漸近龍吟録

反便利、反インターネット的

蒸気機関車と頭の固い現実主義者たち

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 頭の固い現実主義者たちとどう闘っていくか、ということが自分の中でもう何年も前から課題になっている。
 
 特に日本には頭の固い現実主義者が多い気がする。
 
 
 明治時代、ある村で蒸気機関車を通すか通さないかに対して賛成派と反対派に意見が分かれている。
 
 反対派「反対です。村の自然が壊れる。線路によって村が分断されてしまう」
 
 賛成派「賛成です。蒸気機関車が走るようになれば村が活性化します。この田舎の村にも文明を取り入れ賑わいを取り戻すべきです」
 
 反対派「こんな牧歌的な田舎の村に蒸気機関車は似合いません。あんな真っ黒い鉄の塊が村の真ん中を疾走するなんて危険です」
 
 賛成派「反対派の人たちはもっと現実を見てください。徳川の御世は終わったのです。今や文明開化の時代。我が国も蒸気機関車を取り入れなければ西欧列強に追いつけません」
 
 反対派「蒸気機関車は騒音も大きいし、吐き出す煙によって空気も汚れます。断固反対です」
 
 賛成派「文明開化のこの時代に文明を否定するなんて馬鹿げています。あなたたちが否定しようとも、世の中はもう文明化の方向に進んでいるのです。これからの時代、蒸気機関車はますます増えて行くことはあっても減ることはありえません。そんなに文明が嫌なら、あなたたちだけ馬や人力車にでも乗っていたらいいと思います」
 
 おそらく、反対派と賛成派の間で、このような応酬が交わされていたことであろう。
 
 私みたいな守旧派タイプ、伝統や自然を大切にするタイプの人間は、もし明治時代にこの村に居たら、反対派に加わっていただろう。
 
 反対派の人間から見たら賛成派の人たちは国家主義的に見える。「富国強兵」、市民の生活よりも国を富ますことを優先する考え方のように見える。
 
 だが賛成派の大半の人々は「国家」などという大きなことを考えているのではなく、もっと卑近な「現実」を考えているのだ。彼らは国家主義者でも軍国主義者でもなく、ましてや「戦争好き」なわけでもない。「現実主義者」なのだ。
 
 賛成派の人々にとって蒸気機関車は「現実」なのだ。もちろん、「誇らしい気持ち」というのはある。こんな田舎の村に文明の利器がやって来たことも何となく誇らしい気持ちだし、日本国に蒸気機関車が走れば西欧列強の国々に肩を並べたような気持ちで誇らしい。
 
 だが「誇らしい気持ち」だけで賛成しているわけではない。それ以上に「現実」なのだ。そういう世の中の流れ、時代の流れなのだ。今はもう徳川の御世とは違って文明開化の時代なのだから、その時代の流れに「沿う」ことがもっとも現実的な判断だと考えている。
 
 反対派の人たちが言う「村が線路で分断する」、「騒音がうるさい」、「空気が汚染される」というのも分からないではないが、もうそんなことを言ってもしょうがない、日本中が文明開化の方向に進んでいるのに、うちの村だけ時代の流れに逆行するわけにもいかない。これも時代の流れなんだから粛々と受け入れるしかない、というのが賛成派の人たちの考え方だ。
 
 
 だが。
 
 私はこの賛成派の人たちの言う「しょうがない」が気になる。本当に時代の流れだから「しょうがない」のか?
 
 私が反対を叫ぶと賛成派の人たちは「あなたは蒸気機関車を嫌ってますけど、あなたがどんなに蒸気機関車を嫌ってもこの世からなくなりませんよ。これからの時代、蒸気機関車はますます増えていくことはあっても減ることなんてありませんよ」と言う。
 
 しかし、それから100年余後、今の世の中に蒸気機関車が走っているか。観光用で一部走っているものを除けば、今の日本に蒸気機関車は走っていない。「これからどんどん増えていくことはあっても減ることはない」とあの時言っていた賛成派の人間たちの言葉は嘘だった。
 
 彼らはよく「しょうがない」という言葉を口にする。「しょうがない」とは「仕様がない」、「他にやりようがない」という意味の諦めの言葉だ。
 
 賛成派の中には積極的賛成派だけではなく消極的賛成派の人もたくさんいる。「私もたしかにあの音はうるさいと思います。でも文句を言ってもしょうがないでしょう。これも時代の流れなんですから」と言うタイプの人だ。
 
 そしてこういう消極的賛成派のために、多数決をとれば賛成派が上回り、蒸気機関車敷設計画は可決される。
 
 彼らはとっても狭い「現実」しか考えていない。移動手段なら他にも考えられる、とか、富国強兵なら他の方法で国を富ますこともできる、とか、そういう発想をしない。「これが現実。これが時代の流れ。人力車から蒸気機関車へという時代の流れは誰にも止められない。それに文句を言ってもしょうがない。私たちは現実に即して生きていくしかない」。
 
 だから日本ではイノベーションが起こらない。海外や国や大企業から与えられたものを「これが今の世の中の流れだから」と言って淡々と受け入れる。
 
 彼らが蒸気機関車に拘って、昭和後期になっても蒸気機関車に乗り続けていたなら私は敬意を表したい。だがそんな人はいない。彼らは「蒸気機関車主義者」なのではなく単なる「現実主義者」だから。電車が「現実」の時代になったら電車に乗り換える。
 
 すぐに「しょうがない」という物言いをする現実主義者たちが嫌いだ。本当に他にやりようがないか考えたのか。電車や自動車について考えてみたことはあるのか。彼らが「今は蒸気機関車の時代だから」と言うとき、まるで時代の定義が所与のものとしてあるかのようだ。今を「蒸気機関車の時代」にするかどうかは自分たちが決めることなのだ。
 
 こういう頭の固い現実主義者たちは今でも多い。明治時代の蒸気機関車を例にして書いたが、似たような問題は現代でも無数にある。そこにあるのは「経済優先か環境保護か」、「経済成長か持続的安定か」といったような対立ではなく、どちらにしろ「現実」に従って行くであろう多数の現実主義者たちとの闘いである、と私は思っている。
 

日本社会はキャッシュレス化すべきか

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 キャッシュレス化が叫ばれている。
 
 中国のキャッシュレス化がいかに進んでいるか。それにくらべて日本はいかに遅れているか、ということが頻りに語られている。
 
 「日本もキャッシュレス化を」と言う人は多いが、なぜキャッシュレス化をしなければいけないのか分かって言っている人が少ないように思う。
 
 多くの人は、「スウェーデンは現金禁止の店まであるらしい」、「中国ではほとんどの店でスマホQRコードを使って決済できるらしい」と言って、海外の国では進んでいて、それにくらべて日本社会が大きく遅れていることに対する不安からキャッシュレス化を言っている。
 
 「我が日本が世界に遅れをとるわけにはいかない。世界に追いつけ追い越せ」という精神でいたら、日本はいつまでたっても世界の後進国だしアジアでも後進国のままだろう。
 
 キャッシュレスが素晴らしいのではないし、キャッシュ社会が遅れているということでもない。
 
 問題は現金を使わないでもいい場面でキャッシュレスで支払う手段がない、ということである。逆に言えば、現金で済むものをわざわざ無理やりキャッシュレス化するのもおかしい。
 
 キャッシュレスはお金の電子化である。電子化のメリットはお金を電子機器やインターネットで扱いやすくするところにある。紙幣や硬貨に依存せずに支払いなどができるようになる。
 
 この「電子化」は所謂「電子マネー化」とは違う。お金の電子化は、「電子マネー」より広義の概念である。
 
 現金には現金の良さがあるのに、なんでもキャッシュレス化が良いものだと信じて、電子マネーの普及を叫ぶ人もいる。
 
 現金の良さは依存度の低さである。「ウチには現金を数えられる機械が無いので現金での支払いは勘弁してください」という店は少ない。一方、売上をコンピューターで管理するとしたら、結局、紙幣や硬貨を数えてそれを手入力しなければならない手間が発生する。
 
 私は、電子マネーは現金よりも使い勝手が劣ると思う。依存度が高すぎる。◯◯ペイは使えるけど、△△ペイは使えない、とか、Androidでは使えるけどiPhoneでは使えない、とか、そのような条件があまりにも多すぎる。
 
 キャッシュレス化に拘るのではなくお金の電子化と捉えて、当然に電子化すべきところは電子化を進め、同時に現金で充分な場面では現金を残していい。当面の併存を主張する理由は、今の「電子マネー(カードでもスマホでも)」では到底、現金の代替ができるとは思えないからだ。
 
 キャッシュレス社会は目的ではなく、キャッシュレスというのはその先の目的に至るための手段である。キャッシュレス化の本来の目的を忘れて、「なんか外国とくらべて日本は遅れてるみたいだから急いでキャッシュレス化しなければ」と言っていたのでは道を誤る。
 

サッカーと戦争

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サッカーと戦争は似ている

 
 過去のワールドカップなどの大会で戦争がどのように影響してきたか、戦争によって中止になった大会とか出られなくなった国とかそういう話ではなく。
 
 サッカーと戦争は何が違うのか、という考察。
 
 「何が違うのかって、そんなの簡単でしょう。サッカーと戦争は全然違うじゃないですか。戦争は殺し合いだけどサッカーはゲームじゃないですか」と言う人もいるだろう。
 
 サッカー(ワールドカップ)と戦争はとてもよく似ている。どちらも国同士の戦いであり、国民の関心度も非常に高い。大半の国民が熱狂し、そして自分の国の勝利を強く願う。勝ったらお祭り騒ぎになり、負けたら、戦った人たちや指揮官に対してたくさんのバッシングが寄せられる。そして国全体が意気銷沈する。
 
 「ゲーム」という言葉は日本語では、「娯楽」「遊び」といった意味合いの強い言葉として使われているが、英語では必ずしも遊びを意味しない。
 
 日本人の感覚だと「サッカーはゲームじゃないですか。戦争とは違うでしょう」ということになるが、西洋人の感覚では、戦争も「ゲーム」である。数学の一分野であるゲーム理論は戦争に勝つために使われた。
 
 「それでも、サッカーは所詮スポーツであり、命を賭けている戦争とは違うでしょう」
 
 だが、海外ではかつてオウンゴールを上げた選手が怒った国民に殺されるという事件もあった。サッカーも命懸けのところはある。
 
 考えれば考えるほど、サッカーと戦争はよく似ている。
 
 

サッカーと戦争の違い其の一:審判の存在

 
 私はサッカーと戦争の本質的な最大の違いは、審判がいるかいないか、だと思っている。
 
「今のはファウルだ」
「いや、ファウルではない」
 
「故意だ」
「故意ではない」
 
 両者の意見が食い違う。どちらもが“正しさ”を主張している。どっちの言い分が正論なのか。戦争では、この対立は平行線をたどる。「こっちが正しくてこっちが間違い」と言ってくれる審判の存在が無い。そういう存在があったとしても、間違いだと言われた方、あなたが悪いと言われた方は、その裁定には従わないだろう。それが戦争だ。
 
 サッカーでも判定に不満があって審判に食ってかかる選手はいるが、そういう選手は審判によって退場を命じられる。その退場の命令にまで従わない選手はいない。審判に絶大な力がある。
 
 サッカーの勝敗は、誰の目にも明らかな「結果」によって決まっていると思われがちだが、そうではない。
 
 「1対0」なら前者の勝ち。「2対4」なら後者の勝ち。どちらが勝者かを説明する必要はないと思われる。だが試合中に審判がファウルを取るか取らないかでPKの有無が変わってくる。PKが有るのと無いのとでは点数も変わってくる可能性が高い。審判の微妙な判断で「幻のゴール」となることもある。
 
 だから、サッカーの勝敗は誰が見ても明らかな「客観的な基準」によって決まっているのではなく、審判によって決まっている。
 
 戦争の勝敗は、審判のような第三者が決めるのではなく、「負けました」とどちらかが白旗を上げることで決まる。
 
 この、どちらかが「負けました」と言うことで勝敗が決まる、似たようなルールのゲームとして将棋がある。
 
 

サッカーと戦争の違い其の二:制限時間

 
 もう一つ、サッカーと戦争の大きな違いは、ゲーム終了までの時間が決まっているかいないか、だと思う。
 
 サッカーは、あらかじめ試合時間が決まっている。通常は前後半45分づつで90分。それに少しのアディショナルタイム。場合によっては、それに前後半15分づつ計30分の延長戦が加わり、さらに場合によってはPK戦の時間が追加になることもある。
 
 何れにしても時間が決まっている。どちらかの選手が遅延行為を行っても審判によって警告の反則を取られるし、その分はアディショナルタイムとして加算される。
 
 戦争には制限時間がない。決められた時間がない。だから終わりが見えない。勝ち戦にしろ負け戦にしろ、誰もこの戦いがいつ終わるのか分からない。
 
 もっともサッカーの試合終了の笛は審判が吹く。後半の45分が過ぎて、さらにアディショナルタイムの5分もとっくに過ぎていることが誰の目にも明らかなのに、審判がいつまでも笛を吹いてくれなかったら、試合は終わらない。そういう意味ではゲームの制限時間というのも審判のコントロール下にあるので、「審判の存在」と「制限時間」は二つに分けずに「審判の存在」一つに纏めてしまっていいかもしれない。
 
 

戦争の「終了時間」

 
 戦争における審判の存在については、国連がその役割を果たそうとしてきたが、なかなか上手くいかない。
 
 私はもう一つ、制限時間を考えてみてはどうかと昔から思っている。「戦争してはいけない」ではなく、戦争の開始年月日と終了年月日を双方で話し合って、あらかじめ決めておく。そしてその期間は思う存分、戦争をしていいということにしておく。
 
 戦争に使っていい武器、使ってはいけない武器についての議論はたびたび行われている。それに加えて「終了時間」、「制限時間」についての議論があってもいい。
 
 こんなことを言ったら「そんな荒唐無稽な」、「小学生の発想みたい」と言われるであろうことは分かってはいる。戦争は“怒り”や“欲”を根本にしているので、そんな単純な話ではないことは分かっている。
 
 私は、戦争の辛さは、それが“殺し合い”であることももちろんだが、“果てしなさ”、“いつ終わるか分からない”という辛さが大きいと思っている。
 
 だから、この、戦争における「終了時間の導入」という考えを半分くらいは真剣に考えているのである。
 
 
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将棋界には不思議なほど将棋に関係する名前の棋士が多い

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 「球児」という名前のプロ野球選手がいます。父親が野球が好きでその影響を受けて育つと、名前と職業が一致することがままあります。
 
 今の将棋界には将棋に関係する名前の人が不思議と多く、下の名前の場合は「親が将棋好きだったのかなあ」と思いますが、それにしても将棋のプロになれるのはほんの一握りの人であり、なかなか珍しいことだと思います。
 
 小学生の頃からの将棋ファンである私が、今日はそんな珍しい名前の棋士たち(女流棋士含む)を相撲の番付風に紹介したいと思います。(段位だとややこしくなるため。)
 
 より珍しい方が横綱です。
 
 
<前頭>
 
 名字、若しくは下の名前に将棋の駒の名前が入っている棋士です。竜、馬、金、香など。
 
菅井竜也(すがいたつや)王位
及川拓馬(おいかわたくま)六段
金井恒太(かないこうた)六段
里見香奈(さとみかな)女流名人
香川愛生(かがわまなお)女流三段
 
 
<小結>
 
松尾歩(まつおあゆむ)八段
 歩(ふ)です。「歩のない将棋は負け将棋」という格言があるくらい、将棋にとって大事な駒です。強い人ほど歩の使い方が上手いですね。
 
豊島将之(とよしままさゆき)八段
 将棋の「将」の字そのものが入っています。
 
大橋貴洸(おおはしたかひろ)四段
 珍しい名前ではありませんが、江戸時代の初代名人が「大橋」という姓でした。
 
 
<関脇>
 
三枚堂達也(さんまいどうたつや)六段
 将棋の駒は一枚、二枚、と数えます。そしてまた「三枚」という数が絶妙な数です。「玉の守りは金銀三枚」「攻め駒が三枚あれば詰む」「歩が三枚あれば詰むんだけど」などとよく言います。
 
中座真(ちゅうざまこと)七段
 席を離れることを「中座する」と言います。将棋の対局は椅子に座る囲碁と違って畳の上に正座、または胡座をかいて座ることが多いです。タイトル戦のような長丁場の対局では途中で何回も中座してトイレに行ったりします。
 
 
大関
 
矢倉規広(やぐらのりひろ)七段
 将棋の王様の囲い方で最も有名な囲い方が「矢倉囲い」です。矢倉七段が広めたのではなく、ずっと昔からある囲いの名前です。将棋を指す人で「矢倉」を知らない人はいません。将棋界に名字が「矢倉」の人が入ってくるなんて。
 
北村桂香(きたむらけいか)女流初段
 駒の名前が一文字入っている方は何人かいますが、この方は「桂」と「香」の二文字です。かなり将棋っぽいお名前です。
 
 
横綱
 
都成竜馬(となりりゅうま)五段
 と思ったら、もっとすごい人がいました。「と」は、歩が「成」ったものです。歩が敵陣に入って「成」ると「と」になります。「竜馬」はそれで一つの「馬」という駒でもありますし、「竜」と「馬」という二つの最強の駒の名前にも取れます。名字から下の名前まで、すべてが将棋に関係する字が揃っており、この方が優勝です。
 
 
(※文中、段位、タイトルはすべて2018年6月時点のもの)
 

忘れられた宮城県沖地震の教訓

 今朝、大阪で大きな地震があった。
 
 小学生のとき、学校の防災の授業で「地震のときはブロック塀から離れなさい」とやたらと言われた記憶がある。防災読本みたいなものにもイラスト入りで書いてあったような気がする。
 
 その後の人生でいくつかの大きな地震があったが、ブロック塀の被害が言われたことはあまりなく、なぜ小学校の時あんなに「ブロック塀」ピンポイントで注意を促されていたのか不思議だった。
 
 調べてみたら宮城県沖地震という地震があって、その地震ではブロック塀の下敷きになって犠牲になった人が多かった。当時の大人(教員)たちにはその記憶が鮮明にあったので、それで「ブロック塀」ということを強調して言っていたのだろう。
 
 大地震から得られる教訓は毎回違ったりする。
 
 阪神淡路大震災だったら「先ずは火の確認を」、東日本大震災だったら「海岸や川から離れろ」、「先ず原発は大丈夫か?」、熊本地震だったら「瓦屋根や土砂に気をつけよう」など。
 
 いつの時代も大人たちは直近の大地震の教訓を生徒たちに伝えているのではないか。
 
 だから、今の子どもたち(というか、もうだいぶ前の子どもたちから)は、「地震の時はブロック塀から離れろ」なんて教わっていないのではないか。
 
 この「注意」というものは厄介で、「ブロック塀や屋根や看板に注意しろ」と言われて上を注意しながら歩いていたら、道路の陥没に嵌まったり。「じゃあ、地震の時はいずれにせよ、外に出るのは危険だということですね」と思ったら、家屋の倒潰に遭ってしまったり。右を気をつけていたら左からやられ、上を気をつけていたら下から襲われる。
 
 注意というものは「これさえ気をつけていれば大丈夫」というものでもなく「先ずはこれに注意」というようなものでもない。全方位的に注意をしなければならない。
 
 直近の地震と同じパターンで来てくれたら前回の地震の教訓は役に立つが、地震はそういうパターンでは来てくれない。
 
 過去にまったく前例のない地域やパターンの大地震というのも起こる。かと言って、過去の地震がまったく参考にならないか、というとそうも言えない。
 
 小学校時代に「地震の時はブロック塀から離れろ」とせっかく教わっていた世代である私のような大人が、今の子どもたちにこの教訓をきちんと引き継いでいなかったのは過ちである。
 
 そして、宮城県沖地震の時にさんざん「ブロック塀」と言われたにもかかわらず、あれから何十年か経って、ブロック塀の強度や安全性に関する注意が疎かになっていたのも、また大きな過ちである。
 
 

ホームレス問題と専門バ家

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 専門のことしか考えられず全体を考えることができない人のことを「専門家」の間に「バ」を入れて「専門バ家」と皮肉を込めて言っている。
 
 昔からホームレスの問題に関心がある。ホームレスの問題は一つ一つの問題を専門的に取り上げても解決しない典型的な問題だと思うから。
 
 ホームレスの人が、お腹が痛いと言う。それに対して、「体調が悪いなら病院に行け」と言うような人を今までたくさん見てきた。
 
 「違うの!別に冷たく突き放してるんじゃないの。ほら、私って身体のことに関しては素人でしょ?お腹痛いっていうのが、これがもし大きな病気とかだったら大変でしょう?だから、ちゃんと専門家に診てもらったほうがいいと思って」
 
 このような言い訳をたくさん聞いてきた。
 
 「ちゃんと専門の人に診てもらったほうがいい」、「あなたのためを思って」、「親切で言ってるの」。
 
ホームレスの人「お金がなくて病院にかかれません」
 
「お金が無いの?じゃあ、働け」
 
ホームレスの人「職が無くて」
 
「職を探してるの?じゃあ、ハローワークに行け」
 
ホームレスの人「ハローワークに行ったら、企業は住所がある人しか雇わないって言われました」
 
「住む家を探してるの?じゃあ、不動産屋に行け」
 
ホームレスの人「不動産屋に行ったら身元保証人が必要だと言われました」
 
身元保証が必要なの?じゃあ、家族か親戚に頼め」
 
ホームレスの人「家族・親戚とはもう縁が切れていまして」
 
「じゃあ、友人か知人に頼め」
 
ホームレスの人「友人も知人もいません」
 
「友達がいなくて悩んでるの?だったら何かサークル活動にでも入ったら?」
 
ホームレスの人「以前、サークルに入ったのですが人間関係に悩んで…」
 
「精神的な悩み?だったらカウンセラーのところに行け」
 
ホームレスの人「一時間5000円のカウンセリング料が払えなくて」「あと、お腹が痛くてそこまで行くのが大変で」
 
「お腹が痛いなら医者に行け」
 
 以下繰り返し。
 
 こんな命令形の乱暴な言い方ではなくて、もう少し優しい言い方をするとしても、言ってることは同じだ。「精神的な悩みの話だったら、専門の心理カウンセラーに聞いてもらったら?」とか、一つ一つのプロフェッショナルに頼めと言う。
 
 「身体の不調のことなら医者に行け」と言うのは、そこだけに焦点を当てて言った場合には正しい。そして、病院に行って医者から言われたアドバイスも部分的な「系」としては正しいだろう。「専門家がああ言ってるんだから言われた通りにしたほうがいいよ」。
 
 だが、部分的な系のみに注目していても、ホームレスの人の問題は解決しない。
 
 病院に行ったら医者から「そのお腹の痛みは精神的なストレスから来ていますね」と言われる。なるほど。それで?
 
 精神的なストレス。
 
 家族や友人がいないから悩みを吐き出せる人がいなくて、どんどんストレスが溜まっていくわけだ。
 
 友人・知人がいないから「ツテ」で職を紹介してもらえないわけだ。
 
 職が見つからないことがストレスなわけだ。
 
 職が無いから金が無いのだ。
 
 金が無い貧しい底辺暮らしだから誰も寄って来ないで一人になるのだ。
 
 一人だから精神的孤独感がいや増すのだ。
 
 一人だから家を借りられないのだ。
 
 家を借りられず外で寝ているから体調を崩すのだ。
 
 体調を崩しているから職を紹介してもらっても体力仕事に就けないのだ。
 
 ずっと職に就けず無職でいることがストレスなわけだ。
 
 家が無いことも、金が無いことも、社会的地位や人間としての尊厳が無いことも、人が離れて行くことも、今こうして現に体調を崩していることも、すべてストレスと言えばストレスなわけだ。
 
 ホームレスの人が抱えている問題は、すべてが繋がっている。体調の問題、家の問題、仕事の問題、心の問題、人間関係の問題、すべてが密接に関係している。
 
 それなのに、その中から「お腹が痛い」という一事のみをピックアップして「それなら病院に行け」と言うことに何の意味があろう。それで言われた通り病院に行って「精神的ストレスが原因ですね」などと言われて、こんな馬鹿馬鹿しいことがあるか。自分の体調不良はストレスが原因だ、などということはホームレス本人もとっくの昔から分かっているのではないか。
 
 専門バ家は何も解決しない。解決できない。専門家だけではなく、そのように一事のみをピックアップして言う人も。
 
「そんな汚い身なりをしていたら就職面接も通らないよ」
 
 「就職面接」という一点に絞って語るなら、それは正論である。しかし、ホームレスの人の身なりが汚いのはお金が無いからであり、誰も人と会わないからである。あなたがたが今日ある程度きれいな身なりでいられるのは「自分の努力」のおかげではなく、「お金がある」、「今日誰か人と会う」という前提に支えられているのである。
 
 「でも、まずは、そのお腹が痛いのをどうにかしなきゃでしょう?」と人は言う。
 
 この「まずは」という発想、考え方をしているかぎり、ホームレスの問題は永遠に解決しない。
 
 「まずは」と言う人はそこしか見ない。前後を見ない。
 
 ホームレスの問題は全体を見なければいけない。「職を探しているならやっぱりハローワークがいいと思うよ」と言うのは、その“系”、つまり「職探しという系」についてのみ言うなら、まったくもって正論なのだ。しかしそんな正論はホームレスの問題を解決するのには何の役にも立たない。
 
 部分的な系のみに着目して“正論”を言う専門バ家はこの世の中に意外と多い。
 
 そして専門分化を深める今の世の中は、専門バ家をどんどん増やして行っているように見える。
 
 専門バ家はホームレスの問題を解決できない。ホームレスの問題にかぎらず、世の中の多くの問題は小さな問題がいくつも関聯しあっている。一部分を見るのではなく、もっと全体を見ていかなければいけない。
 
一度にただひとつの困難を解決することはできない。多くの問題を同時に解決しなければならない。―W.ハイゼンベルク『部分と全体』
 

山手線30番目の駅名考〜品川新駅(仮称)の名前を考える〜

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 山手線にできる30番目の駅の名前を考える。2020年開業予定の田町駅と品川駅の間にできる、今は仮称で「品川新駅」と呼ばれている新駅の名称である。
 
 以下、ネットで見かけた駅名候補を、「駄目群」、「第二候補群」、「第一候補群」に分けて、一つ一つ検討していってみよう。
 
 私は基本的には歴史を大切にする立場を取る。
 
 先ずは駄目群から。
 

【駄目群】

「高輪」
 
 「高輪」にしようという声は多いが、高輪は駄目だ。高輪の町民は今までも強引にいろんな電車の駅に「高輪」の名前を付けてきた。都営浅草線の「高輪台」、南北線の「白金高輪」。今度JR高輪駅ができたら三つ目であり、しかもこの三つの駅はすべてバラバラのところにある。特に今度の山手線の新駅は高輪の町から離れたところにある。
 
 「高輪」を推す人たちの理由は「高級感があるから」ということらしい。しかしそれは完全に誤っている。山手線の駅名の影響力を解っていない。駅名、特に山手線の駅名の力は強大である。
 
 アンケートで「高輪」が良い、と答えている人たちに理由を聞くと、「高級感があるから」と言う。しかしそれは、高級な住宅がたくさんある街の名前に「高輪」と付いているから今は高級なイメージを抱けているのである。新駅に「高輪」という名前が付けば、多くの人々が「高輪」と聞いたら駅周辺の方をイメージするようになる。必ず元の「街」よりも「駅」の方が勝つ。駅の東側がどんな風に発展していくかは未知の部分もあるが、「ああ、あのオフィス街の」とか「ああ、あの工場地帯の高輪ですか」などとなっていく可能性もあるのである。将来、高輪の人たちは「違うのに…。工場地帯じゃなくて高級住宅街の高輪なのに…」と言って臍を噬むことになるかもしれないのである。
 
 高輪の街の人たちで新駅名を「高輪」にしようという運動をしている人たちもいるらしいが、私には、せっかくの高級なイメージを自ら捨てに行ってるようにしか思えない。
 
 
泉岳寺
 
 歴史を彷彿とさせる名前である。近くに都営浅草線の「泉岳寺」駅があるから同じ名前にした方がいい、利用者が混乱しないためにも、という意見は多い。
 
 しかし、泉岳寺からは以前駅名使用に関して訴訟があったので、この名前はもう使わない方がいい。
 
 今の線路上にできる駅なら「泉岳寺駅」のすぐ隣だから同じ名前にした方がいいという意見にもなろうが、新駅は100メートルほど東へずらした線路にできるのだから(つまり泉岳寺からは更に離れるわけだから)、駅名も別にした方がいい。
 
 
「三田」
 
 「三田」は、港区の地名の中でもとりわけ古い歴史のある由緒正しい名前である。が、やはり、新駅と三田の町が離れすぎているのと、「三田」と聞いて人々がイメージする慶應義塾大学も新駅から遠い。
 
  
「新品川」
 
 新しい駅名や市名等に「新◯◯」、「北◯◯」、「西◯◯」と安直に名付けるのは止めるべきである。隣の駅や隣の市のブランドに安直に乗っかるべきではない。「新しい感じがして解りやすい」と言う人がいるが、どんな駅だって何れは古くなるのである。今の人の感覚だけで考えるのはおかしい。
 
 それに「品川」は元々、目黒川の河口付近の「品川湊」の辺りを指す地名であり、現在の品川駅自体が、本来の品川よりかなり北に位置している。それよりさらに北にできる新駅は、本来の「品川」から遠く離れすぎる。
 
 

【第二候補群】

「芝浦」
 
 「芝浦」は「高輪」と並んで候補としてよく聞く名前である。新駅を東口に出ると、北には芝浦の町が広がっている。そんなに的外れな名前ではない。
 
 しかし、今は「芝浦」と言えば田町駅の東口の街、というイメージが定着している。田町駅でも東口のことを「芝浦口」と言っている。田町駅の方がよっぽど「芝浦」なのである。「芝浦で待ち合わせ」と言った場合、今までどおり田町駅の芝浦口なのか、それとも新駅なのか、という紛らわしい事態を引き起こす。
 
  
「芝浜」
 
 そこで出て来るのが「芝浜」。「芝浜」という有名な落語があり、一部の落語ファンの間では、これを機に失われた「芝浜」の名を甦らせたいと盛り上がっているようだ。
 
 だが、「芝浜」の場所は田町駅を高輪口に出て右に曲がった方にある。左に曲がるとか芝浦口に出るならまだしも、今度の新駅とはまったく逆の方向にあり、かけ離れすぎている。失われた歴史を甦らせる、という視点では「芝浜」案は面白いが、やはり場所が離れすぎ。
 
 

【第一候補群】

「港南」
 
 駅名を考えるときに、その駅の「住所」の町名を真っ先に考えるのは当然の考え方である。今度新しく駅ができるところの住所は「港南」である。なので、「港南(駅)」はある意味、最も妥当で当然の駅名である。
 
 ところで、新しい駅ができるときというのは、失われた古い地名を復活させるチャンスでもある。できるだけその土地に古くからある歴史ある名前を付けるべきである。
 
 しかし新駅ができる辺りは、そもそもが埋め立て地であり、何百年もの歴史があるわけでもなく、古くからの地名というものもない。「港南」という名前も数十年の歴史しかないと思われ、その名前の由来も「港区の南だから」という比較的安易な名付けである。
 
 それでも「港南」が第一候補なのは、「港南」は山手線の外側(東側)の街だからである。中心から外側へ向かって発展していく。特にあの辺りは埋立地であり、将来は外側に向かって発展する可能性が高い。その意味でも内側の町名(高輪など)ではなく、「港南」が良いのである。
 
 また「たかだか数十年の歴史しかない」と言っても、数十年でも歴史は歴史である。この街には「港南中学校」があり、この中学校の卒業生は「自分は港南育ちだ」「ここは港南だ」という意識があるだろう。
 
 気になる点をあげるとすれば、横浜市港南区港南台という町があり、鉄道会社は違うが「港南台駅」も存在する。比較的近い圏内に似た名前があると、やや紛らわしいかもしれない。(※2018/06/18追記:コメントで「港南台駅」はJR京浜東北線の駅にあるとの御指摘をいただきました。)
 
 
「高浜」
 
 「高浜」は「港南」という町名ができる前に、その辺り一帯の町名だった名前である。今は町名としては残っていないが、「港南」の街の真ん中を運河が流れていて「高浜運河」と言う。また「高浜橋」という橋もある。場所的にもぴったりである。
 
 「高浜」という地名の由来は「高輪の浜辺」というところから来ているらしい。このような埋立地としてはなかなか歴史のある地名であり、これは「港南」と並んで第一候補群になりうる。
 
 私はずっと、この「高浜」が一番良いと思っていた。「港南」より歴史がある。意味もある。ところが、調べてみたら茨城県石岡市に「高浜駅」があることが判った。JR東日本の駅であり、同じ鉄道会社の管轄内に同名の駅を作ることは難しいと思われる。なので、付けるとすれば「高浜橋」のように変化を加えないといけない。
 
 

【論外】 

 以下、ネットで見かけたが、論外のもの。
 
「高輪芝浦」、「品川泉岳寺」(等の複合名)
「品田」(品川と田町から一文字づつ)
「南田町」
「しながわ新都心
「東京サウスゲート」
「オリンピック2020ターミナル」
 
 

【まとめ】

 
 というわけで、私が今のところ推すのは「港南」。若しくは「橋」が付いてしまうのがやや残念だが「高浜橋」である。
 
 この二つを比べると、「高浜橋」のほうが日本語っぽい響きである。「渋谷」、「池袋」、あるいは「鶯谷」のような訓読み駅名となる。「港南」は「新宿」や「東京」と同じ音読み駅名でやや硬い響きになる。
 
 私が知らない名前で歴史や由緒があって「これしかない!」というぐらいぴったりな名前が他に出てくれば考えが変わるかもしれないが、今のところはこの二つか若しくはぎりぎりで「芝浦」といったところか。
 

 
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山手線新駅の名称は何が良い?
高輪
芝浦
港南
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その他
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