漸近龍吟録

反便利、反インターネット的

DXとは何か 〜日本のDXに缺けているもの〜

 

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「デジタルがやって来る」と「デジタルを持って来る」の違い

 一昔前に「イノベーション」という言葉が流行ったように、今は「DX(デジタルトランスフォーメーション)」という言葉が流行っている。だが誰も「DXとは何か」ということが解っていないように見える。
 
 DXとは、「あるべき姿」としてデジタルが使われている社会を想定し、そこに向かって変革していくことである。これがDXの思想である。「あるべき」とは、例えばそれが「普通」「当然」だと思っていることである。
 
 東京から九州にいる人に伝えたいことがある。今ならメールを送ればいい。メールがなかった時代にはハガキか便箋を送った。メールが登場し始めた初期の頃はどうか。
 
「メールで送る?ああ、最近の電子メールっていうやつね。身近にパソコンに詳しい人がいるならそれで送ってもいいと思うけど、あなたパソコン詳しくないでしょ?わざわざ電子メールなんか使わないで普通にハガキで送れば?」
 
 当時の人はそう言っただろう。ハガキが「普通」でメールは「わざわざ」なのだ。だが今の時代の人の感覚は逆で、メールが「普通」でハガキは「わざわざ」である。この、何を「普通」と思うか、という感覚が「あるべき」ということである。
 
 「普通」は「普く通っている」なので、すでに普及している状態である。メールが普及しきった時代には、「メールが普通」と考えられるだろう。メールがまだ普及していない、出始めの頃に、それが「自然」、「当然」という感覚を持てるか。
 
 「当然」とは「まさにしかあるべし」ということである。東京から九州にメッセージを伝えるのに、メールを使わずにハガキや手紙を使うのは「不自然」に感じる。「わざわざハガキを使うのは何か理由があるんですか?」と聞きたくなる。この感覚を、まだメールがさほど一般的になっていない時点で持てるかどうか。
 
 持てる場合は、「メールが当然」即ち「まさにしかあるべし」という理想像を持てているのだ。
 
 持てない場合は、メールが普及して「メールの時代」になるのを待たなければならない。そして自分たちの作為とは関係なくメールが向こうからやって来るので、それに“対応”しなければならない。メールの時代がやって来てしまったので、メールアドレスを作ったり、メールソフトの使い方を覚えたりしなければならない。
 
 前者は「メールを持って来る」のだが、後者は「メールがやって来る」という違いがある。
 
 欧米におけるDXとは、やりたいこと、実現したい社会の形があって、そのためにデジタルを持って来てトランスフォームする。
 

日本のDXは“対応”

 日本における場合は、やりたいことや実現したい社会の形というものはなくて、デジタルが向こうからやって来たのでそれに対応するために自分たちの行動の変化(トランスフォーム)を迫られている。この変化のことをDXと呼んでいる。
 
 欧米が「DX」と呼んでいるものと日本が「DX」と呼んでいるものにはこのように根本的な違いがある。
 
 それを特徴的に示しているのが、経産省の言う「DX」である。日本の「DX」の定義を知るには、国が定めた定義を見るのが一番早い。経済産業省が2018年に「DX推進ガイドライン」というものを発表していて、その中にDXの定義が次のように書かれている。
 
企業がビジネス環境の激しい変化に対応し、データとデジタル技術を活用して、顧客や社会のニーズを基に、製品やサービス、ビジネスモデルを変革するとともに、業務そのものや、組織、プロセス、企業文化・風土を変革し、競争上の優位性を確立すること。
 
 また、同じ2018年に発表された『DXレポート~ITシステム「2025年の崖」の克服とDXの本格的な展開~(サマリー)』には次のように書かれている。
 
既存システムのブラックボックス状態を解消しつつ、データ活用ができない場合、1)データを活用しきれず、DXを実現できないため、市場の変化に対応して、ビジネス・モデルを柔軟・迅速に変更することができず→デジタル競争の敗者に
 
 「ビジネス環境の激しい変化に対応し」、「市場の変化に対応して」。どちらにもはっきりと「対応」と書かれている。ここに日本が「DX」というものをどのように捉えているかの本質が如実に表れている。日本のDXは、環境の変化に対する「対応」なのだ。
 
 また、経産省のDXの捉え方には、もう一つ問題がある。それは、『ガイドライン』では「競争上の優位性を確立すること」、『レポート』では「デジタル競争の敗者に」と書かれているところである。このレポートが企業の経営者層向けに書かれていることを考慮しても、勝ち負けを基準にして考えているのはひどい。
 
 勝ち負けを基準にして考えるのも「やりたいこと」がないからである。国が「DX」を謳うのは、「このままでは日本は諸外国に遅れを取ってしまう」「海外の国に敗けたくない」という焦りの表れであり、それはつまり、DXという世界の流れに「対応」しましょう、そして何とかがんばって世界の流れに付いて行きましょう、ということしか言っていない。
 

日本のITは“対応”から始まっている

 さらには、そもそも日本のITに対する考え方の根幹とも言える2000年に制定されたIT基本法高度情報通信ネットワーク社会形成基本法)の第一条は次のような言葉で始まっている。
 
(目的)第一条 この法律は、情報通信技術の活用により世界的規模で生じている急激かつ大幅な社会経済構造の変化に適確に対応することの緊要性にかんがみ、
 
 全部で三十六条からなるこの法律も「対応」という言葉で始まる。2000年。日本がこれからIT国家として歩んでいきましょう、というその年に謳われた精神は「対応」だった。日本のITは「対応」から始まっている。
 

日本のDXに缺けているのは「こう変わりたい」という理想像

 DXの思想とは、単なる「デジタル化」ではない。今まで紙で処理していたものをデジタルに置き換えることではない。デジタルに「変わる」ことでもない。日本ではデジタルに変わることが目標のようになってしまっているから「変わらなければ!」となる。
 
 そうではない。DXの思想とは、変わりたい理想像があって、そこへ向かう道の過程でデジタルを持って来ることである。「変わらなければ!」と「変わりたい!」の違いとも言える。
 
 そしてこの「変わりたい」は単なる「デジタルに変わりたい」ではない。どう変わりたいのか、その姿を思い浮かべることができていなければ、ただデジタルに変えればよいのだと思っている大勢の人がてんでバラバラの迷走デジタル社会を作り上げてしまうだろう。
 
 「やりたい」の闕如は、DXに限らず万事における日本の特徴である。
 
 例えば、近年話題のCBDCなんかもそうだ。世界各国の中央銀行がCBDCの研究、検討に入り始めている。中国はもうすでに出来上がっているという話もある。日本銀行もこれに遅れじとCBDCの研究を進めている。
 
 だがここにも世界と日本の「差」がある。それはCurrencyの出来栄えの差でもないし、進捗度の差でもない。「やりたい」の差である。中国などは、やりたいことはもうはっきりしている。中国がCBDCを作る理由、それは中国共産党政府が国民を監視、管理したい、ということだ。極めて明快な理由だ。日本は、やりたいことがはっきりしていない状態でCBDCに取り掛かっている。そして国民に「CBDCはどういうことに使ったらよいでしょうか」と訊いている。
 
 誤解なきように言っておくが、私は監視管理なんてまっぴらだし、そんな社会は嫌である。良い目的か悪い目的かは置いておいて、中国はやりたいことははっきりしている。
 
 やりたいこともないのに、「みんなが始めているみたいだから私たちも始めたほうがいいのかなぁ」で始めるのは滑稽である。
 
 「これが当然であるべき」という感覚、「こうありたい」という理想像がない状態でのDXとは何なのか。日本で今盛んに言われている「DX」には、この感覚が大きく闕如している。
 
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