漸近龍吟録

反便利、反インターネット的

『オオカミ少年』の一般的な教訓に対する異論

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 イソップ童話に『オオカミ少年』という話がある。

 羊飼いの少年が退屈しのぎに「狼が来た!」と何回も嘘を吐いていたら、本当に狼が来た時に村人たちに助けてもらえず、羊たちが狼によって食べられてしまったという話である。

 この話の教訓は、「だから嘘を吐いてはいけない」ということだと思っている人は多い。普段から嘘を吐いていると、こうやっていざという時に誰からも助けてもらえないんですよ、ということだと。

 私は以前からこの解釈に異論がある。

 「いっつも嘘ばかり吐いてるからこういうとき誰からも助けてもらえないんだよ、ざまあ」
 「自業自得だね」

という話なのだろうか。

 羊を食べられて困っているのは誰なのか。

 狼に食べられてしまった羊たちは村人たちのものでもあるはずだ。羊を食べられてしまって困るのは少年一人ではなく、村人たちだって困っているはずなのだ。少年の視点ばかりがあって、村人たちの視点がないのはおかしい。

 読者は、もし自分が少年だったらと考えて、「ああ、やっぱり日頃から嘘は吐いちゃいけないんだな」と考える。もし自分が村人だったらとは考えない。

 村人たちは羊を食べられてしまって“大困り”なはずである。少年一人を「自業自得だ」「ざまあ」などと言って切り捨ててお終いという話にはならないはずである。しかしこの話は日本では(外国ではどうか知らないが少なくとも日本では)、嘘吐き少年一人が最後に痛い目をみた、という話として捉えられている。

 こんな解釈には私は大いに異論がある。そこで、村人の視点で考えている人がいないかネットで調べてみたら、いた。いることにはいたのだが、それらの人たちの意見は概ね次のようなものだった。

 「村人の大人たちも、いつなんどき本当の狼が襲って来るかわからないのだから、常に注意を怠らないようにしておくべきである。少年に騙されて大被害を出してしまったのは油断である。この話は、油断していた大人たちへの教訓である」
 「少年の言葉の真偽を確かめないのが悪い。万が一ほんとうである可能性を考えて常に細心の注意をしておかなきゃいけない」

 これまた、ふざけた解釈である。

 「何度嘘を吐かれようが、毎回、万が一のことを想定して備えていれば防げたはずである」などという考え方は傲慢である。驕りである。人間はそんなに優秀な生き物ではない。「細心の注意をしていれば防げるはず」などと思うほうが“ぬかり”である。人間は何度も嘘を吐かれて騙されればもう信じることはできなくなる。疑いを容れて「今度は本当かも」と思うことはできなくなる。人間なら誰でもだ。


 2011年東日本大震災の後に「警報」の上に「特別警報」ができた。警報ではみんな動かないから重大さを報せるために作ったのだと。

 しかし、みんな自分が「警報係」になったときのことを考えてみてほしい。

 「あ、今の地震はかなり大きかった。どうしよう。特別警報を出すか、出さまいか。でも、直後だから被害の程度は全然わからない。特別警報を出して大したことなかったら濫発するなって国民から怒られるし、ここで特別警報を出さないでもし大被害が出たら後で『なんであのとき特別警報を出さなかったんだ』って国民から叩かれるだろう。どっちみち間違う可能性があるなら出しておいて間違いだったと言う方がいい。」

 皆、そう考えるだろう。実際、「係」の人も同じように考えて特別警報を出している。その結果どうなるか。

 未来の子供「いま、特別警報が出たよ。警報の上だよ?逃げなくちゃ!」

 未来の大人「だいじょうぶ、だいじょうぶ。今まで長年生きてきたけど、特別警報って言っても大抵、津波5cmとかだから。今まで全部そんなもんだったから。全然、心配しなくてだいじょうぶだよ」

 こうやって子供と大人はともに津波に飲み込まれる。


 では、『オオカミ少年』の話には何の教訓も無いのか?何の教訓も無い話が話として纒められ、語り継がれているのか。

 私はこの話から得るべき教訓は、「人間は騙されつづけたら疑いを容れることはできない」ということだと思う。

 100回。いや、1000回目。少年が「今度こそ絶対!マジで!今度こそ本当に狼が来たんだって!」と迫真の顔で言ってくる。あなたは玄関に行って靴を履き、家から少し離れたところまで見に行く。狼はいない。少年が「ウソでした〜」と言いながら笑っている。

 こんなことを1000回もつづけられて、1001回目に「今度は本当かも」と思える人はいない。そんなことは人間には絶対にできない。

 外に見に行くのは“労力”である。「それぐらいは大した労力ではない」と言う人がいるとしたら、私は一日に10回仕掛けてやろう。一年に3650回、無駄な往復をしてそれでもまだ大した労力ではないと言えるか。

 『オオカミ少年』の話から私たちが学ぶべき教訓があるとしたら、それは、人間は誰しもずっと似たような境遇がつづいた場合、その境遇や環境に疑義を挟めなくなってしまう、ということだ。少なくとも、「ざまあ」「自業自得」などと言って少年を切り離したり、「油断せずに注意していれば被害は防げたはず」などと大人の能力を過信したりすることではない。

 少年を切り離すのではなく、「自分たちの問題」として捉えること。そして、人間の能力を過信しないこと。私たちの問題なのだから少年を切り離して考えるのではなく、例えば、嘘を吐かないように少年を教育していくとか、羊の番を二人体制にするとか、少年を包摂したうえでどのように問題を解決していくべきかを考えるのが肝要だと、そう私は思う。