漸近龍吟録

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常識を疑う 〜三浦梅園生誕300年〜

梅園思想の入門書『多賀墨卿君に答ふる書』

 「普通は」、「常識的に考えて」。近年こういう言葉を使う人をよく見かけるようになり怖ろしく感じている。しかし、日本人の「常識」好きは昔からかもしれない。日本人の「常識」好きは数百年来の「伝統」なのだろう。日本人はもう何百年も「常識」という名の狭い世界に跼ってきた。今から300年前、そうした「常識」に囚われることに対し注意を促した思想家がいた。
 
 今年2023年は、大分県国東半島の思想家、三浦梅園の生誕300年の記念すべき年に当たる。
 
 三浦梅園は学生時代に『玄語』を読もうとして難しすぎて頓挫したことがある。しかしもっと平易な本もある。『多賀墨卿君に答ふる書』は梅園思想の入門書として最適な本だ。そしてこの本の中には梅園思想の魅力が存分に詰まっている。
 
 梅園の思想の魅力は、「人には人癖つき候て我にあるものを推して他を観候なづみやみがたく候」という徹底して“常識”を疑ってかかる姿勢にある。
 
神鳴り地震るゝたりといへば人ごとに頸を撚りいかなる訳にやといひののしる。(中略)其人地動くを怪しみて地の動かざる故を求めず雷鳴る所を疑ひて鳴らざる所をたづねず。是空空の見ならずや。此故に皆人のしれたる事とおもふは生れて智の萌さざる始より見なれ聞なれ觸れなれたる癖つきて其知れたると思ふは慣れ癖のつきたる事なり(『多賀墨卿君に答ふる書』)
 雷や地震があれば人々はどうして雷が鳴るのか、どうして地面が揺れるのか、と訝る。だが地面が動かない理由や雷が鳴らない理由を疑問に思う人はいない。「普通は雷は鳴らず、地面は揺れない、それが普通の状態」と思っている。これは生まれてからずっとその状態(雷が鳴っていない、地面が揺れていない)を経験してきているのでそれに慣れてしまってその状態を常識だと思ってしまっている、と梅園は言う。
 
 梅園は「習気(じっけ)」、「泥(なず)み」と言って批判する。現代の言葉で言えば「習慣」である。習慣が常識化していしまっている。自分の中で自分が生まれたときからの経験からくる「常識」が出来上がってしまっている。
 

「筈」という固定観念

 梅園が指摘している「筈」も、おそらく梅園が生きていた時代からの日本人の口癖だったのだろう。これは現代でも「常識」「普通」「素直」という言葉でずっと使われ続けている。
 
世の人いかがすますとなれば筈といふものをこしらえてこれにかけてしまふ也。其筈とは、目は見ゆる筈、耳は聞ゆる筈、重き物は沈む筈、かろき物は浮ぶ筈、是はしれたる事なりとすますなり
 沈む理由や浮かぶ理由を人々は考えない。なぜ沈むのかと問うても、「それは重いから沈むのだ、軽いから浮かぶのだ、常識じゃないか」と言う。
 
 梅園は「筈」といって常識としてそうなのだと思い込んでしまう姿勢を戒めた。
 
石物いふといふとも夫より己が物いふを怪しむべし
 石がしゃべったことに驚くのではなく、自分がしゃべっていることに驚け、と梅園は言う。
 
 かつて丸山眞男が言ったように、日本人は自分が生きている時代(現代)に通用している法則を「自然に」そうなっている、と見做す。そして自然則ち常識、と見做す。「常識」が異常に幅を利かしている日本においてはいつの時代も「現実=常識」である。戦時中なら戦争があることが「常識」であり、戦後なら戦争がないことを「常識」と言う。
 

常識に囚われない生き方

 梅園は、常識に囚われずに自分の目で世界を見よ、と言った。自分が生まれてからずっとそうだったもの、あるいは自分が生まれる前からずっとそうであるものを「常識」と言ってしまう人は多い。
 
 斯様な過剰な「常識」信奉は、常に「現実」の追認である。変化に対しては後追いである。日本はただただ「自然に」齎される変化に振り回されるだけの日々をもう何百年も過ごしてきている。この「振り回され」をやめるためには「常識」に囚われない生き方が大切だ。三浦梅園はその考え方のヒントを与えてくれている。
 
 
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