漸近龍吟録

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ピケティ『21世紀の資本』批判  〜ピケティが見落としている「格差」〜

目次

日本について歯切れが悪いピケティ

 ピケティは確かに新しい一面があった。
 
 資本(資産)と所得の別を明らかにして、多くの人びとにそのことを意識させたというところで功績があった。日本では特にそうだった。
 
 ピケティは著書(『21世紀の資本』)の中でも講演の中でも何度も日本について言及しているが、「日本の場合」について語る時のピケティはどこか歯切れが悪い。
 
 WSJにも「日本は逆に格差は縮小しているのでは?」とか「日本は世界的に見ても格差が小さい国だというデータがあるがどう思うか?」と突っ込まれている。
 
 資産と所得に分けて論じたとしても、ストックとフローに分けて論じたとしても、それだけでは格差を語るには不十分なのだ。
 

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西洋社会と日本社会の違い

 ピケティの格差の話を即座に日本社会に当てはめて考えるのには無理がある。
 
 『21世紀の資本』は2013年にフランスで刊行されたものだが、その時はそれほどの大ヒット、大ブームでなく、2014年にアメリカで英語版が発売されるや否や、たちまち大ベストセラーとなった。このことからも、多くのアメリカ人にとって「ピンとくる!」内容のものだったことが分かる。
 
 アメリカ社会には、日本よりもずっと厳然、明瞭たる「格差」がある。「富裕層」や「貧困層」がまるで生まれつきの人種のように、はっきりと存在する。住んでいる地区も厳然と分かれている。「あの地区に住んでいる人は全員富裕層」、「あの地区はみんな貧困層の人たち」、そうした区別がはっきりと存在する。まるで、明治時代の日本で、「あの人は貴族。あの人は平民」と言っていたように。
 
 日本にもゆるやかにはあるが、しかし、「あの地域は富裕層エリア。あの地域は貧困層エリア」などと明瞭には決まっていない。
 
 アメリカでは富裕層の家の子どもと貧困層の家の子どもは、付き合わない、一緒に遊ばない、ということさえあるが、日本ではそもそも、同年代の友達を見て「あの子は富裕層の子、あの子は貧困層の子」などというレッテル貼り自体がないだろう。多くのアメリカ人にとって、あるいは西洋人にとって、ピケティの著書は、普段自分たちが感じている格差の問題を鋭く論じてくれた画期的な書だった。
 
 欧米社会には、大きな格差がある。それは「資産格差」である。だからピケティがその資産格差に注目し、「資産に課税しよう」と言うのは、もっともなことだと思う。
 
 だがアメリカで有り難がられる本が、日本でも同様の重要性を持つわけではない。
 

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ハーバード大学東京大学の「難関」の意味の違い

 ハーバード大学東京大学はどちらも、それぞれ米国と日本を代表する「入るのが難しい大学」である。しかし、「難しい」の意味が違う。
 
 東京大学に入るのが難しいのは“学力的に”難しいのである。ハーバード大学は学力的にも難しいが、それ以上に“金銭的に”難しい。ハーバード大学の入学金や授業料はべらぼうに高く、「イイとこの」お坊っちゃん、お嬢ちゃんでないと入学するのは難しい。どんなに学力があっても、家が上流階級の家柄でハーバード大学の出身者とコネクションがあり、且つ経済的に裕福でなければ、入学は叶わない。
 
 東京大学ではそんな話は聞かない。家が裕福とか貧乏だとか上流階級とか下層だとか、そんな話は聞かない。東京大学に入るのが難しいのは偏に「学力的な」問題であって、学力さえあれば入学は可能だ。東京大学の入学金や授業料は、一般的な私立大学に比べても安いくらいである。
 
 この、ハーバード大と東大の「難関」の意味の違いが象徴している。私はピケティがなぜ、欧米社会しか見られていないと言うのか。ピケティの批判は、欧米社会とりわけ米国的社会を念頭に置いて行われている批判なのだ。
 
 ピケティは、こういう「ハーバード大的不平等」が許せなくて『21世紀の資本』を書いた。「どんなに勉強して学力を身に付けても、親の経済力が低いという理由でハーバード大に入れないのはずるいでしょう?」という思いが根底にあった。
 
 ハーバード大のような“良い大学”に入れなければ“良い会社”に入れない。良い会社に入れないと収入は低く、子どもが生まれても、良い学校に通わせてあげられない。「もっとチャンスは万人に平等に与えられるべきしょう?」というのがピケティの思いだ。
 
 だが、ピケティ流の考え方でいくなら日本は「チャンスが皆に公平に与えられている平等な国」ということになる。
 

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世代間格差の問題

 では、日本は「不公平が少ない平等で理想的な国」なのだろうか。
 
 ピケティは全然触れていないが、日本では「格差」とは「経済格差」だけではないのである。ピケティは経済格差以外のさまざまな格差を見落としている。
 
 「見落とすも何も、ピケティは初めから経済格差のことについてしか語っていない」と反論する人もいるかもしれない。だが何故、経済格差を語るのか。それはお金が人生の幸福や不幸に影響するからであり、そうであるなら、「格差」を語るには、やはりお金だけに注目しているのでは不十分なのだ。
 
 日本において重要な意味を持つ「格差」の一つは「世代間格差」である。
 
 東大に入れるか入れないかは、親が裕福か貧乏かよりも、自分が18歳の時の子どもの数の方がよっぽど影響が大きい。子どもの数が多い時代は「受験戦争」などと呼ばれ、少子化の時代には「大学全入時代」などと言われるのである。
 
 就職も同じである。日本においては、就職できるかどうかは、親の経済力が物を言うのではなく、自分が22歳の時の日本の景気が良いか悪いかに圧倒的に大きく左右されるのである。バブル期だったらどんなに頭が悪くても資格を一つも持っていなくても良い会社に入れるし、氷河期だったらどんなに頭が良くても資格を十も二十も持っていたとしても就職できないのである。
 
 フランス人のピケティには信じられないかもしれないが、日本では、大学入学のチャンスは人生で一回しかないし、新卒一括採用主義が強固な日本では、就職のチャンスも人生でたった一回きりしかないのである。(※「中途採用もある」と反論する人は中途採用の応募条件に「経験者のみ」と書かれていることに注意。)
 
 ピケティはいろんな人から「あなたの理論は日本には当て嵌まらないようですが」と突っ込まれたときに、首を傾げて、確かに日本にはどうもうまく当て嵌まらないようだ、と言った。そして、「高齢少子化が進む日本では世代間格差が大きい」という指摘を受けたときも、「世襲資本主義に注意しなければならない」と言うのが精一杯だった。
 
 『21世紀の資本』の中には「世代」という言葉は数回出てくるが、それは「世代を超えて富裕層と貧困層の格差が各家庭で受け継がれる」という意味で使われているだけだ。日本語では「世襲型資本主義」という言葉で説明されていることが多い。
 

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資本(資産)で親孝行ができるか?「初給料で親に奢る」経験格差の問題

 ピケティの本を読むと、まるで資産にしろ所得にしろ金持ってることには違いないだろう、と言ってるように読めてしまう。
 
 朝日新聞の記事によれば、ピケティは東大の講義で「人口減少が進む日本や欧州では特に、相続する資産がものを言う「世襲社会」が復活していると指摘した」と。
 
 資産が資産を生むにしろ、労働による収入が多いにしろ、金持ちは金持ちだ。だが両者の意味は異なる。
 
 例えば次のような例を考えてみよう。
 
 稼ぎ(労働所得)はない。でも親の資産があるからそれほど金に困窮するわけではない。
 
 実際、日本では「氷河期」に就職できなかった多くの若者が非正規雇用やアルバイトで働くことを余儀なくされ、それ以前の世代に比べて格段に収入が下がった。しかし、この氷河期世代の若者たちが餓死したかというとそんなことはなく、彼らは20代になっても30代になっても40代になっても親の資産に“助けられて”、薄給にもかかわらず、ずっと食い繋いでいくことはできている。
 
 「え?そんないい歳して、親に払ってもらってるの?それはまたいい御身分じゃないか」と思うだろうか。
 
 まともな職に就けず、まともな給料を貰えなかったこの世代は、“普通の”親孝行すらできなかった。社会人になって初めて自分で稼いだ初給料で、親を高級レストランに連れて行って奢る。そんな、それ以前の世代が当たり前にできていた親孝行すら、この世代はできなかった。大人になってからもずっと親の経済力に依存せざるを得なかったからだ。
 
 この「初給料で親に奢る」というような孝行経験は「収入の金」ではできるが、「資産の金」ではできない。口座に金があったとしてもそれは親からの援助金なので、その金で親に奢ることはできない。
 
 これは、単に「金があればいい」という問題ではないことを示す好例である。ピケティが重要視する「相続財産」で親孝行ができるか?相続財産を受け取る時に親は生きているか?
 
 「働いて金を得る」というのは人生における貴重な経験である。どんな形であれ金があればいい、という問題ではないのだ。
 
 こうした「経験」の重要さ、などもピケティの話からは抜け落ちている。
 

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経済成長への不十分な考察

 成長があれば経験格差、世代間格差が生じる。人間は「成長」の中の一部分しか生きない。
 
 ピケティは「私は経済成長に反対しているわけではない」と言う。ピケティが経済成長について言っていることはそれだけだ。このもどかしさ。
 
 経済成長により社会環境が激変し、多くの「経験格差」が生まれる。そうした格差についてピケティは何も語らない。
 
 「この10年で最も重要な経済書だ」というクルーグマンの評が象徴的だ。「21世紀の」と銘打っているわりには、ピケティの本は、あまりにもtemporaryなのである。21世紀を代表する歴史的な書にはなり得ない。
 
 ピケティは「g>rだったのは20世紀だけ。戦争ですべてがゼロになったり、その後の異常な高度経済成長が特別だった。21世紀は再び、19世紀以前のようなr>gの時代に戻る」と言う。
 
 しかし、そんな“特殊な”20世紀にこそヒントがある。激動の世紀の中で “特殊な”、“一回きり” の刻印を押される世代がある。
 
 私はピケティの説に反対ではない。「資産に課税しよう」というピケティの意見には反対どころか賛成である。
 
 だが、ピケティの『21世紀の資本』では、あまりにもgが軽んじられすぎなのだ。私が軽んじられていると言うのは、gの「功」ではなく、gの「罪」である。「私は経済成長に反対しているわけではない」と言うピケティは、結局、gに対する眼差しがその程度しかないのだ。
 

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抜け落ちる経(たていと)

 特殊な一回きりがpermanentになる。永続的と思われていたストックが永続的ではなくtemporaryになる。
 
 日本の場合の問題点は、「固定化」である、という山田昌弘氏の指摘は鋭い。 欧米は確かに日本よりも経済格差(貧富の格差)が大きいが、流動性がある。追いついたり逆転したりするチャンスがある。日本にはない。
 
 この山田昌弘氏の指摘も、permanentの問題である。日本では、このpermanentの問題こそが非常に重要な問題なのに、圧倒的にそのpermanentに対する視点が抜け落ちている。
 
 p>tの問題を考えよう。
 
 そこにあるのは、教育的視座の欠如。次世代のことを考えられない。同世代の貧富の格差にばかり目が行って、次の世代のことは考えられない。
 
 今頃になって、会社の中の年齢構成が歪だ、とか、それによって技術の継承が困難になっている、などと言って騒いでいる。あるいは売り手市場で正社員の確保がたいへんだと言って騒いでいる。「不況だから」という理由で、特定の世代の雇用を極端に絞ってきた結果がこれだ。
 
 「格差」にはいろいろある。
 
 格差と言ったら「経済格差(お金の格差)」のことしか考えられないのは、経済学者の頭の貧しさでもあり、その読者たちの頭の貧しさでもある。
 
 日本語の「経済」という言葉には、わざわざ「経(たていと)」という言葉が入っているのに、日本の著名な経済学者の誰一人として縦糸を編み込まない、読み込まないのは、いったいどういうことなのか。
 
 所詮、現代の経済学者たちにとって経済学は「経世済民の学」ではなくて、「お金の学」でしかないのだろう。
 
 トマ・ピケティ、47歳の誕生日、おめでとう。
 

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東京=金持ち=高学歴ではない

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 つい最近、北海道の田舎の底辺校から東大に行ったら、そこに居た人たちがあまりに恵まれた人ばかりで驚いた、という内容の文章があって、それに対して賛否両論が巻き起こっているのを見た。
 
 私はこれを読んだとき、随分と雑な文章だと思った。
 
 「田舎→東京」という移動と「底辺→上流」という移動を同時に行い、同時に論じてしまっている。この二つは本来、分けて論じるべきことである。それをごっちゃにして「東京の上流階層の人たちは恵まれてる!」と言ったら、「東京」だから恵まれてるのか、「上流階層」だから恵まれてるのか、読んでる人も分からなくなる。
 
 これに賛意のコメントをしている人たちは、「田舎では情報が少なくそんな選択肢があることを想像することすらできないのだ」ということを強調する。しかし、私はこれは単に「田舎の人は都会を想像できない」という話だと思う。逆もまた然りで「都会の人は田舎を想像できない」というだけの話だ。
 
 私は東京生まれ、東京育ちである。東京でも都会の方で育ったので「大都会育ち」と言っていい。
 
 私がこういう雑な文章に反撥を感じるのは、「東京」と一括りで語っているところだ。「駒場には恵まれた人たちがいっぱいいました」って、駒場という町がある目黒区は、23区でも富裕な人たちがたくさん住んでいるエリアである。一方で、そうではない地域もたくさんある。
 
 上記の文章の筆者は、一口に北海道と言っても札幌のような都会と自分が育った釧路みたいな田舎ではだいぶ違うんです、というようなことを言っている。だったら「東京」にもいろいろな地域があることにもっと配慮すべきである。
 
 はてな界隈を見ていると、「東京=金持ち=高学歴」、「田舎=貧乏=低学歴」と決めつけたような言い方をしている人を屢々見かける。
 
 「東京は人口が900万人以上もいるから中には貧しい人もいるでしょう」というようなレアケースな話ではない。東京にも普通に貧しい人はたくさんいるし、低学歴の人もたくさんいる。高学歴だけど貧乏な人もたくさんいるし、低学歴だけど金持ちな人もたくさんいる。田舎にだって金持ちもいれば、高学歴の人もいるだろう。
 
 私の小中学校時代のクラスメートには、貧しい家の子がたくさんいた。田舎の人たちには想像もつかないだろうが、四畳半一間に家族四人で暮らしていたり、屋根裏のような極小の空間で暮らしている友だちもいた。
 
 そういう「貧しい都会っ子」を身近にたくさん見てきているだけに、「東京=金持ち=高学歴」のような論調には怒りすら感じる。
 
 たしかに都道府県別の経済指標などで、東京都は日本で一番裕福な都道府県かもしれない。しかしそれは、東京には大金持ちがたくさん住んでいて平均を大きく引き上げているからであって、それ以上に貧しい人もたくさん住んでいるのだ。
 
 誰かのコメントで「田舎と都会の格差を論じるなら、田舎の底辺校と都会の底辺校を比べなければ意味がない」というようなことを言っていて、もっともだと思った。それを駒場辺りに住んでいる東大生を見て「東京は恵まれてる!」ってそれはおかしいだろう。
 
 なぜ、「東京=金持ち=高学歴」みたいな誤ったイメージが全国に拡がっているのか。
 
 私はそれはテレビの影響もあるのではないかと思っている。
 
 たまに「都会育ち vs 田舎育ち」みたいな番組がある。それぞれのグループの芸能人が「都会育ちあるある」「田舎育ちあるある」を語り合い、そのギャップを面白がる番組だ。
 
 私は「こういう番組はステレオタイプや偏見を助長するから良くない」とは言わない。別にそういう差異をポジティブに楽しむのは悪いことではないと思っている。
 
 ただ、こういう時に都会代表で出てくる芸能人が「麻布育ち」だったりすることが多い。そして「小学生の時はパパのベンツで送ってもらっていました」というような話をする。それに対して田舎代表の芸能人が「ウチなんか軽トラックの荷台でしたよ!」と返したりする。
 
 しかしベンツか軽トラックか、という話は、これはもう「金持ちか貧乏か」という対比の話であって「東京か田舎か」の話ではない。
 
 むしろ大半の東京人は車なんか持っていないのである。語るなら「ウチは車がありませんでした。お父さんもお母さんも持っていなかったし、私は車の免許も持っていません」と言う話のほうがずっと“いかにも東京人っぽい”エピソードなのである。ベンツやポルシェで送り迎えをしてもらっていました、などという話は、まったく東京人っぽくない。
 
 しかし、それこそ田舎の人は「情報の入手経路が限られている」ので、そういうテレビを見て「東京=金持ち」というイメージが刷り込まれてしまうのかもしれない。
 
 「東大の合格者は東京の高校が多い」というような話も時々聞くが、地元なんだから多くて当たり前である。それより「東大が日本で唯一の立派な大学」というような認識、または現状の方をどうにかすべきである。
 
 もっともこういう話をするからと言って、私は東京の一極集中はよしとは思っていない。ここ数十年の東京の一極集中は異常であり是正すべきものである。しかし、それはまた別の話だ。
 
 「東京=金持ち=高学歴」という間違ったイメージがこれ以上拡がってほしくない。
 

医療等IDへの期待と不安

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 巷間でほとんど話題になっていないが、この2018年4月から「医療等ID」がひっそりと段階的にスタートした。
 
 医療等ID(仮称)は、マイナンバーとは別に付与される個人個人の番号のようなものだが、「見えない番号」であるため自分が知ることはない。医療や介護の分野で連携的に個人をサポートできるよう導入される。
 
 「なんで新しい番号を作るの? 保険証の番号じゃ駄目なの?」
 
と思う人がいるかもしれない。私も最初、そう思った。保険証の番号は保険者が変わると変わってしまう。だから一人の人間を追尾的にサポートできないのだ。
 

縦割り、盥回しをなくすための医療等ID

 私はこの医療等IDにとても期待している。今まで「それは私の専門外だから知りません」、「ウチの管轄外なので他所に行って聞いてください」と、縦割りで盥回しにしてきたようなことがなくなるのではないかと思うからだ。
 
 そもそも保険証を使う人、医療機関にかかる人というのはだいたい体調が悪いわけで、そんな人を盥回しにしてはいけない。
 
 今までは「知らない」、「ウチでは分かりようがない」と言って逃れ得ていたことも、医療等IDが普及すれば知らないことではなくなる。医療や介護の分野において包括的、連携的なサポートが期待できる。
 
 一方で不安もある。三つほど上げる。
 

マイナンバーとは別になった医療等ID

  一つ目の不安。
 
 なぜ、個人番号(マイナンバー)では駄目なのか。
 
 医療等IDがマイナンバーとは別に作られたのは、それが機微情報に当たるから、という理由がある。マイナンバーで統一すると、「お金」と「医療情報(病歴等)」が結びつく。綱引きの原理で「お金」の側から綱をするすると手繰り寄せて、病歴等を悪用できてしまう危険性を防いでいる。性悪説に立って、センシティブな情報は守りましょう、という考え方である。
 
 だが、一方で医療行為はお金とも不可分に結びついている。病院にかかるのも介護を受けるのもお金がかかる。一人の人間を本当にサポートしようと思ったら、結局はお金の問題も出てくる。「あなたはお金を持ってないからお断り」と病院で門前払いされてしまったら、何のための医療等IDか。
 

意識の問題

  二つ目の不安は、人々の意識の問題。連携する仕組みを作っても、それを活用する人々の意識が「私はそんなことまで知らない」「私は関係ない」という意識のままだったら、せっかくの医療等IDも、公園の使われない遊具のようにそこに佇んでいるだけだ。
 

世界的拡張性の問題

  三つ目の不安は、世界的拡張性の問題。
 
 先日、NHKで、日本にやってくる外国人観光客が日本の保険に入っていないので治療費を払えない、という問題を取り上げていた。
 
 このようなID制度は、将来的な世界(外国)への拡張を視野に入れて作るべきだ。今や誰でも海外旅行は行くし、海外で病気や怪我になることもある。外国の医療ネットワークとも連携できてこそ、真のIDだ。これは今すぐやれ、ということではなく、将来的な連携を視野に入れた制度設計をすべきだということだ。
 
 また、これはマイナンバーに対しても同じことが言える。「マイナンバーは日本の制度なんだから日本国内のことを考えて作られているのは当たり前」と言うのではなくて、将来的には外国の類似した個人番号制度との統一、すなわち「世界統一ID」を視野に入れた制度設計が必要である。
 

医療等IDへの不安と期待と

  マイナンバーカードに保険証の機能が付く、というニュースが流れた時に、「逆に保険証にマイナンバーを載せればいいのに」とコメントしてる人がいた。
 
 それと似たようなことは来年2019年の7月から起こる。マイナンバーカードを持たない人のために、保険証の番号が少し変わって、マイナンバーではないものの、個人を追尾できるようになる。
 
 いくつか不安はあるものの、医療等IDの導入によって、今までの縦割りから横への連携が拡がって、より良い社会に近づくのではないかと期待している。そして人々の意識が変わっていくことも。
 

このままでは日本のデジタル通貨は新たなガラパゴスの道を歩む

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 「ガラパゴス」が嫌いである。
 
 ガラパゴスが優れているのを認めないわけではない。
 
 「この島の中では便利にお使いいただけます」という“内輪”な感じがいやだ。
 
 フィーチャーフォン、いわゆるガラケーも持ったことがない。ガラケーが優れているのは知っている。最近になって「iPhoneでApplePayでお支払いができるようになりました」などと言っているが、ガラケーでは10年以上前にできていたことである。
 
 ビットコインブロックチェーンの誕生をきっかけに世界中の目がデジタル通貨に向かい出した。各国の中央銀行が法定デジタル通貨の発行を検討している。そんな中、日銀は「つくる予定はない」と言ってるそうな。 

日銀・河合氏:法定デジタル通貨は技術的に可能-検討段階にない - Bloomberg

 
 今、日本でプロジェクトが進んでいるデジタル通貨と言えば、三菱UFJ銀行の「MUFGコイン」と、みずほ・ゆうちょ銀行グループの「Jコイン」だろう。 
 官製ではなく民間主導に任せていると、私は日本はふたたび(三たび?)ガラパゴス化の道を歩むのではないかという気がする。かつてNTTドコモソニーがスグレモノを作ってガラパゴス化を促進したように。
 
 デジタル通貨の話は「日本社会のキャッシュレス化」という文脈で語られることが多い。だが私はキャッシュかキャッシュレスかはどうでもいい。ただ囲い込み化、ガラパゴス化はしてほしくない。
  「Suicaはすばらしい」「もう全部Suicaでいいよ」と皆言う。たしかにSuicaに搭載されているFeliCaは、外国のNFCに比べて処理スピードも速く優れている。そして他の支払い方法よりもかなり便利である。
  しかし、この「スグレモノ」こそが曲者なのである。勝手に世界の最先端に進みすぎて気がついたらガラパゴス、というのが日本の携帯電話でやってきたことである。民間に任せているとこういうことになりそうな気がする。もっとも最近の官僚の為体ぶりを見ていると国だったらちゃんとしたものが作れるのかは疑問だが。
 
 心配なのは、MUFGコインやJコインが“便利そう”なところだ。便利であれば普及する。普及すればするほど日本の“型”に嵌まっていき、見事なガラパゴスになってしまうだろう。
 また、乱立も心配で、MUFGコイン、Jコインの他に、ナントカコイン、ナントカコイン、と出て来れば、これは電子マネーの世界で起こった乱立をデジタル通貨の世界で再び繰り返すことになる。
 
 日銀もいろいろ考えてはいるだろうが、あまりに拱手傍観しているとガラパゴス化していきそう。デジタル通貨のメリット・デメリットを考える際に、「ガラパゴス」の視点も添えてほしい。
 

なぜ誰も自動車メーカーの責任を問わないのか 〜常識を作ったもん勝ち社会を憎む〜

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 毎日のように耳にする自動車事故のニュース。自動車の暴走によって歩行者が轢かれて亡くなった、と。

 こういうニュースを聞くとき、事故を起こした自動車メーカーの名前が告げられないことをいつも不思議に思う。

 ヒーター、乾燥機、玩具、エレベーター、旅客機、そうしたもので事故があって人が亡くなった場合、大抵、メーカーの名前は告げられる。中には「そりゃ、そんな変わった使い方をしたら事故も起こりますよ」というような事故の時でさえ、メーカーの名前は公表される。だが、自動車事故のときだけ告げられない。告げられるのは、被害者が自動車メーカーを訴えたときだけだ。

 認知症の老人が運転する自動車が歩道を暴走して次々と人を撥ねる。亡くなった人の家族はいったい誰に怒りをぶつければいいのだろう。昨日のことも覚えていないようなその老人?その認知症の夫(妻)を老々介護している高齢の配偶者?歩道と車道をきちんと分けていなかった市役所?きちんと診断できていなかった医者?認知症の老人から免許を取り上げるのが遅かった自動車学校?国土交通省?それともボーっと歩道を歩いていた歩行者が悪いのか。

 自動車メーカーの社長は謝罪しない。謝罪会見も開かない。これは「常識」だ。一度、このような「常識」を作ってしまえば、自動車事故があっても誰も、どこの企業製の車かを問題にしないし、その企業の社長が謝罪会見を開かなくても誰も不思議に思わない。便利なものだ。

 機械の場合、ユーザー(人間)がどこまで操作に関わっているか、で、人々は責任の在り処を判断しているように思う。

 

自動運転車の事故の責任はどこにあるか

 近い将来、自動運転車が登場する。(この「自動運転車」という言葉も不思議な言葉だ。「自動車」は自動ではないのか。)

 自動運転車が事故を起こした場合、今までよりもずっと、自動車メーカー社長の出番が多くなるだろう。今はきっと、メーカー責任を小さくする常識作りに躍起になっている頃に違いない。

 常識というものは一旦できてしまうと、それが業界標準になってしまうだけでなく、世間の人々もそれに従って行動するようになる。つまり常識の違いによって、訴えの多寡も格段に違ってくる。

 日本では、先日、自動運転車の事故の責任は基本的には車の所有者にある、という一旦の報告が出た。

自動運転中の事故、車の所有者に賠償責任 政府方針 :日本経済新聞

 が、ドイツでは、責任は自動車メーカーにあると考えている人が多い、というアンケート結果がある。

自動運転車の事故「責任の所在」は? ドイツ「メーカー」、日本は「運転者」 (1/2ページ) - SankeiBiz(サンケイビズ)

 (この、ドイツ人と日本人の意識の差も興味深い。)

 日本人は欧米社会で常識とされたものを追認する傾向が強いから、ドイツやアメリカで自動車メーカーの責任が厳しく追及されるようになれば、「こういう考え方が今のグローバルスタンダードらしい」と言って一斉にそっちへ靡くだろう。

 今までは、自動車事故の責任は運転手本人にある、という常識の下で安穏としていられた社長も、これからは忙しくなるだろう。

 

自動運転車の責任の重さはエレベーターの責任と似てくる

 誰にどこまで責任があるか、ということは、誰がどこまで主体的に操作に関わっているか、というところから測られることが多い。

 自動運転車に乗る人は、目的地を告げるところまではするが、その先の運転はクルマがする。この、人と機械の関係はエレベーターに似ている。エレベーターに乗る時、人は行き先の階は指示する。そして扉を閉めるボタンまでは押す。ここまでは乗る人が操作しているが、その先は機械が運ぶ。

 扉に人が挟まるという事故も、無理に駆け込んだ、あるいは乗ろうとしている人がいるのに閉まるボタンを押した、というあたりまでは「使う人の問題」という捉え方がされるだろう。だがその先の事故はすべてエレベーターの責任、つまりエレベーター会社の責任ということになる。

 エレベーター会社の社長が開く謝罪会見と同じくらい自動車メーカーの社長は謝罪会見を開くことになるだろう。そしてユーザー数が多い分だけその頻度も高くなるだろう。

 

ハードディスクは壊れるもの?

 10年くらい前、外付けハードディスクがよく壊れた。衝撃を与えたわけでも直射日光に曝したわけでもないのに突然壊れて中のデータにアクセスできなくなった。

 他にも同じような経験をしてる人がいるのではないかと思い、Q&A掲示板を見てみた。すると、「PCに詳しい」と思しき回答者たちが驚きの回答をしていた。

 質問者「◯◯社製のハードディスクが突然壊れて中のデータがすべて失われてしまいました。メーカーの責任を問えるでしょうか?」

 回答者たち 「ハードディスクは精密機械なんだから壊れるものなんです」 「そんなに大事なデータなら、なんでCD-RやDVD-Rに保存しておかなかったんですか?」 「私はハードディスクを買う時は必ず2個買って、どちらかが壊れても大丈夫なようにしてます」 「ハードディスクは精密機械だからすぐに壊れます。常識です。大切なデータを失ったのはバックアップを取っておかなかったあなたの自己責任です」

等々。

 こんな都合のいい言葉があるだろうか。

 私は飛行機会社の社長になろう。

 飛行機墜落事故の遺族「私の家族を返して!」

 飛行機会社社長の私「飛行機は精密機械なんです。ちょっとした環境の変化ですぐに壊れるものなんです。飛行機は落ちるものなんです。常識です。だいたいそんな大切な人なら、なぜ陸路や海路で運ばなかったんですか?本当に大切な人なら飛行機に乗せるべきではありません。一家の大黒柱を失って大きな経済的損失?なぜあなたはバックアップ用の大黒柱をもう一本作っておかなかったんですか?いいですか、飛行機は落ちるものなんです。乗るなら、それをちゃんと解った上で自己責任で乗ってください」。

 もちろん、私だけがこのように言ったのでは他の飛行機会社に客を奪われるだろうから、世界の他の飛行機会社とも共謀して100機に1機ぐらいの割合で落ちるように仕込んでおこう。そして、世界中に「飛行機は落ちるもの」という“常識”を醸成しておこう。そうすれば、賠償金も払わず謝罪会見も開かなくて済む。人々は「まあねぇ、飛行機はよく落ちるからねぇ、運が悪かったよね」と言って終わるだろう。

 最近のハードディスクは壊れにくくなった。10年前はあんなにも壊れるのが“常識”だったのが、今のハードディスクはそれほど壊れない。

 

常識を作ったもん勝ち社会にNo!を

 例えば、フォードやトヨタの社長職が世襲だったとしよう。

 トヨタの子どもは、これからたびたび世間に対して頭を下げることになる。自動運転車が普及し、世間の人々が「メーカーの責任」を強く意識するようになるからだ。トヨタの子どもは思うだろう。「お父さんもおじいちゃんもこんなにしょっちゅう頭を下げていたイメージはないのに、どうして私ばかりこんなに何回も謝罪しなければならないんだろう」と。

 「飛行機会社」と書いたが、飛行機会社には航空会社と飛行機を造ってる会社がある。JALANAが謝ってボーイングエアバスが謝らないとしたら、それは「使う人の問題」「使い方が悪い」という常識を醸成することに成功しているからだ。航空会社は「乗る人の問題」「乗り方が悪い」という常識を醸成することに今のところまだ成功していない。

 「使う人の問題」、と使用者の責任にできてきたフォードやトヨタの親父は、一生、笑いが止まらない人生を送る。そしてその“役得”を我が子にさえ譲らないでその一生を終える。

 私は「常識をつくったもん勝ち社会」を憎む。

 

ヒュンダイって何だい

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 「ヒュンダイ」とは何なのか。ずっと謎だった。
 
 若い頃、今から10年以上前、「ヒュンダイってなんだろう」とずっと不思議に思っていた。
 
 韓国の大手自動車メーカー「現代自動車」。
 
 日本語読みなら「ゲンダイ」。
 
 韓国語読みなら「ヒョンデ」。
 
 「ヒュンダイ」とはいったい何なのか。
 
 しかし、持ち前のググらない精神を発揮して、ずっと調べず謎のままにしていた。
 
 が、数年前に突然、氷解した。
 
 「現代」の読み「ヒョンデ」を韓国式ローマ字で表記すると「HYUNDAI」。これを日本式ローマ字読みすると「ヒュンダイ」。だから「ヒュンダイ」。
 
 だったら「ヒュンダイ」と言うのは間違いなのか、と言うと、現代自動車の日本法人が「もう日本でのブランド名は“ヒュンダイ”でいいよ」と言っているところまでは確認した。
 
 ところが、最近、NHKなどでは「ヒョンデ」と言っている。
 
 「ヒュンダイ」はどこ行った。
 
韓国の「現代」自動車、何て言ってる?
ゲンダイ
ヒョンデ
いろいろ/その他
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「近頃の人はレポートを手書きで書いてくる」とお年寄りが嘆いていた話

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 知り合いの80代の男性がレポートの受け付けで最近、困っていることがあると言う。
 
 その男性は毎年、受講者たちにレポートの提出をワケあって紙で提出するよう求めているのだが、ここ数年、急速に“手書き”のレポートが増えてきているのだと言う。
 
 手書きの文字は悪筆も多く、読むのに苦労すると言う。
 
 その人曰く、「昔は、レポートの提出と言ったらワープロ(※ワープロ専用機ではなく、Word・一太郎等、PCのワープロソフトのこと)で書いて、それを印刷したものを提出してきたものだ。それを最近の人は手書きで書いてくる」
 
 その人の言う「昔」とは、せいぜい10年前のことで、10年前の2008年と言ったら、ばりばりパソコンとネット全盛の時代である。その頃は皆、パソコンのWordで書いて、余白などを整えて印刷してレポートを提出していた、と。
 
 その人の言う「最近」とは、ここ2、3年のことで、急激に手書きのレポートが増えてきたのだ、と。
 
 私はその話を聞いて、今の若い人たちはオンラインでの提出に慣れていて、デジタルで書いたものを紙に印刷する方法を知らないんじゃないか、と思った。
 
 印刷する方法なんて、それこそ“ググれ”ば分かるだろうが、そんな面倒くさいことするぐらいなら初めから手書きで書いた方が早いや、と思うのかもしれない。あるいは家にプリンターが無い、という人も多いのか?
 
 あとは、最近の若い人、特に女性などはパソコンを持ってない、という人も増えていると聞く。スマホでレポートを書ける人もいるだろうが、スマホで論理立った長文を書くことに慣れてない人も多いだろう。
 
 私は「紙で提出というのも限界に来ているのかもしれませんね」と答えたのだが。
 
 80の老人が「昔はワープロで書いてきたもんだ。それを今頃の若い人はみんな手書きで」と歎息しているのが少し可笑しかった。
 
 因みにその男性は昔からパソコンもネットも使っているので「ネットで提出」という方法を知らないわけではない。
 
 来年以降、その人が紙での提出に拘って乱筆と挌闘するのか、それとも諦めてネットでの提出に切り替えるのか、興味がある。
 
学生時代、どうやってレポートを書いてた?
手書きで書いてた
PCで書いて紙に印刷してた
PCで書いてオンラインで提出してた
レポートを書かなかった
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