漸近龍吟録

反便利、反インターネット的

事後の変化、事前の変化

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 NewspicksでJRの社長がダイナミック運賃導入に言及する中で「もうコロナ前には戻らない」と言ってるのを見て、大企業のトップがなんとつまらないことを言うのかと思った。「戻らない」ではなく、「戻すか戻さないか」が問われているのに。
 
 それに対して「ダイナミック運賃賛成!オーストラリアなんかでは以前から導入されていますよね!」と言ってるコメントがまた多数の賛同を集めていた。Newspicksは新し物好きな人たちが集まっているので、こういうコメントが多数の賛同を集めるのは特段珍しいことではない。
 
 COVID19の大流行以来、「新しい生活様式」、「ニューノーマル」、「新常態」といった言葉を見聞きするようになった。これを機に私たちも変化しましょう、というわけである。
 
 だが私はこうした風潮に違和感を感じている。
 
 私は「変化」には二つの変化があると思っている。「事前の変化」と「事後の変化」である。
 
 事前の変化は、事が起こる前に変化する。先に理想像というものがあって、そこに向かって変化していく。
 
 事後の変化は、事が起こった後に変化する。何か事が起こって、それにどう対処したらよいかというところから考え始めて変化するので、この変化は大きくは「対応策」の一環である。
 
 ダイナミック運賃の話で言えば、私はオーストラリアが本当にそのような制度を導入しているのかどうかまでは知らないが仮にそうだとして、オーストラリアはコロナ前に導入しているのである。日本はコロナ後に導入しようかと言っている。これは同じ「変化」でも大きな違いだと思う。ダイナミック運賃が制度として素晴らしいものか否かという話は今は置いておく。
 
 もしダイナミック運賃という制度が素晴らしいものだと言うなら、それはコロナとは関係なく導入すべきものだろう。オーストラリアはコロナ前に、つまりコロナとは関係なく導入している。日本は「コロナを機に」導入しようと言っているところが駄目なところだ。
 
 「素晴らしいものなら遅れてでも導入するのは良いことじゃないですか」と言う人がいるだろうが、こういう「事後の変化」はただの対応策、弥縫策でしかない。
 
 対応策であることには二つの問題点があって、一つは対応できてしまうことによる「問題のぼやけ」がある。つまりコロナ禍に上手に対応することにより、コロナの問題自体は見えにくくなってしまう。
 
 もう一つは、こうした「事後の変化」が、「狭間に苦しむ人」を救いにくい、という問題がある。
 
 例えば大学の新入生。「今年の新入生はせっかく大学に入学したのに大学のキャンパス、校舎、施設も使えず、友達も作れなくてかわいそうだね」という声を屢々聞く。こういうのは「かわいそう」で済ませてよい問題ではない。これも事後の変化が齎す問題の一つだ。
 
 「日本ではどうしてイノベーションが生まれないのか?」という古くから言われている問題があるが、その答えの一端は、こうした事前と事後の違いにある。事後の変化であっても、時に“偶然に”イノベーションとも呼べるような大変化が生まれるかもしれないが、それは所詮、理念なき変化である。
 
 戦時中を聯想する。「たしかに今までは華美な服装をしてよかったかもしれないけど、今はこういう時代なんだから、贅沢は慎んでみんなで協力してやっていかなきゃしょうがないでしょう。大仏を溶かして銅を供出するのだって、こういうご時世なんだから、しょうがないでしょう。これが今の時代の新しい生活様式なんです」。
 
 「贅沢は敵。慎ましいことは美徳じゃないですか」と言うなら、なぜ戦争前からその慎ましい暮らし方ができていないのか。「戦争に勝つため」と言うが、なぜ戦争が始まる前から戦争に勝つ準備ができていないのか。
 
 誰も戦争に勝ちたくなどないのだ。ただただ、「戦争の世の中になってしまった」から、それへの対応策を取っているだけなのだ。それらの「対応」がどれだけ戦争を長引かせ、どれだけ多くの人々を苦しめたかはご存知の通り。
 
 「新しい生活様式」、「ニューノーマル」はまるで「私は今まで何も考えずに生きてきました」と言ってるようなものだ。私たちには事後の変化ではなく事前の変化こそ必要なのだ。日本で今言われている「変化」は事後の変化。事後の変化というのはただの「対応」でしかない。
 
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