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Walled Gardenから引っ張り出す
「普通にマイナンバーカード持てばいいのに」
こう言う人を最近ネットで見かける機会が増えてきた。恐れていた事態がやって来た。「普通にテレカ持てばいいのに」、「Suica持てばいいのに」の再来だ。
最近のトレンドワードの一つである「Web3」は、GAFAMのような巨大企業から個人の手ヘウェブを取り戻そうという動きだ。GAFAMに代表される巨大企業に対する視線はヨーロッパを中心にどんどん厳しくなって行っている。
Web3は、巨大VCによって作り出されているトレンドであり一部の巨大VCだけが利益を得て多くの個人は恩恵を受けない、と主張するジャック・ドーシーのような人もいる。私はここでその正非は論じない。Web3が誰のためのものなのか、というのは人それぞれの考え方があるだろうが、少なくとも建前上は「巨大企業から個人へ」という理念で語られてきた。
ヨーロッパの人々は(それが正しいか間違っているかは別として)そういう理念を持って動いているように見える。(強力なGDPRを世界中に強制してきたのも強い理念があればこその行動だ。)だが日本ではそうした「理念を持った動き」というのは見られない。
日本人は骨の髄まで奴隷根性が染みついている。有名なもの、大きなものに包まれていると安心だと言う。
「普通にSuica持てばいいのに」
「素直にGoogleアカウント作ればいいのに」
日本人が多用する言葉、「普通に」「素直に」。
百歩譲ってNTTやJRのような大企業が囲い込みを行うのはまったく分からないではない。NTTもJRも「営利企業」だからだ。だが政府が「囲い込み」をやってはいけない。マイナンバーカードは、日本がこれからデジタル社会になって行くための基本的で重要なインフラである。インフラで囲い込みを行ってはいけない。最近の人は「国益」と言って、国までが営利企業のような論理で動くべきであるかのように言う。しかし国がその国民から利益を搾り取ってどうするのだ。それでは国は衰退していくだけだ。
確かにWalled Gardenは、その中に入ってしまえば心地いい。テレホンカードであれ、Suicaであれ、Amazonであれ、Facebookであれ、その中はとても心地いい。私はその便利さや心地よさは否定しない。だが本当にそれでいいのか。ブームが去ってしまったからFacebookを使うのをやめたいのにそこでしか繋がってない人がいるためにFacebookアカウントを消せない、そういうことで悩むことになるのではないか。
囲い込みは新たなステージへ行く時の障碍となる。
マイナンバーもマイナンバーカードも、それ自体はとても高いポテンシャルを持っている。だが囲い込み運用をしてしまうなら終わりだ。日本は再びか三たびか四たびか知らないがまた“見事な”ガラパゴスを作り上げ、そして何十年後かに世界を見渡して「しまった、こっちじゃなかった!」と言って今まで積み重ねて来たガラパゴスを抛り捨てて世界の最後尾に付くのだろう。
ガラパゴスが好きなら世界のことなど気にせず、どこまでもいつまでも我が道を突き進むべきだし、世界のことが気になるならWalled Gardenを作るべきではない。
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国会図書館のデジタル化作業の虚しさ
特撮ではない。国会図書館デジタル化スキャナー部隊前線基地の威容を見よ。これが国家戦略の本気である。(「国立国会図書館月報」2022年5月刊733号より) pic.twitter.com/qx7ybsE5dI
— TAQUENACA, Aquirax (@aquirax01) May 21, 2022
あるウクライナ人数学者の生
先月、ある一人のウクライナ人数学者が亡くなった。
この動画の8秒目あたりに一瞬映っている赤い巻き毛の女性。先々月まで生きていたが、2022年3月3日〜8日頃、侵攻してきたロシア軍のミサイルを受けてウクライナの都市ハルキウで亡くなった。弱冠21歳の若さだった。
彼女の名はユリヤ・ズダノフスカ。ウクライナ生まれウクライナ育ちの数学者。数学大会の世界チャンピオン。幼い頃から類稀な数学の才能を発揮し、10代の頃は国際的な数学大会のウクライナ代表に、大学はキーウ大学でコンピューター科学を学んだ。数学の天才で、いつも被っていた黄色い帽子の下にはすべての数式を持っていたと言われた。
指導教官をはじめ周囲の人は皆、彼女がアメリカの大学から声が掛かってそこで高いポストに就くだろうと思っていた。だがユリヤが択んだ道はボランティアだった。ドニプロペトロフスク州の田舎の村で子どもたちに情報学と数学を教えた。
ユリヤはお父さんから数学の才能を、お母さんからボランティアの精神を受け継いでいた。
ユリヤのお母さんは、おそらくウクライナで最初のNGO「ステーション・ハルキウ(Station Kharkiv)」を立ち上げた人だ。ステーション・ハルキウは2014年のロシアによるドネツク侵攻をきっかけに立ち上げられた。このNGO組織は2014年以来、人種・国籍・性別等の差別なく、困難な状況に置かれた避難民をずっと助けてきた。
ユリヤはハルキウが危険な状態にあることを知らなかったわけではなかった。逃げ遅れたのではなく、困難な状況にある人々を助けるために敢えてハルキウに留まったのだ。2022年2月の終わり、ロシアがウクライナへの軍事侵攻を始めた直後、ユリヤはすぐに行動に出た。彼女は志願兵だった。兵と言っても武器を持って戦っていたわけではなく、避難民に食料や医薬品を届けるボランティアをしていたのだ。砲弾飛び交う危険なハルキウで、彼女をそのような行動に駆り立てたのはお母さんの影響だったかもしれない。そして何よりハルキウは彼女が生まれ育った街、ハルキウを見捨てて離れるわけにはいかなかった。
彼女の死が特別なのではない。ロシア軍の侵攻以来、無惨に失われてきた数多くの命の中の一つだ。ただユリヤ・ズダノフスカの精神と行動は、私には心に感じるものがあった。彼女は私の中の英雄だ。
電子証明書のスマホへの格納はマイナンバーカードがなくてもできるように
最近、こういうニュースがあった。
スマホにマイナンバーカード搭載、22年度中にもAndroidで実現へ - ケータイ Watch
マイナンバーカードをスマホに入れる、という話自体はもう何年も昔からあったが一向に進んでいなかった。それが漸く2022年度中には実現するのか、という期待を抱かせるニュースである。「マイナンバーカード機能を入れる」となっているが、実際にはマイナンバー部分をスマホに搭載するのはまだ先の話で、今年度中に入れようとしているのは電子証明書だろう。
一方で、このニュースの中で気になることがある。それはマイナンバーカードをスマホの中に入れるに当たってプラスチックマイナンバーカードが必要になる、ということである。これはかなり由由しき問題だ。
数か月後、「マイナカード(電子証明書)がスマホに入れられるようになりました」というニュースを聞いた人。
「あら、これは便利ね。ぜひ使ってみたい」
役所に問い合わせる。
役所の人「マイナンバーカードはすでにお持ちですか?」
「いいえ、持ってません」
「では、先ずマイナンバーカードをお作りください」
「どうすればいいですか?」
「厳格な本人確認が必要なので役所までお越しください」
役所まで足を運ぶ。
「来ました」
「では、先ずあなたのマイナンバーカードをお作りします。少々お待ちください。・・・できました。そのカードをスマホに当ててください。そうです。これであなたのスマホの中に電子証明書が入りました」
「ありがとうございます。スマホの中に電子証明書が入っていれば充分なので、このプラスチックマイナカードは要らないんですけど」
「では捨ててください」
今作ってもらったばかりのプラスチックマイナカードをゴミ箱へぽいっ。
これはあきらかに無駄なプラスチックごみを増やしている。しかしこういう人が現れるであろうことは今の時点からでも十分想像できる。なぜ「プラスチックマイナカードが前提として必要」などというおかしな仕様にしてしまっているのか。
もちろんオンラインで申請するときに厳格な本人確認が必要だから、という理由はわかる。だが、市役所の隣に住んでる人が窓口に赴いたときはどうなのだ。本人がパスポートやら免許証やらわんさか証明書類を持って窓口に来ているのだから、これ以上の厳格な本人確認はない。で、本人が「スマホ版がほしい。プラスチックカード版は要らない」と言っているにもかかわらず、一旦プラスチックカードを発行しなければならないというのは、なんとも阿呆らしい仕様だ。本人が望むなら、プラスチックカードは発行せずに電子証明書を直接スマホの中に入れてやれるようにすべきだ。
何の話かピンとこない人はみんな、モバイルSuicaを思い出してほしい。Suicaにはプラスチックカード版のSuicaと、スマホ版のSuica(モバイルSuica)がある。二つ持っている人もいるかもしれないが、スマホの中にSuicaが入っていればそれで充分で、プラスチックのSuicaは要らないと思う人も多いだろう。で、JRにモバイルSuicaの発行を申し込んで、「まずは一旦、プラスチックのSuicaを発行してください」と言われたらどう思うか。「次にそのプラスチックSuicaからスマホにデータを移行します。これでスマホの中にSuicaが入りました。」「プラスチックカードのSuicaは要らない?ではどうぞお客様自身で捨ててください」。
これはなんとも馬鹿らしい話だ。今ならまだやり直せる。総務省、デジタル庁の関係者の人、もしこれを読んでいたらどうか考え直してください。
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現代日本の「本」をめぐる危機的状況
大学入学共通テスト最低平均点問題から見る日本の世代間格差に対する鈍感さ
令和4年度の大学入学共通テストの数学1Aの平均点が史上最低になったとの報道があった。前身のセンター試験時代を含めて最低とのこと。
共通テ、7科目で平均が過去最低 最終集計を発表、数1・Aなど:東京新聞 TOKYO Web
私はこの問題はもう大分昔から指摘している。
が、それからちっとも事態は改善されていない。世間がこれを大きな問題と見做さず放置しているからだ。
この手の問題に対するよくある声は、「問題が難しかったのは他の受験生も同じ。あなただけじゃない」、「条件はみんな一緒」という暴論である。
「難しい問題の方が得意」、「易しい問題の方が得意」というタイプの人がいる。どういうことかと言うと、例えばここに30人のクラスがある。難しい英語のテストと易しめの英語のテストを実施する。「私はこのクラスでは英語のテストはいつも15 ~20位くらいでそれより上にも下にも行きません」という「不変」の人もいる。「難しい問題の方が得意」というタイプの人は難しめのテストでは30人中5位になるが、易しめのテストでは22位になる。逆に「易しい問題の方が得意」なタイプの人は難しめのテストでは25位だったのが、易しめのテストでは6位になったりする。同じクラスの同じメンバーで受けたテストである。問題の難易度で大きく順位が変動するタイプの人というのはいる。「テストの難易度は関係ない」だとか、「すべての人に平等に影響する」と言うのであれば、このように大きく順位が変動する人はいないはずである。
これはテストに限らず、もっと多くのことについて言える。例えばマラソン。「このコースは上り坂が多いだって?そんなことに文句を言うな!上り坂がきついのは皆同じ。条件はみんな一緒」。
そんなことはない。上り坂は確かにきつい。すべての選手が上り坂ではペースダウンする。だがそのペースダウンの幅が違う。上り坂を異常にきつく感じてしまう選手もいれば、上り坂で他の選手がバテることを大チャンスと感じる上り坂が得意な選手もいる。マラソン選手たちは、自分が上り坂が得意なタイプか、それとも平地で力を発揮するタイプかを分かっているので、自分に合ったコースの大会に参加する。「自分は上り坂が苦手だ」という自覚がある選手は、わざわざ上り坂が多いことで有名な大会は選ばない。
高校生は皆、共通テストの難易度を知った上で受験しに来ている。これぐらいの難易度だったら自分に合っていると思ってプランを組んでいるのだ。蓋を開けてみたら難易度が過去のものと大幅に違っているというのは、マラソンコースが当日に大幅変更されるようなものだ。「共通テストがこんなに難しい(易しい)んだったら、私大の方を受けておくんだった」とか、全体の受験計画、進路計画が大きく変わってくる。
こんな酷いことは許されないことだ。
だが、この問題は糾弾されなかった。ネット上で少し批判の声も見たが、ほんの少しだけで、大学入試センターに対する大きな糾弾の声にはならなかった。
なぜか。それは、日本人が世代間格差に対する感覚が鈍感である、ということが上げられると思う。
日本には、「戦争世代」とか「氷河期世代」のように、特定の「はっきりと不幸な世代」というものが存在する。共通テストでも、同一年度内の格差については是正しようとする。例えば公民で現代社会を選択した人と倫理を選択した人とで大きな不公平が生じないように得点調整を行ったりする。だが違う年度間の不公平についてはほったらかしである。去年は易しく、今年は激ムズ、という不公平を誰も問題として取り上げない。
こういうところに、私は日本人の、世代間格差に対する恐ろしいまでの鈍感さを見る。この鈍感さこそが戦争世代や氷河期世代といった不幸な世代を生み出し、そしてこれからも生み出し続けていくのだろう。
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