東京一極集中是正に必要な“気持ち”
東京一極集中の弊害
東京一極集中の弊害が叫ばれて久しい。
地方が疲弊し、少子化、過疎化、限界集落という言葉が言われるようになり、多くの地方自治体は財政難に陥っている。「効率化」の名の下に、スーパーマーケット、銀行が撤退し、生活はますます困難になり、小さな町では病院までもがなくなり地域医療が崩壊しているところもある。
疲弊しているのは地方ばかりではない。東京もまた疲弊している。全国的に少子化で人口が減少しているにもかかわらず、超満員電車も渋滞も行列も一向になくならない。ヒートアイランド現象で東京の夏は夜になっても気温が下がらず地獄のような熱帯夜が続く。
東京一極集中の問題が指摘されたのはここ数年の話ではなく、もう何十年も前からなのに、一向に改善される気配がない。
なぜ東京一極集中は是正されないのか。
そこには人々のある“気持ち”が関係していると思う。
「東京ばかり」に不満な人たち
「なんでもかんでも東京ばっかり」
そんな不満の声をよくリアルでもネット上でも聞く。
「テレビ見ても、おいしいお店の紹介とかどうせ東京のお店ばっかり」
私は初めて地方の人の口からこれを聞いた時は驚いた。テレビで東京の店が紹介されているのは自分が東京でテレビを見ているからだと思っていた。地方でも同じように東京の店が紹介されているとは思わなかった。
「ネットを見れば、Suicaは便利か不便かとか、地方の人間には関係のない話でばかり盛り上がってる」
「テレビもネットも諦めて外に出れば、コンサートも面白そうなイベントも全部東京でやっている」
「東京という一つのローカルの話を全国区のように話すな」
そういう“怨嗟”の声をたくさん聞く。
こういう声が多ければ、当然、東京一極集中は是正の方向に向かうと思われる。ところがそうはなっていない。なぜか。それは地方の人々の心の中に、これとは相反するもう一つの“気持ち”があるからだ。
東京に誇りを感じる人たち
地方の人たちは「東京ばっかり」と憎む気持ちと同時に東京を誇りに思う気持ちを持っている。
「世界のみなさん、どうです?我が日本の駅はすごいでしょう」
そういう気持ちで話題にしている。
私の国の首都としての東京。その東京に偉大であってほしいという気持ちがある。縮小してほしくない。我らの東京がニューヨークやロンドンのような世界の大都市と肩を並べていることを誇らしく思う気持ちがある。
日本という国の首都としては、他の国の都市に負けないでほしいのだ。北京にもソウルにもシンガポールにも負けてほしくない、そういう気持ちがある。
東京一極集中の是正に向けて
こうした“気持ち”が東京一極集中を支えている。「テレビもネットもリアルも東京ばかりだ」という不満を抱えつつ、一方で世界の都市との比較という点において、東京には大都市であってほしいと願う。
このような“気持ち”を持っている人が多数派を占めているかぎり、東京一極集中は是正されない。
大都市東京を誇らしく思う気持ち、世界に対しての見栄の気持ちを捨て去らなければならない。
先ずはここから始めなければならない。そうしないと、いくら地方の魅力を訴えても、依然として人々は東京に吸い寄せられ、テレビでもネットでも相変わらず東京の話ばかりしている光景がこれからも続くだろう。
東京一極集中の是正は喫緊の課題である。例えばこれだけ自然災害の多い日本において東京が比較的災いを免れているのは単なる幸運の偶然であって、東京がいつ大きな災禍に見舞われてもおかしくない。その時、「東京が潰滅したら日本は終わり」というようでは国造りとして明らかに駄目であろう。また、今こうしているうちにも地方の貴重な伝統文化は次々と失われていっている。後になってその価値に気づいて「あれはもったいなかったね」と言っても、もう取り返しがつかない。抑々、地方の人口が減るということはそこに貴重な文化があることを知っている人間が少なくなる、ということだ。
効率や便利さばかり求める国なら要らない。歴史や伝統を大切にしない国は衰退するのみである。今からでも。東京一極集中の是正を。
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