漸近龍吟録

反便利、反インターネット的

簡単な問題の方が得意な私 〜変動性学力〜

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易しい問題が得意だった

 私は、難しい問題よりも簡単な問題の方が得意である。

 「誰だってそうでしょう」というツッコミが聞こえる。

 でも、そうではない。

 例えば、数学。私は高校で習うような高等数学よりも小学校で習うような単純な足し算掛け算のような問題の方が得意である。

 小学校時代、先生が一年間の計算ドリルの個人別平均点を割り出し、上位の人を発表した。一位は私だった。ちなみに私の高校時代の数学の成績はクラスで最下位だった。

14+29=?

16×27=?

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 「簡単と感じるかどうかは人それぞれでは?」と言う人もいるかもしれないが、上記のような問題は小学生にとっても簡単だろう。解き方がまったく分からないという子は少ないはずだ。小学校時代、クラスには私より頭の良い子は何人もいた。それなのになぜ私が計算ドリルの成績が一番だったのか。

 みんなが失点する理由は、「単純に1繰り上がるのを忘れた」「7×6=42(しちろくしじゅうに)と知ってるはずなのに、途中から7×6=48(しちろくしじゅうはち)になってしまってた」というような、いわゆる「ケアレスミス」だ。決して解き方や答えが分からないわけではない。ドリルのように何十題、何百題と解かされていると集中力が途切れてきて単純ミスが増えるのだ。

 私は何百題何千題解いても間違えない。そういうタイプの子どもだった。だから他の子よりも順位が上だっただけだ。頭が良かったわけじゃない。問題の難易度が上がると、私は解けなくなった。解き方がわからない。同じクラスのメンバーの中でも順位は下がる。

 余談だが、ゲームにおいても私は簡単なものほど強く、ルールが複雑で難しいものほど弱い。囲碁よりも将棋、将棋よりオセロ、オセロより◯✖️ゲーム(三目並べ)のようにシンプルで単純なゲームほど得意である。

 

恒温タイプと変温タイプ

 似たような話で、私の体は、夏熱く、冬冷たい。これも「誰だってそうでしょう」と言われそうなのだが、夏に人と握手すると「熱っ!」と驚かれ、冬に握手すると「冷たっ!」と驚かれる。身近な家族ですらそう。これはつまり、人間の体は誰でも夏は熱く冬は冷たいものだが、その「程度」が私は他の人よりも相対的に大きい、ということを意味する。人間の中にも恒温動物タイプの人と変温動物タイプの人がいるのである。

 

 話を学力に戻すと、私はこれは「学力の変動性」として注意すべき性質の一つなのではないかと思っている。つまり、「簡単な問題はみんな簡単なんだよ」とか「難しい問題は他のみんなにとっても難しかったんだよ」とは言えない、ということだ。もちろん、「恒温タイプ」の人もいる。それは出題される問題の難易度によって集団内における順位が変動しない人だ。「問題が難しかろうが易しかろうが、常にトップです」「僕はクラスでいつも真ん中くらいです」「どんな時も下位です」という人は、恒温タイプなのだ。

 しかし、「変温タイプ」の人は、問題の難易度によってクラス内の順位が大きく変わる。例えば30人のクラスだとすると、私は普通の問題だったら15位、易しい問題だったら5位、難しい問題だったら25位になる。私とは逆パターンの変温タイプ、すなわち、問題が難しくなればなるほど順位が上がっていく、という人もいるかもしれない。

 私はクラスの中における自分の順位がテストのたびに大きく変わることに気づいていた。そして、そういう大きな変動は普通、「今回は勉強サボってたんじゃないの?」とか「今回はがんばったね!」として処理されてしまうのだ。

 

 私はいつしか、真面目に勉強することが馬鹿らしく感じるようになっていた。

 今回のテストで順位が低かったのは勉強をサボっていたからじゃない。問題が難しかったからだ。今回のテストは確かに順位が高かったけれど、それは自分が勉強をがんばったからじゃない。たまたまテストの問題が易しかったからだ。

 「テストが『易しい』『難しい』と言いますが、どの問題を易しく感じるか、難しく感じるかは、人それぞれじゃないですか?かなり主観的なもので客観的に易しい、難しいとは言えないのでは?」と言う人がいるかもしれない。

 いや、たしかに、易しい難しいは主観的なところもあるが、「平均点」というもので一応のテストの難易度は測ることができる。

 

 自分が勉強をがんばった(あるいはサボった)結果として成績(順位)が現れるのではなく、問題の難易度による影響のほうがずっと大きい。だったらどうして真面目に勉強しようと思うだろう。次回のテストの私の成績は、私がそれまでにいかに勉強をがんばるかではなく、出題者がどのくらいの難易度のテストを作ってくるかにかかっているのだ。

 単純な計算ドリルのような問題でいつも成績が良かった私は、たまに難しいテストで順位が下がると、「あの成績優秀な君がどうしちゃったの?」みたいに受け止められた。別にどうかしちゃったのではない。クラストップの私もクラス最下位の私も、どちらも同じ私である。しかし学力の変動性という視点を持たない大人たちは「きっと本番に弱いタイプなんだね」とか「先日、大きな出来事があったからそれを精神的に引きずっちゃってるんだね、メンタルが弱いのかもね」などと別のところから原因を無理やり探し出そうとするのだった。

 

埋もれてきた「学力」

 なぜ、こんな記事を書いたかというと、私以外にも似たような人がいるのではないかと思うからだ。

 テスト問題を作成する人たちは、問題の内容については精査する。すなわち、学校で習った範囲かどうか、学校で習ったことの応用で解ける問題かどうか、悪問になっていないかどうか、など。だが、問題の難易度(平均点)についての配慮は全然足りていないように思われる。

 大学入試センター試験は、建前としては、だいたい全受験者の平均点が6割(100点満点だったら60点)くらいになるように作られることになっている。しかし実際には年度によって平均点に大きなばらつきがある。こういうことがあまり問題視されず放っておかれているのは、「今年の問題は難しかったって?でもそれだったら、他のすべての受験者にとっても難しかったはずでしょう。(だからみんな平等であり、問題はない)」という意識が働いているからだろう。

 

 これは、「埋もれてきた学力」である。

 学生時代にかぎらず大人になってからも、人々はテストの結果を気にし、テストの結果を重視し、テストの成績をもって「あの子は学力が高い」とか「あの人は学力が低い」などと言っているにもかかわらず、その「学力」の測り方についてはあまりにも不注意である。

 「学力とは何か」という大きな問いともつながる。

 それは本当に「学力」なのか?とすら思う。本人の頭の良し悪しは何も変わっていなくて、単に順位だけが大きく変動しているだけではないのか。

 しかし世の中には順位(成績)=学力だと思っている人が多いから、私は敢えて、この変温タイプの順位変動を「変動性学力」と名付けたい。

 名前を付けることによって、そこに視点が向き、それによって救われる人も出て来るのではないか。問題の難易度の影響を大きく受ける人がいることを知ってほしい。そして、テスト問題の作り方が再考され、人間の評価の在り方・見方もまた改まっていくことを願う。

 

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