漸近龍吟録

反便利、反インターネット的

出社勤務は遅れていて在宅勤務は進んでいるという風潮に違和感

f:id:rjutaip:20200617214225p:plain

 ネット上の、自称意識高い系の人が集まっているようなところでは、「出社勤務は遅れていて、在宅のリモート勤務という働き方の方が進んでいる」という単純な物の見方が幅を利かせている。
 
 2020年5月末で緊急事態宣言が解除になり、再び出社する人が増えた時も、「せっかく在宅でもできるということが証明されたのに、なんで戻ってしまうの?」と言っている人をたくさん見かけた。
 
 それを「伝染病の流行を防ぐ」という観点から言ってるのならまだ良いのだが、そうではなくて「せっかく先進的な働き方ができていたのにどうして時代遅れの働き方に戻ってしまうのだ」というニュアンスで言っていて、それが非常に気になった。一部の大手企業が「今後は基本、全員在宅」などと発表して、それも喝采を浴びていた。
 
 だが、私は、こういう「在宅が先進的で出社は時代遅れ」という風潮に疑問を感じる。自宅が快適でないという人は世の中にたくさんいる。
 
 例えるなら、「天井2メートル」のようなものだ。
 
 緊急事態宣言を受けて何らかの理由で今まで5メートルあったオフィスの天井が2メートルになったとしよう。そして緊急事態宣言が解除された時、「天井2メートルでも仕事は回ることが証明されたから、天井を5メートルに戻さず引き続きこのまま行きましょう」と言うようなものだ。
 
「なんで5メートルに戻しちゃうんですか?2メートルでも仕事できてたじゃないですか」
 
 しかし、仕事が“快適に”できていたかどうかは別問題である。高身長の人は頭のすぐ上に迫っている天井に圧迫感、窮屈感を感じながら我慢して仕事をしていたかもしれない。そういうのを含めて「できていた」「仕事は回っていた」と言うのは違う。
 
 もちろん、世の中には「狭い所好き」の人もいる。「私は元々狭い所好きなんで。上の階との階段が短くなって楽チンなので、このまま天井2メートルのままでいいと思います」と言う人もいるだろう。
 
 私が特に問題視しているのは、「これからずっと在宅」などを決めている上層部の人間が、「在宅という決定には社員全員喜んでいるに違いない」と考えているであろうところだ。
 
 「欧米でもそういう企業が増えてるじゃないですか」と言う人がいるかもしれない。だが欧米の家の広さと日本の家の狭さの違いを考えたことがあるのか。欧米で在宅勤務が快適だからと言って日本でも同様に快適であるとは限らない。日本の家は欧米の家のように各部屋が十分に独立した構造になっていない家も多い。親と、義父母と、あるいは子供と、ほとんど顔を合わせているような状態で働くことがどれだけ苦痛か。
 
 他にも、会社の近くに、通勤の便利さを考えて家を買った、という人もいるだろう。去年家を買ったばかりの人。買った途端に会社が「これからずっと在宅」と決めて、そういう人たちは何のためにその場所に高い金を出して家を買ったのだろう。そういう人たちを「運が悪かったね」という言葉で片付けるのか。
 
 上層部の人間たちはある程度の年齢の「大人」である。社会人経験もそれなりに長い人が多いだろう。在宅勤務が嬉しく感じられるのは「もう、あの“痛”勤満員電車に乗らなくていいんだ」という今までとの相対的な比較があって喜びがあるのである。だが、今年入社した人たちは、痛勤満員電車を知らず、初めから在宅勤務で、それの何が喜びなのか分からないだろう。
 
 「大人」たちは、今まで出社勤務の良いところ、すなわち、気の合う仕事仲間とコミュニケーションが取れたり、会社近くのおいしい店に食べに行ったり、会社帰りにショッピングをしたり、素敵な異性と仲良くなったり、そうした出社ならではの良い面を散々経験して来た上で、今度は在宅の良い面を味わいたいと言っているのだ。最初から出社の良い面を全然経験できない人たちとはまったく違う。
 
 これは、ある特定の世代、または特定の人たちの経験や機会を大きく奪うものだ。
 
 「在宅の方が進んでる」と感じるのは、「方が」という言葉にも表れているように、出社スタイルを知っていてそれと比較して初めてそのような感覚を持ち得るのである。比較の対象を知らない、味わったことのない人たちにはなかなか持ち得ない感覚である。
 
 私はこういうところに「大人たち」の傲慢を感じる。しかもそういう大人たちは「自分は頭の柔らかい新しい時代感覚の持ち主だ」と思ってやっているからタチが悪い。
 
 「オンライン」や「バーチャル」が楽しく感じてしまう私たち大人の感覚を若者に押し付けてはいけない。若者たちからそこでしか得られない、またその時しか得られないような貴重な体験や経験の機会をそう簡単に奪ってはいけない。
 
 そしてまた、自宅が快適でない人たちをそう無責任に「牢屋」に閉じ込めてはいけない。
 

特別定額給付金、なぜマイナンバーを使わなかったのか

f:id:rjutaip:20200609203222j:plain

 
 怒っている。もう、この問題は繰り返し言ってきた。政府を批判したいがその前に国民の無理解があり、それとも闘わなければならなかった。大手マスコミの記事も大体目を通していたが、軒並み間違っていたり中途半端な理解だったりした。
 
 先ず第一に、特別定額給付金(全国民への一律10万円の給付金支給)に「マイナンバー」は使われていない。オンライン申請で使われているのは「マイナンバーカード」である。「マイナンバーカードが使われる」=「マイナンバーが使われる」ではない。そこは最初にはっきりさせておきたい。詳しくはこちらの過去記事参照。
 今回の給付金支給に当たって全国の役所で大混乱が起きたことがニュースでも報じられた。ひどいところでは4時間待ちが発生したとか、挙げ句には「オンライン申請よりも郵送申請の方が早いです」と言い出した。
 
 マイナンバーを使っていれば、こうした混乱の多くは避けられた。もっとスムーズに支給ができていたはずだ。
 
 なぜ政府はマイナンバーを使わなかったのか。こういう時に使わないで何のためのマイナンバーか。(*繰り返すがマイナンバーカードの話ではない)
 
 
 私は少し昔、街のクリーニング屋で経験したことを思い出す。
 
 初めて行ったクリーニング屋だった。街に数店舗を抱える小さなチェーン店。パートかアルバイトと思しきおばちゃん店員が3人忙しそうに働いていた。
おばちゃん「初めてですか?」
私「はい」
おばちゃん「カード作って。10%引きになりますから」
そう言って手作り風の簡単なメモ用紙を渡され、
「これに書いてください」
と言われた。
f:id:rjutaip:20200609210139p:plain
 住所、氏名、連絡先。連絡先は電話番号とメールアドレスと書く欄があったので、私はメールアドレスの方を書いて渡した。するとおばちゃん、電話番号欄を指さしながら「何かあった時に連絡しないといけないのでここも書いてください」
私「連絡ならそのメールアドレスにしてください」
 するとおばちゃんは驚き、困惑した様子で、先輩のおばちゃんに相談。先輩のおばちゃんがやって来て、「これじゃ、これじゃ駄目なんです!電話じゃないと駄目なんです!」。泣きそうな顔だった。電話番号を書いてくれなかったのはあなたが初めてです、メールとかそういう難しいのは分からないんです(まだそういう時代だった)、と言いたげだった。
 じゃあ、なんでメールアドレスを書かせたのか。メールは連絡手段として使わないなら、なぜメールアドレス記入欄があるのか、という話である。私はそう言おうとしてその台詞を飲み込んだ。経営者の方針だろう。パートのおばちゃんたちは知らなさそうだ。ここで言い争うと自分の後ろに並んでいる人たちに迷惑もかかる。電話番号を追記して渡した。私の隣で同じように紙に記入していた人は電話番号だけ書いてメールアドレスは書かずに渡してあっさり受理されていた。私はメールアドレス書き損である。
 
という、もう何年も昔の話を、今回の給付金マイナンバー不使用の件で思い出したのだ。
 
 今回の件で「マイナンバーが銀行口座と紐付いていれば...」と言っている人をよく見かける。「いれば」ではない。マイナンバーはもう二年も前から銀行口座と紐付いている。政府が銀行と協力して国民にマイナンバーを銀行に届け出るようにお願いをしている。
 
 私は政府からお願いされたので、もうだいぶ前に銀行にマイナンバーを届け出ている。私のマイナンバーと銀行口座は紐付いている。新聞は「本人の同意が必要になる」と言っているが、私は同意して届け出ているのである。
 
 政府は社会保障のためにマイナンバーを使ってよいことになっている。ということは私のマイナンバーを見れば私の銀行口座番号は分かるはずである。なぜ、そこに振り込まないのか。なぜ、紙やパソコンやスマホに銀行口座を書いてこちらから知らせなければならないのか。
 
 ここで法律に少し詳しい人は「法律上の制約がある」と言うかもしれない。たしかに政府がマイナンバーを使わなかった表向きの理由はそうだ。だが、番号法の別表第二にはたくさんの事務が記載されており、そこに新しい事務を加えることはそんなに難しいことではないのだ。憲法を改正するようなそんな難しい話ではない。
 
 「でも、銀行にマイナンバーを届け出ている人は少ないと思いますよ」と言う人がいるだろう。
 
 それは知らない。政府のお願いに応じて銀行にマイナンバーを届け出ている人が、全国民の90%なのか、50%なのか、10%なのか、あるいはもっと少なくて2%くらいなのか、それは私は知らない。今のところ、マイナンバーの届け出は(投資信託などを除けば)絶対義務ではないので、届け出ているかどうかは人々の勝手である。
 
 だが、政府からお願いして、それにちゃんと応じている人がいる以上、その人たちにはマイナンバーを使って銀行口座に振り込むのが道義であろう。
 
 メールアドレスを書かせておきながら、メールは連絡に使わないと言うクリーニング屋マイナンバーを銀行に届け出させておきながら、給付金の振り込みにマイナンバーは使わないと言う政府。
 
 国が、街のクリーニング屋と同じレベルのことをしているのである。クリーニング屋と政府は「やーい!引っかかったー!」と言いたいのか?
 
f:id:rjutaip:20200609204543j:plain
 
 こちらのポスターをご覧いただきたい。銀行へのマイナンバー届け出のお願いである。お願いしている主体は誰か。それは下の方に書いてある全国銀行協会内閣府金融庁。政府がお願いしているのは明白である。「銀行もお願いしてる!」と思う人がいるかもしれないが、銀行にはお願いするメリットはあまりないのである。法律によってマイナンバーの利用用途は極めて限定されており、銀行はせっかく集めたマイナンバーを自分たちの商売に使うことはできない。それどころか顧客から預かったマイナンバーの厳重な管理を求められるので、逆に負担が増えるくらいなのである。銀行はただ政府からお願いされているだけで、そんなに積極的にマイナンバーを集めたい気持ちはない。
 
 で、この「お願い」はもうずっと前から行われている。2018年1月には銀行口座とマイナンバーを紐付けて管理することが義務付けられた。
 
 仮に銀行口座を持っている日本国民が5000万人いるとして、その内の2%がマイナンバーを届け出ていたとすると、100万人の人がすでに銀行口座とマイナンバーが紐付いているわけである。なぜ、その人たちの銀行口座にマイナンバーを使って給付金を振り込まなかったのか。申請すら必要ない。国から一方的に振り込むことができたはずだ。
 
 「そうなると届け出ていた人と届け出ていなかった人とで分けなければいけないから、作業が煩雑になるのでしょう」と言う人がいるかもしれない。しかし、今回、政府がとったマイナンバーカードとマイナポータルを使う支給方式でも、オンラインと紙で申請した人に二重払いを避けるための事務作業は必要になる。
 
 国はマイナンバーを通じて、私の名前、住所はもちろんのこと、家族情報、世帯主かどうか、私の銀行名、支店名、口座番号もすべて分かる。なぜなら私が同意してとっくの昔に届け出ているからだ。それなのになぜマイナンバーを使って給付金を振り込まないのか。
 
クリーニング屋「何かあった時のためにメールアドレスを書いてください」
私「はい」
クリーニング屋「メールアドレスは使いません。電話番号じゃなきゃ駄目なんです!」
私「???」
 
政府「何かあった時のために銀行口座を教えてください(銀行にマイナンバーを届け出てください)」
私「はい」
 ↓
何かあった(世界的コロナウイルス大流行、非常事態で給付金支給)
 ↓
政府「マイナンバーは使いません。紙かマイナポータルに銀行口座を書いてくれなきゃ駄目なんです!」
私「???」
 
 あの時のクリーニング屋と同じだ。聞いておきながら「それは使いません」と言う。じゃあ、なぜ聞いたのか。
 
 政府と国民の間にいちばん大切なものは信頼である。こんな「騙し」を続けていて誰が政府にマイナンバーを預けようと思うだろう。たとえ2%の人であってもその人たちの口座にマイナンバーを使って振り込んでいれば、その2%の人たちが「私は申請もしないで勝手に給付金が振り込まれていた!」とネットに書き込み、そしてその話が広まるだろう。そうすれば口座紐付け義務化などしなくても、国民のほうから進んでマイナンバーを届け出ようとするだろう。
 
 私が政府の人間で全口座をマイナンバーと紐付けたいと考えているならそうする。「義務化」などという押し付けは嫌われるだけで、一部の素直に届け出ていた人が良い思いをした、ということを人々が知ったら、我も我もと届け出てくるはずである。それは、あれほどマイナンバーカードを嫌っていた国民が「10万円が早くもらえるかも」という噂を聞いた途端、役所の窓口に大行列を作った今回の件を見ても明らかである。
 
 それに何より、聞いたからには使わなければいけない。それは当然にやらなければいけないことである。これだけ個人情報やプライバシーの意識が高まっている時代に「ちょっと聞いてみただけ」はあり得ない。
 
 こんな政府、あなたは信用しますか?
 
【関連記事】

虎ノ門ヒルズ駅誕生に伴う日比谷線の駅間問題

f:id:rjutaip:20200605215112p:plain

 
 日比谷線は駅間がおかしい。
 
 地下鉄の駅間はなるべく均等に作られているが、日比谷線は駅間が極端に短かったり長かったり。
 
 この度の虎ノ門ヒルズ駅の開業で、ますます駅間がおかしくなった。
 
 下図の通り、例えば北千住駅から中目黒駅方面に向かうとすると、日比谷駅までの下町区間はずっと駅間が短いが、日比谷駅を過ぎると突然駅間が長くなる。港区は広大な敷地が多い関係で細かく駅を作るのが難しいのだろうか。
 
f:id:rjutaip:20200605221525p:plain
 新しく開業した虎ノ門ヒルズ駅は霞ケ関駅神谷町駅の間にできた。
 
 私がこれの何が問題だと思っているかと言うと、駅間の平均化どころかアンバランス化に貢献してしまっているところである。特に前後の駅間とのバランスが非常に悪くなるのである。
 
日比谷―霞ケ関間 1.2km
霞ヶ関―神谷町間 1.3km
神谷町―六本木間 1.5km
 
 この三つの駅間、営業距離をこうして比較してみると、どれも大して変わらないじゃないか、と思うかもしれない。しかし、電車に乗っている時間、所要時間を見てみると全然違うのである。
 
 実際に日比谷駅から六本木駅までの駅間の平均所要時間を計ってみた。
 
日比谷―霞ケ関間 2分26秒
霞ケ関―神谷町間 1分44秒
神谷町―六本木間 2分52秒
 
 霞ケ関―神谷町間が圧倒的に短い。この三つは駅間距離が大して変わらないのに、どうしてこんなに所要時間に差が出るのか?
 
 それは線路の形にその答えがある。下図は日比谷から六本木、広尾までの日比谷線の路線を地図を見ながら写し書きしてみたもの。
 
f:id:rjutaip:20200605221543p:plain
 日比谷―霞ケ関間、神谷町―六本木間には途中に大きなカーブがあるのが分かるだろう。特に神谷町―六本木間のカーブなどは直角に近く、ここで電車は大きく減速する。だから神谷町―六本木間の所要時間は距離以上に長いのである。一方、霞ケ関―神谷町間はほぼ真っ直ぐなので減速することなく短時間で走り抜けている。
 
 で、虎ノ門ヒルズ駅は前後の駅間に比べて圧倒的に短い、この霞ケ関―神谷町間にできた。霞ケ関―神谷町間の所要時間を単純に2で割ってみると次のようになる。
 
日比谷―霞ケ関間 2分26秒
霞ケ関虎ノ門ヒルズ間 0分52秒
虎ノ門ヒルズ―神谷町間 0分52秒
神谷町―六本木間 2分52秒
 
 もう、倍以上。虎ノ門ヒルズから神谷町まであっという間に着き、神谷町を出発してから六本木に着くまで3倍近い時間を体感することになる。ただでさえ今まで神谷町―六本木間は長いなあ、と感じていたが、虎ノ門ヒルズ駅ができたことにより、相対的にますます長く感じることになるだろう。
 
 1.3kmの直線という日比谷線では最もスピードの出る区間における途中駅の登場。駅ができたら当然そこで減速して止まるし、そこでの乗り降りも発生する。虎ノ門ヒルズに用がある人にとってはこの新しい駅は有り難いだろうが、日比谷線全体の目的地までの到着時間は長くなる。この区間を跨いで通勤通学をしている人が最もそれを感じるだろう。そして心理的には日比谷―霞ケ関間や神谷町―六本木間が今まで以上にとても長く感じられるようになるだろう。
 

「給付金が遅延したのはマイナンバー制度に反対した人たちのせい」という国民の勘違い

f:id:rjutaip:20200602215019j:plain

 
 全国民一律の10万円の給付金。この給付金支給の遅延が全国の自治体で相次いでいる。特にマイナンバーカードを使ったオンライン申請は、申請の内容に不備が多かったり、全国の市役所が申請内容と住民基本台帳の内容を目視確認したりするのに時間を取られて「紙で申請した方が早いです」と市民に呼びかける始末になっている。あまりの混乱ぶりにオンライン申請を中止した自治体もある。
 
 このニュースに対してネット上などでよく目にするのが「国民がさんざんマイナンバー制度に反対したせいだ」という意見。与党でもマイナンバーと銀行の預貯金口座の紐付けを義務化しようと言い出す人が出てきた。
 
 だが、この「マイナンバー制度に反対した人たちのせいだ」というのは大なる勘違いなのである。ここに、国民が無知蒙昧であることをいいことに、政府が好き勝手に進めようとしている構図がある。
 
 例えばNHKのこのニュース。前段と後段では違う話をしているのだが、一つのニュース記事として扱うことで、まるで一連なりの話のように見える。
 
 前段で語られているのは、地方自治体が今回寄せられた口座情報を保持して次回以降に使えるようにしましょう、という話である。で、その話に関係があるかのように、しれっとマイナンバーに口座情報を紐付けましょう、という話が出ている。
 
 このニュースに対して、「賛成だ。便利になるのならそうしてくれる方がありがたい」、「マイナンバーと口座情報の紐付けに反対している人は何か疚しいことでもあるのかな?」と言っているコメントも多く見かける。
 
 だが、便利になんかなりはしない。マイナンバーが私たち国民にとって便利なものになるかどうかは、政府の運用(使い方)次第なのである。
 
 「反対派が個人情報の漏洩、プライバシーが心配だと声高に反対したせいで、マイナンバーはセキュリティーがガチガチになってとても使いづらいものになってしまった。だから給付金の支給もスムーズに行かなかったのだ」と言ってる人がたくさんいる。マイナンバーのセキュリティーがかなり堅く作られているのは確かだが、給付金の支給がスムーズに行かなかったこととは関係ない。なぜなら、特別定額給付金の支給にマイナンバーは一切使われなかったのだから。給付金の支給に使われたのはマイナンバーカードであってマイナンバーではない。このことは以前の記事でも書いたので参照されたい。(一律10万円の特別定額給付金にはマイナンバーは使われない - 漸近龍吟録
 
 
 あるいはこの毎日新聞の記事。「マイナンバーが機能しなかった」と書いているが、機能しなかったも何も、使っていないのである。つまり、「マイナンバーが使いづらいものだったから支給がスムーズに行かなかった」のではない。そもそも政府はマイナンバーを使っていなかった。
 
 「だから使いづらいものになってしまっていたから政府は使わなかったんでしょう?」と思う人もいるかもしれないが、それも違う。現行の仕組みでも充分、マイナンバーは「使える」のである。現行の仕組みでもマイナンバーを使ってスムーズに支給をすることは可能である。それを使わなかったのは、単に政府が「やる気がないから」に過ぎない。
 
 「マイナンバーが銀行口座と紐付いていればもっとスムーズに支給できたのに」と言っている人が多くて驚く。「いれば」ではない。マイナンバーと銀行口座はとっくの昔に紐付いているのである。国税通則法などの法律によって、2018年1月からマイナンバーと銀行口座は紐付いている。
 
①大勢の国民がマイナンバーに反対した
 ↓
マイナンバーが銀行口座と紐付かなかった
 ↓
③給付金の支給がスムーズに行かなかった
 
と勘違いしている国民がいかに多いか。①の大勢の国民が反対したというのはその通り。②のマイナンバーが銀行口座と紐付いていないというのは間違い。③の給付金の支給に関しては、マイナンバーを使えばスムーズに支給できたのに政府が単にマイナンバーを使わなかっただけ。
 
 マイナンバーカードがずっこけて、マイナンバーをどうにかしましょう、と言うのは、犬が転んだから兎を治療しましょうと言ってるようなもの。国民が無知すぎるのでこんな簡単なトリックにも騙される。
 
 このブログでも再三にわたって書いているが、マイナンバーの利用目的は1.税、2.社会保障、3.災害対策の三つだけなのである。通称番号法という法律で決まっている。COVID-19は災害であり、特別定額給付金社会保障であり、マイナンバーの利用目的のど真ん中なのである。いくらセキュリティーがガチガチになろうとも給付金の支給にマイナンバーが使えないわけはないのである。
 
 ではなぜ使わないのか、と言ったら、それはもう政府がマイナンバーを国民のために使う気がないからである。2016年にマイナンバー制度が始まって以来、この四年間でたくさんの災害が日本を襲った。だが政府は一度もマイナンバーを使わなかった。「災害対策」とあれだけ大々的に謳っていたのに。
 
 いま多くの国民が「便利になるんならマイナンバーと銀行口座の紐付け義務化に賛成」と言っている。便利とは私たち国民にとって便利という意味であろう。今まで一度もマイナンバーを国民のために使ってこなかった政府が、これから国民の便利のためにマイナンバーを使うと思うのか。「便利になるんなら」と思ってせっせと銀行にマイナンバーを届け出た暁には、政府が「国民の皆さま、ありがとうございます。これで出揃いました。皆さまのマイナンバーはしっかり脱税監視に使わせていただきます」という言葉が待っているだけ。「脱税監視だけでもいい」と言う人はいいが、「少しは便利になるかも」などとは努々思わない方がいい。
 
 今回の給付金騒動でも少し分かった人もいるかもしれないが、マイナンバーというのは行政機関間の情報連携に使われなければ意味はない。そこで使われなければスマートで便利な社会というのは実現しない。国が国民の預貯金口座を把握したところで日本のIT化だの便利化だのはやって来ない。
 
 次回の記事では、銀行口座とマイナンバーの紐付けについて、もう少し詳しく書こうと思う。
 
 【関連記事】

COVID-19禍と天平の疫病大流行~特別定額給付金と「賑給」~

f:id:rjutaip:20200519075957j:plain
 
 世界的なCOVID-19禍の中で私が思い起こしたのは今から約千三百年前、天平九年に起こった「天平の疫病大流行」だ。日本の国が駄目になってしまうのではないかと思われるほどの未曾有の疫病危機。その中で困窮する人々に支給された「賑給」について。
 
「全国民に一律10万円の給付金。」
 
 政府のこの発表を聞いた時、私は天平時代の「賑給」を思った。
 
 賑給とは、平安時代に時の政府が貧窮する国民に対して、薬や食料品、貨幣としての稲、等を支給したことだ。この賑給が行われる時機は二つのタイミングがあって、一つは天皇の代替わりや改元など、おめでたいことがあった時、もう一つは自然災害、疫病、飢饉など大きな国難に見無われた時。そのような時に貧窮者に対して政府から施しが与えられるのが賑給だった。
 
 この賑給が「緊急出動」する出来事があった。それが今から約千三百年前、天平九年に起こった「天平パンデミック天平の疫病大流行)」である。このとき流行った疫病は天然痘で、当時は疱瘡(もがさ)と呼ばれ恐れられた。天平七年に九州から流行したが、二年後の天平九年に大流行。全国で猛威を奮い、時の政権中枢にいた人たちまでもが次々に病に斃れ、日本は未曾有の大パニックに陥った。
 
 この時、非常緊急事態ということで賑給が出された。今で言うところの給付金である。何しろ政権中枢の人たちが病にたおれているので、政府の人間にとっても他人事の事態ではなかった。急遽、特別に食料、稲が支給されることになった。その後、時代が経過すると、賑給は段々と年中行事化していき、毎年五月の定例の行事として賑給が支給されるようになった。
 
 特別定額給付金は「現代の賑給」のようにも見える。平安時代に賑給が支給されたのは改元や疫病などの災害があった時。今の日本は昨年2019年に令和に改元されたばかりでCOVID-19という疫病が大流行している最中。そして五月。これだけ条件が揃っていれば、私でなくとも、特別定額給付金を現代の賑給に擬えて見る人はいるのではないだろうか。
 
 だが支給対象に決定的な違いがある。
 
 賑給が、現代の特別定額給付金と異なる点は、支給される対象となる人である。特別定額給付金は裕福な人、貧しい人関係なく全国民に支給される。賑給は、貧窮する人に支給された。では「貧窮する人」とは具体的にどういう人のことだったか。
 
 疫病に罹っている病人、高齢者、「鰥寡孤独(鰥寡惸獨とも)」の人がそれである。「鰥(かん)」は老いて妻のない男、「寡」は老いて夫のない女、「孤」は親のない子ども、「独」は子どものない老人、を意味する。つまり、よるべのない人たちのことである。
 
 こうした誰にも頼ることができず孤立している人に賑給は施された。より弱い人、自力だけでは生きていくのが大変な人、そういう人を助けようという精神が賑給にはあった。千三百年前の政府にできたことが、どうして今の政府にできないのだろう。
 
 天平の疫病大流行とCOVID-19大流行には共通点もある。
 
 COVID-19禍で在宅勤務を命じられた社員が「でもハンコを押してもらうために出社しなければいけない」というニュースがネットで報じられていた。ハンコ社会日本らしいニュースである。一方で、「このような非常事態なので押印の省略も認める」という対応をしている会社も出てきているらしい。
 
 天平時代の疫病大流行の時もこれと似たような出来事があった。
 
 籔井真沙美氏は論文『八世紀における賑給の意義と役割』で、官符を発行する太政官が、本来なら天皇御璽をもらわなければいけないところを、緊急事態だからということでそれを省略して地方に下していることを指摘している。令和時代の日本が、約千三百年前の天平時代の日本とほぼ同じようなことをしていることに驚く。
 
 先日、こんな記事を読んだ。
 
 この記事に出てくる33歳の男性は、頼るべき友人も知人も家族もいないという点では「鰥寡孤独」の人である。COVD-19禍により勤めていた飲食店は休業し「来なくていい」と言われた。収入も絶たれ、それまで住んでいたネットカフェにも住めなくなった。国からの援助の給付金もない。10万円の特別定額給付金も住所がある人のところにしか申請書は届かない。この男性はそもそも携帯電話の充電もできなくなってしまったので、そういう給付金制度があることすら知ることができない。「飲食店に勤めてて収入がある時にアパートを借りていたらよかったじゃないか」と言う人がいるかもしれない。だが今の日本には住宅を借りる際には保証人制度というものがあって、家族や友人がいない人にとっては家を借りるのは容易ではない。
 
 これが、「よるべのない人」の困窮である。現代の「給付金」よりも天平時代の「賑給」の方が優れていたのではないか。天平時代には、誰にも頼ることのできない「真に困っている人」が見えていた。
 
 天平時代の賑給が令和時代の特別定額給付金より優れていた点は少なくとも三つある。
 
 第一点目は、困窮する者に優先して支給できたこと。
 現代の特別定額給付金は、最初は富裕層には支給しなくてもいいのではないかという話も出ていたが、高所得者の家と低所得者の家を分ける事務作業が大変だ、という理由で、全国民一律で支給することになった。
 
 第二点目は、困窮する者に申請させなかったこと。
 上のNHKの記事に出てくる男性もそうだが、本当に困窮している人は給付金制度があることも知らないし、そういう情報に辿り着けない。申請の仕方も誰からも教えてもらえない。そもそも住所がないので申請用紙も届かない。賑給は困窮している本人からの自己申告制ではない。
 
 第三点目は、スピード感。
 上記、籔井氏の論文には、速やかに賑給を支給していた当時の律令政府のことが書かれている。「奈良時代と現代とでは人口が全然違うではないか」と言う人がいるかもしれないが、千三百年も後の時代でありながら、奈良時代のスピードに追いつけていないのは情けない。
 
 私は歯痒くてしかたがない。千三百年前の政府にできたレベルのことがなぜ今の政府にできないのだろう。国民を思う気持ちがないからだ。昔はもっと為政者と国民の距離が近く、為政者は国民の窮状をよく見ていた。未曾有の緊急事態下で困窮する国民を助けようとしたあの必死の思い。
 
 上記論文の中では、天平時代の賑給は、天平九年に頻度が増えていることや支給物の内容から、単に天皇(および政権)の徳を知らしめるためではなく本当に困っている人を救おうという気持ちがあったのだと分析されている。豪邸のソファで高級犬を撫でているような為政者には解らないことである。
 
 「こんな疫病の大流行は初めてのことだからわからない」という言い訳のような台詞をよく聞くが、初めてではない。あなたにとっては初めてかもしれないが人類にとっては初めてではない。何度も経験してきたことだ。千三百年前のことを思い出し「あの時はどうしたんだっけ?」と考えれば、もっと自ずとやるべきことは見えてくるはずだ。
 
【参考文献】
(この論文を大いに参考にした)
 
 
【関連記事】

受け継がれるフローレンス・ナイチンゲールの精神【生誕200年】

f:id:rjutaip:20200511220447j:plain

 
 2月~3月ごろ、COVID-19がパンデミックの猛威を奮い始めたころ、私が想起していたのは今年生誕200年の記念の年になる、フローレンス・ナイチンゲールのことだった。
 
 ナイチンゲールは、看護師、また統計学者のイメージが強いが、社会変革家でもあった。しかし生誕200年ではなかったとしても、今の状況では誰もがナイチンゲールのことを思い起こさずにはいられないだろう。
 
 ウイルス対策という衞生面でも、ナイチンゲールは手洗いと換気の大切さを繰り返し説いている。現代の私たちは「手洗いや換気が大事なんて当たり前じゃないか」と思ってしまうが、今では“常識”となっているこれらのこともナイチンゲールの時代にはまだ常識ではなかった。
 
 そしてまた、今は多くの人が日々、目にする統計に対して疑問を抱いている。
 
「感染者数だけではなく陽性率を調べないと意味がないのではないか」
「この数字に軽症者は含まれているのか」
「回復した人は含まれているのか」
「集計方法に問題があるのではないか」
「そもそも日本は検査数が少なすぎるのではないか」
等々。
 
 もしナイチンゲールが現代に生きていたら、こうした問題に対しても、統計学者としていろいろ言いたいことがあるのではないだろうか。
 
 ナイチンゲールは“社会全体”を捉えていた。看護の専門家だからもちろん看護活動もしたが、病院の環境をよくしたり病院の数を増やしたりするためには、政治にも関わらなければいけないし経済のことも考えなければいけない。医学の知識もある程度必要だし、病人の数を減らしていくためにはどのような施策が効果的かを統計的に調べる必要も出てくる。
 
 現代の私たちは、どの国の対策の仕方がもっとも効果を発揮しているかということを、素人ながらも統計データを見ながら日々いろいろ推測しているが、こうしたスタイルもナイチンゲールに始まっていると言っても過言ではない。
 
 現代のCOVID-19禍では貧しい階層の人々に、より大きなダメージがいくことが指摘されているが、この問題についてもナイチンゲールは語っている。
 
たとえある施設が『〈貧富両者〉に向けた熟練看護婦の提供』をしはじめようとしても、とくにそれで『採算のとれる』ようにしようと思えば、結局は『富める者』のみのための『熟練看護婦の提供』ということになってしまうだろう。つまり、その施設が『採算のとれる』ことをたてまえとしていれば、いいかえれば、看護婦がその施設を『支える』のであれば、『富める者』がまずやってくるにちがいない。そして『富める者』が最初にくれば、かれらが最初から終わりまで占めることになるだろう」(1876年4月『Times』紙に掲載)
 
 だから、ナイチンゲールはあらゆることに首をつっこみ口を出した。多くの政治家と積極的に関わって社会全体を変えていこうとした。
 
 ナイチンゲールは時に怒り、そして闘った。苦しむ患者たちを救うのには献身的な看護活動だけでは限界があり、病院をもっと衞生的で綺麗なものに建て替えたり、抜本的な改善が必要だった。周囲の人から時に異常とも見える使命感で闘った。
 
大事小事を問わず、何かに対して「責任を持っている」ということの意味を理解している人は――つまり責任をどのように遂行するかを知っている人という意味なのであるが――男性でも、女性でさえも、なんと少ないことであろう。上は最大規模の災害から、下はほんの些細な事故に至るまで、その原因をたどってみれば(あるいは、たどるまでもなく)「責任を持つ」誰かが不在であったか、あるいはその人間が「責任」のとり方を知らなかったためであると判明することが多い。(『看護覚え書』)
 
 すべてを背負って立つ、ぐらいの強い責任感をもって臨んだナイチンゲールの言葉である。
 
 今の日本は、「すべての責任は私にある」と言いながら責任の取り方を知らない人の下に、COVID-19禍に飜弄され続けている。中国では国が主導して感染者を収容するための大病院が造られた。日本でもずっと病床数が逼迫していると言われているのだからこれぐらいのことをすべきと思うが、動きは鈍い。
 
 日本でなんとか医療崩壊をギリギリのところで食い止めているのは、国民一人ひとりの自制に頼っているところが大きい。そして医療の現場で命の危険と隣合わせになりながら奮闘しているのはナイチンゲールの「教え子」たちだ。ナイチンゲールの教え子たる看護師たちは日本のみならず世界中で闘っている。日本でも「医療従事者たちに感謝を」という言葉は聞く。しかし、感謝だけでいいのだろうか。ナイチンゲールは「白衣の天使」と呼ばれることを嫌ったと言われている。多くの苦しむ人を救うために、そして現場で疲弊する看護師たちを助けるために、国がやれることはもっとたくさんあるのではないか。そして国に対して私たち国民が求めていくことももっとできるのではないか。
 
 今日2020年5月12日はフローレンス・ナイチンゲールの生誕200年の日にあたる。COVID-19禍で、奇しくもナイチンゲールが甦った形になった。しかし「甦った」のではない。政治を巻き込み社会を良くするために闘ったナイチンゲールの精神はナイチンゲール亡き後100年以上にわたって脈脈と受け継がれてきたのだ。
 
 イギリスでは、感染者数が急増し始めた4月に、できるだけ多くの患者を収容できるようロンドンの東に猛スピードで国内最大級の病院が造られた。その病院は母国の英雄の名を取って「ナイチンゲール病院(Nightingale Hospital)」と名付けられた。
 
 

一律10万円の特別定額給付金にはマイナンバーは使われない

f:id:rjutaip:20200507204251p:plain

 多くの国民が政府の戦略にまんまと乗せられている。
 
 政府が全国民一律で10万円の特別定額給付金を支給することを発表した。この給付金の支給に時間がかかっている。申請には郵送とオンラインの二種類の方法があって、マイナンバーカードを使ったオンライン申請の方が手続きが早く済んでいる。
 
 この支給がなかなかスムーズに行ってない事態を以て、「マイナンバー及びマイナンバーカード導入の時に反対した人たちがいたからだ」と言ってる人たちがいるが、これはもう政府の思惑にまんまと乗せられているのである。
 
 たしかに現時点でのマイナンバーカードの普及率は2割に満たない。だがマイナンバーの普及率は約100%である。政府が16%の方ではなく100%の方を使えばよい話なのである。政府はここで敢えて16%の方を使うことによって、国民に「不便感」を感じさせている。「マイナンバーカードを持ってる人は早く申請できていいなあ」、「こんなことならマイナンバーカード作っておくべきだったなあ」と思わせる。そして、マイナンバーカードを作っていた16%の人々には「あの時、反対してた人たちが悪い」と言わせる。
 
未だにカードなしで番号だけあれば良いだろなんて言ってる人が多数なので原因は国民のITリテラシーの低さでしょう
と言っているコメントを見かけた。
 
 たしかに「申請」という形式に拘るならば、マイナンバーだけでは駄目でマイナンバーカードが必要である。しかし政府が「申請」という形式にしなければマイナンバーだけで支給することは可能なのである。特別定額給付金は、本来、マイナンバーの担当分野である。マイナンバーカードを使ってはいけないということはないが、その前に先ずマイナンバーを使わなければいけない。
 
 私はこの支給にマイナンバーを使うべきだという考えをずっと主張しているが、その話の前に「給付金の申請にマイナンバーが使われる」と誤解している人がどうも多そうなので、今日は「特別定額給付金の支給にマイナンバーは使われない」という話を書こうと思う。Q&A方式にしてみた。
 
Q1「マイナンバーカードが使われるってニュースでやってたよ?」
A1 マイナンバーカードは使われるが、マイナンバーは使われない。たしかにマイナンバーカードを使ってオンライン申請をすることができる。ただしマイナンバーカードも必須ではない。マイナンバーカードを持っていない人は紙(郵送)で申請できる。マイナンバーとマイナンバーカードの違いは次の通り。
 
マイナンバー:12桁の数字からなる番号
マイナンバーカード:プラスチック製の札
 
Q2「マイナンバーカードをカードリーダーに翳した時にマイナンバーも読み取られるのでは?」
A2 マイナンバーカードをカードリーダーやスマホに翳す時に、マイナンバーは読み取られない。マイナンバーカードのICチップの中に入っている電子証明書が読み取られる。「マイナポータルにログインする時に電子証明書が必要なんですよね!」と言ってる人もたまに見かけるが、特別定額給付金に関してはマイナポータルへのログインは必要ない。電子証明書が必要になるのはその先。
 
Q3「マイナポータルでいろいろ入力する時にマイナンバーも入力するんでしょ?」
A3 マイナンバーを入力する欄はない。
 
Q4「券面事項入力補助用暗証番号の入力を求める画面が出た。ここで暗証番号を入力したらマイナンバーを読み取られるのでは?」
A4 原理的には、そこでマイナンバーを読み取られるが、その読み取られたマイナンバーが使われることはない。ここで暗証番号を入力するのは住所や氏名などの入力の手間を省くため。
 
Q5「本人確認のためにマイナンバーが使われるんじゃないの?」
A5 本人確認のためにマイナンバーは使われない。紙の申請書にもマイナンバーを書く欄はない。オンライン申請においては、本人確認はマイナンバーカードの所持認証と署名用電子証明書(パスワード)によって行われる。電子証明書の中にはマイナンバーは入っていない。
 
おわりに
 政府が好き勝手に暴走している。この暴走、暴挙を止めなければいけないが、国民の側が知識・理解が追いついていなくて批判が的外れになってしまっているのも多く見かける。国民の無知につけ込んでやりたい放題をやっているのが今の政府だ。
 
 もっとも私は、今回、政府が「マイナンバーカードを使うこと」に憤っているのではない。「マイナンバーを使わないこと」に憤っているのである。私はマイナンバー制度が始まる前からずっとブログ等で、まるで政府の手先の広報担当のようになってマイナンバー制度の解説記事を書いてきた。それも偏に国民にマイナンバーやマイナンバーカードの仕組みについて正しく理解し、正しく政府を批判してもらいたいと思っているからだ。少なくともマイナンバーとマイナンバーカードの違いぐらいは理解できる人が一人でも増えてほしい。そんな思いでマイナンバー関聯の記事を書き続けている。
 
【関連記事】