漸近龍吟録

反便利、反インターネット的

「できる」ラインと「やる」ラインは分けるべし

 昔、毎週日曜日に放映されているNHK杯将棋トーナメントをよく見ていた。ここ数年はあまり見なくなっている。面白くなくなってきたと感じているからだ。面白くなくなってきたと感じ出した理由は、おそらくAIによる形勢判断のグラフが表示されるようになったからだと思う。

 先日、ネット上のどこかのチャンネルで将棋中継を見たら、そこではAIの評価値が表示されていなかった。形成判断のグラフも次の予想手も。久々に将棋を見るのが楽しいと感じた。解説のプロ棋士も「どちらかが倒れててもおかしくないですね」と言っていたり。どちらかが倒れているけどそれがどちらなのかは分からない、というわけだ。コメント欄も「後手がいいんじゃないか?」、「いや、先手が受け切りそう」などと意見が別れて盛り上がっていた。

 局面を見て、先手と後手どちらが優勢なのか分からない、そしてそれをああだこうだと推測、考察するのが面白い。

 

 現代では多くの人が「できる」ラインと「やる」ラインを揃えてしまっているせいで、世の中がつまらなく、かつ息苦しくなっていると感じる。「できるかできないか(canかcan'tか)」という問題と「やるかやらないか(doかdon'tか)」という問題をごっちゃにしてしまっているのだ。

 AIを使えば現局面の形勢が分かる。それは「できるかできないか」の話である。「AIを使えば(形勢判断は)できますよ」という話である。その「できるかできないか」の話と「やるかやらないか」の話、すなわちAIを使って形勢判断を行うか行わないか、は別の話である。この二つを分けて考えない人がとても多い。

 つまり世の中全体で、「できる」→「やりましょう」に直結してしまっていると感じる。

 技術の進歩によりAIで形勢が分かるようになったらそれを画面上に表示するのは”当然”の行為なのだろうか?私たちは追加でお金を払ったらAIの形勢判断が表示されない画面で将棋を見ることができるのだろうか。AI判断が画面上に表示されているのは、私たちが追加料金を払わずに見ている”罰”なのだろうか。

 

 これは将棋に限った話ではない。「AIを使ったら簡単にできますよ」という話はどの分野にもたくさんある。私は「AIを使ったらできる」という話は分かる。それは諒解している。だが、そのこととAIを”使うか使わないか”、は別問題でしょう?「できる=使う」ではない。「できる」ということは諒解した上で、そのうえで「使うか使わないか」、「やるかやらないか」という議論がなされるべきだ。その議論は現代ではほとんどすっ飛ばされている。

 「できるかできないか」という問題と「やるかやらないか」という問題は分けて考えなければいけないし、「できる」ラインと「やる」ラインは意識してずらすべきである。

 12年前にも先代のブログで同じようなことを書いている。

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