漸近龍吟録

反便利、反インターネット的

AIに対する有識者のコメントに人間の愚かさを見る

 
 ここ数年のAI(人工知能)の急速な発展を受けて、「あなたはAIをどう考えますか」、「AIとどう付き合っていくべきだと思いますか」という質問をよく見る。それに対して「有識者」などと呼ばれる人たちが「AIをいたずらに怖れるのではなく、上手に付き合っていくべき」、「賢く使えば便利なツール」と回答しているのもよく見かける。
 
 私はこうした回答に人間の愚かさを見る。「賢く使えば便利なツール」という回答が皮肉にも人間の“賢くなさ”を特徴的に表している。
 
 インターネットが登場したときも愚かな人間たちは同じことを言っていた。「インターネットは負の側面ばかりじゃない。賢く使えば便利な道具」と言う人があまりにも多かったので、私は、インターネットを賢く使えている人とやらを連れてきてほしいと言ったが、連れてきた人はいなかった。
 
 あのときから人間は変わっていない。相変わらず愚を繰り返している。
 
 特にここ日本では、AIは人間をますます苦しめることになるだろう。つい先日も「AIを使って仕事を効率化!」「AIにできることはAIに任せよう!」という記事を見た。これで人間の暮らしが豊かになるのだと思っているなら甚だしい勘違いだ。
 
 こういう“間違い”はもうずっと昔から繰り返されてきた。
 
「新幹線が従来より1時間速くなりました。浮いた時間で駅前のカフェでまったりと美味しいお茶を」
 
 浮かない。新幹線のスピードが上がっても1時間は浮かない。4時間が3時間になったら、会社は片道3時間の前提でスケジュールを組むだけだ。泊まりで行けてた出張が日帰りで帰って来ることを要求されてあなたは却って忙しくなるだけだ。
 
 なぜ殊更日本が危険なのかと言うと、日本人は西洋人と違って、基本的人権とか守るべき明確な“基準”というものを持っていないからだ。だから日本で「効率化」を行うと、人間の最低限守られるべき尊厳まで、どこまでも果てしなく削られていく。
 
 テクノロジーによる利便性は、“基準ライン”とセットでなければならない。それがない日本で無批判のAI導入がどれだけ人々を苦しめるか、想像に難くない。
 

Smoozブラウザが好きだった

Diego Velázquezによる画像

 
 かつて「Smooz」というスマホ向けブラウザがあった。たくさんの人に使われていたが、2020年の12月23日に突然サービスを終了した。あれから今日で3年が経つ。
 
 私がSmoozに出会ったのは2016年〜2017年にかけての冬だったと思う。Smoozが誕生してからまだ数か月しか経っていない頃だった。それまではBraveというブラウザを使っていたが、Braveはいまいちスマホでの使い勝手がよくなく、何か新しいブラウザを探していたときに出会った。出会ってからすぐにその使い勝手のよさが好きになり、すぐに私のメインブラウザになった。
 
 Smoozは他のスマホブラウザにくらべて図抜けて使い勝手がよかった。国産のブラウザであり、スマホを片手で使うことが多い日本人の特徴をよく考慮していた。私はスマホは左手で持ち左手の親指だけで入力タッチをするが、ボタンの配置も指が届く範囲、ジェスチャーも標準でたくさん備わっており、ほとんどの操作を左手の親指だけで完結できていた。
 
 Smoozの魅力は、そのようなまさに“痒いところに手が届く”UXにあったが、それを可能にしていたのはこまめな“改善”だった。Smoozアプリは、しょっちゅうアップデートがあった。それも「一部機能を改善しました」とか「不具合を修正しました」などといった漠然とした書き方ではなく、いつも何を改善したのかが具体的に書かれていた。そしてその改善の多くはユーザーのフィードバックを受けてのものだった。
 
 「ユーザーファースト」を理念としており、ちょっとユーザーの声を聞きすぎなのではないかと思うくらいユーザーの要望を聞いて、それをこまめにアプリに反映していた。ユーザーのコメントにもこまめに返信を返していた。私がSmoozを好きだったのは使い勝手のよさもさることながら、そうしたユーザーを大切にする姿勢が好きだったのもある。
 
 Smoozアプリは、アスツールという会社が開発・運営していたが、初期の頃は社長と一人か二人くらいの協力者だけで運営していたようだった。アプリの更新を自動更新ではなく手動更新している私は、普段から更新欄の文言に目を通している。アプリ更新欄は通常「◯◯を改善しました」という説明が書かれているが、Smoozの場合はこの欄が開発後記として日記のようになっていた。そこには、会社の近くに新しいお店ができたので社員と二人で食べに行きました、とか、最近やっと社員を一人雇えるようになりました、とか、そういった小さな日常が綴られていた。
 
 アプリはどんどん人気が出てユーザーが増えていった。そんなあるとき、いつもの開発後記に、ユーザー数の増加に伴い新しく雇った社員たちに給料を払わなければならず申し訳ないが近々いくつかの機能を有料化させていただきたい、ということが書いてあった。ああ、いよいよSmoozも有料化か、でもまあ仕方ない、そう思って私は覚悟していた。そして翌週くらいに実際に有料化する機能一覧のようなものが発表されたのだが、有料化された機能は私が予想していたよりだいぶ少なかった。この機能もこの機能も有料化してよいのでは?と思う項目がいくつもあった。よく見ると古くからのユーザーが無料のものとして当たり前に使ってきた機能のほとんどは無料のまま据え置かれ、比較的新しく追加された機能のみが有料化されていた。ずいぶんと律儀なことだと感じた。
 
 アプリがどんどん有名になりユーザー数も相当な規模にまでなってきた2020年の12月。あるブログが、Smoozアプリが不正な動きを行なっていることを告発した。ユーザーの個人情報(閲覧情報)を外部に送っている、ということだった。この告発は、はてなブックマークで大きな話題となり、Smoozは謝罪→サービス閉鎖に追い込まれることになる。
 
 私は技術的なことはよくわからないが、告発内容は技術的なことに関しては概ね正しいようだった。告発元のブログははてなブックマークで大きな注目を集め、Smoozには批判が集中した。Smooz公式サイトがすぐさま謝罪文を発表した。私にはこの時の謝罪対応は完璧だと思った。
 
・素早い
・下の者に任せず開発者(社長)自ら文章を書いている
・「ご迷惑、ご心配をおかけして申し訳ございません」といった抽象的な表現ではなく、いつまでにどこを直すかが具体的に書かれている
 
 開発者がその日の内だったと思うが、発表した謝罪文はこの三つの要素がすべて揃っており、いつもだったらはてブユーザーたちから「これは完璧な謝罪対応」と褒められる内容のものだった。だが、Smoozに対する大半のはてブユーザーの印象は悪かったようだ。このとき初めてSmoozを知った人たちにとっては、ぽっと出の若造が調子に乗って炎上したようだ、ざまあみろ、という感じだったのかもしれない。その後に告発元のブログから「問題はまだ直ってない」という趣旨の第二段の告発があり、開発者はその告発内容に対してもすぐに対応策を発表したが、はてブユーザーたちからの悪いイメージを変えることはできなかった。
 
 一度悪いイメージで捉えらえている人は何をやっても悪く受け取られる、という事例を目の当たりにしているようだった。例えば、開発者は告発ブログが話題になってから極めて迅速に謝罪文を発表したが、それがあまりにも早すぎて逆に「謝罪文を事前に用意していたのではないか。悪いことをしているという自覚があって、バレたら謝罪文を出せばいいと思っていたのではないか」と言われた。開発者自ら、という点に対しても、そのころにはいくつかのメディアで取材を受け「ユーザーファースト」の哲学を語っていた記事が発掘されて、イキっていると思われてしまっていた。「明日までに○○の機能を停止します」とか「今週中に○○の機能を△△と切り離します」といった具体的な改善策も、「そんなに素早く問題点を把握できるということは、やはり開発者は知っていてわざと閲覧情報を外に送っていたのではないか」と思われた。
 
 大批判の合唱が起こる中で、「このブラウザはどうやら裏ではてブコメントも拾っているらしい」と言う人たちが現れた。だが、Smoozで表示したウェブページにはてブコメントが表示されるのは初期からあるSmoozのユニークな仕様だった。開発者ははてブユーザーであり、はてブをよく見ていたので、そのような機能を付けていた。だがSmoozアプリが一般の人たちに普及していくにつれ「なんではてブコメント?とかいううざったいものが付いてるの?」という声が多くなり、それまでデフォルトで表示させていたはてブコメントを非表示にし、設定した人だけが表示できるようにしたのだった。そのことが「何か裏でいろいろ怪しい挙動をしている」と思われてしまった。
 
 結局、一度付いてしまった悪いイメージを払拭することができず、開発者はアプリの完全終了を決めた。
 
 Smoozアプリの挙動に問題があったことはどうやら事実のようだが、悪意があってやったことだったのだろうか。私はあまりにも頻繁にユーザーの要望を聞いてアプリをアップデートする中で、ミスでおかしな機能をくっつけてしまったのだと思った。意図的に閲覧情報を外部に送っていたわけではないと思う。
 
 Smoozの“顔の見える”在り方が好きだった。顔が見えるといっても開発者に会ったことがあるわけでもないが、日々の開発後記を読んでいるうちに開発者の“人となり”のようなものも伝わってきていた。
 
 「ユーザーファースト」という思想も好きだった。ユーザーからの要望をすべてではないにせよ、かなりの割合で拾ってアプリの新機能として追加していたし、ユーザーからのコメントにも律儀に返事を返していた。
 
 問題があったことは事実だが、サービス終了まですることはなかったのではないか。告発元ブログの第二段、第三段と続いた追及が厳しかったというのもあるが、はてブユーザーたちからの批判の声が止まらなかったことがサービス終了を決断させたのだろう。
 
 3年のあいだにユーザー数だけではなく社員数もそれなりに増えていたはずだ。突然のサービス終了によって、私たちユーザーはブラウザ難民として抛り出されてしまっただけでなく、年の瀬に急に失職することになった社員たちの生活はどうなったのだろう。
 
 開発者はあまりにもはてブをよく見ていた。見過ぎていた。はてブを見ていて「これは大炎上」、「何をどう対応しても火消しはもう無理」と感じとってサービスを畳むことを決断したのだろう。だが、はてブは広大なネットの世界のごく一部である。当時、はてブ以外の場所でSmoozは炎上していなかったと思う。
 
 「ユーザーファースト」の理念が好きだった。とことんユーザーの声に耳を傾けていた。普段からのそういう姿勢が告発や批判にも向き合う姿勢になったのだろう。そしてスピード感に関しては、トップたる者かくあるべし、という考え方をはてブから学んでいたのだろう。しかし謝罪文の発表の速さ、サービス終了の決断の速さは裏目に出ていた。「こんなに速くサービス終了を決めるということは、悪事がバレたら店を畳んで遁走しようと最初から決めていたのだろう」と言われた。
 
 何万人ものユーザーと数人?の社員を抱えているサービスが、たった一人の声でいきなりサービス終了になるのも問題があると思った。ウィキペディアによると、告発があった当日に、開発者は告発元ブログに連絡をとって問題点について教えてもらおうとしたそうだがコンタクトは取れなかったようだ。また、告発元ブログでさえ、まさかサービス終了までするとは思っていなかったようだ。どちらにしろはてブユーザーたちの悪いイメージを覆せないのなら、私はサービスを続けてほしかった。
 
 ユーザーの声なんかまったく聞かない大手テック企業によるブラウザが幅を利かせている時代にあって、ユーザーの声を聞いて成長していくブラウザは貴重な存在だった。個人情報の取り扱いに関する点はきちんと修正した上で、別名でもいいからまたスマホブラウザを復活してくれないだろうか。
 
 私はあれから3年が経った今もスマホのメインブラウザが決まっていない。
 

「頭がいい」の意味は変わってきた −今も学歴が重視される一つの理由−

 「頭がいい」の意味はとても難しくて、どういう人のことを「頭がいい人」と言うのかは人それぞれである。
 
 英語だと、wise, intelligent, smart, clever などいろいろあるが、日本語ではそれらを「頭がいい」で済ませている。日本語でも「賢い」など別の言い方はあるが、「賢い人」とはどういう人なのかというとやはり定義ははっきりしていない。
 
 ここでは仮に「勉強ができる人」のこととしよう。具体的には東大かそれに準ずる高偏差値の大学を出ている人のこと、としよう。
 
 その上で「頭がいい」の意味は昔と今とで変わってきた。昔、昭和時代ごろまでは頭がいい人は物識りだった。物識りな人が「頭がいい人」と呼ばれていたとも言える。博学でたくさんの知識があった。それらの知識の一部は「教養」とも呼ばれた。
 
 昭和時代のパソコンやインターネットがなかった時代の会社では、知識がなかったら、漢字や言葉を知らなかったら、書類一枚さえ書くことができなかった。どこの会社にも『大辞林』、小型の国語辞典、漢和辞典、英和辞典、『現代用語の基礎知識』のような百科事典っぽいものが常備されていたが、近くの席に物識りな人がいれば重宝された。物識りな人というのは今で言うところのグーグル先生のような存在だった。
 
 しかし、現代の「頭がいい人」は物識りではない。 
 
 TVのクイズ番組などで「東大生でも3割の人しか知らなかった超難問です」などと言っているが、抑々、昔の東大生と違って現代の東大生は物識りではない。今の時代の大学入試問題では単に知識を問う問題は偏差値の低い大学ほど出題される。
 
 例えば、
 
 問、『枕草子』の作者の名前を答えなさい(答、清少納言
 
という問題が、東大など偏差値の高い大学になったら、
 
 問、『沙石集』の作者の名前を答えなさい(答、無住)
 
になるわけではない。知識の難易度が上がるわけではなく、このようにシンプルに知識を問う問題自体が高偏差値の大学入試問題ではほとんど出題されないということだ。
 
 では、現代の高偏差値大学ではどのような問題が出題されているのかと言うと、国語や英語では読解力や要約力を問う問題が出題されている。また、試験時間に対して問題文が長かったり問題数が多かったりすることで、大量の問題を短時間で素早く処理する能力なども求められている。
 
 こうした傾向は最近に始まったことではなく1990年代頃からこうした変化は生まれていた。しかし世間の認識はそうした変化に追いついていなくて、世間は未だに日本の教育、テストと言えば「暗記重視、知識偏重」と言う人が多い。
 
 私が若い頃には「これからは学歴の時代ではない」とさんざん言われていた。だがそれから数十年が経った今、結局学歴が重視される傾向は変わっていない。なぜなのか。
 
 それは大学入試の出題傾向が世間に合わせて変容してしまったことで東大生の質が変容し、その結果、東大生(高学歴大学生)が会社に“合う”ようになってしまったからだ。
 
 今の時代の会社では博学な知識というものは求められていない。ほとんどの人が聞いたことがない文学作品の作者名を知っているとか、ほとんどの人が知らない漢字を読んだり書いたりできるとか、そんな能力はまったく求められていない。そんなものは必要になったときに目の前のPCかスマホで調べれば一秒でわかることであり、頭の中に入れておく必要がない。
 
 その代わりに現代の会社で必要とされているのは、文章を読んで内容や意図を理解する能力であり、大量の仕事を能率的に捌く能力であり、複雑な問題を切り分けて解決する能力である。
 
 つまり、「これからの時代は東大生は役に立たない」と言うとき、それは「知識ばかりあっても現代の会社では役に立たない」という意味だった。ところが、実際には大学入試問題において知識を問う問題が激減し、読解力やスピード力(速解力)を求める問題が増えたことによって、今どきの東大生(高学歴大生)は読解力やスピード力を持っている人たちということになり、現代の会社で求められる能力にマッチした人々になった。
 
 私の職場にも私より高学歴な人たちがたくさんいるが彼ら彼女らは驚くほどモノを知らない。私が偶に知識を披露する機会があると「なんでそんなこと知ってるんですか!?」と驚きの声を上げる。
 
 このように書くからと言って、別に私は彼ら彼女らを馬鹿にしたいわけではないし「こんなことも知らないのか」とマウントを取りたいわけでもない。私が言いたいのは、今の日本では知識や教養がゼロに等しくても高学歴の大学に入ることができ、そして彼らは職場では優秀・有能である、ということだ。
 
 「英語はわからない」という高学歴の先輩と一緒にPCを操作中に画面一面に英文が表示された。私が「OKでしょうか、キャンセルでしょうか?」と尋ねると、「よくわかんないけど、多分なんとなく◯◯は△△してもいいか?って聞いてきてると思うからOKでいいんじゃない?」と。後で私がゆっくり時間をかけて読んでみると確かにそのような内容だった。不思議なのは、「英語はまったくわからない」と言い、実際に知っている英単語の知識も私より全然少ないその先輩が、なぜ“なんとなく”で英文の大意を摑めてしまうのか、ということだ。私は職場でそういう高学歴者に何人も出会ったことがある。英語の話ではない。英語の話は一例であって、現代の高学歴者は知識がない分野のことでも“なんとなく”わかってしまう。“なんとなく”の感覚で要領や要点を摑んでしまうのだ。
 
 高学歴な彼ら彼女らは、私より全然知識がないが、私より全然仕事ができる。複雑な問題を理解し、要点を摑み、問題を整理して切り分け、仕事の分担表を素早く作り上げる。そして大量の仕事を効率よく処理する方法を考え、スピーディーに捌いていく。
 
 なぜそんなことができるのか。それは彼ら彼女らが高学歴大学出身だから。今の時代の高学歴大学はそういう能力を入試段階で求めており、それをクリアした人たちが彼ら彼女らだからだ。
 
 「頭がいい」の意味は変わってきた。「東大生」の意味も変わってきた。世の中は紙の時代からPC・インターネットの時代に大きく変わり、知識よりも理解力やスピード、問題解決能力が重視されるようになったが、「東大生」もそれに合わせるようにして変容したので、結果的に東大生は今の時代の職場においても有用なのである。
 

あらためて世界史を学ぶ

 

 山﨑圭一著『一度読んだら絶対に忘れない世界史の教科書』という本を読んだ。

 

 普段、こういうあんちょこ的な本はあまり読まないのだが、自分が世界史の大まかなあらすじが頭に入っていないことが気になっていたので読んだ。

 

 他の人のレビューにもたくさん書かれているが、この本は年号(何年に起こった出来事か)と細かい出来事を大胆に省いて、大雑把なストーリーとして記述しているので、流れが頭に入ってきやすい。

 

 内容は政治史が中心で、ということはひたすら戦争の話ばかりで、これは著者が悪いわけではないのだが、読み終わったときは些か暗澹たる気持ちになった。ドイツやイタリアは敗けることが多い。フランスは勝ったり敗けたり。イギリス・アメリカは歴史上、ほぼ勝ち続けている。そんな印象を持った。

 

 高校時代は日本史を選択した。なぜ日本史を選択したかと言うと、一つは世界のことより日本のことを先に学ぶべきだと思ったから。もう一つは、「世界史」と言いつつ教科書はヨーロッパ中心の歴史であることに不満があったから。私は大人になってから、自分がフィリピンやベトナムカンボジア、タイ、ラオスミャンマー、マレーシア、インドネシアなど東南アジアの国々の歴史をほとんど知らないことにショックを受けて自分で学んでみたことがあった。『一度読んだら〜』もヨーロッパ、中東、中国の歴史が中心で、アフリカ史や東南アジア史については触れられていないことが事前に断られている。

 

 そして、そもそも歴史とは何か、ということについて考えさせられる。今上天皇の御専門は交通史らしいが、このような◯◯史はたくさんある。文学史、美術史、音楽史、経済史、スポーツ史、建築史、服飾史、料理史、鉄道史、等々、この世界に存在するテーマの数の歴史が無数にある。教科書に書かれているのは、そのたくさんの◯◯史の中の一つの「政治史」だ。

 

 私が前から不思議に思っていることがある。史学科卒の人たちだ。史学科の人は歴史が好きだから史学科に進んだのだろうが、しかしあらゆる歴史を網羅的に勉強しているという人はいないだろう。史学科の人に会うと、大抵、「私は中世のドイツ史が専攻で」とか「古代の中国史が」とか「近代のアメリカ史」とか、あるいはそれ以上に細かく専攻が分かれている。そうすると国の数✕時代の数だけ専攻が存在する。国だけで何百もあり、時代も数多くあるわけだから、掛け合わせると膨大な組み合わせが存在する。その膨大な組み合わせの中からどうしてその国のその時代のことを専攻しようと思ったのか。史学科の人に一人ひとり聞いてまわりたいと思うことがある。

 

 『一度読んだら〜』は教科書と違って細かい話をいろいろと端折ってあり、またテーマも政治に絞ってあるので、世界史の大まかな流れを理解するのに役立った。と同時に、高校の世界史の教科書がいかに(ある程度)網羅的に書いているか、ということも感じた。この本で大まかな流れを理解したら、もう一度あらためて高校の教科書が読みたくなった。

 

ストレスに強いとは何か

 

 知人に「何をモチベーションに仕事をしていますか」と尋ねられた。私がモチベーションは何もないと答えると「 モチベーションがなくても仕事できるなんてすごいですね」と言われた。
 
 こういう風に言われることがよくある。過去に複数の人から言われたことがある。
 
 「どうやってストレスを発散していますか?」と聞かれ、私がストレスは発散したことも解消したこともない、と答えると、「すごい!強いんですね」と言われる。強くなんかない。私はストレスには弱い。日々、ストレスによって大きなダメージを喰らっているのに「強いですね」と言われる。
 
 私が人生の大半の時間を一人暮らしで過ごしている、と言うと、「わかります」と言われる。「わかります、結婚すると家庭に縛られて自分の好きなことをする時間がなくなってしまいますよね。一人のほうが気楽でいいですよね」と言われる。私は一人のほうが気楽でいい、なんて思ったことはない。私は一人暮らしは嫌なのである。
 
 なぜ人は、誰もが望んだ通りに生きていると思うのだろう。
 
 確かに私はストレスは発散したり解消したりせずに、ひたすら溜めていく一方の人間だが、それを「ストレスに強いんですね!私だったらそんなストレスに耐えられません」と言うのは違う。それは重病に罹っている人間に、まだ心臓が動いているという一点のみを取り上げて、「こんな重い病気に罹っても生きているなんて強いですね!」と言っているようなものだ。強いのではない。強かったら病気には罹っていない。弱いから病気になっているのである。
 
 あるいはホームレスの人に向かって「家がなくても生きていけるなんて強いですね!私だったら屋根がある所じゃないととても眠れません」と言うのと似ている。強いんじゃない。弱いからホームレスになっているのである。生きていく力がもっと強かったならばホームレスになんかなっていない。
 
 私が、仕事するのにモチベーションなんかなくていい、モチベーションがなくても全然平気、と言ったのなら、「すごい」「強いですね」という言葉は当てはまる。だが、私はモチベーションが何もない状態で働くのはつらいのである。
 
 褒めてくれているつもりなのだろうが、ストレスという名の重りを引きずって歩いている人に向かって「すごい」とか「強い」とか言ってはいけない
 
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常識を疑う 〜三浦梅園生誕300年〜

梅園思想の入門書『多賀墨卿君に答ふる書』

 「普通は」、「常識的に考えて」。近年こういう言葉を使う人をよく見かけるようになり怖ろしく感じている。しかし、日本人の「常識」好きは昔からかもしれない。日本人の「常識」好きは数百年来の「伝統」なのだろう。日本人はもう何百年も「常識」という名の狭い世界に跼ってきた。今から300年前、そうした「常識」に囚われることに対し注意を促した思想家がいた。
 
 今年2023年は、大分県国東半島の思想家、三浦梅園の生誕300年の記念すべき年に当たる。
 
 三浦梅園は学生時代に『玄語』を読もうとして難しすぎて頓挫したことがある。しかしもっと平易な本もある。『多賀墨卿君に答ふる書』は梅園思想の入門書として最適な本だ。そしてこの本の中には梅園思想の魅力が存分に詰まっている。
 
 梅園の思想の魅力は、「人には人癖つき候て我にあるものを推して他を観候なづみやみがたく候」という徹底して“常識”を疑ってかかる姿勢にある。
 
神鳴り地震るゝたりといへば人ごとに頸を撚りいかなる訳にやといひののしる。(中略)其人地動くを怪しみて地の動かざる故を求めず雷鳴る所を疑ひて鳴らざる所をたづねず。是空空の見ならずや。此故に皆人のしれたる事とおもふは生れて智の萌さざる始より見なれ聞なれ觸れなれたる癖つきて其知れたると思ふは慣れ癖のつきたる事なり(『多賀墨卿君に答ふる書』)
 雷や地震があれば人々はどうして雷が鳴るのか、どうして地面が揺れるのか、と訝る。だが地面が動かない理由や雷が鳴らない理由を疑問に思う人はいない。「普通は雷は鳴らず、地面は揺れない、それが普通の状態」と思っている。これは生まれてからずっとその状態(雷が鳴っていない、地面が揺れていない)を経験してきているのでそれに慣れてしまってその状態を常識だと思ってしまっている、と梅園は言う。
 
 梅園は「習気(じっけ)」、「泥(なず)み」と言って批判する。現代の言葉で言えば「習慣」である。習慣が常識化していしまっている。自分の中で自分が生まれたときからの経験からくる「常識」が出来上がってしまっている。
 

「筈」という固定観念

 梅園が指摘している「筈」も、おそらく梅園が生きていた時代からの日本人の口癖だったのだろう。これは現代でも「常識」「普通」「素直」という言葉でずっと使われ続けている。
 
世の人いかがすますとなれば筈といふものをこしらえてこれにかけてしまふ也。其筈とは、目は見ゆる筈、耳は聞ゆる筈、重き物は沈む筈、かろき物は浮ぶ筈、是はしれたる事なりとすますなり
 沈む理由や浮かぶ理由を人々は考えない。なぜ沈むのかと問うても、「それは重いから沈むのだ、軽いから浮かぶのだ、常識じゃないか」と言う。
 
 梅園は「筈」といって常識としてそうなのだと思い込んでしまう姿勢を戒めた。
 
石物いふといふとも夫より己が物いふを怪しむべし
 石がしゃべったことに驚くのではなく、自分がしゃべっていることに驚け、と梅園は言う。
 
 かつて丸山眞男が言ったように、日本人は自分が生きている時代(現代)に通用している法則を「自然に」そうなっている、と見做す。そして自然則ち常識、と見做す。「常識」が異常に幅を利かしている日本においてはいつの時代も「現実=常識」である。戦時中なら戦争があることが「常識」であり、戦後なら戦争がないことを「常識」と言う。
 

常識に囚われない生き方

 梅園は、常識に囚われずに自分の目で世界を見よ、と言った。自分が生まれてからずっとそうだったもの、あるいは自分が生まれる前からずっとそうであるものを「常識」と言ってしまう人は多い。
 
 斯様な過剰な「常識」信奉は、常に「現実」の追認である。変化に対しては後追いである。日本はただただ「自然に」齎される変化に振り回されるだけの日々をもう何百年も過ごしてきている。この「振り回され」をやめるためには「常識」に囚われない生き方が大切だ。三浦梅園はその考え方のヒントを与えてくれている。
 
 
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リニア中央新幹線が開通した暁に起こること

 
 リニア中央新幹線建設推進派の言い分の一つとして、「バックアップ」がある。東京と大阪という日本の二大都市を結ぶ線がもう一本できることは日本を強靭にする、という主張である。東海道新幹線にもしものことがあったときにリニア中央新幹線を使うことができる。逆も然り。そしてまた、線が二本になることで、東海道新幹線の混雑緩和にも繋がる、と。
 
 しかしリニア中央新幹線が開業した暁には、これらの建前はなし崩しに消えていく。
 
 「コスト教」「効率教」と言ってもいいぐらいコストと効率のことばかり考えている日本では、建前は崩れ去る。
 
 JR「今後、東海道新幹線は漸次、縮小していきたいと思います。約束が違う?私たちもボランティアじゃないんで。ビジネスなんで。二本の線を走らせているとランニングコストは二倍かかります。リニアの開業以降、お客様は速い方(リニア)にお乗りになる方がほとんどで、東海道新幹線の乗客は年々減少傾向にあり、経営を圧迫しています。また、東海道新幹線は開業から数十年を経過し老朽化も目立ちます。使われているシステムや部品は現代の基準では古い物が多く、同じメンテナンスでもリニアの何倍もの維持費がかかっているのです。こうした状況を踏まえ、東海道新幹線は今後、段階的に便数を減らしていくことといたしました。最終的に廃線とするかどうかはまだ決めていませんが、これからはリニア中央新幹線の増便を図るなどしてより一層のお客様の利便性向上に注力してまいりたいと思います。」
 
 それに対して、日本国民が「しょうがない」「しかたない」と言う未来まで見える。
 
 日本人の得手不得手がある。日本人は国家百年の計とかグランドデザインとか大きなことを考えるのが苦手である。一方で部分的な細かな効率化とか小さな改善を考えるのは得意である。日頃からコストと効率のことしか考えていないので、コスト削減、効率化の観点からJRの言い分を聞いて「なるほど尤もなことだ」と思ってしまう。二本の線を同時に運用し続けるのはコストがかかるし効率も悪い。人口減少で働き手不足の時代なのだから、少ないリソースを一本化した対象に集中的に投下したほうが効率がよい、と言い出す。
 
 斯くして、東海道新幹線の混雑緩和だとか、東京大阪間という日本の大動脈のバックアップだとかいう「建前」は消え去ってしまう。リニア中央新幹線建設反対派は、推進派に対して「そんなのは美辞麗句で飾った建前だ」と言うが、推進派はその建前すら維持できない。
 
 私がリニア中央新幹線建設に反対するのは、日本という我が社稷を強靭にするという考え方に反対だからではなく、寧ろその理想が実現されないだろうことを危惧するからである。