漸近龍吟録

反便利、反インターネット的

電子マネーは無言で使えるようにしたい

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 ↑を読んで。
 
 私も以前から常々同じことを感じている。
 
 電子マネーはコンビニ等で使うときにいちいち「エディーで」などと言わなければいけないのがとてもダサい。
 
 「電子」なのにまるでアナログに退化したかのようだ。
 
 「それぐらい別に声を出して言えばいいじゃないですか」と思う人もいるかもしれないが、私は声に出して言うのが面倒だというわけではない。その一言を言うのが決して面倒なわけではなく、ダサくて阿呆らしいのだ。
 
 いちいち言わなければいけないのは店側の都合上だと聞いたことがある。スマホの中にSuicaEdy、iD、QUICPayなど複数の電子マネーが入っている場合、どれを使って支払うのかを言ってくれなければ分からない、というわけだ。
 
 だが。
 
 スマホの中に一つの電子マネーしか入っていない場合を考えてほしい。
 
 例えば今、あなたのスマホの中にはQUICPayしか入っていないとしよう。あなたはコンビニのレジに行って、スマホを機械に翳す。あなたはスマホの持ち主だから自分のスマホにはQUICPayしか入ってないことを知っている。当然、QUICPayで支払うつもりでタッチする。
 
 一方、タッチされた機械の側でも迷うことはない。SuicaEdyやiDは入っていないのだから反応のしようがなく、こちらも当然QUICPayとして受け取り処理するだろう。
 
 つまりこの場合、お金を支払う客にとってもQUICPayで支払うことは自明で、お金を受け取る機械にとってもQUICPayであることは自明なのである。タッチする客もタッチされる機械も双方が「これはQUICPayでしかない」と諒解しているのに、言わば「第三者」である店員に、「今、QUICPayで支払いをしようとしてますよ」ということを教えるためにわざわざ声に出して言わなければいけないのである。これは阿呆らしい。
 
 冒頭の文章を書いた人にはまったく同感である。それは声を出すのが面倒くさいとか、店員とコミュニケーションを取りたくない、ということではない。そうではなくて、場合によっては「自明」のことをわざわざ口に出して言うという仕組みがあまりにも阿呆らしいからだ。
 
 電子マネーを日本で普及させたいと思っている関係者がいっぱいいるようだが、先ずはこういうダサさから直していくべきではないだろうか。
 

気象庁2018年夏の3か月長期予報答え合わせ

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 天気予報は年々精度が上がってよく当たるようになったと言われる。だがそれは明日や明後日の天気であって、週間予報とか長期予報になればなるほど、まだまだ精度は低いとも言われている。
 
 そこで気象庁が発表した今夏(2018年夏)の長期予報がどれくらい当たっていたのか検証してみたい。
 
 発表したのは夏に突入する直前の5月の終わり頃(5月25日)である。
 
 下記が気温に関する予想。2018年の夏は記録的暑夏であったが、それを予想できていたかどうか。
 
気温・6月
東日本→「ほぼ平年並」
西日本→「ほぼ平年並」
気温・7月
東日本→「高い」
西日本→「高い」
気温・8月
東日本→「平年並か高い」
西日本→「平年並か高い」
 
(2018年5月25日気象庁発表)
 気象庁の発表では1か月ごとに気温は5段階に分けて予想している。
 
低い
平年並か低い
ほぼ平年並
平年並か高い
高い
 
の5段階である。
 
 7月の気温は、北日本→「平年並か高い」東日本→「高い」西日本→「高い」沖縄→「高い」と予想しており、ほぼ的中と言っていい。
 
 8月の気温は全国的に「平年並か高い」と予想している。東京では8月は涼しい日と猛烈に暑い日が交互に訪れていた感じだったので、体感的にもほぼ合っている。
 
 そして6〜8月の3か月まとめての気温予想でも「高い」とはっきり書いており、平年より暑い夏になるという予想は当たっている。
 
 降水量に関しては7月の東日本太平洋側が「平年並か少ない」と予想しており、実際、関東地方は今年は6月中に梅雨明けした。6月と7月の東日本の降水量は平年並だったのでこれもまあ的中と言っていいだろう。
 
 西日本の7月の降水量は「平年並か少ない」となっている。7月上旬の西日本豪雨を思うと、これは外れているようにも感じるが、このような突発的な事象はなかなか長期予報には織り込むのは難しいだろう。
 
 私は、気象庁の長期予報というのは当たらないものだと思っていたが、こうして見ると、少なくとも今夏の予報に関してはよく当たっている。
 
 「予報のポイント」として「全国的に暖かい空気に覆われやすく、向こう3か月の気温は高いでしょう」と言い切っている。
 
 気温に関しては「(平年より)高い」と言ってるだけで「記録的猛暑になる」というような表現はどこにもないが、もし自分が予報の担当者だったとしたら「記録的猛暑になる」とは思っても言いたくない。
 
 また、「予想される海洋と大気の特徴」のところで「全球で大気全体の温度が高いでしょう」と予想しており、これは今夏の日本だけではなかった世界的な暑夏も言い当てている。
 
 5月下旬にこの長期予報を見たとき「9月になったらこの予報がどれだけ外れていたかを検証することになるだろう」と予想したが、その私の予想は外れて、今夏に関しては3か月予報がよく当たっていた、という結果になった。
 
※私が参照した気象庁の予報資料はすでに気象庁のサイトから無くなってしまっているので、代わりに同じ2018年5月25日にウェザーマップ気象予報士によって書かれたこちらの記事などを参考してください。
 

マイナンバー制度と申請主義

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 山口道宏編著『「申請主義」の壁!』を読む。この本には日本の申請主義の問題点が豊富な事例によって紹介されている。申請主義にどんな問題点があるかは、この本ではいやというほど挙げられている。

「申請主義」の壁!―年金・介護・生活保護をめぐって

「申請主義」の壁!―年金・介護・生活保護をめぐって

 
 
 申請主義は職権主義に対するものとして登場したと聞いたことがある。職権主義はイメージが悪い。職権を持つ者がその職権を濫用する印象がある。そのような濫用は許さず、民主的な(民が主役の)仕組みにしていかなければならない。そういう思想から「申請主義」は生まれた。
 
 だが、その後、申請主義は行政側、あるいは企業側に都合よく使われてきた。
 
 離婚した、子どもが生まれた、家族の人数が変わった、別居になったので世帯主が変わった、年老いた親を同居させて扶養することになった、テレビは見ていません、ウチにはテレビがありません、昨年まで働いていましたが体調を崩し、今年からは働いておらず収入はありません…。
 
 そうした生活状況の変化に対し、行政側は一様に「そんなことは知りません」、「あなたの家の中のことなんて、そっちから教えてもらわないかぎり私どもは知りようがありません」と言ってきた。
 
 「あなたの家の家庭内事情なんて、こっちは知りようがない」と言う一方で、行政・企業側は「徴収」に関するときはめちゃくちゃ詳しく調べて把握してくる。
 
 「あなた、最近、家族構成変わりましたよね」、「扶養義務のある家族が一人減りましたよね」、「あなた先月からバイト始めて一定の収入がありますよね」、「ベランダにテレビの受信機がありますよね」、etc…。
 
 税金や受信料など「徴収」のときは、あなたが言わなくても「知ってるぞ」と言い、社会保障などサービスを施す側のときは、あなたの方から言ってくれなければ「知りようがない」と言う。
 
 これが、あまりにも都合が良すぎる申請主義の実態だ。
 
 マイナンバー制度が国民に不評なのは、結局のところ税の徴収のことしか考えていないのが見え見えだからだ。国にとっては大きなメリットだろうが、国民にとってはメリットがなさすぎる。
 
 マイナンバー制度が浸透する社会とは「知りませんでした」が通用しなくなる社会だ。
 
 「あなた、隠れ収入があるでしょ」、「あなた、別の銀行に預貯金があるでしょ」、「あなたの財産はすべてお見通しですよ」と言う。見通せるということは知っているということだ。
 
 マイナンバーを通してすべて「お見通し」てしまうということは、知りたくなても困窮具合も知ってしまうということだ。そして人の困窮を知りながら助けないのは目の前の川で人が溺れているのに助けないようなものだ。
 
 「たしかに私はその時間、そこの川岸を歩いていましたが、人が溺れているのには気づきませんでした」。
 
 今まではそういって知らん顔して“面倒なこと”に関わらないでこられたかもしれないが、もう、溺れていることは知っているのである。マイナンバーを使えばすぐにわかることなのである。たとえ川岸から遠く離れた所にいたとしてもマイナンバーを通して“知っている”のである。
 
 マイナンバー制度の実施・普及を機に、申請主義を見直すべきだ。「国民・市民の方から申し出てくれなければ、こちらとしては知りようがない」はもう“嘘”だからだ。
 
 マイナンバーという“筒”を通して国民を把握できるようになる、ということは、知ってしまった以上は国民を助ける義務も出てくる、ということだ。
 
 マイナンバー制度の普及は、申請主義の見直しとセットでなければならない。
 

東京オリンピック2020のマラソンは時間帯を早めるのではなく

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 2020年東京オリンピックのマラソンを猛暑の中で行うことに批判が出ている。
 
 東京オリンピックが行われる7月から8月は、一年で最も暑い時期であり、そんな猛暑の中を選手に走らせるのは熱中症などの虞があり危険である、という声だ。こうした声を受けて、組織委員会は従来の予定では午前7時半だったマラソンのスタート時刻を午前7時に繰り上げた。
 
 だが、私は、こうしたスタート時刻の繰り上げは、暑さ対策としてはあまり効果がないと思う。その理由は「東京の朝は暑い」からである。
 
 
 埼玉県熊谷市。関東地方では「暑い街」として有名であり、全国でも「日本一暑い街」として知られている。この熊谷と東京を比べたらどっちが暑いと思うだろうか。それはもちろん熊谷の方が暑い。だが、時間帯によっては東京の方が暑いのである。
 
 一日の時間帯による暑さの違いに注目してほしい。
 
 下記の表はオリンピックが開かれる7月24日〜8月9日の過去15年間の時間帯別平均気温を東京と熊谷で比較したものである。(気象庁のデータより抽出)。

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 この表をグラフにしたのが下図。
 

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 赤い線が東京で緑の線が熊谷である。「熊谷の夏の気温が32.1度?」と驚く人もいるかもしれないが、颱風や雨で涼しい年もあるので平均するとこうなる。
 
 熊谷が東京の気温を上回っているのは、昼から晩にかけての時間帯であることが分かる。そして午後8時以降、夜間はずっと東京の方が暑い。朝を迎えてもずっと東京の方が暑く、熊谷が東京に追いつくのはやっと午前11時頃になってからである。
 
 熊谷は昼と夕方が暑いが、東京は夜と朝が暑いところに特徴がある。
 
 多くのマラソンランナーが走っているであろう午前8時の時点で東京はすでにかなり暑いのである。午前7時半のスタートを僅か30分早めて午前7時にしても、やっぱり暑いのである。上の表は平均気温なので涼しめに感じるが、猛暑の年だったら東京は朝8時の時点で30度近くに達する。
 
 熊谷のような街なら、朝のスタート時間を早めることで少しは「暑さ減」が期待できるだろう。だが東京のように夜間・朝が暑い街ではそこまでの効果が期待できない。サマータイムを導入してさらに二時間早めて、午前5時にスタートするようにしてはどうか、という意見も出ているが、午前5時の東京の気温の高さを見てほしい。熊谷より平均1.5度も高く、これは一日の中でも最大の差である。
 
 何が言いたいかというと、東京の夏は夜と朝が暑い!というところに東京の夏の暑さの特徴があるので、朝のスタート時間を多少早めても、他の街ほどの効果は見込めない、ということ。
 
 なので、スタート時間を早めるよりも、マラソンを東京以外の街で実施した方がよっぽど「暑さ減」が期待できる。例えば北海道とか。
 
 「『東京』オリンピックなんだから、マラソンコースが北海道というわけにもいかないでしょう」と思う人がいるかもしれないが、東京以外で行われる競技はたくさんある。実際、サッカーの一部の試合は北海道で行われる。IOC委員が認めさえすれば、東京以外で行うことは可能である。
 
 夏の暑さの話をする時は、一日の時間帯別でも見てほしい。東京の夏の暑さの特徴は、夜と朝が暑い、というところにあることをもっと多くの人に知ってほしい。
 

障碍者雇用水増し問題の責任は誰がとるのか

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 中央省庁による障碍者雇用の水増し問題が明らかになった。

 これは官房長官が言うように「あってはならないこと」で、経済産業大臣が言うように「ゆゆしき問題」である。当然、責任者、トップに立つ者は責任をとって辞任しなければならない。 

 これでもし誰も責任をとらなかったら、これはもう丸山眞男のいう「無責任の体系」そのものである。 

 「辞任するばかりが責任のとり方ではない。引き続き職務を全うし、再発防止策に努め、規律を正していきたい」などという言い訳は通らない。 

 なぜなら、今回の問題は法令を無視して障碍者を雇用しなかった、という問題だからだ。

 障碍者の雇用が守られず、無責任な「責任者」の雇用は守られる、などということは絶対に許されない。

 

前提の「ば」批判

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前提を問わないまま前提を深めていく社会

 
 今の時代、前提を置く「物言い」をする人ばかりである。
 
「この方法をすれば、あなたも痩せられる!」
「この本を読めば、人生の成功を摑める!」
「一日たったの五分これをすれば、英語がペラペラに!」
「信じれば、救われる」
 
 今の人は「ば」を付けずに物を言えない。すべてに「ば」が付く。私はこれを「前提の『ば』」と呼んでいる。
 
「こうすれば、気持ちが楽になる」
「自分が変われば、人生は変わる」
「こんな考え方をすれば、幸せになれる」
 
 こういう物の言い方が私は大嫌いである。
 
 前提が無ければ成り立っていないのに、その前提部分を都合よく隠して、「ば」以降の後半部分のみをライトアップして相手に訴えかける。
 
 前提を断つ努力をするか、もしくは前提を問うか、どちらかすべきである。
 
 ところが今の人たちは、前提を深めながら、それでいて前提を問わない。
 
 例えば、私が嫌いな「ば」の言い方の代表的なものに、「やればできる」がある。人が「やればできる」と言うとき、その人は明らかに「できるかできないか」を問題にしている。「君にもできるさ!」ということを強調したがっている。「やるかやらないか」ということはまったく問題にしていない。
 
 こうして誰も前提を問わず、世の中は“ふざけた”まま進むのだろう。「can」ばかりを問い「do」を問わず、それでいて前提条件ばかりどんどん付け足していく。誰も前提を問わないからだ。だからいい気になってどんどん「ば」を重ねていく。
 
 前提を重ね着してる世界は美しくない。前提を言わなければ言えないような事なら、何も語るな。前提を問わないなら、「ば」は語るな。
 
 この前提の「ば」は、仮定の「れば」だが、所謂「たられば」とは違う。「たられば」に対する批判は今までにもある。「たられば」は「あの時こうしていたら」、「あの時こうしていれば」という後悔を表す。
 
 人々は「たらればの話をしても仕方ない」と言う。これは過去のことはしょうがない、という意味である。
 
 

なぜ過去はしょうがなくて未来はしょうがなくないのか

 
「たらればを言ってもしょうがない」
「歴史にたらればは無いんですけどね」
 
と言う人は多い。過去のことについて「もし、あの時こうしていれば」などと言っても、過ぎ去ってしまったことはどうしようもない、というわけだ。過去についての「ば」は、こうして戒めるのに、どうして現在、未来についての「ば」を戒める人は少ないのか。
 
 私の言う前提の「ば」は過去ではなく未来である。
 
「いつも笑顔でいれば幸せがやってくるよ」
 
というような「ば」である。過去のこと、終わったことではない。これから幸せがやって来る、と言っているのである。
 
 私は「ば」の言われ方をされると、「そりゃそうでしょうね」という返事以外、何も思い浮かばない。
 
 自分が幸せを手に入れる方法ばかりに興味を持ち、相手もその方法に一番興味があるはずだと思い、「こうすれば幸せになれる!」と言う。その人がなぜ笑顔を失っているのか、なぜ笑えないのかを考えない。
 
 

「アウトプットの重要性」については皆言うくせに、その前提は問わない

 
「なんで忘れちゃうんですか!こういう時は右クリックって前も教えたでしょ!」
 
 パソコンが得意な人が、パソコンの使い方を一向に覚えない老人を叱っている。
 
 あなた方がパソコンが得意なのはパソコンを毎日使っているからである。老人がパソコンを覚えられないのはパソコンを毎日使わないからである。「パソコンを毎日使う」という恵まれた前提環境があるからこそ、パソコンが得意でいられる。
 
「パスワードは大事だから絶対に忘れちゃ駄目って言ったでしょ!」
 
 しかしパスワードを忘れてしまうのは「老人だから」ではない。老人だって毎日ログインパスワードを入力していれば覚えるし、若者だって一年ぶりにパスワードの入力を求められたら思い出せない。
 
 あるいは「英語は毎日使うことが大事ですよ。それが英語上達の道です」と言う。それは確かにそうだろう。だが誰も「英語を毎日使う」環境が整っているかどうかは問わない。
 
 「たくさんの人と話すことで新しいアイデアが生まれますよ」。そりゃそうでしょうね。で、その人がたくさんの人と話すことができない理由を誰かほんの少しでも考えたことがあるのか。 
 
 アウトプットの重要性については皆語るわりに、その前提となる環境や条件については誰も語らない。
 
 

無限前提化する世界

 
 このまま無批判な「ば」の暴走を許せば、世界は無限前提化していく。世界はすでにそうなってきている。
 
 Zという夢を達成するにはYが必要である。XをすればYができる。Xの前提としてWが。Wの前提としてVが必要。Vを達成するためにはUが、Uの前にTが、Tの前にSが…。
 
「…というわけでBのためには先ずAが必要なのです」
 
 こうして「風が吹けば桶屋が儲かる」が完成する。
 
「あなた、自分の家の商売である桶屋をもっと儲かるようにしたいんですか? だったら、先ずは風を吹かせることですよ」
 
 こんなアドバイスを受けて納得できる人がいるのか。
 
 誰も「ば」について考えず、検証、検討する気もなく、無批判に「ば」の増長を許した世界は斯様に意味の分からない世界である。
 
 
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元号公表時期問題は即位日と改元日をずらせばいい

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 先日の日経新聞によれば、自民保守系の議員が新元号の発表は新天皇の即位後にすべきだ、と政府に要請したらしい。
 
 
 このニュースに対して、IT技術者が多いはてなユーザーは大ブーイング。はてなブックマークコメントは呆れと怒りの声に溢れていた。
 
 多くのはてなー(おそらく国民も)は、少しでも早く、遅くとも3か月前あるいは半年前には新元号を公表してほしい、と前々から訴えている。
 
 それに対して、今回の自民保守系の議員の言い分は、新しい元号は新しい天皇が公布するのが伝統に則ったやり方だから、そうすべきだ、という意見である。
 
 一見、この自民保守系議員とはてなーたちの意見は対立しているように見える。だが、そうではない。両者の言い分を受け入れ、両者を納得させる方法がある。
 
 それは、即位日と改元日をずらせばいいのである。
 
 現代の人々は即位日と改元日が同日であるのを当然のことのように思っている人が多いが、江戸時代までは即位日と改元日がずれているのは全然珍しいことではなかった。
 
 即位日は2019年5月1日と決まっている。これはいろいろな皇室内の行事の関係で動かせない。で、この日に新しい元号を新天皇が発表するのである。そして、その3か月後の8月1日頃に改元を行うのである。つまり7月まで「平成31年」を使い、8月から「◯◯元年」を使うのである。
 
 このようにすれば、「新元号は新天皇のお口から発せられるべきだ」という自民保守系議員も、「最低でも元号が切り替わる3か月前には公表してほしい」というはてなーたちも、両者満足できるであろう。
 
 もちろん、8月1日ではなく9月1日からでも10月1日からにしてもいい。
 
 ただ、今からこの日程を変えるのは難しいだろう。保守系議員のいう「新天皇のお口から公布せられるべき」というのは私も尤もだと思うが、それはもっと早く言うべきであった。「報道されたのが遅かっただけで、私たちは早くから言ってました」ということなのかもしれないが。
 
 議員、政府の中にも「即位日と改元日は同じ日でなければいけない」という思い込みがあったのでは?
 
 即位日は祭祀の要素が強いので宮内庁主導で決められてしまうところがあるが、改元日はどちらかと言えば行政サイドの話なのだから、もっと早い段階から訴えていれば、両者納得のいく形にできたかもしれないのに。
 
と思った。
 
 
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