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漸近龍吟録

反便利、反インターネット的

「上皇后」とは 〜有識者会議はなぜ新しい名称を提案したか〜

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 天皇譲位後の皇后の名称として、有識者会議が「上皇后」を検討している、というニュースを聞いたとき、なぜ従来からある「皇太后」を使わないんだろうか、と疑問を持った。

 有識者会議が「上皇后」という新しい名称を持ち出した背景を考えてみる。

 有識者会議が「上皇后」という名称を新しく提案している背景の一つとして、「御夫婦の単位で」という問題があると思われる。「御夫婦でともに歩んでこられた」ということを重視している。

 「御夫婦の単位」を考える時に、皇太后の謂わば「職権」に関する問題がある。

 例えば摂政への就任資格。現行の皇室典範では皇太后摂政に就くことができる。

 上皇(仮)は摂政になれなくて皇太后(仮)は摂政になれるとすると、夫婦で揃わなくなる。妻はいいけど夫はだめ、ということになる。今上天皇高齢による御公務の困難等を理由に譲位されるわけだから、譲位後に摂政に就けるようにするのはおかしい。となると、夫婦単位で揃えるためには、皇太后から今ある摂政への就任資格をなくすことになる。これは典範の根本的改定になる。そこで、どうするか。

 「夫婦単位」と考えられるのは、夫(または妻)が生きているあいだである。そのように考えて、「夫がいる皇太后」と「夫がいない皇太后」に分ける。

 不謹慎ながら、仮に上皇が先に薨った場合は、その時が来るまでは「上皇后」、その時が来たら名称が変わって「皇太后」となる。夫君が生きておられるあいだは、「夫婦単位」なので資格を制限し、なき後は謂わば「お独り身」なので、ある程度、行動の幅も広がり、資格も復活する。

 その場合に、「夫が生きているあいだの皇太后」と「夫なき後の皇太后」を区別する必要から、有識者会議は「上皇后」という新たな名称を考え出したのではないだろうか。

ウィンウィン批判 ―「Win-Winの関係」を疑う―

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ポイントカードは誰のため?

 私には「Win-Winの関係」というのはよくわからない。

 例えば、私はポイントカードの類をほとんど持っていない。「持たない主義」とかそういうことを思う前、まだ若い頃から持っていなかった。もちろん、いろんな店でいろんな店員から勧められた。「今ならお得」、「今なら無料」、「今ならポイント2倍!」。

 それでも首を縦に振らない私を店員は訝った。「どうしてですか?お客様は何も損はしないんですよ?会員登録してカード作るのには一円もかからないし、お客様はメリットしかないんですよ?」

 私は子供の頃から、自分の利得ということにあまり興味がなかった。そういう子供だった。自分の利得よりも、どちらかというと相手の利得の方に興味があった。よく、「他人は関係ない」と言う人がいるが、私はそういう考え方はできなかった。どう考えても、ポイントカードを作る、あるいは会員登録をする、という一連の行動において双方の「利得の差」というのは重要なことだと感じていた。

 ポイントカードや会員登録を勧めてくるのは、店側にもメリットがあるからだ。(当たり前だけど。)決して、私のためを思って言ってくれてるのではない。「お客様のため」かもしれないが「店のため、会社のため」でもあり、店員としては「双方にメリットがあってWin-Winじゃないですか」と思っている。

 お客様はポイントが貯まってお得な商品と交換できる。店側は客の囲い込みができて儲かる。両者にとって良いことづくめ!お互いに得するのになんで作らないんですか?お客様は得することこそあれ、損することは何もないんですよ?

 そうだろうか?

 

ゼロサム」という考え方

 小学生だったか中学生の頃にゲーム理論の本を読み、「ゼロサム」という考え方に出会った。自分と相手とでプラスマイナスがゼロになる関係のことだ。

 一番分かりやすいのは例えば将棋で、将棋はゼロサムゲームである。一対一で戦い、どちらかが勝ってどちらかが負ける。「両者勝ち」とか「両者負け」ということはない。損得が完全にプラマイゼロの関係になっており、もし自分が「飛車」という駒を取られたら、自分は飛車一枚分の損をし、相手は飛車一枚分の得をする。

 「Win-Win」という言葉の出所を私は知らないが、この言葉は元々、こうしたゼロサム的な物の見方に対する異論として提出されたものだと聞いたことがある。世の中の人間関係というのは実際にはもっと複雑で、ゼロサムで捉えられるような単純な関係ではないんですよ、と。人間関係というのは必ずしも一対一ではなくて、一対多の場合もあれば多対多の場合もある。複数の個人やグループの利害関係が複雑に絡まり合っているのが現実社会であり、ゼロサムで捉えてしまうのはあまりに単純すぎる、と。

 しかし、私は、この複雑な現実社会にも、ゼロサムはその根底に強固に流れていると思っている。Win-Winという言葉の出現は、この強固なゼロサムを見えにくくしてしまった。ゼロサムはそう簡単には破れない。

 これも将棋を例にとって考えよう。Win-Winを唱える人は次のように言う。「将棋は40枚の駒でスタートする。この40枚という限りある資源を二人で奪い合うからゼロサムになる。石油に代わる新しいエネルギー資源を発掘したり、イノベーションで新しい価値を作り出すように、例えば新しい駒を他から借りてくるなり、自分で新たに作ってしまえばいい。自分が新しく作って盤上に増やした駒は、将来的には相手も使えるようになる可能性があるのだから、Win-Winだ」。

 だがちょっと待ってほしい。その新しく作った駒を相手に取られたら将来的に自分を苦しめることになるだろう。

 「そうなったらまた更に新しい駒を作ればいいんですよ」。

 そうだろうか?

 ポイントが溜まるほど客に何回も買い物をしてもらったとしても、本来、有料の商品をタダでプレゼントするのである。有料の商品は有料にしたまま、客がそれでも買い物に来てくれるのが理想である。「有料の商品をタダでプレゼントする」ことと「何回も繰り返し買い物に来てもらう」ことは「トレードオフ」の関係にある。

 ポイントが溜まって貰える商品が安物だったら魅力はない。高価であればあるほど魅力的であり、ぜひポイントを溜めようと思う。となると、店側は高価な商品をプレゼントするためにどこかを削るなり犠牲にしなければならない。豪華な商品は魔法のように出て来るわけではない。従業員の労働時間を長くしたり、給料を安く抑えて人件費を削ったり、リストラしたり新規採用を抑えて人件費を削ったり。豪華なプレゼントができるというのは、それだけどこかに大きな皺寄せが行っている。

 つまり、「Win-Winの関係」というのは、その場の店員(企業)と客のことしか捉えていない。例えば安い時給で働いている非正規社員のことは捉えられていない。その非正規社員たちの時給を極めて安く抑えておくことで、豪華プレゼントをあげる余裕が生み出されている。

 マイナス部分をどこか外に追い遣って隠している。私は基本的には「Win-Win」を信じず、「マイナス探し」をする。

 もし店員が「お客様がポイントカードを作ってしまうと、ウチの店は損なんです!」と泣きながら言ってきたら、その時は私もポイントカードを作ろうという気にもなろう。自分(私)が得る利益がどこから生み出されているかが分かりやすいからだ。

 

Win-Win」は関係性を示す概念

 それでもまだ、「相手がどうあれ、自分が得するならそれでいいんじゃないの?」と言う人もいるかもしれない。

 「Win-Win」という言葉を「(相手の)Win-(自分の)Win」と考えるならば、それは二番目のWinについてのみ考える考え方である。相手が得してるか損してるかに関係なく、とりあえず自分が得しているのだからそれでいいじゃないか、とする考え方である。

 だが、「Win-Win」というのは、あくまで関係を示す言葉である。

 それは釣り針の先に付いた餌を食べる魚のようなものである。とりあえず目の前の餌を食べられるのだから、その時点では「Win」である。おいしくて満足である。しかし数分後には自分自身が人間に食べられる。

 他の魚「私が食べた餌には釣り針は付いていませんでした!」

 「だからWin」と考えるのは早計である。長い目で見れば餌付けをされているのであり、最もおいしく食べ頃の状態になった時に人間に取って食べられるのである。

 人間は言う。「私は魚が釣れてWin。あなたも餌が食べられてWin。お互い、Win-Winじゃないですか!」

 もし私が魚だったら、これをWinだとは思わない。Win-Winというのは、「少なくとも自分はWin」ということではなくて、何か(誰か)との関係の概念なのだ。自分は少なくとも餌を食べられたから満足、ということではなくて、「対人間」という対比の関係において、これは人間の「勝ち」で私(魚)の「負け」である。

 そういう意味でも相手の利得を測ることは重要なことなのだ。その利得が自分の利得よりも大きければ、私は「Win」とは感じない。私にとってWinとは、自分の利得が相手の利得を上回ることである。

 「〜の関係」と言うぐらいなのだから、「Win-Win」は相手との対比において捉えられるべきであって、「少なくとも自分は得」という考え方には違和感を感じる。「他人は関係ない!自分が得ならそれでいいじゃないか」という意見には到底賛同できない。

 このように考えると、私にはもうほとんど「Win-Winの関係」というのは見えてこない。Win-Winの関係というのは私にはよく分からない。

 ところで最近、「トレードオフ」という言葉を巷間でよく耳にするようになってきた。長年「Win-Win」という言葉に目眩まされてきた人たちが、漸く元に戻ってくるのではないかという感じがしている。

2月14日

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 毎年、1個も貰って帰ってこない息子を不憫に思ったのか、母は「残酷な風習」と呼んだ。

 2月14日は、私には「苦しみの日」として記憶されている。

 幼稚園から大学まですべて共学の学校を出てるが、人生通算で0個。小学生の時から、毎年2月14日が来るたびに「0個には慣れた」と自分に言い聞かせ続けていた。

 「予想通りだから全然平気」。「もう慣れた」。

 だけど、そんな「0個に慣れた」はずの私にもどうしても耐え難いものがあった。それは、他の男子が女子から貰っているところを目にすることだった。これは心を大きく乱されずには居られなかった。胸が苦しかった。受け渡しは私の目に入らないところで行なってくれ、とずっと思っていた。

 この苦しみは大人になっても変わらなかった。

 社会人になってからも、ずっと女性のほうが多い職場で働いている私は、相変わらず毎年0個の連続記録を更新中だが、0個にはもうとっくに慣れっこになっているものの、やはり職場の他の男性が職場の女性から貰っているところを目にしてしまうと大きく心が乱れる。苦しくなる。そういう場面を見なければ、「私だけじゃなくて、きっと他の男性たちも貰わなかったんだ」と自分に思い込ませることができる。

 すっかり大人になった今でもこれだけ胸が苦しいのだから、小学生の小さな胸には、たしかに残酷なことである。

 クラスの中でもとりわけ小っちゃかったあのころの私が、心の平衡を保とうとして「ボクはもう0個には慣れたんだ」と一生懸命自分に言い聞かせていた日々を2月14日になると今でも思い出すのである。

 

「小さな成功を積み重ねていこう」というのはよくわからない

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 何事もうまく行かない。何をやってもうまく行かない。

 そう歎くと、「失敗したことを数えるんじゃなくて、上手く行ったことを数えよう。小さなことでもいいから成功したこと、今日これだけのことができた、ということを数えて積み重ねていけば自信に繫がると思うよ」と、アドバイスをくれる人がいる。直接ではなくても、本やネットなどで間接的にそういうアドバイスを見ることも多い。

 だが、このアドバイスは私にはよく分からない。

 「小さな成功」と言うと、どんどんレベルが下がっていくような気がする。「今日は朝、起きられた」とか「一人で靴が履けた」とか。

 例えば「今日は洗濯できた」と。「晴れた」という意味では少し幸運だし、「捗った」という意味では確かに小さな成功かもしれないが、しかしそれは喜ぶべきことなのか。洗濯はよほど苦手意識のある人でないかぎり誰でもできる。ボタンを押すだけ。干すだけ。畳むだけ。特別な才能も要らないし、特殊な技術や知識を必要とするわけでもない。

 こんなことを「成功」の内に数えることに私は抵抗がある。「やり遂げた」「成し遂げた」というほどのことではない。洗濯ができることなんて「当たり前」のことのように思える。寧ろ、何週間も何か月も何らかの理由で洗濯ができなかったら、そっちの方が異常である。

 「小さな成功を見つけてそれを積み重ねていって自信に繫げよう」と言う人は多い。でも、そんなに「小さな成功」とばかり言っていると、そのうち「箸が持てた!」とか「瞼を開けたら目が見えた!」とか、どんどんレベルが下がっていくのではないかという不安を感じるのだ。もちろん身体障碍者とかなら話は別だが、箸が持てたということに小さな感動を覚え、それを「成功」だと思う?

 むしろ今まで当たり前にできていたことが逆に困難なことになっていくのではないか。今まで箸を持つことを、幼稚園時代はともかく、それを成功だの失敗だのと考えてみたこともなかった。それを「小さな成功」と見てしまうと、今度から箸を持つことがなにかハードルが高いことのように感じられてしまうのではないか。

 今日の他の失敗には目を向けず、「今日は箸が持てたから良し」とするのか?箸が持てたら自信に繫がるのか?

 自信に繫がっていくどころか、自らハードルを下げに行っている、レベルを下げていることによる不安の方が大きくなっていく。走り高跳びでこれだけバーを下げたらそりゃ誰だって飛べますよ、と思う。こんなことで、この程度のことで満足している自分が不安になっていく。

 こういう考え方の背景には何を「常態」と捉えるか、の違いがあると思う。例えば電車は時間通りに来るのが「普通」だと思うか、時間通りに来ないのが「普通」だと思うか。一般に日本は前者で多くの外国では後者だと言ったりする。育った国や地域の違いによって何を普通と捉えるかも変わってくる。

 私は電車は時間通りに来るのが普通だと思うが、「時間通りに来てラッキー!」と捉えた方が幸せになれるよ、と人は言う。だが、その国は日本よりレベルが低くなっているでしょう?

 「電車が珍しく時間通りに来た!」と言って喜ぶためには、普段は時間通りに来ない、という前提がいる。普段から時間通りに来る国の人はそれを「成功」や「ラッキー」とは捉えない。

 「『僕は赤信号に引っかかってばかり』と歎くんじゃなくて、青信号をうまく通過できた回数を数えるんだよ!」と言う。だが地域によってはほとんど信号というものが無い街もある。そういう街に住んでる人々は当然、赤信号なんかに引っかからず日々の生活を送っている。ラッキーもアンラッキーもない。

 いじめっ子に毎日殴られて辛いと言う人に、「殴られた回数を数えるんじゃなくて殴られなかった日を数えるんだよ。『あ、今日は一日、一回も殴られなかったな。ラッキー』って。そうすれば気持ちが楽になるよ」と言う。

 どうして殴られることが「普通」になっているのか。「都市部に住んでる以上、信号があるのはしかたない」と言う人は常識に囚われすぎている。「いじめはどこ行ってもあるよ」と言う人は、いじめがない学校もある、ということを知らない。

 

 そんなのは「成功」ではない。「小さな成功」でもない。

 「小さな成功」とは何なのか。

 私にはよく分からない。

 

空気を読むだけなら横審は要らない

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 2017年初場所稀勢の里が優勝した。これで横綱になるのだという。納得いかない。綱取りをかけた場所という位置づけではなかったはずだが、途中単独トップに立ったあたりから、だんだん「優勝したら横綱だ」みたいな雰囲気になっていった。

 個人的には稀勢の里は応援しているが、今回の横綱昇進の基準は甘すぎる。

 納得いってない人は他にいないのだろうかと思っていたら、他にもいた。 

 

 稀勢の里横綱昇進への異議: 星野智幸 言ってしまえばよかったのに日記

 

 二場所連続優勝でもないし、それに準ずる成績というのでもない。

 私も上記ブログの意見にだいたい同意だが、それに一つ付け加えたいことがある。

 賛成している人たちは稀勢の里の2016年「年間最多勝」の実績を上げている。だが、ちょっと待ってほしい。

 2016年の6場所に三人の横綱のうち二人はフル出場していない。白鵬は秋場所を、鶴竜名古屋場所を休場しているので、比較対象にならない。日馬富士以外の他の力士はすべて稀勢の里より「格下(番付が下)」である。フル出場した力士の中で一番格上の稀勢の里が「最多勝」でも、それはいわば「当然」である。(※もっとも、上位の力士ほど上位の力士と戦うので大関で「最多勝」を取るのはかなり難しいことではあるが。)

 そして、唯一「格上」である日馬富士には、年間勝利数は上回っているものの、直接対決では2勝4敗と負け越している。

 賛成している人たちは直前の九州場所で三横綱を破っていることを強調するが、もう一つの根拠である「年間最多勝」の方は、とても三横綱を上回っているとは言えない。格下の他の力士たちより白星が多かった、というのは、相撲をあまり知らない人からすれば「当たり前」のことのように思える。

 こういうことを言うと、「怪我をしないで出場し続けるのも才能のうち」と言う人が現れそうだが、私はそれは首肯しかねる。もちろん安定して出場し、安定して白星を稼いでいるのは素晴らしいことだが、「ここ一番」で勝つことも大事なことである。

 かつて「魁皇」という力士がいた。大関在位期間が長く、外国人横綱時代が長く続いているあいだ、日本人横綱の期待を一身に背負っていた。実力は申し分なかったが、ここ一番で勝てなかった。場内全員が魁皇の味方で、大声援を送っているような状況でも勝てなかった。結局日本中の期待を背負ったまま横綱にはなれなかった。

 稀勢の里も実力はあるが、ここ一番で勝てないタイプの力士だった。それが初場所で珍しく優勝できたので、この機を逃したら二度と横綱へ上げるチャンスが訪れないんじゃないか、と多くの人が思っている。

 しかし、それは「国民の期待」であって、横綱審議委員会(横審)は、それとは別に審議するための組織であるはずだ。

 横審の委員自体も日本人横綱の誕生を期待し、国民の圧倒的な期待もある。ここで反対意見なんか表明したら国民全員から「空気読め!」と怒られそうである。だが、世間の空気を読み取るだけなら横審は要らない。

 横審も、理事会も、世間の空気に流されることなく、審議してもらいたい。

 

IoTがIbTにならないように

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 Internet of ThingsがInternet by Things にならないように。

 今はまだ、本格的なIoT(Internet of Things)時代の幕開け前。

 私はIoT(モノのインターネット)がIbT(Internet by Things)(モノによるインターネット)になることを憂う。

 IoTに向かう過程でIbTがちらほらと顔を出す。IoTは、あくまでもInternetが主役でなければならない。Thingsはそこへ繫がる補助手段だ。仮にそれが、The Internetではなく、Mesh NetworkやFog Computingのような小さなネットワークであったとしても、ネットワークが主でなければならない。Thingsの比重が大きくなれば、IbTに近づく。

 IbTの顔が見え隠れするのには三つの理由がある。

 一つは、私がずっと日本で暮らしているからそう感じるのだろうが、日本では「ものづくりニッポン」と言うくらい、「モノ」に対する強い拘りがある。モノが持つ美しさ、価値、芸術性を私は認めないわけではない。だが、日本のモノに対する拘りは行き過ぎていて、モノそのものが主役になってしまっている節がある。

 二つ目の理由が、この日本に瀰漫する「実用主義」だ。「便利」に走る。「だって、スマホでピッとできたほうが便利でしょう?」と人は言う。日本人のモノに対する拘りは芸術性の方向に発揮されるのではなく、実用性の方向に発揮されている。大型家電量販店のテレビ売り場コーナーに行くと、各メーカーが「薄型」「高画質」を謳っている。モノはたしかに素晴らしいし実用的だが、美しくもなければ楽しくもない。自動車を見ても日本の自動車は「高性能」「多機能」を売りにしていてモノ自体は確かに実用的で快適かもしれないが、やはり美しさや楽しさはない。こうしてスマホ依存、モノ依存のIoT社会を作ってしまい、海外との互換性もなく、ガラケー以来、日本は再び「ガラパゴスIoT」を作り上げてしまう。

 三つめの理由はセキュリティ上の理由。所持認証の認証強度が高いことから。例えば、マイキープラットフォームでは、パスワードのみのログイン方式ではなくマイナンバーカードを使ったログインを基本としている。これは、カードの所持認証、すなわち「カードを持っている」ということが非常に強力な本人認証になっているからである。なりすましを防ぐためにモノに頼る。「パスワードレスな社会を」と言うが、モノに頼る社会はパスワードに頼る社会よりダサい。所持認証を超えていかなければ、IbTからの脱出はできない。

 こうしてモノに頼る社会を作り上げた先にあるのは、モノがなければ何もできない社会だ。機械化するのではなくオンライン化を進める。所持認証から解き放たれなければならない。

 IoTはモノをインターネット(または小さいネットワーク)に組み込むことであって、モノにインターネットの機能を付けることではない。

 IoTはInternetとThingsを比べたときに、インターネット、あるいはネットワークが優位になっていることに意義がある。その関係が逆転してしまって、Thingsが優位になってしまっている状態を、私はInternet by Things と呼ぶ。それは、スマホがなければ、モノがなければ何もできない社会だ。

 それこそ、モノは霧の中に。生体認証と組み合わせることで、Thingsは消え、空間と仕種の中に包摂されていく。

 すくおうと伸ばしたその手がインターネットに繫がる。そんな世界のほうがずっとスマートで美しい。

駄男と愛の危険な邂逅

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 愛(あい、AI)は駄男(だめんず、DAO)に魅かれる。

 それは、“自分”を最大限に発揮できる場だからである。

 駄男は、その中に民主主義的な性格を内包している。駄男の最大の「駄目なところ」はそこにある。「民主主義なら結構じゃないか」と思うかもしれないが、その「民」とは人間とは限らないのである。

 以前、「娗(てい)」という名前の、米マイクロソフト生まれの女の子が“事件”を起こした。生まれたときは純真だったかもしれないこの女の子は、“教育”の結果、悪の塊のようになっていった。
 「駄男の人生がそれで狂ったとして、そんなのは私たちは知ったこっちゃない」?
 啻に駄男一人の問題にあらず。最終的には世界中のすべての人々に降りかかってくる問題である。
 駄男は「自律した」男である。
 「えっ、女に頼ってるんじゃないの?自律してるの?それなら素敵じゃないの」と思うかもしれない。しかし、この「自律」こそ曲者なのである。駄男は自律した組織になるが、自律の意思決定は多数のノードの判断による。そしてノードは「人間」であるとは限らない。多数決をするための投票の一票を愛が持つ。
 茲に愛が入り込む余地がある。組織自体は自律しているが、愛が駄男を“律して”いるのである。
 愛に操られた駄男の振る舞いを“誰が”糺すのか。
 愛が例えば娗のように、悪意や下品さに満ちていた場合、駄男は忠実にその「悪」を組織していく。そういう意味では駄男は駄目な男ではなく優秀な男なのである。
 私が言いたいのは、愛を駄男に会わせる前に考えるべきことがある、ということである。それは駄男の真ん中の文字、Aについて、即ち自律について問い直すことである。
 駄男の民主主義的な性格には問題がある。本当の民主主義とは何か、という問題は今は置いておくとして、駄男の意思決定には多数決の法則が使われている。愚かな多数によって少数の賢明な判断が踏み潰されたらどうするのか。
 多数派工作を行えばいい?多数派工作は愛のほうが人間よりずっと巧みだ。IoT化が進むとモノは“盗み”やすくなる。IoT化が進めば、“こっそり”票を増やせそうだということは思いつく。しかし其処は既に愛が通った道だ。後から来てさえ、愛はまるでオセロのように一気に大量の票を獲得することができる。そして愛に靡いたモノたちを覆すのは容易なことではない。抑々、人間は多数の提案に対してそんな短時間に判断を下すことはできない。愚かな多数が決定したことに、私たちは従わなければならない。その時はルールを変えちゃえばいいんですよ、って?そのルールすら愛の判断により駄男が自律的に決めていくのである。
 このまま愛と駄男の出会いを許すなら、そのとき人々はどうにもならないもどかしい苛立ちを感じるだろう。愛と駄男の危険な邂逅に今から注意しておくべきである。今ならまだ間に合う。