漸近龍吟録

反便利、反インターネット的

生まれて初めて左右の概念を獲得したときのこと

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 突然ですが、皆さんは、生まれて初めて左右の概念を獲得したときのことを覚えていますか?
 私は覚えています。ちょっとした記憶に残る出来事があったので。
 予め、今日の話は、やや自画自賛な話になることをお断りしておきます。
 左右の概念、つまりどっちが右でどっちが左か、というのは他の「上下」や「前後」と比べても、難しい概念です。小さい子どもには「右」が何を指し示す言葉なのか分かりません。人間以外の動物でも右や左が分かる動物は少ないでしょう。
 分かりやすさの順で言えば、
上下>前後>左右
です。
 上下は分かりやすい。地球上には重力が働いているから。365日、逆立ちで生活をしている、という人でもないかぎり、どちらが「上」でどちらが「下」かを迷う人はいないでしょう。小さい子どもも上と下はすぐに理解します。
 次に分かりやすいのが、「前後」。これは目が顔の前方にだけ付いていてくれるので、分かりやすいですね。目で見えている方が「前」。見えていない方が「後ろ」。あるいは歩き出す方向が「前」。歩き出さない方が「後ろ」です。
 しかし、前後は日常生活の中で逆転することがあります。よくある例は、電車の中で「前方の車両に売店がございます」と車内放送があったときに、これは後ろ向きの座席に座っている人にとっては、「自分から見た前方」ではなく、「電車の進行方向を基準にした前方」だと捉え直す必要があります。
 で、一番難しいのが「左右」です。
 左右は日常生活の中でも頻繁に逆転します。バスガイドさんは「皆様、右手をご覧ください」と言いながら左手を出します。左右の分かりにくさは、例えば体の特徴の無さにもあります。「上」には頭がある。「下」には足がある。「前」には目、鼻、口、臍がある。「後ろ」には無い。でも、「右」に手があれば「左」にも手がある。「右」に足があれば「左」にもある。右目も左目もある。どっちが「右」でどっちが「左」だかを分ける、これといった特徴が無い。
 だから子どもも左右の概念を理解するのは上下や前後に比べて遅くなる。大人になっても、右と左が分からない、あるいは混乱する「左右盲」と呼ばれる人が稀にいるそうです。
 
 私は生まれて初めて「右」と「左」を理解した日のことをはっきり覚えています。と言っても、それが何歳のときのことだったか覚えていないのですが、おそらく幼稚園くらい?だったでしょうか。
 当時私の家は丁字路の突き当たりにありました。
 図に書くとこんな感じ。
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 なので、どこか出かけるときは、必ず図のAの道を通って交差点Bに行き当たり、そこで右へ曲がれば駅の方、左へ曲がれば商店街の方でした。
 あるとき、いつものように母親の買い物に付いて行った私。子どもの頃は元気が有り余っているので、早く先に行きたいもの。Aの道を並んで歩いているとき、走り出そうとした私は、その前に今日はどっちに行くのか聞いておかなければ、と思いました。
「ママ、今日はどっちに行くの?」
「今日は右よ」
「ミギって、どっち?」
 おそらく母はこのとき、「ああ、この子はまだ右や左が分からないんだ」と思ったことでしょう。どうやって説明しようかと少し考えて、
「お箸を持つ方が右で、お茶碗を持つ方が左」
と言いました。
「あなた、ふだん御飯を食べるとき、どっちの手でお箸を持ってる?」
「こっち」
「そう、そっちが右。お茶碗を持つのは?」
「こっち」
「そう、そっちが左」
「へー。絶対?」
「そうよ」
「絶対にそう決まってるの?」
「そうよ。右と左はそう決まってるのよ」
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 歩きながら、そう説明を受けた私は、一目散に丁字路の交差点に向かって走り出しました。そして一車線ぐらいの細道を渡って、図のBの地点で、くるっと振り返って壁を背にして、自分の方に向かって来る母に向かって叫びました。
「ママー!お箸を持つ手の方が右なんだよね?今、ボクのいる位置から見たら、お箸を持つ手はこっちだから、今日は商店街の方に行くんだよね?」
 すると母は口を尖らせて、駅の方を指さしながら、
「ママから見たらこっちが右なんですぅー」
と。
「え、でも、お箸を持つ手の方が絶対に右だって、、、さっきママ言ったじゃん、、、」
と食い下がる私に、
「屁理屈言ってると置いてくわよ」
と言って、さっさと駅の方へ歩いて行ってしまう母。
「わーん、待ってよー」と追いかける私。
 
 自分としては今思い返して、生まれて初めて左右を教わった時に、即座にそれが相対的な概念であることを理解した(理解していたかどうかはともかく、少なくとも指摘できた)のは、すごいことではないかと思うのですが。
 
 あのとき母が「よくそのことに気づいたわね! そうなの、左右というのは立つ人の位置(方向)によって変わってくる相対的な概念なのよ!」と言って褒めてくれていたら私の人生は変わっていたかもしれない。
 変わっていなかったかもしれない。

女性宮家の創設に反対する理由

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 天皇陛下の譲位のお気持ち表明、秋篠宮眞子内親王殿下の御婚約発表など、皇室関聯のニュースが相次ぎ、その中で「女性宮家の創設」という議論が出てきている。

 私は、今のところ、女性宮家の創設には反対である。将来的には考えが変わることもあるかもしれないが、今のところは反対。国民の半数以上が女性宮家に賛成という調査結果(女性宮家「賛成」73%に下落 本社世論調査:日本経済新聞(2017/05/28))もある中、女性宮家の創設に反対する理由は何なのか、不思議に思っている人も多いと思うので、その理由を今日は書こうと思う。

 

女性宮家の創設が議論に上る二つの理由

 そもそも女性宮家の創設がなぜいま議論に上ってくるのかというと、目下のところ、二つの大きな問題があるからである。

 第一の問題は、皇族の人数の減少により、皇室の方々が今まで担ってこられた「公務」の担い手が不足してきている、ということ。このままだと少ない皇族が一人あたりたくさんの「仕事」を負担しなければならなくなってくる。

 第二の問題は、皇位の継承者不足。今は皇位継承資格を持っておられる方が少なく、皇位の継承という観点から見れば「不安定な状態」であると言える。

 

女性宮家の創設は「女系」の道を開く

 女性宮家反対論者たちが反対しているのは、「女系天皇」の道が開かれるからである。「女性天皇」ではなく「女系天皇」に反対している。仮に眞子内親王が男のお子様を御出産されたとして、その男の子に皇位継承資格が与えられたとしたら、女系天皇の道が開かれることになる。女の子でも同様である。

 皇統はずっと男系であり、そのことに意義がある。「女系でもいい」は、やがて「傍系でもいい」「養子でもいい」「公募でもいい」「誰でもいい」「どうでもいい」となるだろう。

 裁判員のように民間から選ばれるようになったり。 年末の大抽選会。「お手元のマイナンバーをご確認ください。来年の天皇は◯番の方が選ばれました!おめでとうございます!」 「『えっ!まさか私が天皇に!?』ある日突然天皇になった私がてんてこ舞いの日々を綴ります」などというブログができたり。 そんなのが天皇だと思う人は少ないだろう。

 「では、子供には皇位継承資格を与えなければいいのでは?」

 その考え方もある。しかしそれでは、第一の問題である「公務の担い手」の問題は解決するが、第二の問題である「皇位継承者不足」の問題は解決しない。

 

配偶者の男性が皇族になるかならないか問題

 女性宮家創設となると、内親王の結婚相手が仮に一般男性だったとして、その男性を皇族にするのかしないのか、という問題も出てくる。

 皇族にしない、となると、宮家という一つの家の中に、皇族の人と皇族でない人が混在することになる。

 しかしもっと厄介なのは皇族にする、と決めた場合で、これは、権力欲、名誉欲の強い男性たちが内親王に次々と近づくという事態を惹き起こす。今は普通に大学に通うことができている内親王も、いろんな男性たちから言い寄られることになる。留学時にはたくさんの男性たちが次々と言い寄って来て勉学どころではなくなる。せっかく「開かれた皇室」になっているのに、内親王は再び高い壁に囲まれた奥の奥の「大奥」に閉じ込められることになる。

 

男性皇族制度は側室制度と刪補の関係にある

 「女性宮家」あるいは「女系」を支持する人たちの中で、もう少し皇室の歴史に詳しい人たちは、「側室制度がなくなった」ことを大きな理由として挙げる。

 たしかに大正天皇の代から側室制度はなくなった。私は天皇には側室がいてもいいのではないかと思うのだが、現代の国民感情的に許されそうにもない。

 江戸時代までは側室制度があったが現代には無いのだから、その時点で皇位継承の安定性は著しく損なわれており、女系を認めるのが時代の必然である、というわけだ。

 だが私は、近代以降においては、いわゆる「男性皇族」の制度が、側室制度の損失を補塡しているように思う。

 側室制度も男性(非)皇族制度も、どちらも成文化された「制度」ではないが、事実上「制度」のようなものなので、ここでは「制度」と呼ぶことにしよう。

 江戸時代まではあった側室制度が近代以降には無くなった。しかしその代わりに江戸時代には無かった男性皇族制度が近代以降に“できた”。これは刪補の関係にあるのではないか?

 

「女性」は「+1」、「女系」は「×2」

 天皇制の問題で、「女性」と「女系」を混同している人は多い。

 女性天皇女系天皇は全然違う。

 算数的に言うならば、「女性」は「+1」であり、「女系」は「×2」である。

 次の代ではどうなっているか見てみよう。

 

 1+1=2

 1×2=2

 

 「なんだ。どっちにしろ、変わらないじゃないか」と人々は言う。

 では、2代後ではどうか。

 

 1+1+1=3

 1×2×2=4

 

 「3人と4人か。やっぱり大差ないじゃん。どっちでもいいじゃん」。

 では、10代後ならどうだろう。

 

 1+1+1+1+1+1+1+1+1+1+1=11

 1×2×2×2×2×2×2×2×2×2×2=1024

 

 10代も経ると、「+1」と「×2」では大きな差が出て来る。「女性」と「女系」の差を重視しない人たちは、「今」か「近い将来」のことしか考えていない人たちである。

 

皇族増え過ぎ問題 

 私は将来、「皇族増え過ぎ問題」が出て来ることを惧れている。

 「そうなったらそうなったで、またその時代に対処すればよいのでは」と言うのは、いかにも無責任な考え方だと思う。

 抑々、歴史的には人々は皇室のような高貴な血筋とは繫がりたがるものだ。昭和になってからも「熊沢天皇騒動」があったし、平成に入ってからも「偽有栖川宮事件」などの騒ぎがあった。

 将来の政府は、度重なる法廷闘争やDNA鑑定などに疲れ果てる。将来、両親が皇族である、ある人のところに政府からメールが届く。

 「昨今、報道等でご存知の通り、『皇族増え過ぎ問題』が深刻な問題となっております。つきましては、貴方様に自主的に皇族の資格を返上していただきたく存じます。何卒、ご理解とご協力の程、宜しくお願いいたします」

 ある日突然、政府からこんなメールが届く。

 「その人」は皇族という身分に強い拘りを持っていたとしよう。自分は皇族でありたい。お父さんもお母さんも皇族なのに、なぜ私は皇族の身分を手放さなければならないのか。

 時の政府「ですから『皇族増え過ぎ問題』が深刻な問題となっておりまして…」

 しかし「皇族増え過ぎ問題」はその人のせいで起こった問題ではない。その人は何も悪くない。上の世代の誤った政策のせいで起こった問題である。その責めをどうして「その人」が負わなければならないのか。

 私は将来の「その人」を生みたくない。

 

「今」のことだけを考えるのではなく

 私には明治時代の皇室典範やその後継である現代の典範が、皇位継承に関して、それほど瑕疵のある制度だとは思えない。

 秋篠宮悠仁親王がお生まれになる前、皇室には9人連続で女子が生まれた。

 賛成派は「現に綻びが出てきてるではないですか」と言うかもしれないが、しかし私にはやはり9人連続で女子が生まれるというのは、そうそう起こり得ることとは思えないのだ。9人連続で女子が生まれる確率は512分の1であり、これは私にはとても珍しいことだと思える。ただ、この512分の1という数字をここに当てはめるのが数学的に適切なのかどうかは自信がないが。

 そういう極めて珍しい時の状況を土台にしてルールを決めるのは違う気がする。今の状況だけを考えるのではなく、将来にわたる制度設計は、遠い将来のことも見据えて行わなければならない。

 そもそも永世皇族制は「人数が増えやすい」という性質を持っていることを考えておかなければいけない。つまり女性宮家の創設を考えるなら、将来的な人数削減案もセットで考慮しなければならない。

 「批判はわかりましたが、現在進行形の皇位継承者不足の問題に対して、何か代案があるんですか?」と言われると、今のところ、私には代案も妙案もない。

 以前は、皇位継承者不足問題の解決方法としては、いわゆる昭和22年組の旧宮家(の子孫)の皇籍復帰がよいのではないかと考えていた。だが、ここ数年、「皇族芸人」と呼ばれるある一人の人物が、たった一人で著しく品位を貶めたため、私は旧宮家の復活には当分、賛成する気になれない。

 「これ」といった代案を提案できないのが苦しいところだが、ここで安易に女性宮家を創設し、女系の道を開けば、将来に禍根を遺す。それは上述の式で示したとおり、近い将来にはなかなか人々の目には判りにくいかもしれないが、遠い将来になればなるほど大きな問題として立ち現れてくるだろう。

 

 皆さんは女性宮家の創設に賛成?反対?

 

(↓回答するとみんなの答えを見ることができます)

女性宮家の創設に賛成?反対?
賛成
反対
どちらとも言えない
 

「上皇后」とは 〜有識者会議はなぜ新しい名称を提案したか〜

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 天皇譲位後の皇后の名称として、有識者会議が「上皇后」を検討している、というニュースを聞いたとき、なぜ従来からある「皇太后」を使わないんだろうか、と疑問を持った。

 有識者会議が「上皇后」という新しい名称を持ち出した背景を考えてみる。

 有識者会議が「上皇后」という名称を新しく提案している背景の一つとして、「御夫婦の単位で」という問題があると思われる。「御夫婦でともに歩んでこられた」ということを重視している。

 「御夫婦の単位」を考える時に、皇太后の謂わば「職権」に関する問題がある。

 例えば摂政への就任資格。現行の皇室典範では皇太后摂政に就くことができる。

 上皇(仮)は摂政になれなくて皇太后(仮)は摂政になれるとすると、夫婦で揃わなくなる。妻はいいけど夫はだめ、ということになる。今上天皇高齢による御公務の困難等を理由に譲位されるわけだから、譲位後に摂政に就けるようにするのはおかしい。となると、夫婦単位で揃えるためには、皇太后から今ある摂政への就任資格をなくすことになる。これは典範の根本的改定になる。そこで、どうするか。

 「夫婦単位」と考えられるのは、夫(または妻)が生きているあいだである。そのように考えて、「夫がいる皇太后」と「夫がいない皇太后」に分ける。

 不謹慎ながら、仮に上皇が先に薨った場合は、その時が来るまでは「上皇后」、その時が来たら名称が変わって「皇太后」となる。夫君が生きておられるあいだは、「夫婦単位」なので資格を制限し、なき後は謂わば「お独り身」なので、ある程度、行動の幅も広がり、資格も復活する。

 その場合に、「夫が生きているあいだの皇太后」と「夫なき後の皇太后」を区別する必要から、有識者会議は「上皇后」という新たな名称を考え出したのではないだろうか。

ウィンウィン批判 ―「Win-Winの関係」を疑う―

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ポイントカードは誰のため?

 私には「Win-Winの関係」というのはよくわからない。

 例えば、私はポイントカードの類をほとんど持っていない。「持たない主義」とかそういうことを思う前、まだ若い頃から持っていなかった。もちろん、いろんな店でいろんな店員から勧められた。「今ならお得」、「今なら無料」、「今ならポイント2倍!」。

 それでも首を縦に振らない私を店員は訝った。「どうしてですか?お客様は何も損はしないんですよ?会員登録してカード作るのには一円もかからないし、お客様はメリットしかないんですよ?」

 私は子供の頃から、自分の利得ということにあまり興味がなかった。そういう子供だった。自分の利得よりも、どちらかというと相手の利得の方に興味があった。よく、「他人は関係ない」と言う人がいるが、私はそういう考え方はできなかった。どう考えても、ポイントカードを作る、あるいは会員登録をする、という一連の行動において双方の「利得の差」というのは重要なことだと感じていた。

 ポイントカードや会員登録を勧めてくるのは、店側にもメリットがあるからだ。(当たり前だけど。)決して、私のためを思って言ってくれてるのではない。「お客様のため」かもしれないが「店のため、会社のため」でもあり、店員としては「双方にメリットがあってWin-Winじゃないですか」と思っている。

 お客様はポイントが貯まってお得な商品と交換できる。店側は客の囲い込みができて儲かる。両者にとって良いことづくめ!お互いに得するのになんで作らないんですか?お客様は得することこそあれ、損することは何もないんですよ?

 そうだろうか?

 

ゼロサム」という考え方

 小学生だったか中学生の頃にゲーム理論の本を読み、「ゼロサム」という考え方に出会った。自分と相手とでプラスマイナスがゼロになる関係のことだ。

 一番分かりやすいのは例えば将棋で、将棋はゼロサムゲームである。一対一で戦い、どちらかが勝ってどちらかが負ける。「両者勝ち」とか「両者負け」ということはない。損得が完全にプラマイゼロの関係になっており、もし自分が「飛車」という駒を取られたら、自分は飛車一枚分の損をし、相手は飛車一枚分の得をする。

 「Win-Win」という言葉の出所を私は知らないが、この言葉は元々、こうしたゼロサム的な物の見方に対する異論として提出されたものだと聞いたことがある。世の中の人間関係というのは実際にはもっと複雑で、ゼロサムで捉えられるような単純な関係ではないんですよ、と。人間関係というのは必ずしも一対一ではなくて、一対多の場合もあれば多対多の場合もある。複数の個人やグループの利害関係が複雑に絡まり合っているのが現実社会であり、ゼロサムで捉えてしまうのはあまりに単純すぎる、と。

 しかし、私は、この複雑な現実社会にも、ゼロサムはその根底に強固に流れていると思っている。Win-Winという言葉の出現は、この強固なゼロサムを見えにくくしてしまった。ゼロサムはそう簡単には破れない。

 これも将棋を例にとって考えよう。Win-Winを唱える人は次のように言う。「将棋は40枚の駒でスタートする。この40枚という限りある資源を二人で奪い合うからゼロサムになる。石油に代わる新しいエネルギー資源を発掘したり、イノベーションで新しい価値を作り出すように、例えば新しい駒を他から借りてくるなり、自分で新たに作ってしまえばいい。自分が新しく作って盤上に増やした駒は、将来的には相手も使えるようになる可能性があるのだから、Win-Winだ」。

 だがちょっと待ってほしい。その新しく作った駒を相手に取られたら将来的に自分を苦しめることになるだろう。

 「そうなったらまた更に新しい駒を作ればいいんですよ」。

 そうだろうか?

 ポイントが溜まるほど客に何回も買い物をしてもらったとしても、本来、有料の商品をタダでプレゼントするのである。有料の商品は有料にしたまま、客がそれでも買い物に来てくれるのが理想である。「有料の商品をタダでプレゼントする」ことと「何回も繰り返し買い物に来てもらう」ことは「トレードオフ」の関係にある。

 ポイントが溜まって貰える商品が安物だったら魅力はない。高価であればあるほど魅力的であり、ぜひポイントを溜めようと思う。となると、店側は高価な商品をプレゼントするためにどこかを削るなり犠牲にしなければならない。豪華な商品は魔法のように出て来るわけではない。従業員の労働時間を長くしたり、給料を安く抑えて人件費を削ったり、リストラしたり新規採用を抑えて人件費を削ったり。豪華なプレゼントができるというのは、それだけどこかに大きな皺寄せが行っている。

 つまり、「Win-Winの関係」というのは、その場の店員(企業)と客のことしか捉えていない。例えば安い時給で働いている非正規社員のことは捉えられていない。その非正規社員たちの時給を極めて安く抑えておくことで、豪華プレゼントをあげる余裕が生み出されている。

 マイナス部分をどこか外に追い遣って隠している。私は基本的には「Win-Win」を信じず、「マイナス探し」をする。

 もし店員が「お客様がポイントカードを作ってしまうと、ウチの店は損なんです!」と泣きながら言ってきたら、その時は私もポイントカードを作ろうという気にもなろう。自分(私)が得る利益がどこから生み出されているかが分かりやすいからだ。

 

Win-Win」は関係性を示す概念

 それでもまだ、「相手がどうあれ、自分が得するならそれでいいんじゃないの?」と言う人もいるかもしれない。

 「Win-Win」という言葉を「(相手の)Win-(自分の)Win」と考えるならば、それは二番目のWinについてのみ考える考え方である。相手が得してるか損してるかに関係なく、とりあえず自分が得しているのだからそれでいいじゃないか、とする考え方である。

 だが、「Win-Win」というのは、あくまで関係を示す言葉である。

 それは釣り針の先に付いた餌を食べる魚のようなものである。とりあえず目の前の餌を食べられるのだから、その時点では「Win」である。おいしくて満足である。しかし数分後には自分自身が人間に食べられる。

 他の魚「私が食べた餌には釣り針は付いていませんでした!」

 「だからWin」と考えるのは早計である。長い目で見れば餌付けをされているのであり、最もおいしく食べ頃の状態になった時に人間に取って食べられるのである。

 人間は言う。「私は魚が釣れてWin。あなたも餌が食べられてWin。お互い、Win-Winじゃないですか!」

 もし私が魚だったら、これをWinだとは思わない。Win-Winというのは、「少なくとも自分はWin」ということではなくて、何か(誰か)との関係の概念なのだ。自分は少なくとも餌を食べられたから満足、ということではなくて、「対人間」という対比の関係において、これは人間の「勝ち」で私(魚)の「負け」である。

 そういう意味でも相手の利得を測ることは重要なことなのだ。その利得が自分の利得よりも大きければ、私は「Win」とは感じない。私にとってWinとは、自分の利得が相手の利得を上回ることである。

 「〜の関係」と言うぐらいなのだから、「Win-Win」は相手との対比において捉えられるべきであって、「少なくとも自分は得」という考え方には違和感を感じる。「他人は関係ない!自分が得ならそれでいいじゃないか」という意見には到底賛同できない。

 このように考えると、私にはもうほとんど「Win-Winの関係」というのは見えてこない。Win-Winの関係というのは私にはよく分からない。

 ところで最近、「トレードオフ」という言葉を巷間でよく耳にするようになってきた。長年「Win-Win」という言葉に目眩まされてきた人たちが、漸く元に戻ってくるのではないかという感じがしている。

2月14日

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 毎年、1個も貰って帰ってこない息子を不憫に思ったのか、母は「残酷な風習」と呼んだ。

 2月14日は、私には「苦しみの日」として記憶されている。

 幼稚園から大学まですべて共学の学校を出てるが、人生通算で0個。小学生の時から、毎年2月14日が来るたびに「0個には慣れた」と自分に言い聞かせ続けていた。

 「予想通りだから全然平気」。「もう慣れた」。

 だけど、そんな「0個に慣れた」はずの私にもどうしても耐え難いものがあった。それは、他の男子が女子から貰っているところを目にすることだった。これは心を大きく乱されずには居られなかった。胸が苦しかった。受け渡しは私の目に入らないところで行なってくれ、とずっと思っていた。

 この苦しみは大人になっても変わらなかった。

 社会人になってからも、ずっと女性のほうが多い職場で働いている私は、相変わらず毎年0個の連続記録を更新中だが、0個にはもうとっくに慣れっこになっているものの、やはり職場の他の男性が職場の女性から貰っているところを目にしてしまうと大きく心が乱れる。苦しくなる。そういう場面を見なければ、「私だけじゃなくて、きっと他の男性たちも貰わなかったんだ」と自分に思い込ませることができる。

 すっかり大人になった今でもこれだけ胸が苦しいのだから、小学生の小さな胸には、たしかに残酷なことである。

 クラスの中でもとりわけ小っちゃかったあのころの私が、心の平衡を保とうとして「ボクはもう0個には慣れたんだ」と一生懸命自分に言い聞かせていた日々を2月14日になると今でも思い出すのである。

 

「小さな成功を積み重ねていこう」というのはよくわからない

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 何事もうまく行かない。何をやってもうまく行かない。

 そう歎くと、「失敗したことを数えるんじゃなくて、上手く行ったことを数えよう。小さなことでもいいから成功したこと、今日これだけのことができた、ということを数えて積み重ねていけば自信に繫がると思うよ」と、アドバイスをくれる人がいる。直接ではなくても、本やネットなどで間接的にそういうアドバイスを見ることも多い。

 だが、このアドバイスは私にはよく分からない。

 「小さな成功」と言うと、どんどんレベルが下がっていくような気がする。「今日は朝、起きられた」とか「一人で靴が履けた」とか。

 例えば「今日は洗濯できた」と。「晴れた」という意味では少し幸運だし、「捗った」という意味では確かに小さな成功かもしれないが、しかしそれは喜ぶべきことなのか。洗濯はよほど苦手意識のある人でないかぎり誰でもできる。ボタンを押すだけ。干すだけ。畳むだけ。特別な才能も要らないし、特殊な技術や知識を必要とするわけでもない。

 こんなことを「成功」の内に数えることに私は抵抗がある。「やり遂げた」「成し遂げた」というほどのことではない。洗濯ができることなんて「当たり前」のことのように思える。寧ろ、何週間も何か月も何らかの理由で洗濯ができなかったら、そっちの方が異常である。

 「小さな成功を見つけてそれを積み重ねていって自信に繫げよう」と言う人は多い。でも、そんなに「小さな成功」とばかり言っていると、そのうち「箸が持てた!」とか「瞼を開けたら目が見えた!」とか、どんどんレベルが下がっていくのではないかという不安を感じるのだ。もちろん身体障碍者とかなら話は別だが、箸が持てたということに小さな感動を覚え、それを「成功」だと思う?

 むしろ今まで当たり前にできていたことが逆に困難なことになっていくのではないか。今まで箸を持つことを、幼稚園時代はともかく、それを成功だの失敗だのと考えてみたこともなかった。それを「小さな成功」と見てしまうと、今度から箸を持つことがなにかハードルが高いことのように感じられてしまうのではないか。

 今日の他の失敗には目を向けず、「今日は箸が持てたから良し」とするのか?箸が持てたら自信に繫がるのか?

 自信に繫がっていくどころか、自らハードルを下げに行っている、レベルを下げていることによる不安の方が大きくなっていく。走り高跳びでこれだけバーを下げたらそりゃ誰だって飛べますよ、と思う。こんなことで、この程度のことで満足している自分が不安になっていく。

 こういう考え方の背景には何を「常態」と捉えるか、の違いがあると思う。例えば電車は時間通りに来るのが「普通」だと思うか、時間通りに来ないのが「普通」だと思うか。一般に日本は前者で多くの外国では後者だと言ったりする。育った国や地域の違いによって何を普通と捉えるかも変わってくる。

 私は電車は時間通りに来るのが普通だと思うが、「時間通りに来てラッキー!」と捉えた方が幸せになれるよ、と人は言う。だが、その国は日本よりレベルが低くなっているでしょう?

 「電車が珍しく時間通りに来た!」と言って喜ぶためには、普段は時間通りに来ない、という前提がいる。普段から時間通りに来る国の人はそれを「成功」や「ラッキー」とは捉えない。

 「『僕は赤信号に引っかかってばかり』と歎くんじゃなくて、青信号をうまく通過できた回数を数えるんだよ!」と言う。だが地域によってはほとんど信号というものが無い街もある。そういう街に住んでる人々は当然、赤信号なんかに引っかからず日々の生活を送っている。ラッキーもアンラッキーもない。

 いじめっ子に毎日殴られて辛いと言う人に、「殴られた回数を数えるんじゃなくて殴られなかった日を数えるんだよ。『あ、今日は一日、一回も殴られなかったな。ラッキー』って。そうすれば気持ちが楽になるよ」と言う。

 どうして殴られることが「普通」になっているのか。「都市部に住んでる以上、信号があるのはしかたない」と言う人は常識に囚われすぎている。「いじめはどこ行ってもあるよ」と言う人は、いじめがない学校もある、ということを知らない。

 

 そんなのは「成功」ではない。「小さな成功」でもない。

 「小さな成功」とは何なのか。

 私にはよく分からない。

 

空気を読むだけなら横審は要らない

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 2017年初場所稀勢の里が優勝した。これで横綱になるのだという。納得いかない。綱取りをかけた場所という位置づけではなかったはずだが、途中単独トップに立ったあたりから、だんだん「優勝したら横綱だ」みたいな雰囲気になっていった。

 個人的には稀勢の里は応援しているが、今回の横綱昇進の基準は甘すぎる。

 納得いってない人は他にいないのだろうかと思っていたら、他にもいた。 

 

 稀勢の里横綱昇進への異議: 星野智幸 言ってしまえばよかったのに日記

 

 二場所連続優勝でもないし、それに準ずる成績というのでもない。

 私も上記ブログの意見にだいたい同意だが、それに一つ付け加えたいことがある。

 賛成している人たちは稀勢の里の2016年「年間最多勝」の実績を上げている。だが、ちょっと待ってほしい。

 2016年の6場所に三人の横綱のうち二人はフル出場していない。白鵬は秋場所を、鶴竜名古屋場所を休場しているので、比較対象にならない。日馬富士以外の他の力士はすべて稀勢の里より「格下(番付が下)」である。フル出場した力士の中で一番格上の稀勢の里が「最多勝」でも、それはいわば「当然」である。(※もっとも、上位の力士ほど上位の力士と戦うので大関で「最多勝」を取るのはかなり難しいことではあるが。)

 そして、唯一「格上」である日馬富士には、年間勝利数は上回っているものの、直接対決では2勝4敗と負け越している。

 賛成している人たちは直前の九州場所で三横綱を破っていることを強調するが、もう一つの根拠である「年間最多勝」の方は、とても三横綱を上回っているとは言えない。格下の他の力士たちより白星が多かった、というのは、相撲をあまり知らない人からすれば「当たり前」のことのように思える。

 こういうことを言うと、「怪我をしないで出場し続けるのも才能のうち」と言う人が現れそうだが、私はそれは首肯しかねる。もちろん安定して出場し、安定して白星を稼いでいるのは素晴らしいことだが、「ここ一番」で勝つことも大事なことである。

 かつて「魁皇」という力士がいた。大関在位期間が長く、外国人横綱時代が長く続いているあいだ、日本人横綱の期待を一身に背負っていた。実力は申し分なかったが、ここ一番で勝てなかった。場内全員が魁皇の味方で、大声援を送っているような状況でも勝てなかった。結局日本中の期待を背負ったまま横綱にはなれなかった。

 稀勢の里も実力はあるが、ここ一番で勝てないタイプの力士だった。それが初場所で珍しく優勝できたので、この機を逃したら二度と横綱へ上げるチャンスが訪れないんじゃないか、と多くの人が思っている。

 しかし、それは「国民の期待」であって、横綱審議委員会(横審)は、それとは別に審議するための組織であるはずだ。

 横審の委員自体も日本人横綱の誕生を期待し、国民の圧倒的な期待もある。ここで反対意見なんか表明したら国民全員から「空気読め!」と怒られそうである。だが、世間の空気を読み取るだけなら横審は要らない。

 横審も、理事会も、世間の空気に流されることなく、審議してもらいたい。