうした問題に対しても、統計学者としていろいろ言いたいことがあるのではないだろうか。
 
 ナイチンゲールは“社会全体”を捉えていた。看護の専門家だからもちろん看護活動もしたが、病院の環境をよくしたり病院の数を増やしたりするためには、政治にも関わらなければいけないし経済のことも考えなければいけない。医学の知識もある程度必要だし、病人の数を減らしていくためにはどのような施策が効果的かを統計的に調べる必要も出てくる。
 
 現代の私たちは、どの国の対策の仕方がもっとも効果を発揮しているかということを、素人ながらも統計データを見ながら日々いろいろ推測しているが、こうしたスタイルもナイチンゲールに始まっていると言っても過言ではない。
 
 現代のCOVID-19禍では貧しい階層の人々に、より大きなダメージがいくことが指摘されているが、この問題についてもナイチンゲールは語っている。
 
たとえある施設が『〈貧富両者〉に向けた熟練看護婦の提供』をしはじめようとしても、とくにそれで『採算のとれる』ようにしようと思えば、結局は『富める者』のみのための『熟練看護婦の提供』ということになってしまうだろう。つまり、その施設が『採算のとれる』ことをたてまえとしていれば、いいかえれば、看護婦がその施設を『支える』のであれば、『富める者』がまずやってくるにちがいない。そして『富める者』が最初にくれば、かれらが最初から終わりまで占めることになるだろう」(1876年4月『Times』紙に掲載)
 
 だから、ナイチンゲールはあらゆることに首をつっこみ口を出した。多くの政治家と積極的に関わって社会全体を変えていこうとした。
 
 ナイチンゲールは時に怒り、そして闘った。苦しむ患者たちを救うのには献身的な看護活動だけでは限界があり、病院をもっと衞生的で綺麗なものに建て替えたり、抜本的な改善が必要だった。周囲の人から時に異常とも見える使命感で闘った。
 
大事小事を問わず、何かに対して「責任を持っている」ということの意味を理解している人は――つまり責任をどのように遂行するかを知っている人という意味なのであるが――男性でも、女性でさえも、なんと少ないことであろう。上は最大規模の災害から、下はほんの些細な事故に至るまで、その原因をたどってみれば(あるいは、たどるまでもなく)「責任を持つ」誰かが不在であったか、あるいはその人間が「責任」のとり方を知らなかったためであると判明することが多い。(『看護覚え書』)
 
 すべてを背負って立つ、ぐらいの強い責任感をもって臨んだナイチンゲールの言葉である。
 
 今の日本は、「すべての責任は私にある」と言いながら責任の取り方を知らない人の下に、COVID-19禍に飜弄され続けている。中国では国が主導して感染者を収容するための大病院が造られた。日本でもずっと病床数が逼迫していると言われているのだからこれぐらいのことをすべきと思うが、動きは鈍い。
 
 日本でなんとか医療崩壊をギリギリのところで食い止めているのは、国民一人ひとりの自制に頼っているところが大きい。そして医療の現場で命の危険と隣合わせになりながら奮闘しているのはナイチンゲールの「教え子」たちだ。ナイチンゲールの教え子たる看護師たちは日本のみならず世界中で闘っている。日本でも「医療従事者たちに感謝を」という言葉は聞く。しかし、感謝だけでいいのだろうか。ナイチンゲールは「白衣の天使」と呼ばれることを嫌ったと言われている。多くの苦しむ人を救うために、そして現場で疲弊する看護師たちを助けるために、国がやれることはもっとたくさんあるのではないか。そして国に対して私たち国民が求めていくことももっとできるのではないか。
 
 今日2020年5月12日はフローレンス・ナイチンゲールの生誕200年の日にあたる。COVID-19禍で、奇しくもナイチンゲールが甦った形になった。しかし「甦った」のではない。政治を巻き込み社会を良くするために闘ったナイチンゲールの精神はナイチンゲール亡き後100年以上にわたって脈脈と受け継がれてきたのだ。
 
 イギリスでは、感染者数が急増し始めた4月に、できるだけ多くの患者を収容できるようロンドンの東に猛スピードで国内最大級の病院が造られた。その病院は母国の英雄の名を取って「ナイチンゲール病院(Nightingale Hospital)」と名付けられた。
 
 

一律10万円の特別定額給付金にはマイナンバーは使われない

f:id:rjutaip:20200507204251p:plain

 多くの国民が政府の戦略にまんまと乗せられている。
 
 政府が全国民一律で10万円の特別定額給付金を支給することを発表した。この給付金の支給に時間がかかっている。申請には郵送とオンラインの二種類の方法があって、マイナンバーカードを使ったオンライン申請の方が手続きが早く済んでいる。
 
 この支給がなかなかスムーズに行ってない事態を以て、「マイナンバー及びマイナンバーカード導入の時に反対した人たちがいたからだ」と言ってる人たちがいるが、これはもう政府の思惑にまんまと乗せられているのである。
 
 たしかに現時点でのマイナンバーカードの普及率は2割に満たない。だがマイナンバーの普及率は約100%である。政府が16%の方ではなく100%の方を使えばよい話なのである。政府はここで敢えて16%の方を使うことによって、国民に「不便感」を感じさせている。「マイナンバーカードを持ってる人は早く申請できていいなあ」、「こんなことならマイナンバーカード作っておくべきだったなあ」と思わせる。そして、マイナンバーカードを作っていた16%の人々には「あの時、反対してた人たちが悪い」と言わせる。
 
未だにカードなしで番号だけあれば良いだろなんて言ってる人が多数なので原因は国民のITリテラシーの低さでしょう
と言っているコメントを見かけた。
 
 たしかに「申請」という形式に拘るならば、マイナンバーだけでは駄目でマイナンバーカードが必要である。しかし政府が「申請」という形式にしなければマイナンバーだけで支給することは可能なのである。特別定額給付金は、本来、マイナンバーの担当分野である。マイナンバーカードを使ってはいけないということはないが、その前に先ずマイナンバーを使わなければいけない。
 
 私はこの支給にマイナンバーを使うべきだという考えをずっと主張しているが、その話の前に「給付金の申請にマイナンバーが使われる」と誤解している人がどうも多そうなので、今日は「特別定額給付金の支給にマイナンバーは使われない」という話を書こうと思う。Q&A方式にしてみた。
 
Q1「マイナンバーカードが使われるってニュースでやってたよ?」
A1 マイナンバーカードは使われるが、マイナンバーは使われない。たしかにマイナンバーカードを使ってオンライン申請をすることができる。ただしマイナンバーカードも必須ではない。マイナンバーカードを持っていない人は紙(郵送)で申請できる。マイナンバーとマイナンバーカードの違いは次の通り。
 
マイナンバー:12桁の数字からなる番号
マイナンバーカード:プラスチック製の札
 
Q2「マイナンバーカードをカードリーダーに翳した時にマイナンバーも読み取られるのでは?」
A2 マイナンバーカードをカードリーダーやスマホに翳す時に、マイナンバーは読み取られない。マイナンバーカードのICチップの中に入っている電子証明書が読み取られる。「マイナポータルにログインする時に電子証明書が必要なんですよね!」と言ってる人もたまに見かけるが、特別定額給付金に関してはマイナポータルへのログインは必要ない。電子証明書が必要になるのはその先。
 
Q3「マイナポータルでいろいろ入力する時にマイナンバーも入力するんでしょ?」
A3 マイナンバーを入力する欄はない。
 
Q4「券面事項入力補助用暗証番号の入力を求める画面が出た。ここで暗証番号を入力したらマイナンバーを読み取られるのでは?」
A4 原理的には、そこでマイナンバーを読み取られるが、その読み取られたマイナンバーが使われることはない。ここで暗証番号を入力するのは住所や氏名などの入力の手間を省くため。
 
Q5「本人確認のためにマイナンバーが使われるんじゃないの?」
A5 本人確認のためにマイナンバーは使われない。紙の申請書にもマイナンバーを書く欄はない。オンライン申請においては、本人確認はマイナンバーカードの所持認証と署名用電子証明書(パスワード)によって行われる。電子証明書の中にはマイナンバーは入っていない。
 
おわりに
 政府が好き勝手に暴走している。この暴走、暴挙を止めなければいけないが、国民の側が知識・理解が追いついていなくて批判が的外れになってしまっているのも多く見かける。国民の無知につけ込んでやりたい放題をやっているのが今の政府だ。
 
 もっとも私は、今回、政府が「マイナンバーカードを使うこと」に憤っているのではない。「マイナンバーを使わないこと」に憤っているのである。私はマイナンバー制度が始まる前からずっとブログ等で、まるで政府の手先の広報担当のようになってマイナンバー制度の解説記事を書いてきた。それも偏に国民にマイナンバーやマイナンバーカードの仕組みについて正しく理解し、正しく政府を批判してもらいたいと思っているからだ。少なくともマイナンバーとマイナンバーカードの違いぐらいは理解できる人が一人でも増えてほしい。そんな思いでマイナンバー関聯の記事を書き続けている。
 
【関連記事】

建前すら失った有名無実のマイナンバー

f:id:rjutaip:20200423212357j:plain

 
 2016年に始まったマイナンバー制度。
 
 マイナンバーの利用目的は「税・社会保障・災害対策」の三つ。それ以外のことで使ってはいけない。そう法律で定められている。
 
 この三つの内、税は嫌われもので、社会保障と災害対策は国民にとって嬉しいことだ。「徴税のためにマイナンバーというものを作りました」と言うのでは国民からの反発は必至なので、「社会保障と災害対策にも使います」という建前をくっつけて制度をスタートさせた。
 
 だが、マイナンバー制度が始まった直後に起きた熊本地震ではマイナンバーは使われなかった。災害対策に使われるはずのマイナンバーはまったく使われなかった。そのことは当時、ブログにも書いた。
 
 
 そして今度は、Covid19禍による国民への一律10万円の特別定額給付金の支給にもやはりマイナンバーを使わない、と政府が発表した。給付金は社会保障である。「災害対策」にも「社会保障」にもマイナンバーを使わない。
 
 国民に「マイナンバーは嫌な面ばかりではなくて良い面もありますよ」と言うために用意した「災害対策」にも「社会保障」にも、マイナンバーを使わない。
 
 ここでマイナンバーを正しく使えば、もしかしたら国民にこの先、広く受け入れられたかもしれないのに。こんなことでは国民からの信用を失って、マイナンバーはただ「在るだけのもの」になってしまうだろう。
 
 政府への失望は前からだが、私が今回特に失望しているのは、普段から政府批判を繰り返していた“同志”たちが大人しくなってしまったことだ。「スピード重視なんだから政府のこのやり方でいいと思う」と政府を擁護する者がたくさん現れた。10万円を目の前にした途端、急に矛を収めるとは情けない。
 
 政府は給付金を支給するに当たってにマイナンバーではなくマイナンバーカードを使うと発表した。こんな酷い話があるか。
 
 マイナンバーはマイナンバーカードより圧倒的に速い。「スピード重視なんだから」と言って政府の支給方法を擁護している者たちはそこは無視か?2020年の現時点でのマイナンバーカードの普及率は2割にも満たない。一方のマイナンバーの普及率は約100%。
 
 マイナンバーカードのほうがマイナンバーより速い、と本気で思っているのなら、冷たい水で頭を冷やして来たほうがいい。
 
 こういう時に使わないで何のためのマイナンバーか。
 
【関連記事】
 

国民への給付金、なぜマイナンバーを使わないのか

f:id:rjutaip:20200421202807j:plain

 
 Covid19禍に伴う国民への給付金の給付方法が発表された。
 
 国民からの申請で、基本は郵送、マイナンバーカードを持っている人はオンラインでも申請できる、という。
 
 この政府の発表に対して、
「何やっても文句を言う人がいるんだな」
「スピード重視と言ってるんだから、準備期間がない中で、この政府の方法は良い落しどころだと思うけど」
と言ってる人もいる。
 
 私はまったくそう思わない。マイナンバー制度およびマイナンバーカードが始まったのは2016年である。準備期間がなかったわけではない。3年以上もの間、いったい何をやっていたのだろう。
 
 なぜ、申請なのか。なぜ、申請なしで給付しないのか。
 
アメリカのように確定申告の口座に入金したらいいのに」
と言ってる人に対して、
「確定申告したことない人もいるんだから」
「子どもは銀行口座持ってないんだから」
と言ってる人もいた。
 
 また、
マイナンバーカードの電子証明書で本人確認をしなければ二重払いの問題などが生じる」
と言ってる人もいた。
 
 だが、それは「申請」という形にしているからそういう問題が生じるのだ。
 
 「申請なしの政府からの支給」という形にすれば、そういう問題は起こらない。確定申告をしたことのない人も子どももマイナンバーは持っている。マイナンバーに基づいて支給すればよい。マイナンバーに基づいていれば、二重支払いの問題も起こらない。
 
「でもマイナンバーは個人に基づいているから、世帯を把握できないでしょう」
 
 世帯は住民票で把握できる。
 
「それだと事務作業が煩雑になりすぎてしまうでしょう」
 
 今の時代は、「◯丁目の◯◯さんのお宅は、先月お子さんが生まれたばかりだったかしらねぇ」と言いながら、手作業で確認するわけではない。住民票のデータはデジタル化されており、マイナンバーから簡単に辿ることができる。そもそもマイナンバーは住基ネットから生まれており、マイナンバーと住民票は元々密接な関係にある。
 
 こんな時にさえマイナンバーを使わない。
 
 こんな時にすらマイナンバーを使わないのなら、マイナンバーなんて無くしてしまえば?
 
【関連記事】

オリンピック延期に伴って生じるオリンピアード問題

f:id:rjutaip:20200325175801j:plain

 
 昨日、日本の首相が「オリンピックを一年程度延期したい」と述べたのに対して、IOCの会長が「100%同意」した、という報道があった。
 
 このニュースを聞いて私が真っ先に思ったのは、「オリンピアードはどうするのか」ということだった。
 
 オリンピアードというのは、4年で1単位になっているオリンピックの暦である。その起源は古代ギリシア古代オリンピックにある。近代オリンピックでは1896年の第1回アテネオリンピックから始まる、4年ごとの暦になる。
 
 1896年から1899年までの4年間が「第1回」。そこから数えて今は2020年から2023年までが第32回オリンピアードとなる。
 
 で、延期になると何が問題かというと、オリンピック憲章では「競技大会はオリンピアードの最初の1年目に開催する」と決められているからである。
 
オリンピック憲章32-1
オリンピアード競技大会オリンピアードの最初の年に開催され、 オリンピック冬季競技大会 はその 3 年目に開催される。
 
 今で言えば、2020年の1月1日から12月31日までに開催しなければいけないことになる。
 
 過去には戦争などの理由で中止になったオリンピックもある。例えば、1940年の幻の東京オリンピックなんかがそうだ。だが、この時もオリンピアードという暦は継続しているので、開かれなかった1940年オリンピックにも「第12回」という「回」は振られている。つまり、中止になったからといって、回数は飛ばされない。
 
 オリンピック憲章のルールに従うなら、第32回東京オリンピックは必ず2020年末までに行わなければならない。
 
 「冬季オリンピックは簡単に開催年が変わったじゃないか」と思う人もいるだろう。今の若い人たちは知らないかもしれないが、昔は夏季オリンピック冬季オリンピックは同じ年に開催されていた。それが、1994年のリレハンメルオリンピックから夏季オリンピックの中間年に開催されるようになった。
 
1992年冬:アルベールビルオリンピック
 
 
 
 
 冬季オリンピックの開催パターンをずらしたのはおそらく盛り上がる年を分散させたい、というような理由からだと思うが、ともかくこんなに“あっさり”伝統を変えることができるのなら、夏季オリンピックだって変えられるだろう、と思うかもしれない。
 
 だが、冬季オリンピック夏季オリンピックは同じオリンピックでも違うのである。英語では夏季オリンピックは「オリンピアード」だが、冬季オリンピックは「オリンピック」である。オリンピアードの概念は夏季オリンピックに適用され、冬季オリンピックには適用されない。冬季は「オリンピック」だから開催年をずらすのは比較的簡単なのである。夏季オリンピック古代オリンピックの伝統を引いているのである。
 
 ちなみに、古代オリンピックオリンピアードの周期と近代オリンピックのオリンピアードの周期は異なる。古代のオリンピアードの4年間は、今のオリンピアードの4年間より、1年後ろにずれている。もう少し細かく言うと、古代オリンピアードは1月1日から12月31日までという数え方ではなく、夏から夏までという数え方だったので、今のオリンピアードとは1年と半年ずれている。
 
 したがって、これをもって、すなわち「古代のオリンピアード(4年単位)の復活」を名目にすれば、東京オリンピックは新しいオリンピアードの単位の元に開催することも可能であるように思われる。古代オリンピアードが現代まで続いているとすると、今は2017年の夏から2021年の夏までの「第699オリンピアード」の中にある。簡単に図にしてみた。
 

f:id:rjutaip:20200325175842p:plain  

 そして、2021年の夏からは「第700オリンピアード」というとてもキリのいい回数のオリンピアードが始まる。つまり、延期した場合、2021年の春ではなくて、2021年の夏か秋あたりに開催すれば、「(古代の)第700オリンピアード」の最初の年、に開催できることになる。しかし、上述のオリンピック憲章による「オリンピアードの最初の年に競技大会を開催する」のオリンピアードとは、1896年の1月1日から数える「近代のオリンピアード」なので、今のままではやはり憲章に抵触してしまうことになる。一番悪いのは2021年の前半、すなわち春頃に開催する場合で、この場合は近代オリンピアードの最初の年でもないし、古代オリンピアードの最初の年にもならない。
 
 では、この問題をどう解決するかというと、東京オリンピックの延期を年内にする、すなわち、2020年の11月〜12月頃に開催するか、そうでなければ、IOCの委員たちがオリンピック憲章そのものを改定して、「今回だけは例外とする」のような決まりを設けるか、若しくは今度の東京大会から古代オリンピアードの法則に従う、と憲章を変えるか、しかないだろう。
 
 ただし近代オリンピックでもオリンピックイヤーすなわち4で割り切れない年に大会が開かれた例は過去に一度だけある。1904年セントルイス大会と1908年ロンドン大会の間に行われた1906年アテネ大会である。この大会は今では特別な非公式大会という扱いになっている。
 
 なので、2021年に東京オリンピックを開催する場合、近代オリンピアードの法則は変えずに、非公式の特別大会という扱いにする方法もある。
 
【関連記事】

オリンピック延期と簡単に言うけれど

f:id:rjutaip:20200322212710p:plain

 
 オリンピック延期と簡単に言うけれど。
 
 スポーツ選手にはピークの時期というものがある。
 
 国によって、また種目によって、代表選考が終わっているものと未だのものとがある。
 
 日本では、2020年3月下旬現在、陸上の短、中距離、競泳(飛込やシンクロを除く)、自転車、フェンシング等は大部分が代表は未定である。(競泳の瀬戸選手など一部決まっている選手もいる。)一方で、柔道、空手、卓球、セーリングなどは、ほとんど代表選手が決まっている。あとは陸上の長距離もほぼ決まっている。
 
 各国とも参加するからにはメダルをたくさん取りたい。そしてメダルをたくさん取るためには、“旬”を少し過ぎてしまった選手よりも“今が旬”、“今まさに絶好調”の選手を使いたい。国や種目によっては半年も経てば「大型新人」が登場する。そんな新人の存在を知ってしまった以上、せっかくの逸材は使いたいという気持ちが国民の中にも起こってくるだろう。「あの期待の新人を出場させればメダル間違いなしなのに、なんであの選手を出さないんですか?」「二年前の代表選考の結果にこだわる必要があるんですか?!」そういうことを言い出す人がたくさん出てくるだろう。中でも柔道のように、日本の国技でありメダルがたくさん期待される種目では、なおさらそういう声がたくさん上がるだろう。
 
 私たち大人にとっては一年や二年はあっという間だが、若者にとっての一年、二年は長い。もし延期したら、二年後に素知らぬ顔の新人が「大迫選手の分まで頑張りたい(例)」などと言っているだろう。
 
 一度決まったのに、代表内定を取り消されてしまう選手はあまりにかわいそうだ。嘘の合格証書をもらったようなものだ。
 
 そういうかわいそうな選手を生まない方法を考えたい。