漸近龍吟録

反便利、反インターネット的

ある50代男性の人生を通して考える人生の幸福の総量について

congerdesignによる画像

 
 最近、身近で考えさせられることがあった。
 
 職場の男性が急に東京から山形に引っ越した。痴呆症の母親の介護が必要になったためだと言う。山形からリモートで働くのだと言う。
 
 その男性は50代独身。気楽な独身ライフを楽しむというタイプの人ではなくて、ずっと結婚したかったけどできなかったというタイプの人だ。父親はいるのかどうか知らない。母親は80代の高齢者。前から少し呆けている兆候はあったものの、ある日急速に痴呆が進んだらしい。
 
 彼と弟の二人兄弟とのことで、二人の息子はすぐに山形の実家に駆けつけた。そして母親の世話をした。が、弟には家族があった。妻と子どもたちが家で待っているため、いつまでも母親の介護をしているわけにいかず、自分の家族の住む家に帰って行った。残った兄は一人で母親の介護をしながらリモートで仕事をすることになった。介護と仕事の両立は傍目から見ていても大変そうである。
 
 彼は不平不満は一つも言わない。母親が一人で生活できなくなったら助けに行くのは当然。弟は結婚して家族がいるという事情も分かっているので、自分が母親の介護を一手に引き受けるのも仕方のないこと。彼は淡々と黙々と介護と仕事をこなしている。真面目で優しい性格の彼は何も言わない。が、私は考えてしまう。人生の幸福の総量について。
 
 彼の人生には今まで幸福な瞬間はほとんどなかった。幸福の感じ方は人それぞれとは言え、結婚してあたたかい家庭を持つことを誰よりも望んでいた彼にその望みが叶えられた瞬間はなかった。人柄が良く、仕事も優秀、容姿も普通な彼は、ずっと「底辺」と呼ばれる人生を生きてきて、50代になった今も非正規雇用で働いている。東京では築数十年の古びたアパートの一室に住んでいた。
 
 彼の弟のことは知らない。どんな仕事をしている人なのか、どんな社会階層の人なのか、どれほど幸せな暮らしを送っているのか、それは知らない。しかし少なくとも結婚できて子どももできていることだけは事実だ。仮に弟の方が兄よりも、収入、資産、家族や人間関係などのソーシャルグラフに恵まれているとすると、なぜ恵まれている人の方が親の面倒を見ずに、恵まれていない兄の方が親の面倒を見なければならないのか。
 
 「人生は順繰り、おたがい様だよ」と言う人がいる。
 
 彼の母親も若い頃は自分や夫の年老いた両親の面倒を見てきたわけだ。そして自分自身が歳を取ったら今度は子どもに面倒を見てもらう。「世代はそうやって順繰りになってるんじゃないですか」と人は言う。
 
 だが、彼には子どもはいないのだ。痴呆症は病気ではあるが体の病気ではないし女性は長生きでもあるので、母親はこの先長く生きるかもしれない。彼はこれからの10年、いや、ひょっとしたら20年くらいをずっと親の介護に費やす。その頃には彼も前期高齢者だ。体も頭も衰えが始まり、いろいろな病気も出てくるだろう。その時になって彼のことを介護してくれる子どもはいない。まったく順繰りではないし、おたがい様でもない。
 
 こんなひどい話があるだろうか。弟は子どもがいるのだから自分が老人になった時には子どもに介護してもらえる可能性がある。「人生は順繰り」は弟になら当てはまる言葉だろう。必ずしも介護してもらえるかどうか将来のことは分からないが、少なくとも子どもがいる弟の方が母親の介護をすべきなのではないか。
 
 「それなら母親の面倒は見ないで、自分の人生を好きに生きたら?」と言う人がいるかもしれない。
 
 はたしてそれができるか。痴呆で自分で身の回りのことをできなくなってしまった母親を見捨てて東京に帰る。そんな残酷なことができるだろうか。できる人もいるのかもしれないが、ほとんどの人はそんなことはできないだろう。ヘルパーさんなど社会福祉に頼るとしても、さまざまな契約や手続きが必要でそれは誰かがやってやらなければならない。
 
 人生の幸福の総量の不平等について思わずにはいられない。仮に「幸福かどうかは量よりも質だ」と言うとしても、彼が幸せの質の高い生活を送ってるようには見えない。家族も恋人も友達もいない彼は、仕事では毎日「申し訳ございません」と言い続け、それ以外の時間は只管、話の通じなくなった老母の世話をしているだけだ。
 
 しかし彼のような事例は、非婚者が多い日本では今後頻出すると思う。好きで独身でいた人はともかく、「結婚したかったのにできなかった」という人にとっては理不尽な思いが残る。老人の数が多く非婚化が進んでいる現代の日本ではこの先大量の地獄が待っている。
 
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