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【将棋】佐藤康光九段・順位戦の不思議

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 将棋界に佐藤康光という棋士がいる。いわゆる「羽生世代」の一人で、90年代には名人になったこともある。私の好きな棋士の一人だ。(将棋界には佐藤姓が多いので以降「康光九段」と書いたりする。)

 

 この佐藤康光九段の順位戦の成績を見ていて、とても珍しい不思議な現象に気づいてしまった。もう今から5年以上前から気づいていて、それからずっと佐藤康光九段の成績に注目している。それは、康光九段の成績がずっと“中くらい”という不思議である。

 

 

 この記事を興味を持って読みに来た方には今さらかもしれないが改めて順位戦の説明をしておこう。将棋の順位戦とは名人の座を目指してほぼ全員の棋士が一年かけて戦うリーグ戦である。A級を一番上とし、B級1組、B級2組、C級1組、C級2組と続く。ピラミッド型で、一番下のC級2組は大所帯だが最上位のA級はたったの10人しかいない。佐藤康光九段はこの最上位のA級に在籍しているトップ棋士である。

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 先日、羽生善治九段が長年在籍していたA級から陥落した、というニュースがあった。羽生九段の今年度の成績は2勝7敗。羽生九段と言えば康光九段と同世代で小学生時代からのライバルだ。将棋史上最も偉大な棋士の一人だがそんな羽生九段でさえ陥落してしまうほど、A級に留まり続けるのは難しい。そんな中、康光九段は1996年度にA級に上がってから、もう26年間もA級にいる。2009年度に一度陥落したが一年ですぐにA級に復帰している。羽生九段がいなくなって突出した最年長になった。

 

 A級は10人で一年かけてリーグ戦を戦う。そこで一位の成績をとった人が名人への挑戦権を獲得する。下位2名はB級1組に降級となる。来期(来年度)はB級1組で上位2名になった人と入れ替わる。たった10人しかいないのに下位1名ではなく下位2名も降級してしまうというところがポイントである。つまりA級の10人というのは固定メンバーではなく、毎年かなり顔ぶれが入れ替わっている。下のクラスから上がってくる2人は大体勢いに乗っている強敵である。

 

 10人しかいないと、成績上位の挑戦権争いか成績下位の降級争い(残留争い)のどちらかに巻き込まれる確率が高い。今期2021年度は斎藤九段が独走して8勝1敗の成績で名人挑戦権を獲得したので争いは起こらなかったが、例年は2人か3人の人が最後まで挑戦権争いを繰り広げることが多い。一方の残留争いだが、これは降級が2名もいるので、例年4人ぐらいの人が最後の最後までA級残留をかけた必死の争いを繰り広げる。つまりA級では、ちょっと勝ちが込むとすぐに挑戦権争いに否応なしに関わることになるし、ちょっと負けが込むと今度は否応なしに残留をかけた争いに巻き込まれる。どちらの争いにも関わらない人というのは三分の一の3人か4人くらいしかいない。

 

 と、いう前提を知った上で、ここ11年の康光九段のA級順位戦の成績を見てほしい。

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 直近11年(2011年度から2021年度まで)の康光九段のA級順位戦の成績である。ほとんどが「5勝4敗」もしくは「4勝5敗」という成績である。2016年度に「3勝6敗」、2017年度に「6勝4敗」という成績があるが、「7勝2敗(2勝7敗)」や「8勝1敗(1勝8敗)」、「9勝0敗(0勝9敗)」という偏った成績の年がまったくない。ずっと勝率がちょうど5割くらいなのである。(さらに言えば「5勝4敗」の数と「4勝5敗」の数もほぼ同数である。)1年かけて他の9人と戦うので9回戦まである。奇数なので完全な勝率5割にはならないが、しかしほぼ完全に近い。これはある意味、珍記録だと思う。こんな珍しい記録があるだろうか。

 

「トップのA級に在籍しているということは充分強いのでは?」

 確かに、めちゃくちゃ強い。そんな鬼のように強い人が、なぜ11年間も一度も挑戦者にならず、そればかりか挑戦権争いに絡んだことすらほとんどないのか。

 

「中くらいの成績をキープしようとしているのでは?」

 それはない。みな名人を目指しているし、言うまでもなくA級は天才だらけ。ほんの僅かでも気を抜けば一気に転落する。すべての棋士は命懸けで戦っている。中くらいの成績は狙って取れるものではない。中くらいの成績はあくまで全力で戦った結果なのだ。

 

「他にも中くらいの成績の棋士はいるのでは?」

 確かに一年単位で見れば、他にも中くらいの成績の棋士はいる。しかし、11年もの長きに渡って中くらいの成績を取り続けている棋士佐藤康光九段をおいて他にはいない。たった10人しかいないA級で。

 

 下図は左が2011年度のA級順位戦メンバー、右が2021年度のA級順位戦メンバーである。

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 顔ぶれが大きく変わっているのが分かるだろう。10年前にいた人は羽生善治渡辺明しかいない。その羽生九段も来年度はA級にいない。これだけ浮き沈みの激しいA級において、浮きもせず沈みもしない佐藤康光九段とはいったい何者なのか。

 

 昨日、2021年度のA級順位戦最終局が一斉に行われ、康光九段は4勝5敗の成績に終わった。2月4日に8回戦が行われ、その時点で康光九段は4勝4敗だったので、最終局は勝っても敗けても“真ん中”の成績になった。今年度も挑戦権争いにも降級(残留)争いにも関わらなかった。

 

 

 世間の将棋ファンは、上位の昇級争いか下位の降級争いに注目する。だが私は“真ん中”に注目している。誰も見ていない真ん中に「佐藤康光」の名前がいつもそこにある。毎年顔ぶれの違うA級において常に「5勝4敗」か「4勝5敗」という“真ん中”の成績を取り続けるというこの珍しい現象に気づいているのはひょっとして私だけなのではないかと思い、どうしても書きたくなって書いた。

 

 この珍しい記録?はいつまで続くのだろうか。個人的には佐藤康光九段を応援しているので、もう一度「佐藤康光名人」を見たいと思っているのだが。

 

 

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