漸近龍吟録

反便利、反インターネット的

現代日本の「本」をめぐる危機的状況

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 本が減っている。本にアクセスできなくなっている。
 
 ウェブ上で文章がたくさん読めるようになった現代でも、本は知にアクセスするための重要なツールだ。
 
 だが現代の日本で、私たちは急激に本を読むことができなくなっている。読みたい本がどうやっても読めないという状況が立ち現れている。
 
 「あの本、捨てなきゃよかった」と言っている人がたくさんいる。これからはデジタル化の時代だから本なんか思い切って断捨離してしまっても後で電子化されたものを買い直せばいつでもまた読める、と思っていたのだ。だが電子化はされなかった。あの時捨ててしまった本はもう二度と読めないのだ。
 
 先日、母校の大学図書館に行った。学術書などは大学図書館レベルの図書館に行かなければなかなか置いてない。が、Covid19対策で卒業生の入館はお断り、とのことだった。なるほどもっともなことだ。在校生でさえ入館にあたって距離を取るように言われているのに卒業生など受け入れる余裕はないだろう。だが大学図書館の「利用資格」の中には卒業生が含まれている。私は利用資格がある人なのに図書館を利用できないのだ。図書館の中にある本が電子化されていたなら、私は建物の中に「入館」することなく自宅に居ながら本を借りることができていただろう。
 
 2010年頃だったか、「電子書籍元年」と言われた年があった。さまざまな電子書店や電書リーダーが登場し電子書籍ブームが起こった。だが私はそのとき電子書籍に手を付けなかった。ラインナップがあまりにも貧弱すぎたからだ。
 
 私はその後もずっと「紙の本派」だった。紙の本のほうが好きというわけではなく、紙でしか読めない本が圧倒的だったからだ。それから11年が経ち、私はそろそろ電子書籍の状況はどうなっているだろうかと思い、日本の代表的な電子書籍屋であるAmazon、Kinoppy、hontoを覗いてみた。11年ぶりに覗いてみた電子書籍屋には相変わらず私の読みたい本はまったく売っていなかった。
 
 日本の代表的な新書11社について、新書の最新刊4冊が紙版だけでなく電子版も用意されているかどうか調べてみた。
 
PHP新書 4/4
NHK出版新書 4/4
集英社新書 4/4(やや遅れて)   
文春新書 4/4
 
 上記11社中8社は紙版に併せて電子版も売っていた。筑摩書房も4冊中3冊は電子版が作られていた。だが新書の世界でもっとも古い歴史を持つ岩波書店は0冊、中央公論新社は1冊という有り様だった。
 
 本屋にも売ってない、図書館でも読めない、いったい現代の私たちはどこで本が読めるのだろう。なぜ、出版社、本屋、図書館は、本の電子化に取り組まないのだろう。
 
 関係者が電子化に取り組まない言い訳を並べ立てているのを見たことがある。曰く、
「取次が」
「慣習が」
「コストが」
著作権が」。
 
 今までの慣習がどうとかコストがどうとか言うのは、極めて小さな了見に囚われているとしか思えない。当然にやるべきことをやらないで「本が売れなくなった」と言って嘆くのは滑稽なことだ。
 
 昨年10月からAmazonがODPのサービスを日本で始めた。今までも電子書籍は自己出版できる仕組みがあったが、紙の本も出版できるようになった。日本の出版社が「コストが、コストが」と言っている内に、世の「著者」たちはこうした仕組みを使って自己出版をするようになるだろう。電子で出版するという最低限やるべきことをやらないのなら出版社を通じて本を出版する意味がない。
 
 また、「著作権が」という言い訳もおかしい。過去の作品ならいざ知らず、現代の、今活動中の著者の作品については単に著者に対して電子でも出版するということに同意してもらうだけだ。過去の作品に関しては、著作権法の縛りがあるならもっと業界全体で積極的に法律の改正を訴えていくべきだ。「あの先生は紙での出版には同意していたが電子での出版には同意していなかったから」というのは何とも奇妙な話に聞こえる。私は江戸時代の本をよく読むが、「江戸時代の作家先生は和紙での出版には同意していたけれど洋紙での出版には同意していなかったから」という理由で洋紙の本で出版できない、などという話があるだろうか。
 
 「わざわざ電子化するのは大変なんですよ」と言う人もいるが、私はそうは思わない。あなたが「個人出版社」だとして、著者から受け取った原稿データをブログのような定型の「型」に流し込むのと、プリンターで紙に印刷してその紙を製本するのと、どっちが「わざわざ」と感じるか。
 
 日本は米、欧、中、韓に比べても圧倒的に書籍の電子化率が低い。ちなみにここで言う書籍とは文字の本のことだ。日本は漫画の電子化率は高いのでそれが全体の電子化率を少し押し上げている。
 
 昭和時代ぐらいまでは、地方の人は大型書店や大きな図書館がないから、本を読みたくても本にアクセスできない、という問題があった。そして今、デジタルの時代になってからもう何十年も経つが、今は都会の人であれ田舎の人であれ本にアクセスできない時代になっている。街の書店はどんどん潰れ、その代わりとなるべき電子書店、電子図書館はまったく育っていない。
 
 これは音楽やテレビ番組でも同じことが言える。なぜ過去の音楽やテレビ番組は自由に聞いたり見たりすることができないのだろう。所謂“版権”を持っているはずのレコード会社は過去の楽曲を販売しない。テレビ局も過去のテレビ番組を販売しない。「著作権」や「肖像権」あるいは「忘れられる権利」を主張する人がいるかもしれないが、忘れられる権利に対しては個別に対応すべきで、基本的には一旦世に出た作品は自由に視聴できるべきである。
 
 テレビはYouTubeに人気を奪われていると言う。当然だと思う。YouTubeは過去作品も削除されず全て自由に視聴できる。Google社が何ペタバイトなのか何エクサバイトなのか知らないが、厖大な容量の保管庫を持ち、過去映像を全部保存して閲覧できるようにしている。なぜTV局は同じようにやらないのだろう。もちろん無料でとは言わない。過去のすべてのTV番組をオンデマンドで有料で、人々の好きな時に視聴できるようにすべきだ。
 
 「売れないものを販売するのはコストが・・・」と言うのかもしれない。しかしコストがかかるか?単にデジタルデータを保持しておくだけの話だ。そしてそれを見たいと言う人がいたら有料で販売すればいい。過去の全作品にアクセスできるとなったら、音楽の世界やTVの世界は人気を盛り返すだろう。「デジタルデータを保管しておくのもタダじゃないんですよ。物理的なハードディスクとかが必要になってくるんですよ」と言う人がいるかもしれない。しかしGoogle社が保管している何億ものデータは動画データだ。それにくらべたら出版社が保有するのは主にテキストデータなのだから動画にくらべたら全然容量を喰わないはずだ。
 
 電子で出版するというのは出版社が果たすべき当然の使命だ。出版社、本屋、図書館等、本に関わる関係者は本の電子化についてもっと真剣に取り組まなければならない。
 
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