漸近龍吟録

反便利、反インターネット的

東京オリンピックはインターカレート大会としてオンラインで

f:id:rjutaip:20210212124414p:plain

 
 東京オリンピックは開催か中止か、という二択の話になってきている。
 
 私は日本人として、東京人として、オリンピックは招致段階から反対している。
 
 ただ一旦決まってしまっていると、それを中止した場合にはアスリートたちが気の毒だ。四年に一度の機会に照準を合わせて練習を積み重ねてきていたのに、その発表の場が突然奪われるのはかわいそうだ。かと言って、Covid19の問題を無視するわけにもいかない。
 
 そこで私が提案したいのは、東京オリンピックをインターカレート大会、つまり非公式大会としてオンラインで行う、というものだ。
 
 東京オリンピックは2020年に開かれなかったという時点でオリンピック憲章に反する可能性が高い。このことは以前書いた記事を参照してほしい。一方、Covid19で問題になるのは、リアルにたくさんの人が集まり、またそのための移動があるということだ。
 
 であれば、リアルに人が集まらない大会にすればいい。ヴァーチャル、すなわちオンラインで大会を行うのだ。
 
 例えば陸上100m走だったら、選手たちは各国各地域で走る。その映像を繋ぎ合わせて並んで走っているように見せる。当然、気象条件や風速などのコンディションが大きく異なっているので、タイムは参考記録、順位も参考順位である。そしてこの参考順位に従って、金メダル(仮)、銀メダル(仮)、銅メダル(仮)を授与する。映像を流すプラットフォームは限定する。このことによってスポンサー企業の広告収入を確保できる。
 
 このオンラインによる方法では、すべてが参考記録、(仮)(かっこかり)になるので、大会をまるごと非公式大会と位置づけることに違和感がない。
 
 但し、すべての競技種目でこのオンラインによる実施が可能かと言うとそうではない。オンラインで実施できそうな競技とできなさそうな競技にざっと分けてみた。
 
<オンラインで実施できそうな競技>
アーチェリー、アーティスティックスイミング、ウエイトリフティングスケートボード、スポーツクライミングトライアスロン、トランポリン、マラソンスイミング、飛込、近代五種、競泳、陸上、馬術、射撃、体操
 
<オンラインで実施できなさそうな競技>
バスケットボール、ゴルフ、サッカー、カヌー、セーリング、サーフィン、テコンドー、テニス、バドミントン、バレーボール、ハンドボール、フェンシング、ボクシング、ボート、ホッケー、ラグビーレスリング、空手、柔道、水球、野球・ソフトボール、卓球、自転車
 
 柔道、レスリング、バドミントン等、「相手と組む」必要がある競技種目はオンラインではできそうにない。もっともこれは私の頭が固いだけかもしれないので、「こうすればオンラインでも柔道が可能!」というアイデアがあれば、ぜひコメント欄で教えてほしい。
 
 アスリートたちには活躍の場が必要だ。「活躍」というのは単に記録が出る、という意味ではない。誰も見ていないところで記録を出すのではなく、皆が見ているところで勝つ、のが活躍である。だからオンラインで開催し、活躍するところを世界中の人に見てもらう。
 
 今から115年前の1906年アテネ大会もインターカレート大会だった。この大会は非常に盛り上がったと聞くが、IOCが定めるオリンピックの歴史には載っていない。西暦が4で割り切れない年に開催されているからだ。
 
 東京も同じようにインターカレート大会にすればいい。あるいは、以前の記事にも書いたように第700古代オリンピアードとして実施してもいい。何れの名目でも近代オリンピックとしては非公式の扱いであることは同じだ。それに記録や順位が参考記録でしかない以上、公式大会と位置付けるのも難しい。
 
 この方法で、すべてではないが、いくつかの競技種目を実施することができる。実施できる競技だけでもオンラインで実施してはどうか。公式大会ではないのだからすべての競技を必ず実施する必要はない。
 
 「そういう風に各地で走ったり泳いだりすることすらできない、参加選手を集めることもままならない状況の国はどうしたらいいのか」と言う人がいるかもしれないが、そういう国は無理に参加しなくていい。非公式大会なのだから参加できる余裕のある国だけが参加すればいい。
 
 ただ、オンラインで実施できる競技とオンラインでは実施できない競技の間の競技格差がある。陸上、競泳、体操、等は「タイム」や「得点」があるから、「好タイム」や「高得点」を叩き出すことである程度「活躍」できるのだ。柔道やレスリングのような競技ではタイムや得点が無いので、「相手に勝つ」ということでしか凄さを表現できない。そういう、凄さを表現できにくい競技ほどオンラインでは実施しにくい、というのは何とも皮肉な話ではある。
 
 東京オリンピックはリアル開催か中止か、という二択以外に、「オンライン開催」という選択肢を考えてもいいのではないか。パラリンピックもオリンピックに準じる形で開催したい。
 
【関連記事】

「東京」オリンピックとは何か 〜東京オリンピックはどこで開催されるオリンピックか〜

f:id:rjutaip:20210205131111p:plain

 「東京」オリンピックとは何か。
 
 東京オリンピックとはどこで開催されるオリンピックなのか。言い方を換えれば、東京オリンピックの「東京」とはどこなのか。
 
 ずっと疑問だった。長年、疑問だったが、ネットで検索してもどこにも答えらしきものは見つからず、それどころか、そういう疑問を発している人もいなかった。
 
 日本で前回、開かれたオリンピックは1998年冬季長野オリンピックである。また、実現はしなかったが2008年のオリンピックを大阪で、2016年のオリンピックを福岡で誘致していたこともあった。もし誘致が実現していれば「大阪オリンピック」「福岡オリンピック」があった。
 
東京オリンピックは東京都が、
長野オリンピックは長野県が、
大阪オリンピックは大阪府が、
福岡オリンピックは福岡県が、
 
それぞれ開催するオリンピックで何も疑問は無いじゃないか、と思うかもしれない。
 
 しかし、長野オリンピックの一つ前に日本で開かれたオリンピックは1972年の冬季札幌オリンピックここまでずっと都道府県が並んできたのに、なぜいきなり「札幌」という「市」がオリンピック名になっているのか。「北海道オリンピック」ではないのか?「北海道はさすがに大きすぎるから札幌市という市が立候補したのでは?」と思う人もいるかもしれないが、そうではない。
 
 実は、長野オリンピックは「長野県」ではなく「長野市」が開催したオリンピックだった。そして、大阪オリンピックは「大阪府」ではなく「大阪市」が、福岡オリンピックは「福岡県」ではなく「福岡市」が誘致していたオリンピックだった。長野や大阪や福岡は、たまたま府県名と府県庁所在地の市名が同じだから、県が開催しているのか市が開催しているのかが分かりにくいのだ。
 
 1988年の夏季オリンピックには「名古屋オリンピック」誘致活動があった。ここまで来ればはっきり分かる。札幌も名古屋も長野も大阪も福岡も、すべて「市」が開催(を目指)した大会だったのだ。
 
 「東京」だけが異質なのだと気付く。札幌、名古屋、長野、大阪、福岡はすべて「市区町村」単位の誘致・開催なのに、東京だけが「都道府県」単位である。単位が異なっているのである。東京オリンピック2020」は、誘致を言い始めたのは石原都知事IOC総会で「TOKYO」が選ばれて万歳していたのは猪瀬都知事、今は小池都知事が、前面に出てきてオリンピックに関する活動をしている。オリンピックが開催されれば都知事は開会式や閉会式にも出てくることだろう。
 
 札幌オリンピック長野オリンピックでは、式典に出てくるのは札幌市長、長野市長であって、北海道知事、長野県知事ではない。なぜ、東京オリンピックだけが都知事が出てくるのか。東京オリンピックは「東京都オリンピック」なのか?
 
 過去に開催された、あるいは誘致計画があった、他のすべてのオリンピックが「市」単位のオリンピックなのに、東京オリンピックだけが「都道府県」単位のオリンピックなのはなぜなのか?都道府県単位にならうなら、札幌オリンピックは「北海道オリンピック」、名古屋オリンピックは「愛知オリンピック」でなければおかしい。逆に市単位にならうなら、東京都の場合だったら、三鷹市が開催する「三鷹オリンピック」とか、八王子市が開催する「八王子オリンピック」のようでなければおかしい。
 
 本当に「東京」オリンピックではなく、「東京都」オリンピックなのか?開催都市契約では、”THE CITY OF TOKYO”、直訳すると「東京という都市」となっている。しかし和訳版では「東京都」となっている。そしてそれを「開催都市」と呼んでいる。
 
 「東京都」ではなく単に「東京」と言った場合には東京23区のことを指す場合がある。東京の区は特別区と言って23区を一つの「市」のようなものとして見做すことがある。例えば次のようなランキングを見たことがあるだろう。
 
1位. 東京 約951万人
2位. 横浜 約373万人
3位. 大阪 約272万人
4位. 名古屋 約231万人
5位. 札幌 約195万人
6位. 福岡 約157万人
 
 これは全国の市の人口ランキングである。2位以下が「市」の人口なのに1位だけ「都」のわけがない。ここで言う「東京」とは23区の人口を表している。
 
 つまり、東京オリンピック2020は「東京23区オリンピック」であると考えることもできる。23区の「市長」に当たる存在がいないから、代わりに東京都知事が「東京市長」として東京23区にオリンピックを誘致した、と。「東京オリンピック」とは「東京市」で開催される「東京市オリンピック」である、と。
 
 現在は「東京市」という市は無い。戦前は「東京市」という市があった。それは15区から始まった。今の千代田区中央区、港区、新宿区、文京区、台東区江東区あたりである。そこから段々地域が拡大して行き最終的に23区になって「東京市」は無くなった。だが今でも23区は嘗ての東京市の名残りであり最終型である。
 
 東京オリンピック2020の会場は分散している。
 
 大抵の競技は国立競技場周辺か東京湾岸周辺で行われる。だが、テコンドーやレスリングは千葉市で、バスケットボールや射撃、ゴルフは埼玉県で、自転車は静岡県で、野球・ソフトボール横浜市福島市で行われる予定になっている。
 
 オリンピック憲章では「すべての競技の試合および開会式と閉会式は、原則としてオリンピック競技大会の開催都市で実施されるものとする」と決まっている。ただし例外が認められる、と書いてある。東京大会は随分と例外の多い大会である。そして最も遠いものは、サッカー、マラソン競歩が札幌市で行われる。しかし、「東京市オリンピック」ならば、こうした他道県の会場だけではなく、東京都調布市が会場になっているサッカーやバドミントンだって「東京(市)」以外の地域で行われる競技ということになる。
 
 だが仮に、この「東京市オリンピック」という考え方にしたとしても、開催する主体は「東京都」である。
 
 東京は一つ一つの区、市単位でも人口規模や財政規模が大きいが、「東京都」となるとずっと大きい。東京都と言うときは西の奥多摩の山々や太平洋上の遠い島嶼部まで含み、その地域は広大で人口も財政規模も巨大になる。
 
 東京オリンピックは元々2016年の夏季オリンピックに立候補しており、その際、国内の候補地を一本化するときに福岡と争った。この時の闘いは、
 
東京都 vs. 福岡市
 
だったということだ。
 
 東京「都」 vs. 福岡「県」ですら東京都の方があらゆる面で規模が上なのに、東京「都」と福岡「市」の争いだったら、これは大人と子どもの闘いのようなものだ。この時、「福岡市の財政は大丈夫なのか」と福岡市の財政状況を心配する声が出た。「市」と「都」の財政規模は当然大きく違う。国内誘致合戦の段階で「市」と「都」が争うという不公平について議論がなければおかしいではないか。
 
 私は「東京都オリンピック」であることが不服なわけではない。そうではなくて、「市」と「都」と単位が違うこと、「札幌オリンピック」と「東京オリンピック」の単位が異っていることに、どうして誰も疑問の声を上げないのか。それが信じられないのだ。
 
 以上、パラリンピックも基本的には同様である。*1「オリンピック・パラリンピック」と書くと長くなるので「オリンピック」と表記した。
 
【関連記事】

*1:但し、「札幌パラリンピック」は存在しない。

DXとは何か 〜日本のDXに缺けているもの〜

 

f:id:rjutaip:20201221075825j:plain

 

「デジタルがやって来る」と「デジタルを持って来る」の違い

 一昔前に「イノベーション」という言葉が流行ったように、今は「DX(デジタルトランスフォーメーション)」という言葉が流行っている。だが誰も「DXとは何か」ということが解っていないように見える。
 
 DXとは、「あるべき姿」としてデジタルが使われている社会を想定し、そこに向かって変革していくことである。これがDXの思想である。「あるべき」とは、例えばそれが「普通」「当然」だと思っていることである。
 
 東京から九州にいる人に伝えたいことがある。今ならメールを送ればいい。メールがなかった時代にはハガキか便箋を送った。メールが登場し始めた初期の頃はどうか。
 
「メールで送る?ああ、最近の電子メールっていうやつね。身近にパソコンに詳しい人がいるならそれで送ってもいいと思うけど、あなたパソコン詳しくないでしょ?わざわざ電子メールなんか使わないで普通にハガキで送れば?」
 
 当時の人はそう言っただろう。ハガキが「普通」でメールは「わざわざ」なのだ。だが今の時代の人の感覚は逆で、メールが「普通」でハガキは「わざわざ」である。この、何を「普通」と思うか、という感覚が「あるべき」ということである。
 
 「普通」は「普く通っている」なので、すでに普及している状態である。メールが普及しきった時代には、「メールが普通」と考えられるだろう。メールがまだ普及していない、出始めの頃に、それが「自然」、「当然」という感覚を持てるか。
 
 「当然」とは「まさにしかあるべし」ということである。東京から九州にメッセージを伝えるのに、メールを使わずにハガキや手紙を使うのは「不自然」に感じる。「わざわざハガキを使うのは何か理由があるんですか?」と聞きたくなる。この感覚を、まだメールがさほど一般的になっていない時点で持てるかどうか。
 
 持てる場合は、「メールが当然」即ち「まさにしかあるべし」という理想像を持てているのだ。
 
 持てない場合は、メールが普及して「メールの時代」になるのを待たなければならない。そして自分たちの作為とは関係なくメールが向こうからやって来るので、それに“対応”しなければならない。メールの時代がやって来てしまったので、メールアドレスを作ったり、メールソフトの使い方を覚えたりしなければならない。
 
 前者は「メールを持って来る」のだが、後者は「メールがやって来る」という違いがある。
 
 欧米におけるDXとは、やりたいこと、実現したい社会の形があって、そのためにデジタルを持って来てトランスフォームする。
 

日本のDXは“対応”

 日本における場合は、やりたいことや実現したい社会の形というものはなくて、デジタルが向こうからやって来たのでそれに対応するために自分たちの行動の変化(トランスフォーム)を迫られている。この変化のことをDXと呼んでいる。
 
 欧米が「DX」と呼んでいるものと日本が「DX」と呼んでいるものにはこのように根本的な違いがある。
 
 それを特徴的に示しているのが、経産省の言う「DX」である。日本の「DX」の定義を知るには、国が定めた定義を見るのが一番早い。経済産業省が2018年に「DX推進ガイドライン」というものを発表していて、その中にDXの定義が次のように書かれている。
 
企業がビジネス環境の激しい変化に対応し、データとデジタル技術を活用して、顧客や社会のニーズを基に、製品やサービス、ビジネスモデルを変革するとともに、業務そのものや、組織、プロセス、企業文化・風土を変革し、競争上の優位性を確立すること。
 
 また、同じ2018年に発表された『DXレポート~ITシステム「2025年の崖」の克服とDXの本格的な展開~(サマリー)』には次のように書かれている。
 
既存システムのブラックボックス状態を解消しつつ、データ活用ができない場合、1)データを活用しきれず、DXを実現できないため、市場の変化に対応して、ビジネス・モデルを柔軟・迅速に変更することができず→デジタル競争の敗者に
 
 「ビジネス環境の激しい変化に対応し」、「市場の変化に対応して」。どちらにもはっきりと「対応」と書かれている。ここに日本が「DX」というものをどのように捉えているかの本質が如実に表れている。日本のDXは、環境の変化に対する「対応」なのだ。
 
 また、経産省のDXの捉え方には、もう一つ問題がある。それは、『ガイドライン』では「競争上の優位性を確立すること」、『レポート』では「デジタル競争の敗者に」と書かれているところである。このレポートが企業の経営者層向けに書かれていることを考慮しても、勝ち負けを基準にして考えているのはひどい。
 
 勝ち負けを基準にして考えるのも「やりたいこと」がないからである。国が「DX」を謳うのは、「このままでは日本は諸外国に遅れを取ってしまう」「海外の国に敗けたくない」という焦りの表れであり、それはつまり、DXという世界の流れに「対応」しましょう、そして何とかがんばって世界の流れに付いて行きましょう、ということしか言っていない。
 

日本のITは“対応”から始まっている

 さらには、そもそも日本のITに対する考え方の根幹とも言える2000年に制定されたIT基本法高度情報通信ネットワーク社会形成基本法)の第一条は次のような言葉で始まっている。
 
(目的)第一条 この法律は、情報通信技術の活用により世界的規模で生じている急激かつ大幅な社会経済構造の変化に適確に対応することの緊要性にかんがみ、
 
 全部で三十六条からなるこの法律も「対応」という言葉で始まる。2000年。日本がこれからIT国家として歩んでいきましょう、というその年に謳われた精神は「対応」だった。日本のITは「対応」から始まっている。
 

日本のDXに缺けているのは「こう変わりたい」という理想像

 DXの思想とは、単なる「デジタル化」ではない。今まで紙で処理していたものをデジタルに置き換えることではない。デジタルに「変わる」ことでもない。日本ではデジタルに変わることが目標のようになってしまっているから「変わらなければ!」となる。
 
 そうではない。DXの思想とは、変わりたい理想像があって、そこへ向かう道の過程でデジタルを持って来ることである。「変わらなければ!」と「変わりたい!」の違いとも言える。
 
 そしてこの「変わりたい」は単なる「デジタルに変わりたい」ではない。どう変わりたいのか、その姿を思い浮かべることができていなければ、ただデジタルに変えればよいのだと思っている大勢の人がてんでバラバラの迷走デジタル社会を作り上げてしまうだろう。
 
 「やりたい」の闕如は、DXに限らず万事における日本の特徴である。
 
 例えば、近年話題のCBDCなんかもそうだ。世界各国の中央銀行がCBDCの研究、検討に入り始めている。中国はもうすでに出来上がっているという話もある。日本銀行もこれに遅れじとCBDCの研究を進めている。
 
 だがここにも世界と日本の「差」がある。それはCurrencyの出来栄えの差でもないし、進捗度の差でもない。「やりたい」の差である。中国などは、やりたいことはもうはっきりしている。中国がCBDCを作る理由、それは中国共産党政府が国民を監視、管理したい、ということだ。極めて明快な理由だ。日本は、やりたいことがはっきりしていない状態でCBDCに取り掛かっている。そして国民に「CBDCはどういうことに使ったらよいでしょうか」と訊いている。
 
 誤解なきように言っておくが、私は監視管理なんてまっぴらだし、そんな社会は嫌である。良い目的か悪い目的かは置いておいて、中国はやりたいことははっきりしている。
 
 やりたいこともないのに、「みんなが始めているみたいだから私たちも始めたほうがいいのかなぁ」で始めるのは滑稽である。
 
 「これが当然であるべき」という感覚、「こうありたい」という理想像がない状態でのDXとは何なのか。日本で今盛んに言われている「DX」には、この感覚が大きく闕如している。
 
【関連記事】

年末年始休という謎の休み

f:id:rjutaip:20201215222852p:plain

 
 昔からずっと不思議である。
 
 年末年始はなぜ休みなのか。
 
 年末年始が休みであることに何の疑問も持ってない人は、カレンダーを見てみてほしい。1月1日は赤字で書かれている。だがそれ以外の12月31日や1月2日は黒字で書かれている。(たまたま土曜日だったら青字で書かれていることもある。)
 
 カレンダー通りに過ごすなら、12月31日までは仕事で、1月1日は休み、1月2日からはまた仕事である。なぜなら12月31日や1月2日は平日だからである。1月1日だけは元日(がんじつ。元旦《がんたん》ではない)という祝日なので休み。
 
 年末年始は企業も官公庁も当たり前のように休んでいるが、いったい何の根據があって休んでいるのか。
 
 公務員の場合は、「一般職の職員の勤務時間、休暇に関する法律」という法律があって、その14条で12月29日から1月3日までは休日と定められている。この法律を元に休んでいるわけだ。しかし、この法律は公務員や行政機関にのみ適用される。その他の民間企業、店、病院等は特に決まった法律があるわけではない。そしてこの法律の起源は明治6年に定められた官規である。
 
 ゴールデンウィーク、盆休み、年末年始。大体の日本人にとってまとまった休みは、一年でこの三回だけである。そしてたったのこの三回に皆で一斉に休みを取る。なぜ「いっせーのせ」なのか。
 
 毎年、12月29、30日頃には帰省ラッシュのニュース、1月3日、4日頃にはUターンラッシュのニュース。東京駅で新幹線から降りてきたお父さんがぐったり疲れきった様子で「明日からまた仕事です」とTV局のインタビューに答えている。これで「休んだ」ことになるのか?日本人は渋滞や長蛇の列に並ぶのが趣味なのか?全国で同時期に一斉に休むからこういうことになる。
 
 「実家に帰って正月を迎える準備をしなければ」と言う人もいるかもしれない。私の祖母は伝統的なしきたりや慣習をとても重んじる人で、11月頃から何週間もかけて正月をきちんと迎える準備をしていた。たったの一日や二日で何が準備できると言うのか。
 
 「せめて三が日ぐらいまでは正月気分でいたい」と言う人がいるかもしれない。だが、それもおかしいのである。今のお年寄りたちに話を聞くと、昔は1月20日くらいまでは正月気分で、会社に行っても働いているような働いていないような、という雰囲気で、20日を過ぎた頃くらいから徐々に元通り真面目に働き出す、という会社が多かったらしい。それは会社だけではなく店も同じで半分休業半分営業という雰囲気が世の中全体にあったと言う。つまり、昔はもっと「正月」というものは長かったのに、段々と短くなっていって、今では1月2日にはもうすでに正月気分はない。
 
 「正月」は昭和の頃に比べてどんどん短くなり、ほんの数日にぎゅっと圧縮され、その僅かな間に慌てて帰省し慌てて戻る。休み中は子ども相手と渋滞ラッシュでくたびれ果て、次の日からすぐ仕事。
 
 こんな「苦行年中行事」は改めるべきだ。
 
 「盆と正月」とよく言うが、「盆休み」の方はとっくに無くなっている。まず「盆休み」という言葉がない。大抵の企業では「夏期休暇」と言っている。そしてその夏期休暇も一昔前は8月13日〜15日頃に固定している企業が多かったが、今は好きな時に取得するよう設定している企業が多い。秋や年が開けてから「夏休み」を取る人も珍しくない。
 
 盆休みもなくなったのに、なぜ年末年始休だけが“当然のように”残っているのか。
 
 年末に関しては、「年の変わり目でいろいろと改める時期だから」と言う人もいるだろう。もっと昔は年末は「大祓(おおはらえ)」と言った。いろいろなものをはらって改めるのである。この大祓には6月末の「夏越し(なごし)の祓」と12月末の「年越しの祓」があった。
 
 実際、明治時代には6月末の数日間と12月末の数日間を連休にしましょう、という案が出された。6月末連休法案は結局申請されなかったが、こういう案が提出されるということ自体、当時の人が「6月末が連休でもおかしくない」という感覚を持っていたことが分かる。しかし、もし現代において「6月末を連休にしましょう」と言ったら皆「なんで?」と思うだろう。だが年末年始の方には「なんで?」とは言わない。人間は愚かなもので、自分が生まれた時から、あるいは生まれる前からあるものについては、それを「普通」だと思って疑うことができない。
 
 時代に合っていない旧い法律を改めて公務員は年末年始も働くようにした方がいい。もともと法律に縛られていない民間企業は率先して年末年始も働こう。
 
 あと、「年末年始まで働けと言うのか!鬼!」と言う人は、年末年始に電車に乗って初詣に行くべきではない。鉄道会社の人がかわいそうだろう。あなたみたいな人のせいで鉄道会社の人は年末年始まで出勤させられているのだ。年末年始にインターネットも使うべきではない。インターネットプロバイダー会社の人がかわいそうだろう。
 
 昭和の頃に年末年始が休みだったのは、その後1月20日過ぎまでなんとなくダラダラ休める、ということがセットとしてあった。だが今はもうとっくにそんな雰囲気は無い。それなのに年末年始休という旧習だけが残っているのは徒に日本国民を苦しめているだけだ。
 
 繰り返しになるが、私は「休むな」と言っているのではない。もっと国民全員が銘々に好きな時に休むべきなのだ。 
 
 普段、「伝統なんて要らない。時代とともに新しく変えていくべき」と言う人たちも、なぜか年末年始休に関しては明治6年の法律に何も言わず則っている。明治初期の常識で決めたことを150年近くも信奉して変えずにいるのは信じられないことだ。
 
 公務員の法律を改めよう。年末年始は休みではないようにしよう。そして、「なんとなく習慣だから」で年末年始を休みにしている会社や店も、在り方を見直すべきである。
 

年末調整批判

f:id:rjutaip:20201123221526j:plain
 
 今年もまた年末調整の時期がやってくる。
 
 毎年、11月頃の恒例年中行事のようになっているが、謎の行事である。
 
 この時期になると毎年、年末調整を担当している事務の人の苦労、そして「書き方が分からない」、「めんどくさい」といった会社員の声が溢れる。最近もこんなのを見た。

🧑‍🎤「年末調整をする前に 言っておきたい事がある かなり厳しい話もするが事務員の本音を聴いておけ」 - Togetter

 
 年末調整では「扶養控除等申告書」というのがあって、養っている家族がいる場合はその用紙に書けば所得税がいくらか控除される。
 
 年末調整の用紙にはマイナンバーを記入しなくてはいけない。自分の分だけではなく扶養控除等申告書を出す場合は家族の分のマイナンバーもだ。だが、毎年記入しなければいけないわけではない。「そう言えば去年マイナンバー書かなかったなぁ」という人も多いのではないだろうか。一度会社に伝えて、会社がきちんと管理しているならば、マイナンバーの部分は会社が記入するので毎年いちいち記入する必要はない。つまり、会社にマイナンバーを伝えるのは初回だけなのである。
 
 年末調整は、会社が従業員に代わって国に所得税を納めるための準備作業である。
 
 だが。なぜ毎年、扶養控除等申告書を書かなければいけないのか。マイナンバーを届けているのだから国が調べれば分かるはずである。「国はあなたの家族のことまでは分かりません!」と言う人がいるかもしれないが、家族のマイナンバーも届けているのである。分かるはずである。
 
 生命保険の控除なども国がマイナンバーを通して保険会社に訊けば分かることである。わざわざ会社員に申告させることではない。こういうことを言うと、「保険会社にマイナンバーを届け出ていない人もたくさんいます!」などと言う人がいる。私はマイナンバーを届け出ている人の話をしているのである。届け出ていない人についての話はしていない。届け出ている人の分に関してはきちんとマイナンバーを使って国が調べるべきなのである。
 
 プライバシーの侵害とか、「それはマイナンバーの利用目的から逸脱しているのでは?」と思う人もいるかもしれないが、“税”に関することはマイナンバーの最も主たる目的なのである。こういうところでマイナンバーを使わないのだったら何のためのマイナンバーか。
 
 以前、私が確定申告批判給付金申請批判を書いた時にも、「そうじゃない人はどうするのか」、「マイナンバーを正直に届け出ている人は少ないからそういう施策はできない」と言う人がいた。
 
 あなたたちは、1億人が1人残らずマイナンバーを提出するまで何の施策もしないつもりなのか?そんな馬鹿げた話はない。1億人中、10人でも100人でも素直にマイナンバーを届け出た人がいるのなら、国はその10人のために動かなければいけない。なぜなら国がマイナンバーの提出をお願いしたのだから。
 
 国税庁は国民にマイナンバーの提出をお願いしておきながら、銀行や保険会社に素直にマイナンバーを届け出た人たちに対して、何もしていない。素直にマイナンバーを届け出た人たちは今のところ何の利点も恩恵も得ていない。
 
 マイナンバーから辿れば分かることを国民に、ましてや所得や預貯金額や個人情報を国に把握されることに同意しマイナンバーを提出している国民に、訊くべきではない。
 
【関連記事】

「タッチ決済」呼称への違和感 ~接触するのかしないのか~

f:id:rjutaip:20201106121123j:plain

 
 ここ一、二年で「タッチ決済」という言葉を目にする機会が急に増えた。
 
 「タッチ決済」とは何か。
 
 QRコード決済のような読み取り式ではなく、カードやスマホを読み取り機にタッチして決済する方法全般のことを言う。NFCという技術が使われている決済方法なので、まれに「NFC決済」と書かれているのも見る。
 
 中でも特にクレジットカード会社のクレジットカード、デビットカードプリペイドカードなどをタッチして支払う形式のことをタッチ決済と言う。Suica楽天Edyなどは以前からタッチして使うものだが、クレジットカードは従来は「タッチして使う」ものではなかったため、「VISAやMastercardはタッチして使えるんですよ」ということを広く知らせるために普及し始めた言葉だと思う。
 
 だが。私はこの「タッチ決済」という言葉に違和感がある。
 
 この決済方式は「非接触決済」と書かれることもある。私は最初、混乱していた。「touch(タッチ)」という単語を英和辞典で引くと「接触」という意味だとある。「タッチ」と「非接触」は真逆なので、まさか同じことを指しているとは思わなかった。
 
 この非接触決済は、マスターカードは「MasterCard PayPass」、VISAは「VISA Paywave」、JCBは「J/Speedy」という名前でそれぞれ始めていた。が、途中からマスターカードは「Mastercard Contactless」、VISAは「VISA Contactless」、JCBは「JCB Contactless」という名称に変えた。主だったクレジットカード会社がすべて「○○コンタクトレス」という名前に変えた。なので、日本のメディアは、それを直訳して「非接触決済」と言うようになった。
 
 では「タッチ決済」と言い始めたのは誰なのか。誰が一番最初かは分からないが、一番広めようとしているのはVISAではないかと思う。各社のウェブサイトを見るとVISAが一番「タッチ決済」という表現を多用しているからだ。
 
 VISAは英語圏では「Contactless(コンタクトレス)」という言葉を使っているが、日本では「タッチ決済」と言っている。なぜか。
 
 「日本では、コンタクトレンズと似ていて紛らわしいからではないか」と言っている人がいた。それもあるかもしれないが、単に「コンタクトレス」という言葉が長いからではないか。例えば日本人がレジで「(支払いは)マスターカードコンタクトレスで!」とすらすらと言えるとは思えない。
 
 「非接触決済」も堅いし難しすぎる。それで「タッチ決済」という言葉を流行らせようとしているのではないか。
 
 だが、VISAは英語のウェブサイトでは、読み取り機にカードを近づける行為のことを「touch」ではなく「tap」と言っているのである。つまり英語圏では「タッチ」という言葉は出てこない。日本では「タッチ」または「非接触」。
 
 読み取り機に接触しているのかいないのか。
 
 英語の「コンタクトレス」には、従来の磁気カードのように機械の中に差し込んだりスライドさせたりする必要がない→接触させない、という意味合いがあるのだろう。日本は磁気カードのスライドをそこまで経験していない、それでいてSuicaのような電子マネーが普及していた日本では、その行為は接触させているように感じる。
 
 例えば、駅の自動改札でSuicaは読み取り部分に接触させなくてもよい。上空5cmくらいでもちゃんと読み取られるらしい。だが、上空5cmで止めることの方が難しい。大体の人は読み取り部分にSuica接触させている、人によっては叩きつけているだろう。この上空5cmを接触していると見るか、接触していないと見るか。
 
 しかし、クレジットカード会社が世界的に「コンタクトレス」という名称を使っていて、日本のメディアもそれを直訳して「非接触」と伝えている時に、「タッチ決済」と言うのはよくない。仮にメディアで今後「非接触」という言葉の使用頻度を少なくしていくとしても、「コンタクトレス」は大手クレジットカード会社の正式サービス名なので至る処で目にする。そして、いくら日本人が英語が苦手だと言っても、「コンタクトレス」は「コンタクト(接触)」が「レス(ない)」なのだな、ということは分かる。それぐらい分かってしまうから、それが「タッチ決済」と言われると混乱するのだ。
 
【関連記事】

マイナンバーは「絶対に他人に知られてはいけない番号」ではない

f:id:rjutaip:20200921224910j:plain

 

 国民のマイナンバーに対する誤解はたくさんあるが、今日はその中でもよくある、マイナンバーが「絶対に他人に知られてはいけない番号」と言われていることについて書こうと思う。

 

 12桁のマイナンバー(個人番号)を「絶対に他人に知られてはいけない番号」と言っている、思っている人は多い。「そんな番号がなんでカードの券面に書かれているのか」と。 

 たしかに過去に政府の人間がそのように口走ったことがあった。それで、国民の間でもそのような認識が独り歩きしてしまっている。だが、マイナンバーは「絶対に他人に知られてはいけない番号」ではない。 

 マイナンバーは他国の個人番号制度を参考にして作られており、他国の類似制度の反省から、番号を知られても大丈夫なように設計された。 

 米国のSSN*1や韓国の住民登録番号という個人番号は、ちょうど日本の運転免許証の番号のように、番号そのものに意味を持たせた。なので、見る人が見たら、その番号の人のある程度の地域や年齢やらが判ってしまう仕組みになっている。また他の国の個人番号制度では、個人番号をあらゆる分野に統一の番号にしてしまった。そのことによって個人番号さえ判れば芋蔓式にその個人の情報を辿れるようになった。

 そうした反省から、マイナンバーは番号そのものに意味を持たせず、また他の分野の番号、例えば年金番号や保険証の番号*2とは統合しなかった。このような仕組みにすることで、マイナンバーは「他人に知られてしまったとしても、ただちに害はない番号」になっている。

 マイナンバーは「むやみに他人に見せるのは望ましくない」番号であって、「絶対に他人に知られてはいけない」番号ではない。 

 「見せても大丈夫な番号なら、何故むやみに他人に見せるなと言うのか」と言う人がいるかもしれない。それは余計な好奇心を煽ってしまうからである。

 

 例えて言うなら下着のようなものである。 

 ズボンのファスナーが開いてて下着が見えていたら恥ずかしい。しかし、下着は「絶対に他人に見られてはいけない」などということはない。見られてしまったとしても別に害はない。だからと言って、むやみに他人に見せるのも望ましくない。
 マイナンバーは「名寄せ」と言って、番号が個人情報を集めることを捗らせる可能性があることがセキュリティの専門家らによって指摘されている。だから「絶対に安全」ということはない。しかしマイナンバーだけからさまざまな個人情報を手繰り寄せるのは極めて難しい。

 これも、僅かに見えた下着からブランド名を推測し、そのブランドの下着はあの店にしか売ってないはずだから、などと言って、その人の住んでる地域をある程度推測できるかもしれない。だが、そんなことは極めて難しいことである。

 

 「見せてはいけない」と「見られてはいけない」は違う。前者は使役であり、後者は受身である。 

 マイナンバーは「見られてはいけない」ということはないし見られても大丈夫だが、むやみに見せるのは望ましくない、下着のようなもの、と覚えておけばいい。

 

【関連記事】

dragoncry.hatenablog.jp

dragoncry.hatenablog.jp

*1:米国のSSNは今は地域は判らないようになっている。

*2:保険証をマイナンバーカードに統合するという話が出ているが、これはマイナンバーカードの話であってマイナンバーの話ではない。