漸近龍吟録

反便利、反インターネット的

「頭がいい」の意味は変わってきた −今も学歴が重視される一つの理由−

 「頭がいい」の意味はとても難しくて、どういう人のことを「頭がいい人」と言うのかは人それぞれである。
 
 英語だと、wise, intelligent, smart, clever などいろいろあるが、日本語ではそれらを「頭がいい」で済ませている。日本語でも「賢い」など別の言い方はあるが、「賢い人」とはどういう人なのかというとやはり定義ははっきりしていない。
 
 ここでは仮に「勉強ができる人」のこととしよう。具体的には東大かそれに準ずる高偏差値の大学を出ている人のこと、としよう。
 
 その上で「頭がいい」の意味は昔と今とで変わってきた。昔、昭和時代ごろまでは頭がいい人は物識りだった。物識りな人が「頭がいい人」と呼ばれていたとも言える。博学でたくさんの知識があった。それらの知識の一部は「教養」とも呼ばれた。
 
 昭和時代のパソコンやインターネットがなかった時代の会社では、知識がなかったら、漢字や言葉を知らなかったら、書類一枚さえ書くことができなかった。どこの会社にも『大辞林』、小型の国語辞典、漢和辞典、英和辞典、『現代用語の基礎知識』のような百科事典っぽいものが常備されていたが、近くの席に物識りな人がいれば重宝された。物識りな人というのは今で言うところのグーグル先生のような存在だった。
 
 しかし、現代の「頭がいい人」は物識りではない。 
 
 TVのクイズ番組などで「東大生でも3割の人しか知らなかった超難問です」などと言っているが、抑々、昔の東大生と違って現代の東大生は物識りではない。今の時代の大学入試問題では単に知識を問う問題は偏差値の低い大学ほど出題される。
 
 例えば、
 
 問、『枕草子』の作者の名前を答えなさい(答、清少納言
 
という問題が、東大など偏差値の高い大学になったら、
 
 問、『沙石集』の作者の名前を答えなさい(答、無住)
 
になるわけではない。知識の難易度が上がるわけではなく、このようにシンプルに知識を問う問題自体が高偏差値の大学入試問題ではほとんど出題されないということだ。
 
 では、現代の高偏差値大学ではどのような問題が出題されているのかと言うと、国語や英語では読解力や要約力を問う問題が出題されている。また、試験時間に対して問題文が長かったり問題数が多かったりすることで、大量の問題を短時間で素早く処理する能力なども求められている。
 
 こうした傾向は最近に始まったことではなく1990年代頃からこうした変化は生まれていた。しかし世間の認識はそうした変化に追いついていなくて、世間は未だに日本の教育、テストと言えば「暗記重視、知識偏重」と言う人が多い。
 
 私が若い頃には「これからは学歴の時代ではない」とさんざん言われていた。だがそれから数十年が経った今、結局学歴が重視される傾向は変わっていない。なぜなのか。
 
 それは大学入試の出題傾向が世間に合わせて変容してしまったことで東大生の質が変容し、その結果、東大生(高学歴大学生)が会社に“合う”ようになってしまったからだ。
 
 今の時代の会社では博学な知識というものは求められていない。ほとんどの人が聞いたことがない文学作品の作者名を知っているとか、ほとんどの人が知らない漢字を読んだり書いたりできるとか、そんな能力はまったく求められていない。そんなものは必要になったときに目の前のPCかスマホで調べれば一秒でわかることであり、頭の中に入れておく必要がない。
 
 その代わりに現代の会社で必要とされているのは、文章を読んで内容や意図を理解する能力であり、大量の仕事を能率的に捌く能力であり、複雑な問題を切り分けて解決する能力である。
 
 つまり、「これからの時代は東大生は役に立たない」と言うとき、それは「知識ばかりあっても現代の会社では役に立たない」という意味だった。ところが、実際には大学入試問題において知識を問う問題が激減し、読解力やスピード力(速解力)を求める問題が増えたことによって、今どきの東大生(高学歴大生)は読解力やスピード力を持っている人たちということになり、現代の会社で求められる能力にマッチした人々になった。
 
 私の職場にも私より高学歴な人たちがたくさんいるが彼ら彼女らは驚くほどモノを知らない。私が偶に知識を披露する機会があると「なんでそんなこと知ってるんですか!?」と驚きの声を上げる。
 
 このように書くからと言って、別に私は彼ら彼女らを馬鹿にしたいわけではないし「こんなことも知らないのか」とマウントを取りたいわけでもない。私が言いたいのは、今の日本では知識や教養がゼロに等しくても高学歴の大学に入ることができ、そして彼らは職場では優秀・有能である、ということだ。
 
 「英語はわからない」という高学歴の先輩と一緒にPCを操作中に画面一面に英文が表示された。私が「OKでしょうか、キャンセルでしょうか?」と尋ねると、「よくわかんないけど、多分なんとなく◯◯は△△してもいいか?って聞いてきてると思うからOKでいいんじゃない?」と。後で私がゆっくり時間をかけて読んでみると確かにそのような内容だった。不思議なのは、「英語はまったくわからない」と言い、実際に知っている英単語の知識も私より全然少ないその先輩が、なぜ“なんとなく”で英文の大意を摑めてしまうのか、ということだ。私は職場でそういう高学歴者に何人も出会ったことがある。英語の話ではない。英語の話は一例であって、現代の高学歴者は知識がない分野のことでも“なんとなく”わかってしまう。“なんとなく”の感覚で要領や要点を摑んでしまうのだ。
 
 高学歴な彼ら彼女らは、私より全然知識がないが、私より全然仕事ができる。複雑な問題を理解し、要点を摑み、問題を整理して切り分け、仕事の分担表を素早く作り上げる。そして大量の仕事を効率よく処理する方法を考え、スピーディーに捌いていく。
 
 なぜそんなことができるのか。それは彼ら彼女らが高学歴大学出身だから。今の時代の高学歴大学はそういう能力を入試段階で求めており、それをクリアした人たちが彼ら彼女らだからだ。
 
 「頭がいい」の意味は変わってきた。「東大生」の意味も変わってきた。世の中は紙の時代からPC・インターネットの時代に大きく変わり、知識よりも理解力やスピード、問題解決能力が重視されるようになったが、「東大生」もそれに合わせるようにして変容したので、結果的に東大生は今の時代の職場においても有用なのである。
 

あらためて世界史を学ぶ

 

 山﨑圭一著『一度読んだら絶対に忘れない世界史の教科書』という本を読んだ。

 

 普段、こういうあんちょこ的な本はあまり読まないのだが、自分が世界史の大まかなあらすじが頭に入っていないことが気になっていたので読んだ。

 

 他の人のレビューにもたくさん書かれているが、この本は年号(何年に起こった出来事か)と細かい出来事を大胆に省いて、大雑把なストーリーとして記述しているので、流れが頭に入ってきやすい。

 

 内容は政治史が中心で、ということはひたすら戦争の話ばかりで、これは著者が悪いわけではないのだが、読み終わったときは些か暗澹たる気持ちになった。ドイツやイタリアは敗けることが多い。フランスは勝ったり敗けたり。イギリス・アメリカは歴史上、ほぼ勝ち続けている。そんな印象を持った。

 

 高校時代は日本史を選択した。なぜ日本史を選択したかと言うと、一つは世界のことより日本のことを先に学ぶべきだと思ったから。もう一つは、「世界史」と言いつつ教科書はヨーロッパ中心の歴史であることに不満があったから。私は大人になってから、自分がフィリピンやベトナムカンボジア、タイ、ラオスミャンマー、マレーシア、インドネシアなど東南アジアの国々の歴史をほとんど知らないことにショックを受けて自分で学んでみたことがあった。『一度読んだら〜』もヨーロッパ、中東、中国の歴史が中心で、アフリカ史や東南アジア史については触れられていないことが事前に断られている。

 

 そして、そもそも歴史とは何か、ということについて考えさせられる。今上天皇の御専門は交通史らしいが、このような◯◯史はたくさんある。文学史、美術史、音楽史、経済史、スポーツ史、建築史、服飾史、料理史、鉄道史、等々、この世界に存在するテーマの数の歴史が無数にある。教科書に書かれているのは、そのたくさんの◯◯史の中の一つの「政治史」だ。

 

 私が前から不思議に思っていることがある。史学科卒の人たちだ。史学科の人は歴史が好きだから史学科に進んだのだろうが、しかしあらゆる歴史を網羅的に勉強しているという人はいないだろう。史学科の人に会うと、大抵、「私は中世のドイツ史が専攻で」とか「古代の中国史が」とか「近代のアメリカ史」とか、あるいはそれ以上に細かく専攻が分かれている。そうすると国の数✕時代の数だけ専攻が存在する。国だけで何百もあり、時代も数多くあるわけだから、掛け合わせると膨大な組み合わせが存在する。その膨大な組み合わせの中からどうしてその国のその時代のことを専攻しようと思ったのか。史学科の人に一人ひとり聞いてまわりたいと思うことがある。

 

 『一度読んだら〜』は教科書と違って細かい話をいろいろと端折ってあり、またテーマも政治に絞ってあるので、世界史の大まかな流れを理解するのに役立った。と同時に、高校の世界史の教科書がいかに(ある程度)網羅的に書いているか、ということも感じた。この本で大まかな流れを理解したら、もう一度あらためて高校の教科書が読みたくなった。

 

ストレスに強いとは何か

 

 知人に「何をモチベーションに仕事をしていますか」と尋ねられた。私がモチベーションは何もないと答えると「 モチベーションがなくても仕事できるなんてすごいですね」と言われた。
 
 こういう風に言われることがよくある。過去に複数の人から言われたことがある。
 
 「どうやってストレスを発散していますか?」と聞かれ、私がストレスは発散したことも解消したこともない、と答えると、「すごい!強いんですね」と言われる。強くなんかない。私はストレスには弱い。日々、ストレスによって大きなダメージを喰らっているのに「強いですね」と言われる。
 
 私が人生の大半の時間を一人暮らしで過ごしている、と言うと、「わかります」と言われる。「わかります、結婚すると家庭に縛られて自分の好きなことをする時間がなくなってしまいますよね。一人のほうが気楽でいいですよね」と言われる。私は一人のほうが気楽でいい、なんて思ったことはない。私は一人暮らしは嫌なのである。
 
 なぜ人は、誰もが望んだ通りに生きていると思うのだろう。
 
 確かに私はストレスは発散したり解消したりせずに、ひたすら溜めていく一方の人間だが、それを「ストレスに強いんですね!私だったらそんなストレスに耐えられません」と言うのは違う。それは重病に罹っている人間に、まだ心臓が動いているという一点のみを取り上げて、「こんな重い病気に罹っても生きているなんて強いですね!」と言っているようなものだ。強いのではない。強かったら病気には罹っていない。弱いから病気になっているのである。
 
 あるいはホームレスの人に向かって「家がなくても生きていけるなんて強いですね!私だったら屋根がある所じゃないととても眠れません」と言うのと似ている。強いんじゃない。弱いからホームレスになっているのである。生きていく力がもっと強かったならばホームレスになんかなっていない。
 
 私が、仕事するのにモチベーションなんかなくていい、モチベーションがなくても全然平気、と言ったのなら、「すごい」「強いですね」という言葉は当てはまる。だが、私はモチベーションが何もない状態で働くのはつらいのである。
 
 褒めてくれているつもりなのだろうが、ストレスという名の重りを引きずって歩いている人に向かって「すごい」とか「強い」とか言ってはいけない
 
【関連記事】

常識を疑う 〜三浦梅園生誕300年〜

梅園思想の入門書『多賀墨卿君に答ふる書』

 「普通は」、「常識的に考えて」。近年こういう言葉を使う人をよく見かけるようになり怖ろしく感じている。しかし、日本人の「常識」好きは昔からかもしれない。日本人の「常識」好きは数百年来の「伝統」なのだろう。日本人はもう何百年も「常識」という名の狭い世界に跼ってきた。今から300年前、そうした「常識」に囚われることに対し注意を促した思想家がいた。
 
 今年2023年は、大分県国東半島の思想家、三浦梅園の生誕300年の記念すべき年に当たる。
 
 三浦梅園は学生時代に『玄語』を読もうとして難しすぎて頓挫したことがある。しかしもっと平易な本もある。『多賀墨卿君に答ふる書』は梅園思想の入門書として最適な本だ。そしてこの本の中には梅園思想の魅力が存分に詰まっている。
 
 梅園の思想の魅力は、「人には人癖つき候て我にあるものを推して他を観候なづみやみがたく候」という徹底して“常識”を疑ってかかる姿勢にある。
 
神鳴り地震るゝたりといへば人ごとに頸を撚りいかなる訳にやといひののしる。(中略)其人地動くを怪しみて地の動かざる故を求めず雷鳴る所を疑ひて鳴らざる所をたづねず。是空空の見ならずや。此故に皆人のしれたる事とおもふは生れて智の萌さざる始より見なれ聞なれ觸れなれたる癖つきて其知れたると思ふは慣れ癖のつきたる事なり(『多賀墨卿君に答ふる書』)
 雷や地震があれば人々はどうして雷が鳴るのか、どうして地面が揺れるのか、と訝る。だが地面が動かない理由や雷が鳴らない理由を疑問に思う人はいない。「普通は雷は鳴らず、地面は揺れない、それが普通の状態」と思っている。これは生まれてからずっとその状態(雷が鳴っていない、地面が揺れていない)を経験してきているのでそれに慣れてしまってその状態を常識だと思ってしまっている、と梅園は言う。
 
 梅園は「習気(じっけ)」、「泥(なず)み」と言って批判する。現代の言葉で言えば「習慣」である。習慣が常識化していしまっている。自分の中で自分が生まれたときからの経験からくる「常識」が出来上がってしまっている。
 

「筈」という固定観念

 梅園が指摘している「筈」も、おそらく梅園が生きていた時代からの日本人の口癖だったのだろう。これは現代でも「常識」「普通」「素直」という言葉でずっと使われ続けている。
 
世の人いかがすますとなれば筈といふものをこしらえてこれにかけてしまふ也。其筈とは、目は見ゆる筈、耳は聞ゆる筈、重き物は沈む筈、かろき物は浮ぶ筈、是はしれたる事なりとすますなり
 沈む理由や浮かぶ理由を人々は考えない。なぜ沈むのかと問うても、「それは重いから沈むのだ、軽いから浮かぶのだ、常識じゃないか」と言う。
 
 梅園は「筈」といって常識としてそうなのだと思い込んでしまう姿勢を戒めた。
 
石物いふといふとも夫より己が物いふを怪しむべし
 石がしゃべったことに驚くのではなく、自分がしゃべっていることに驚け、と梅園は言う。
 
 かつて丸山眞男が言ったように、日本人は自分が生きている時代(現代)に通用している法則を「自然に」そうなっている、と見做す。そして自然則ち常識、と見做す。「常識」が異常に幅を利かしている日本においてはいつの時代も「現実=常識」である。戦時中なら戦争があることが「常識」であり、戦後なら戦争がないことを「常識」と言う。
 

常識に囚われない生き方

 梅園は、常識に囚われずに自分の目で世界を見よ、と言った。自分が生まれてからずっとそうだったもの、あるいは自分が生まれる前からずっとそうであるものを「常識」と言ってしまう人は多い。
 
 斯様な過剰な「常識」信奉は、常に「現実」の追認である。変化に対しては後追いである。日本はただただ「自然に」齎される変化に振り回されるだけの日々をもう何百年も過ごしてきている。この「振り回され」をやめるためには「常識」に囚われない生き方が大切だ。三浦梅園はその考え方のヒントを与えてくれている。
 
 
【関連記事】

 
 

リニア中央新幹線が開通した暁に起こること

 
 リニア中央新幹線建設推進派の言い分の一つとして、「バックアップ」がある。東京と大阪という日本の二大都市を結ぶ線がもう一本できることは日本を強靭にする、という主張である。東海道新幹線にもしものことがあったときにリニア中央新幹線を使うことができる。逆も然り。そしてまた、線が二本になることで、東海道新幹線の混雑緩和にも繋がる、と。
 
 しかしリニア中央新幹線が開業した暁には、これらの建前はなし崩しに消えていく。
 
 「コスト教」「効率教」と言ってもいいぐらいコストと効率のことばかり考えている日本では、建前は崩れ去る。
 
 JR「今後、東海道新幹線は漸次、縮小していきたいと思います。約束が違う?私たちもボランティアじゃないんで。ビジネスなんで。二本の線を走らせているとランニングコストは二倍かかります。リニアの開業以降、お客様は速い方(リニア)にお乗りになる方がほとんどで、東海道新幹線の乗客は年々減少傾向にあり、経営を圧迫しています。また、東海道新幹線は開業から数十年を経過し老朽化も目立ちます。使われているシステムや部品は現代の基準では古い物が多く、同じメンテナンスでもリニアの何倍もの維持費がかかっているのです。こうした状況を踏まえ、東海道新幹線は今後、段階的に便数を減らしていくことといたしました。最終的に廃線とするかどうかはまだ決めていませんが、これからはリニア中央新幹線の増便を図るなどしてより一層のお客様の利便性向上に注力してまいりたいと思います。」
 
 それに対して、日本国民が「しょうがない」「しかたない」と言う未来まで見える。
 
 日本人の得手不得手がある。日本人は国家百年の計とかグランドデザインとか大きなことを考えるのが苦手である。一方で部分的な細かな効率化とか小さな改善を考えるのは得意である。日頃からコストと効率のことしか考えていないので、コスト削減、効率化の観点からJRの言い分を聞いて「なるほど尤もなことだ」と思ってしまう。二本の線を同時に運用し続けるのはコストがかかるし効率も悪い。人口減少で働き手不足の時代なのだから、少ないリソースを一本化した対象に集中的に投下したほうが効率がよい、と言い出す。
 
 斯くして、東海道新幹線の混雑緩和だとか、東京大阪間という日本の大動脈のバックアップだとかいう「建前」は消え去ってしまう。リニア中央新幹線建設反対派は、推進派に対して「そんなのは美辞麗句で飾った建前だ」と言うが、推進派はその建前すら維持できない。
 
 私がリニア中央新幹線建設に反対するのは、日本という我が社稷を強靭にするという考え方に反対だからではなく、寧ろその理想が実現されないだろうことを危惧するからである。
 
 

「銀行振込」という最先端の決済方法

Mohamed Hassanによる画像
 
 日本では2019年頃に「キャッシュレス元年」と呼ばれ、たくさんの「○○ペイ」が生まれ、人々の新しい決済手段に対する興味関心が高まった。
 
 数ある決済手段に対して、「古い」、「新しい」というイメージがあるだろう。私は「銀行振込」という決済手段は「新しい」と思っているのだが、多くの人は「古い」と思っているだろう。
 
 電子マネーQRコード決済に対して人々は「新しい決済手段」というイメージを持っている。NFC決済などは「もっと新しい」と思っているだろう。それに対してクレジットカードは「やや古い」。銀行振込は「もっと古い」、現金が「いちばん古い」、といったところだろうか。数々の決済手段のイメージを古い順に並べると次のようになるのではないか。
 
(古)
現金
銀行振込
クレジットカード
NFC決済
(新)
 
 なぜならば、「銀行振込」という言葉は自分たちが生まれる前からあったから。子どもの頃からずっとあったものだから、現金払いの次くらいに古い決済方法だ、と思っている。銀行振込が最新最先端の決済方法だなどとは誰も思っていないだろう。
 
 「銀行振込」という言葉はたしかに昔からあった。しかし「銀行振込」という言葉が指し示す中身は大きく変わっている。
 
 何十年も昔は、銀行振込というのは、銀行の窓口を訪れて、記入台で振込専用の書類に振込先の名前や口座番号と振込元(自分側)の口座番号やら連絡先やらを記入して押印して、番号札を受け取り、番号を呼ばれたら窓口に座っている銀行員にその書類を差し出す。「お掛けになってお待ちください」と言われて再び待ち、何分か何十分か待ってやっと、振込の手続きが完了したことを告げられる。これが「銀行振込」だった。
 
 その後、ATMが普及し出して、銀行振込は窓口の銀行員に頼まなくてもATMから行えるようになった。
 
 今はもっと違う。窓口にもATMにも行く必要はない。自宅にいながらPCやスマートフォンから振り込む。
 
 この「オンライン決済」というのは私はかなりスマートな決済方法だと思っている。ところがほとんどの日本人はなぜかオンライン決済にあまり関心がない。
 
 どの決済方法が最も優れているか、という議論のときも名前があがるのはクレジットカード、Suica、PayPayなどで、「銀行振込」の名があがってるのは見たことがない。皆、「こっちの決済方法のほうがタッチした時の反応速度が少し速い」とかそのような話ばかりしている。「タッチした時の反応速度」というのは対面・オフライン決済の話であり、日本人はなぜか決済の話となるとオフラインの話しかしない。
 
 クレジットカードはオンライン決済でも使えることが多いが、どうせオンラインならクレジットカード会社を噛ませるよりも銀行振込のほうがシンプルだ。ほとんどの日本人は銀行口座を持っているのだから自分から相手へオンラインでお金を移動させるだけ。これで支払ったことになる。銀行振込は「送金」や「入金」の手段と捉えられていて「決済」手段だとは思っていない人が多いのかもしれない。
 
 また、「銀行振込は手数料がかかる」ということを指摘する人がいるかもしれないが、手数料はクレジットカードでもその他の決済方法でもかかっている。客側に課すか店側に課すかの違いだけで、店側に課した場合も商品の値上げとして客側に跳ね返ってきている。今は振込手数料がかからないサービスも登場している。
 
 以前、年配の上司が「最近のネットバンキングとかデジタル通貨とかいう風潮はいかがなものかねぇ。パソコン上で数字が変化するだけって怖しいよね。お金が動くっていう実感を得られないよね」と言っていた。だが、その上司は人生でずっと給料を銀行振込で受け取って来たのではないのか。銀行振込はデジタルである。貴方は通帳の数字が増えたのを見て給料をもらったと認識してきたのではないのか。お金が動く実感と言うのなら、紙の給料袋に紙幣を入れて手渡しで給料を受け取るべきである。(と心の中で思ったけど上司なので言えなかった)。
 
 「キャッシュレス」や「デジタル通貨」が話題になるとき、なぜか銀行振込はいつも蚊帳の外である。改札機やレジカウンターまで足を運ぶ必要がない「銀行振込」という決済方法は、私は現状もっともスマートな決済方法の一つであると思っている。だがほとんどの日本人はキャッシュレスについて話し合うときに銀行振込を思い出さない。
 
 衰退しつつある銀行業界自身も、この魅力に気づいていないように見える。せっかく全国民にアカウントを作らせているのだから、銀行振込は本来なら銀行の大きな武器であり強みである。持って行き方次第では、銀行振込をこれからの時代の主要な決済手段に持って行くこともできる。なぜこの強みをもっと生かしていこうとしないのだろう。やはり銀行はクレジットカード会社と蜜月の関係にあるから、クレジットカードと競合するサービスは展開しにくいということなのだろうか。
 
 銀行振込は多くの日本人にとって盲点になっている気がする。言葉自体が古くからあるので全然「新しい」感じがしない。しかし今の銀行振込はアプリ化し、他の決済方法にくらべてシンプルかつスマートな決済方法である。
 
【関連記事】


なぜ日本人はプラットフォーマーを批判しないのか

 こんなニュースを見かけた。
 これに対し、「捏造した人が一番悪い」、「これは弁護士が悪い」、「お母さん側が悪い」、「反訴したほうが悪い」という意見はたくさん目にするが(例えばはてなブコメ欄参照)、批判の矛先をイーロン・マスクに向けているコメントをほぼ見ない。
 
 日本人はどうしてプラットフォーマーを批判しないのか。どうしてここまで奴隷根性が染み付いているのだろうか。
 
 富裕層の人間が奴隷たちにどちらかが死ぬまで殴り合いをさせて楽しむ、という話を昔どこかで目にしたことがあるが、それを思い出した。奴隷たちは自分たちが富裕層のおもちゃにされていることには気づかず、対峙している相手の奴隷を憎んでいる。
 
 日本人はすぐに「使う人の問題」と言いたがる。「賢く使えばいい道具」、「使う人のモラルが問われている」、挙げ句に「嘘を嘘と…」と言い出す始末。
 
 娘さんが出ていた番組の件でも、「中傷する人は厳罰に」みたいな声はたくさん目にしたが、そもそも人の人生をおもちゃのように扱う番組をつくって放映する放送局を批判する声はとても少なかった。
 
 EUは相手がアップルであろうがグーグルであろうがちゃんと批判したり厳しい措置を科したりしていく。日本は海外のあとにそれを真似することはあっても一番最初に批判していくことはない。例えば「今のスマホはアップルかグーグルかの二択なんだからしょうがない」「アップルが嫌だったらグーグルを買うしかないし、グーグルが嫌だったらアップルを買うしかない、そういう時代なんだからしょうがない」と言う。
 
 パクツイや中傷ツイなどはもう何年も昔から問題とされているのに、ツイッター社はまったく改めようとしない。議論が侃々諤々白熱してたくさんの人々が参加してきてくれたほうが広告収入が儲かるからだ。
 
 難しくて判断に迷うようなツイートならともかく、人間が見て判る程度のパクツイ、デマツイ、中傷ツイをAIが判断できないわけはなく、ツイッター社は敢えてそういうツイートを残しているのだ。
 
 日本人は絶対に巨大プラットフォーマーを批判しない。日本ではこれからも安心して殴り合いの催しを続けていけそうだ。「誹謗中傷はやめましょう」、「そんな巨大な相手に文句を言ってもしょうがない」、「ユーザーひとりひとりのモラルの問題」が口癖の日本人からは、まだまだ金を巻き上げ続けることができる。
 
【関連記事】