漸近龍吟録

反便利、反インターネット的

“盥回し”と心理的距離感

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 人間とはつくづく勝手なものだと思った。
 
 数年前、救急車の「盥回し」が大きな社会的話題になったことがあった。救急搬送された病人がいくつもの病院で受け入れを断られて死亡するケースなどがメディアで報じられた。
 
 私はそのとき新聞に同調して「盥回し」を批判したが、世間の大多数の声は「そんな批判をしてはいけない」というものだった。
 
「あんまり批判したらお医者様が萎縮する」
「現場のお医者様、病院側だって一生懸命がんばってくださってるんだから」
 
 そういう声の大合唱だった。
 
 だが。今回のCOVID-19コロナウイルスの時は、そうした声をまったく聞かない。COVID-19の時も病院に行ったら検査を断られ、保健所に相談するように勧められ、保健所に相談したら病院に相談するよう勧められ、延々と盥回しにされたという話がある。
 
 だが今回は皆、盥回し批判に同調している。誰も「そんなに責めたら病院がかわいそう」「保健所の方たちも一生懸命やってるのに」とは言わない。
 
 なぜか。
 
 なぜこんなにも、救急車盥回しの時と今回のCOVID-19とで世間の反応は違うのか。
 
 それは、人々が両件から受け取る心理的な距離感の違いから来ているのだと思う。
 
 救急車の盥回しの時は、その救急車に乗っていた患者の病気が何であるにせよ、その患者個人のことである。処置が遅れたとしても、その患者個人が亡くなるだけである。それより「盥回しだ!」と言って病院や医者を責めすぎることで医者が腹を立てて「じゃあ、もう診てやんない」と言われることの方が、よっぽど困る。なぜなら自分は将来、救急車のお世話になるかもしれないのである。
 
 一方、COVID-19は違う。皆、自分が感染させられるかもしれないという不安と恐怖を肌身に感じている。感染しているかもしれない可能性のある人を検査せずに野放しにしておくのは、我が身にリスクが降りかかってくる。感染しているかもしれない人は病院でちゃんと引き取って検査してくれなきゃ困るのである。そして自分がお世話になるかもしれないのは将来ではなくて流行中の「今」なのである。だから「今」、対応してくれなきゃ困るのである。
 
 要は、自分がどちらに近いところにいるか、ということである。
 
 この「近さ」という距離は物理的な距離ではなく心理的な距離感である。
 
 我が身に身近に感じられた時には、途端に「お医者様が萎縮する」の大合唱は鳴りを潜める。
 
 数年前の救急車盥回し問題の時、「盥回しではありません。受入困難、受入不能なのです」と言っている人が随分たくさんいた。
 
 なぜ、今回はそれを言わないのだろう。
 
「そんなに批判したら厚労省の職員の皆様が萎縮する!」
「現場の厚労省の皆様だって一生懸命がんばってるんです!」
 
 そういう声はまったく聞かない。
 
 自分の身が助かるほうを擁護する。他人の身より自分の身。不安や恐怖が、我が身に切実に、リアルに、切迫して感じられる時は批判もする。
 
 自分との心理的距離感、の問題。
 
 人間とはなんと勝手なものなんだろう。
 
 
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