漸近龍吟録

反便利、反インターネット的

マイナンバーカードの画像ファイルをアップロードして送信、の滑稽さ

 

 先日、国会図書館の利用者登録をオンラインでやろうとしたところ、本人確認書類の中にマイナンバーカードが入っていてずっこけそうになった。
 
 マイナンバーカード自体は立派な本人確認書類だ。問題はその使い方だ。マイナンバーカードの写真を撮ってその画像ファイルをアップロードしてフォームから送信するようにとのことだった。マイナンバーカード以外に本人確認書類として使えるものとして、運転免許証やパスポート等が上げられていた。
 
 こういう形で本人確認を求めているサイトは多い。国会図書館だけが特別ではない。多くのサイトでこのようなおかしな仕様を見かける。そしてこれのどこが可笑しいのか、どれだけ滑稽なことなのかを分かっていない人も多い。
 
 マイナンバーカードの中にはICチップが入っている。そしてICチップの中には電子証明書が入っている。この電子証明書こそ本人確認書類である。この電子証明書を使った本人確認こそマイナンバーカードの本来の用途(の一つ)である。
 
 未だに多くのサイトでマイナンバーカードの画像をアップロードして添付して送るよう求めている。厳格な本人確認を求めるところでは新しく口座を開設するときは、顔写真の付いたカードを手に持って自撮りした写真を送ってくるよう求めているところもある。多くの人が経験あるのではないだろうか。
 
 こうした手続きをしなくて済むようにしたのがマイナンバーカードである。わざわざカードの写真を撮らなくても、わざわざ写真をPCに取り込まなくても、わざわざ画像ファイルをアップロードしなくても、よいようにしたのがマイナンバーカードである。マイナンバーカードはカードリーダーにタッチしてパスワードを入力すればそれで終わり。それで厳重な本人確認をクリアしたことになる。
 
 先日、知人の高齢男性がメールで送られて来た添付ファイルを開けないことを先方に連絡したら、先方の人が「では添付ファイルの中身を紙に印刷して郵送します」と言ってきたことがあった。この話は受け手も送り手も高齢者。おたがいにファイル形式などの難しい話はわからないのでそうなったのだが、若い人の大半はこの話を聞いて笑うだろう。だが自分たちが今やっている「マイナンバーカードの表面を撮影してその画像ファイルをアップロードして送信」が、それと同じくらい滑稽な行為であることには気づいていない。10年後、20年後の人に笑われるような話であることを解っていない。
 
 なぜ、こんなおかしなことになってしまうのかを考えてみたが、やはり、日本人は「電子証明書」を知らない、聞いたことはあってもどういう時に使うかのイメージを摑めていないということと、「対面式」手続きのイメージから抜け出せていない、ということが原因になっていると思う。
 
 最近は銀行で新しく口座を開設したり携帯電話を新しく契約する時に店舗に出向く人は減っていると思う。そういった手続きはすべてオンラインで行う。実際、銀行の支店や携帯電話ショップは数を減らしている。しかし店頭での手続きのイメージが未だに残り続けている。
 
 いま多くの日本人が、マイナンバーカードを運転免許証のように対面で使う物だと思っている。窓口で「今日は何か本人確認できるものはお持ちですか?」と聞かれて、「はい、持って来ましたよ、マイナンバーカード」と言って財布の中から取り出すような、そういう使い方をイメージしている。マイナンバーカードはそういう使い方“も”できるが、主たる使い方ではない。このブログでも再三にわたって書いているが、マイナンバーカードはオンラインで使うことを主たる目的として作られた。
 
 「マイナンバーカードの画像ファイルをアップロードして送信」は、その「対面式」の発想の延長なのだ。対面式本人確認においては、窓口の係の人が、差し出されたカードに貼られている顔写真と、目の前にいる人の顔が同じであるかどうかを睨めっこして判断する。画像ファイル送信方式も、送られてきた側はパソコンの前に座って、画像ファイルに写っているカードに記載されている名前や住所が、送信者が送信フォームに記入した名前や住所と一致しているかどうかを目で見て判断している。
 
 「パソコンを使っているのだからデジタル化だ」と思っているのかもしれないが、こんなのはデジタル化とは言わない。日本人はどうも紙をパソコンに置き換えただけで「デジタル化した」ことになっていると思っている人が多すぎる。カードの写真をスマホのカメラで撮ってデジタル画像にし、それをインターネットで送信しているのだからデジタルじゃないか、と思っているのかもしれない。しかしそれは「エセ・デジタル化」だ。
 
 日本国民はいつになったら電子証明書というものを理解するのだろう。マイナンバーカードの中には利用者証明用電子証明書と署名用電子証明書という二つもの立派な電子証明書が入っている。電子証明書は本人確認を行うために入っているのであり、オンライン本人確認はマイナンバーカードの最も主たる用途の一つである。その機能を使わないでカードの表面を写真に撮って送ってくださいと言うのは、メールアドレスを葉書に書いて送ってくださいと言っているようなものだ。
 
 「私はカードリーダーを持っていません」、「申請のためにわざわざカードリーダーを購入したくない」。そういう人はスマホで読み取ることもできる。マイナンバーカードに対応したスマホを持っていない人は郵送で手続きすることもできる。国会図書館は郵送という古い手続き方法を用意してくれている。そしてもっと古い「直接来館」という手続き方法まで用意してくれている。これは素晴らしい。私は「古い手続き方法はやめて最新の手続き方法にするべきだ」と言うのではない。マイナンバーカードはちゃんと“正しく”使うべきだと言っているだけだ。
 
 マイナンバーカードによるeKYCを使っていないサイトはたくさんある。それなのになぜ国会図書館を殊更に取り上げて批判するのかって?それは「国立」だからだ。国の施設ならマイナンバーカードを正しく使ってほしい。
 
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【書評】堀川惠子『暁の宇品』—読書感想文

 評判がよかったので、堀川惠子『暁の宇品 陸軍船舶司令官たちのヒロシマ』を買って読んだ。なるほど、高い評判も頷ける内容だった。戦時中の陸軍船舶司令部について圧倒的な調査と資料に基づいて描いたノンフィクションだ。
 
 原子爆弾はなぜヒロシマに落とされなければならなかったのか。それは重要な軍隊の乗船基地があったからだという。
広島で軍隊の乗船基地といえば、海軍の呉ではない。陸軍の宇品である。
 
 読む前に、他の人が書いた読書感想文を読んだら「最後に感動」と書いてあったので、どんな感動が待ち受けているかと思って読んでいたら、確かにそのような展開はあった。だが途中は重苦しく、読み進めるのが辛かった。戦争時代のノンフィクションなのでどんどん人が死んでいくからだ。
 
 著者はノンフィクションライターらしく冷静な筆致に努めているが、それでも文章の端々から怒りが伝わってくる。叮嚀に書けば書くほど、軍上層部の愚策悪策ぶりや米国の非人道ぶりが伝わってきて苦しくなる。日中戦争から始まって太平洋戦争が終わるまで、本書の後半になればなるほど、著者の言うように人の命が「どんどん軽くなって」いった。
 
 前半では「船舶の神」と呼ばれた田尻昌次の半生が、後半では篠原優参謀の記述を基に佐伯文郎司令官の半生が語られる。
 
 広島・宇品の船舶司令部は自分たちが送り出して行った船と船員たちが次々と海の藻屑へと消えていく絶望の中、運命の8月6日を迎える。広島市の中心部から少し離れていたおかげで助かった宇品の船舶司令部。市中心部への交通路が完全に断たれてしまった状況、文字通りの地獄絵図の中で、佐伯文郎司令官は叫んだ。「われわれには、船がある」。そして東京の大本営からの指示を待たずに次々と船を繰り出して、広島市内を幾条も流れる川を力強く遡上して行き、被災者たちの救護活動にあたった。
 
 著者によれば、この時の佐伯司令官の行動は現代の視点から見ても救護活動として驚くほど迅速で的確であったという。なぜそれほど迅速に行動できたのか。著者はその原因を佐伯司令官が若い時に関東大震災の救護活動を経験していて、災害の時にやるべきことを把握していたからだろうという。
 
 これは本書の終盤の方で語られるたしかに感動的な逸話である。それまでの長い戦闘で多くの仲間・部下たちを失っていた。そこに最後のとどめとしてやって来た史上最大の爆弾。この絶望しかない状況で、広島・宇品の暁部隊が自分たちの“武器”であったその船で広島市民の救助に向かって行く様は、読んでいて心が震えずにはいられない。その迅速な救援活動は多くの人々の命を救い、絶望の中に一条の希望を齎した。
 
 だが、やはり関東大震災原子爆弾は違う。前者は自然災害だが後者は人災である。関東大震災における軍の活躍は素晴らしいが、原爆投下時の活躍は本来なら「やらなくていい」活躍だ。「やらなくていい」と言うのは軍の本来の任務外のことだからやらなくていいということではない。原爆投下というあまりにも非人道的な行いを米軍がしていなければ、佐伯たちは「大活躍」をする必要はなかったということだ。
 
 田尻昌次中将は兵站の重要性を理解し、唱えてもいた。冷静な判断ができる有能な人物は軍上層部にも何人かいた。だがそうした人物は上層部から排除され、精神論で乗り切ろうとするような無能な人間たちに固められた状態で、日本は太平洋戦争に突入していく。
 
 「なぜ日本は戦争を避けられなかったのか」、「誰が戦争を始めたのか」、「なぜもっと早くに戦争をやめられなかったのか」。これは戦後、何度も何度も繰り返し問われてきた問いである。関東軍など軍の中の一部の暴走した兵士たちだ、と言う人もいる。無能な軍上層部だ、と言う人もいる。東條英機が悪い、と言う人もいる。
 
 どれも正しい。しかし私は、「日本人」、「日本国民」だと思う。戦争を始めたのも戦争を続けたのも「日本国民」だ。勝利の報を聞いて酔いしれる気持ち、強気な発言をする軍上層部を「頼もしい」「リーダーシップがある」と感じてしまう気持ち、日本が西洋列強と肩を並べる強大な国になっていくのを嬉しく思う気持ち、国民たちの中には少なからずそういう心理があった。そのような心理が軍の暴走を後押しした。国民たちがそういう気持ちをもっと抑制できていたならば、東條英機がどれほど独裁者であろうがそこまで好き勝手にはできなかったはずなのだ。
 
 本書の最後の頁を捲ったとき、不意にあらわれた一葉の写真にグッときた。悲しみのガダルカナルで遺族の方が、沈没した船の海面に出ている部分をそっと抱きしめている写真だ。
 
 この本を読むまで、田尻昌次のことも佐伯文郎のことも、宇品の船舶司令部のことも全然知らなかった。本書は、戦時中の比較的知られていない部隊や人物に光を当てた労作だ。そして、すべて消えてしまったから語り継がれなかっただけで、無名の人たちの知られざる物語がまだまだ無数にある。著者の堀川惠子は田尻昌次に「よくぞ記録を書き残してくれた」と思ったそうだが、私もまた著者に対してよくぞこの本を書いてくれた、と思う。

日本には「右翼」や「保守」はいない

 日本には「右翼」や「保守」はほとんどいない。
 
 と言うと、「いやいやネットを見ればたくさんのネトウヨがいるではないか」と思うかもしれない。確かにネット上にもそしてリアルにも「ネトウヨ」っぽい人はたくさんいる。だが彼らの大半は「右翼」でもなければ、ましてや「保守」ではない。
 
 では何なのか。
 
 彼らは「現実主義者」である。日本人の大半は現実主義者である。それは彼らがよく口にする言葉「対話すれば国が守れると思っているなんて、あの人たちは頭がお花畑」という台詞にもよく現れている。彼らの口癖は「もっと現実を見ましょう」、「世の中、そんな綺麗事じゃないんですよ」、「そんなの理想論ですよ」、「現実社会はもっと複雑なんですよ」である。
 
 大きな変化がない「ほどほどの現実」が守られる社会を望んでいる。「ほどほどの現実」とは今まで自分たちが生きてきた時代の「常識」がこれからもゆるく続いていく社会だ。
 
 昭和時代の現実主義者たちは言う。「タバコがなくなったらいいなんてそんなの理想論ですよ」。「タバコが健康に悪いというのはその通りだけど、現実問題として今の世の中からタバコを無くすことができると思いますか?」。「成人男性の9割がタバコ吸ってるんですよ?一つの飲食店が喫煙禁止なんてことしたらその店は商売上がったりですよ」。「タバコ社会に文句を言ってもしょうがないでしょう。そんな自分一人の力でどうしようもないことに文句を言うんじゃなくて、自分にできる工夫から始めてみてはどうですか?」「マスクをかけてできるだけ煙を吸わないようにするとか、換気のいい入口のドアに近い席に座るとか」。「そういう努力もしないであなた方はなんでもそうやってすぐ社会のせいにするんですね」。昭和時代の現実主義者たちは、今のような「タバコがほぼゼロ」という社会を想像できない。昭和時代の人が令和時代にやってきたら「まさかこんなにタバコを見ないなんて!」と驚くのだろう。
 
 コロナ禍でも同じことが起きた。2019年、「朝の通勤満員電車が問題なら通勤をなくせばいい」という私に対して現実主義者たちは「そんなのは理想論。現実的ではない。将来的には自宅で仕事をする時代がやって来るかもしれないけど今はまだ会社員は会社に通勤して仕事するのが当たり前なんだから」と言っていた。で、その僅か一年後の2020年には何と言ったか。「いやあ、まさか自分がこうして毎日会社に行かず家で仕事をしているとはね。一年前の時点では想像すらしなかったよね」と言ったのだ。
 
 彼ら現実主義者は「ハガキで書くべき」とか「メールで書くべき」という哲学を持っていない。ハガキ派でもなくメール派でもなく、ハガキが主流の時代には「ハガキで書くのが常識だ」と言い、メールが主流の時代になったら「メールを使うのが普通だ」と言う。要は時代の主流に合わせる、「みんなと同じ」、「みんなと一緒」が好きなだけなのだ。
 
 だから彼らに自衛隊改憲の是非を問うてもあまり意味が無い。それに対する意見や哲学を持っていないから。もっとも効果があるのは、「アメリカや中国、ヨーロッパをはじめとした世界の主要国が、自国の軍隊(Armed Forces)のことをしれっと”Self Defence Forces”と呼び始めましたよ」と伝えることだ。そうすれば彼らは「『日本軍』の呼称を『自衛隊』に戻すべきだ。これではまるで、世界の中で日本だけが好戦的な国のように思われてしまう!」と言い始めるだろう。
 
 「時代の流れに合わせる」と言えば聞こえはいいが、それはどこまで行っても時代の後追いでしかない。影響力の大きい他人の哲学に振り回される一生を送ることになる。現実主義者の自分には冷静に現実が見えていると思っているが、それは大きな力によって与えられた世界を単に受忍しているだけだ。
 
 「右翼」や「保守」などという哲学を持っていればまだいいほうで、大多数の日本人は「みんなと一緒がいい」と思っているだけ。日本人のこの現実主義者っぷり、「みんなと一緒がいい病」は根が深い。
 

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子どもたちに漢字の書き方を教える必要はあるか

 
 高校生に、今度漢字のテストがあるから漢字を教えてくれと頼まれ教えた。私自身高校を卒業してから久しいので高校の漢字レベルがどの程度のものなのか忘れていたが、見たらかなり難しい漢字ばかりで驚いた。その高校生は漢字は苦手で小学校レベルでも怪しかった。
 
 子どもたちに漢字の書き方を教える必要はあるのか。ここ数年、その疑問がずっと頭の中を過っている。
 
 自分自身を顧みれば、直近一年間で仕事では文字を書いていない。ハード、ソフトのキーボードではたくさん入力しているが、手書きでは一文字も書いていない。仕事以外の日常生活でもここ数年、文字を手書きした記憶はほとんどない。私の家にはボールペンもシャーペンもサインペンも万年筆も無い。今の子どもたちが大人になった時に、仕事でも日常生活でも漢字を手で書く機会はあるのだろうか?
 
 漢字を教えることが不要だとは思っていない。漢字を理解する力は現代の日本社会においても充分に必要な力だ。だが、漢字を「知る・理解する」ということと「手で書ける」ということは違うことだ。昔から「漢字の読み書き」と言うが、これは「読むことと書くこと」ではなく「読むことと表記すること」であるはずだ。文字を読むことの意味は昔も今も変わっていないが、「書く」の意味は大きく変わった。文字を「書く」ということは何百年何千年もの間、筆やペンなどを持って「手で書く(搔く)」ことを意味していた。しかし今は違う。今は「書く」ということは、キーボードの変換キーを押した時に幾つかの変換候補の中から正しい選択肢を選ぶことを意味する。
 
 ただし私は学生時代に書道を学んでいた人間として、「書く」ことを学ぶことがまったく無意味なことだとは思っていないし軽視もしていない。寧ろ重視している。手で書くことは、文字の構造を理解し、どうして文字がそのような形であるのか、すなわち筆の流れに沿って漢字やひらがなが成り立っていることを理解することができる。また、手書きの文字はそれ自体が文化であり藝術でもある。
 

 この問題について考えていた時にちょうどBBCでこんな文章を見つけた。もう五年も前に書かれた記事だが、子どもたちに筆記体を教える必要はあるか?という記事だ。英語はたった26文字しかないので学ぶ方も大した苦労はないだろうが、漢字は常用漢字だけでも約2000字もありそれを書けるようになるには大変な苦労を伴う。
 
 ここ数年、手書き文字を自動でテキスト化する機能を持ったアプリが幾つか登場している。iPadOSにも「スクリブル」と呼ばれる機能が登場した。精度が高く、日本語つまり漢字、ひらがな、カタカナに対応している。漢字の細かい点画がうろ覚えであったとしても大体の形が書ければ“正解”の漢字を示してくれるアプリもある。スタイラスペンでひらがなを書けばそれの漢字の変換候補を示してくれるアプリもある。こうした機能の登場により手書きは再び多少復活しているかもしれない。私がいちばん実感しているのは学校だ。今の大学では学生たちは紙のノート、ノートPC、タブレットPCなど様々なノートを使用している。手書き認識機能の精度向上により、タブレット×スタイラスペンという組み合わせでノートを取る学生は多くなって来ている。そしてこの組み合わせならば漢字を「手書き」する力が求められる。
 
 しかし、図や絵を描く時はキーボードより手書きの方が速いだろうが、文字だけを表記するならばキーボードの方が速いだろう。
 
 そして現代の日本社会は、日常で使う漢熟語はどんどん平易化していっている。もはや難しい熟語、漢字が書けなければいけない場面は漢字テストの時くらい、という本末転倒な状況が出現している。
 
 こんな状況下で子どもたちに漢字を手で書けるように教える必要はあるのだろうか。
 
 私の今のところの考えは、漢字を手で書くことを教える意義はあるが、漢字を手で書けるようになることを目指すことはない、というものだ。言い換えれば、漢字テストで高得点を目指すように子どもを導くのはやめにした方がよい。漢字テストは、挑戦し甲斐があると感じる子どももいるだろうから一概に悪いとは言わないが、少なくとも大人の側がそこを目指すように導くのは違うのだという気がしている。
 
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ある50代男性の人生を通して考える人生の幸福の総量について

congerdesignによる画像

 
 最近、身近で考えさせられることがあった。
 
 職場の男性が急に東京から山形に引っ越した。痴呆症の母親の介護が必要になったためだと言う。山形からリモートで働くのだと言う。
 
 その男性は50代独身。気楽な独身ライフを楽しむというタイプの人ではなくて、ずっと結婚したかったけどできなかったというタイプの人だ。父親はいるのかどうか知らない。母親は80代の高齢者。前から少し呆けている兆候はあったものの、ある日急速に痴呆が進んだらしい。
 
 彼と弟の二人兄弟とのことで、二人の息子はすぐに山形の実家に駆けつけた。そして母親の世話をした。が、弟には家族があった。妻と子どもたちが家で待っているため、いつまでも母親の介護をしているわけにいかず、自分の家族の住む家に帰って行った。残った兄は一人で母親の介護をしながらリモートで仕事をすることになった。介護と仕事の両立は傍目から見ていても大変そうである。
 
 彼は不平不満は一つも言わない。母親が一人で生活できなくなったら助けに行くのは当然。弟は結婚して家族がいるという事情も分かっているので、自分が母親の介護を一手に引き受けるのも仕方のないこと。彼は淡々と黙々と介護と仕事をこなしている。真面目で優しい性格の彼は何も言わない。が、私は考えてしまう。人生の幸福の総量について。
 
 彼の人生には今まで幸福な瞬間はほとんどなかった。幸福の感じ方は人それぞれとは言え、結婚してあたたかい家庭を持つことを誰よりも望んでいた彼にその望みが叶えられた瞬間はなかった。人柄が良く、仕事も優秀、容姿も普通な彼は、ずっと「底辺」と呼ばれる人生を生きてきて、50代になった今も非正規雇用で働いている。東京では築数十年の古びたアパートの一室に住んでいた。
 
 彼の弟のことは知らない。どんな仕事をしている人なのか、どんな社会階層の人なのか、どれほど幸せな暮らしを送っているのか、それは知らない。しかし少なくとも結婚できて子どももできていることだけは事実だ。仮に弟の方が兄よりも、収入、資産、家族や人間関係などのソーシャルグラフに恵まれているとすると、なぜ恵まれている人の方が親の面倒を見ずに、恵まれていない兄の方が親の面倒を見なければならないのか。
 
 「人生は順繰り、おたがい様だよ」と言う人がいる。
 
 彼の母親も若い頃は自分や夫の年老いた両親の面倒を見てきたわけだ。そして自分自身が歳を取ったら今度は子どもに面倒を見てもらう。「世代はそうやって順繰りになってるんじゃないですか」と人は言う。
 
 だが、彼には子どもはいないのだ。痴呆症は病気ではあるが体の病気ではないし女性は長生きでもあるので、母親はこの先長く生きるかもしれない。彼はこれからの10年、いや、ひょっとしたら20年くらいをずっと親の介護に費やす。その頃には彼も前期高齢者だ。体も頭も衰えが始まり、いろいろな病気も出てくるだろう。その時になって彼のことを介護してくれる子どもはいない。まったく順繰りではないし、おたがい様でもない。
 
 こんなひどい話があるだろうか。弟は子どもがいるのだから自分が老人になった時には子どもに介護してもらえる可能性がある。「人生は順繰り」は弟になら当てはまる言葉だろう。必ずしも介護してもらえるかどうか将来のことは分からないが、少なくとも子どもがいる弟の方が母親の介護をすべきなのではないか。
 
 「それなら母親の面倒は見ないで、自分の人生を好きに生きたら?」と言う人がいるかもしれない。
 
 はたしてそれができるか。痴呆で自分で身の回りのことをできなくなってしまった母親を見捨てて東京に帰る。そんな残酷なことができるだろうか。できる人もいるのかもしれないが、ほとんどの人はそんなことはできないだろう。ヘルパーさんなど社会福祉に頼るとしても、さまざまな契約や手続きが必要でそれは誰かがやってやらなければならない。
 
 人生の幸福の総量の不平等について思わずにはいられない。仮に「幸福かどうかは量よりも質だ」と言うとしても、彼が幸せの質の高い生活を送ってるようには見えない。家族も恋人も友達もいない彼は、仕事では毎日「申し訳ございません」と言い続け、それ以外の時間は只管、話の通じなくなった老母の世話をしているだけだ。
 
 しかし彼のような事例は、非婚者が多い日本では今後頻出すると思う。好きで独身でいた人はともかく、「結婚したかったのにできなかった」という人にとっては理不尽な思いが残る。老人の数が多く非婚化が進んでいる現代の日本ではこの先大量の地獄が待っている。
 
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Walled Gardenから引っ張り出す

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「普通にマイナンバーカード持てばいいのに」

 こう言う人を最近ネットで見かける機会が増えてきた。恐れていた事態がやって来た。「普通にテレカ持てばいいのに」、「Suica持てばいいのに」の再来だ。

 最近のトレンドワードの一つである「Web3」は、GAFAMのような巨大企業から個人の手ヘウェブを取り戻そうという動きだ。GAFAMに代表される巨大企業に対する視線はヨーロッパを中心にどんどん厳しくなって行っている。

 Web3は、巨大VCによって作り出されているトレンドであり一部の巨大VCだけが利益を得て多くの個人は恩恵を受けない、と主張するジャック・ドーシーのような人もいる。私はここでその正非は論じない。Web3が誰のためのものなのか、というのは人それぞれの考え方があるだろうが、少なくとも建前上は「巨大企業から個人へ」という理念で語られてきた。

 ヨーロッパの人々は(それが正しいか間違っているかは別として)そういう理念を持って動いているように見える。(強力なGDPRを世界中に強制してきたのも強い理念があればこその行動だ。)だが日本ではそうした「理念を持った動き」というのは見られない。

 日本人は骨の髄まで奴隷根性が染みついている。有名なもの、大きなものに包まれていると安心だと言う。

「普通にSuica持てばいいのに」

「素直にGoogleアカウント作ればいいのに」

日本人が多用する言葉、「普通に」「素直に」。

 百歩譲ってNTTやJRのような大企業が囲い込みを行うのはまったく分からないではない。NTTもJRも「営利企業」だからだ。だが政府が「囲い込み」をやってはいけない。マイナンバーカードは、日本がこれからデジタル社会になって行くための基本的で重要なインフラである。インフラで囲い込みを行ってはいけない。最近の人は「国益」と言って、国までが営利企業のような論理で動くべきであるかのように言う。しかし国がその国民から利益を搾り取ってどうするのだ。それでは国は衰退していくだけだ。

 確かにWalled Gardenは、その中に入ってしまえば心地いい。テレホンカードであれ、Suicaであれ、Amazonであれ、Facebookであれ、その中はとても心地いい。私はその便利さや心地よさは否定しない。だが本当にそれでいいのか。ブームが去ってしまったからFacebookを使うのをやめたいのにそこでしか繋がってない人がいるためにFacebookアカウントを消せない、そういうことで悩むことになるのではないか。

 囲い込みは新たなステージへ行く時の障碍となる。

 マイナンバーもマイナンバーカードも、それ自体はとても高いポテンシャルを持っている。だが囲い込み運用をしてしまうなら終わりだ。日本は再びか三たびか四たびか知らないがまた“見事な”ガラパゴスを作り上げ、そして何十年後かに世界を見渡して「しまった、こっちじゃなかった!」と言って今まで積み重ねて来たガラパゴスを抛り捨てて世界の最後尾に付くのだろう。

 ガラパゴスが好きなら世界のことなど気にせず、どこまでもいつまでも我が道を突き進むべきだし、世界のことが気になるならWalled Gardenを作るべきではない。

 

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国会図書館のデジタル化作業の虚しさ

 

 こんな記事を見た。
 国会図書館の月報で、国会図書館内にある書籍のデジタル化の取り組みが紹介されていた。これを見た人たちの反応は概ね、「神様!」「ありがとう!」というものだ。私はとてもそうは思えなかった。なぜなら、これは「しなくていい苦労」だからだ。
 
 本を1ページ、1ページ、手作業でスキャンしてデジタル画像データにする。それを更にOCRを使ってデジタルテキストデータにする。特にページを開いてスキャンしてデジタル画像にする作業はとても大変で、ほんの少しでもぶれると文字を読み取れなくなる。かと言って叮嚀にやっているといつまで経っても終わらない。スピードと叮嚀さを両立した熟練の技が必要になると言う。
 
 だが。あなた方が目指しているゴールはスタート地点だ。
 
 先日、知人が本を出版した。日本で出版した本なので国会図書館に収められるわけだが、その工程を以下に書く。括弧内は、その時点で文章がデジタルだったか紙だったかの状態を表している。
 
彼はPCで執筆(デジタル)
 ↓
書き上がった原稿をメールに添付して出版社に送る(デジタル)
 ↓
出版社の方で編輯・校正を行う(デジタル)
 ↓
出版社から印刷業者に送り、印刷業者が紙に印刷(紙)
 ↓
印刷業者から製本業者に送り、製本業者が紙の本を完成させる(紙)
 ↓
出版社が出来上がった本を国会図書館に納本する(紙)
 ↓
国会図書館が紙の本をスキャンしてデジタル画像データにする(デジタル)
 ↓
国会図書館がデジタル画像データをデジタルテキストデータにする(デジタル)
 
 これが一連の流れだ。デジタル画像データにしただけでは検索ができないので、国会図書館の最終的な目標はデジタルテキストデータにすることだ。だが、デジタルテキストデータとはどういう状態かと言うと、著者がいちばん最初にこの世に文章を生み出した瞬間がデジタルテキストデータだ。その最初の瞬間に戻しましょうと言っているのだ。この無駄な大回り、虚しくならないのだろうか。
 
 地雷の除去作業をしている人が、いかに地雷の除去が大変なことかを語っている。しかし私は地雷の除去作業よりも、その隣でせっせと地雷を埋めている人の方が気になる。彼らのことを見て見ぬふりをして、地雷除去作業に携わろうという気には私はならない。
 
 国会図書館職員は、本のデジタル化がいかに大変なことか、いかに大きな苦労が伴うかを語る。私も月報を読んだが確かに大変な作業、大変な苦労だと思う。それは分かる。だがあなた方が大変な苦労をしてデジタル化作業に取り組んでいるこの瞬間にも次々と紙の本が生まれている。あなた方の仕事は永遠に終わらない。
 
 「わざわざデジタル化するのは大変」と言う人がいるが、「わざわざ」の感覚が逆なのだ。現代の「著者」たちの大半はPCやスマホで執筆していると推察される。生まれた瞬間にはデジタルだったものを「わざわざ」紙に印刷して紙でしか読めないようにしておきながら、それを大変な苦労をしてデジタルに戻している。
 
 電子書籍も納本の対象にする計画は昔からずっと検討段階にあったが、2023年1月から遅まきながら漸く始まるかもしれない。
 
 過去の本はともかく、現代の本に関しては、特別な事情がないかぎりは出版社に対してデジタルで出版することを義務付け、デジタルで国会図書館に納本するよう決まりを作るべきだ。そうすれば何十年も前から国会図書館の悩みの種となっている収蔵スペース不足問題の解消にも繋がるだろう。
 
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