漸近龍吟録

反便利、反インターネット的

頭が柔らかい人はなぜみんな悪人なのか

 
 私は昔から、柔らか頭な人が好きだ。頭が固い人が嫌いだ。
 
 だが、世の中なぜか、柔らか頭の人はほとんど悪人だ。一方で“善人”たちは頭が固いことが多い。もちろん世の中の人間を「善人」と「悪人」に綺麗に二分できるわけではないが、仮に善人と悪人に分けたとすると、善人ほど頭が固い。なぜなのか。
 
 ジェフ・ベゾスイーロン・マスク孫正義堀江貴文、名前を上げるのもいやなくらい嫌いなのだが、語弊があるかもしれないが私はこうした人々の頭の柔らかさは好きである。
 
 「ここは奥深い山間部だからインターネットは届かない。仕方ない。あきらめましょう」と皆が言っているところを、「地上のインターネットが引けないなら宇宙からインターネットを繋げばいいじゃない?」と言う頭の柔らかさが好きだ。
 
 私は善人か悪人かで言えば善人が好きで、頭が柔らかい人と固い人だったら柔らかい人が好きだ。つまり、善人でかつ頭が柔らかい人が好きだ。
 
 だが、世の中には「善人で頭が柔らかい」という人間がとても少ない。
 
 誤解のある言い方かもしれないが、振り込め詐欺グループが次々と新手の手法を考え出すのも好きだ。“普通の善人”たちが「騙されないぞ」と言って対策を練るが、頭の柔らかい悪人たちはその対策を搔い潜る新たな手法を考案する。善人たちは手口を学んで対策を立てようとするが、テレビやネットで紹介されている手口はすでにもう古い。
 
 こう話すと、「どうやら、あなたは自分自身のことをジェフ・ベゾスイーロン・マスクのような柔らか頭側の人間だと思っているようですが、それならどうしてあなたは彼らのような大きな成功を収めてないんですか?」と言ってくる人がいるかもしれない。
 
 それは実行するかどうか、なのだ。何の遠慮もなく、そのアイデアが齎す悪影響を考えることもなく実行に突き進むなら、柔らか頭は大きな成功を収めることができる。私は振り込め詐欺犯の柔らか頭に魅力を感じるが実行はしない。アイデアを思いつくということと、それを実行に移すことの間には大きな懸隔がある。思いついたアイデアをそのまま実行に移すなら、私は悪人になる。
 
 翻って、世の中のいわゆる“善人そう”な人々は、こういう「柔らか頭」を持ち合わせていないことが多い。頭の固い一般大衆の善人たちは「普通」や「常識」を支持する。彼らの言う「普通」や「常識」とは「現状」、「現実」のことである。
 
 だから“善人”たちの行動はどこまでも現実の後追いである。振り込め詐欺が生まれる瞬間や生まれる前のことには興味がなく、生まれてしまった振り込め詐欺に「どう対応するか」を考える。
 
 こうして世界はどんどん悪い方向へ変わっていく。なぜ頭が柔らかい人はみんな悪人なのか。日本の戦争で初めて鉄砲を使い大きなイノベーションを起こしたのも織田信長という大悪人だった。
 
 “普通の善人”たちは現状維持と現実対応しか行わない。革新的なイノベーションを思いつくのは悪人ばかり。世の中、悪い方向にばかり変化していくわけである。いつの時代も悪人が齎した大変化に、善人大衆が振り回されている。こんなことは終わりにしなければいけない。善人たちはもっと頭を柔らかくする必要があるし、頭の柔らかい悪人たちは、その頭の柔らかさをもっと善なることのために使うべきである。
 

女性対オタクの問題を見ていて思うこと

Steve Buissinneによる画像
 
 数年前からネット上で、一部の女性と(主に男性の)オタクたちの啀み合いをよく目にするようになってきている。
 
 特に問題となっているのは、いわゆる「萌え絵問題」である。
 
 秋葉原の街など公共の場所に「萌え絵」が描かれている。萌え絵は未成年の少女に見えるキャラクターが性的に強調されて描かれている絵だ。
 
 フェミニストと呼ばれる女性たちがこれを問題視している。また、こうした日本文化は欧米でも問題視されている。それに対して、主に男性と思われるオタクたちが反撥しているというのが現状である。
 
 私自身はと言えば、私は非オタクなのでああいう絵は好まない。私は秋葉原の街は仕事でしょっちゅう行くけれども、ああいう絵は不快だし無くなってほしいと思っている。
 
 だが一方で、オタクたちの反撥する気持ちもわからないではない。
 
 そもそも、この数十年は「女性の道」ばかりが整備されてきた数十年だった。「男性の道」は整備されないどころか、ひたすら制限される一方だった。
 
 女性は快適に道を歩けるようになる一方で、男性たちはひたすら窮屈な思いをしどんどん女性との接触そのものを避けるようになっていった。多くの男性たちが、もう生身の女性と関わるのは「面倒事」でしかない、という認識になっていった。
 
「はい、もう結構です。僕はこれからは2次元の女性だけを見て生きていきます。あなたたち3次元の女性には一切迷惑はかけませんから」
 
 そう言って多くの男性たちが「面倒」で「厄介」な3次元(リアル)の女性を避け、2次元の世界に逃げ込んで行った。そして「逃げ込んだ」男性たちは2次元の世界でやりたい放題、のびのびと振る舞った。
 
 オタク男性たちは「フィクションなんだから別にいいじゃないか」とよく言うが、私は日本のオタク文化における表現はフィクションにしても行き過ぎていると思う。
 
 日本はこの2次元の世界の文化が異様に発展している。3次元リアルの世界で息苦しくなったことへの反動だろう。これはいわゆる日本の「会社文化」に似ている。仕事中は真面目で堅苦しく、飲み会になると嵌めを外し過ぎる。欧米人が飲み会でもそこまで嵌めを外さず、仕事中もそこまで堅苦しくないのと対蹠的である。
 
 3次元の世界があまりに息苦しく、2次元の世界に逃げ込んでやっと自分たちだけで自由に伸び伸び楽しんでいるのに、そこにまで口を出されたら反撥を感じるのは当然だと思う。
 
表通りを「キレイ」に保つために男性たちを追い詰める。
 ↓
息苦しくなった男性たちが2次元の世界に逃げ込む。
 ↓
「自由」な世界でオタク男性たちは好き勝手放題。
 ↓
発展しすぎた2次元文化が表通りに溢れ出る。
 ↓
表通りに見えている2次元文化が不快だと批難する。
 
 これは男性たちにとっても女性たちにとっても不幸なことだ。3次元の女性に興味を持たず2次元の女性にしか興味を持たない(持てない)男性が増えているということ自体が異常なことだと思う。もっとリアルの世界で男性たちが生きやすい道を整備していかなければならない。そのことが引いては女性たちにとっても生きやすい世界に繋がる。
 

追悼 渡辺京二

 

 
 歴史家、思想家の渡辺京二がなくなった。
 
 市井の学者だった。たくさんの著書を残しているが、基本的に役職に就かない人生だったため、その業績に比しては知名度は低いと思う。
 
 「名著」との誉れ高い『逝きし世の面影』は若いころに読んだ。その後も折に触れて何度も再読している。こんなに読み返す本はなかなかない。
 
 江戸時代までの日本にあった一つの美しい文明が明治時代に失われてしまったことを嘆く書だ。幕末から明治にかけて来日した外国人たちの言葉を借りているとは言え、ここまで昔の日本の美しさを鮮やかに描き出した書は他に知らない。
 
 これまた名著として知られる、石牟礼道子苦海浄土』の影の立役者としても知られる。病気で身体の自由が利かなかった石牟礼の日常生活を支え、執筆活動を支援していたらしい。
 
 私は渡辺京二という人のことをほとんど知らない。石牟礼道子を支えていたというのはネットに載っている程度の情報だ。少し偏屈で風変わりなところもあったようだが、私は渡辺京二の思想もよく分かっていない。ただ、いくつかの著書からその片鱗を窺い知るだけだ。
 
 渡辺の著作には酷評が寄せられることがある。曰く、
「昔はよかった、と言ってるだけ」
「江戸時代を美化し、暗黒面を見ていない」
等々。
 
 これらの批判は渡辺は予想済みで、それに対する答えを書いている。
私はたしかに、古き日本が夢のように美しい国だという外国人の言説を紹介した。/だがその際の私の関心は自分の「祖国」を誇ることにはなかった。私は現代を相対化するためのひとつの参照枠を提出したかったので、古き日本とはその参照枠のひとつにすぎなかった。
渡辺が描き出すのびやかな江戸時代が一面にすぎず、その反面に暗黒があったのは誰それの著書を見てもわかるという批評を案の定見かけたけれど、それがどうしたというのだ。ダークサイドのない社会などないとは、本書の中でも強調したことだ。(『逝きし世の面影』あとがき)
 渡辺京二を批判する人は少なくともこの渡辺の回答を踏まえた上で批判しなければならない。渡辺は単に昔はよかったと言っているのでもないし、江戸時代に暗黒面がなかったと言っているのでもない。
 
 また、「自分の『祖国』を誇ることにはなかった」と言っているが、『逝きし世の面影』は、いわゆる「日本すごい」系の人たちに“誤読”されることがある。
 
 平凡社ライブラリー文庫版『逝きし世の面影』の巻末の解説を平川祐弘*1が書いているのに気づいたときは驚いた。平川祐弘小泉八雲の翻訳者として有名で、日本の美しさを語った明治時代の外国人、という点ではたしかに共通している。しかし、思想的には渡辺とはかなり逆な人なのではないか。『逝きし世の面影』の解説を平川祐弘に頼んだのは正しかったのか?
 
 そしてその解説の中で「石原慎太郎氏が本書を高く評価」と書いている。渡辺は石原慎太郎の名前を出されて嫌ではなかったのだろうか?石原慎太郎は2016年の(最終的に2021年の)東京オリンピックをやろうと言い出した人である。渡辺の思想は、簡単に言えば近代の「開発」が古き良き風習をぶち壊してしまったと主張する思想である。オリンピックとは対極にある思想だと思える。渡辺は『逝きし世の面影』が「日本すごい」系の人たちから“誤読”されて賞賛されることを嫌ったわけだが、石原慎太郎などはその系の最たる人ではないのか。解説を書いてくれるという好意はさすがに受け入れざるを得なかったのか、自分とは違う思想の人も受け入れる度量があったということなのか。
 
 私は一時期、渡辺晩年の著作である『近代の呪い』や『無名の人』に書いてあった一部の言葉に反撥を感じて、渡辺京二を好きなのか嫌いなのか自分でもよくわからなくなった。しかし、そのような一部の気に入らないところは、昭和一桁生まれであることを考慮して目をつぶってよいところなのかもしれない。小さいことにかかずらって渡辺の大きな思想が見えなくなるとしたら、それは「江戸時代には暗黒面もあった」の一言で江戸時代の美しさが見えなくなってしまう人間と同じだ。
 
 渡辺は晩年、同郷の作家である坂口恭平を高く評価していたらしい。おもしろい。渡辺から見たら孫ぐらいの歳の差だ。私はまだ渡辺京二の思想の一端しか垣間見れていないのだろう。
 
 渡辺京二の思想や生き様は魅力的だ。もっと知られて評価されるべき人だ。一度会ってみたかった。
 

*1:※祐は示に右

Twitterの代替が見つからない理由

 

Twitterがなくなったら困る

 自分はTwitterの古参ユーザーの方だと思うがTwitterがなくなったら困る。
 
 と言っても、私はほとんどツイートしない。TLを眺めているわけでもない。Twitterは主に検索ツールとして使っている。つまりTwitterという検索ツールがなくなると困るのだ。
 
 Twitterには唯一無二の価値がある。いわゆるマスクショック以来、Twitterからどのサービスに乗り換えようかという話題がある。ただ単に呟いたりTLを眺めて暇潰しをしたりフォロワーとソーシャルな関係を維持したいだけなら、InstagramやLINEなど候補はいくらかある。だが、Twitterにだけあって他のSNSには無い特徴がある。それは「なう」だ。
 

「なう(今)」という価値

 Twitterの長所はなんと言っても「なう(今)」が分かるところだと思う。これがTwitterの最大の特徴にして長所だ。
 
 以前、Twitterのタイムラインで、NHKのど自慢の「評論会」が行われているのを見たことがある。テレビに次々登場する出演者のことをみんなで「評価」しあう。のど自慢は1人あたりの登場時間は約40秒から60秒ととても短い。文字入力が遅い人だったら感想を打ち込んでいる間に次の出演者に移ってしまう。
 
 で、こんなにも“リアルタイム”な批評会が実現できるSNSTwitterしかない。
 

Twitterの次の移転先が見つからない理由

 Twitterイーロン・マスクによって私物化されめちゃくちゃにされてから、多くのTwitter民は引っ越し先を探している。だが、なかなか見つからない。
 
 フェイスブックmixiの名前が移転先の候補として上がった。フェイスブックは、日本人は実名制に抵抗がある人が多いので駄目だろう。mixiはフォロー/フォロワーの関係をTwitterからそのまま移築したいだけなら使えないこともない。しかしTwitter民はmixiには引っ越さないだろう。「繋がり」は維持できても、Twitterの持つ「なう」というリアルタイム性がmixiには無いからだ。
 
 Tumblrは構造的にはTwitterに最もよく似ている。フォローフォロワーの仕組みやリブログ/リツイートの仕組みもほぼ同じだ。だがずっと日陰を歩いてきたTumblrが今から陽のあたる道に行けるだろうか。
 
 今のところ移転先の最有力と見られているのはマストドンだが、マストドンは場所が分散してしまうという欠点がある。Twitterユーザーは、引っ越し先で今と同じような形で再集合したいのだ。
 

必要とされているのは第2Twitter

 結局のところ、Twitterが持っている「なう」の価値を再現できているSNSはなかなか無い。
 
 私は家を出る前にTwitter検索で「山手線」で検索する。トラブルや遅延の情報をチェックするためだ。山手線の利用者もTwitterの利用者も充分に多いのでこの検索は有効に機能する。誰かが「山手線止まってる」「架線トラブルの影響によりだって」などと呟いている。JRの公式サイトの情報より早い。それを見て私は行き先を地下鉄に切り替える。
 
 私はTwitterを検索ツールとして使っているわけだが、こういう「なう」を検索できる検索ツールは他にない。グーグルで「山手線」で検索しても「山手線とは東京を走っている環状線で…」という説明しか出てこない。
 
 Twitterユーザーが求めているのは「第2Twitter」なのだ。Twitterとの差別価値とか要らない。Twitterの丸パクリでもいい。ただイーロン・マスクの悪ふざけに振り回されない、安定したTwitterがほしいだけだ。
 
[追記]
 いちばん書きたいことを書き忘れていた。
 2011年の東日本大震災のときも役に立ったのはTwitterだった。フェイスブックやLINE、Instagramなど他のSNSが役立ったという話は聞いたことがない。
 「○時○分現在、○○線は○○駅〜○○駅間で動き出しました」とか、「1時間前にすべて配り終わりました。今から行く人は並ばないでください」等々、“リアルタイム”な情報がとても役に立った。こういうSNSは他にない。
 
【関連記事】

【将棋】佐藤天彦九段の反則負けについて

 将棋の佐藤天彦九段がA級順位戦において反則負けになったというニュースがあった。
 
 
 このニュースに対するコメント(特にはてなブコメ等)を見ていて、「ルールなんだからしょうがない」的なコメントが多いのが気になった。そしておそらく将棋や将棋界のことをよく知らないと思われる人たちが適当なコメントをしているのが見るに耐えなかったので、ひとこと書いておきたい。
 
 初めに断っておくが、私は上記の毎日新聞の情報と将棋連盟の情報を元にこの文章を書いており、そこに書かれている以上の現場の詳しい状況は知らない。
 
 私がこのニュースを聞いたときに真っ先に思ったのは、対局相手なり立会人なりが一言「マスクをしてください」、「マスクが外れていますよ」と言えば済んだことということだ。このニュースに対して「反則負けは当然だ」というようなコメントをしている人たちは、おそらく佐藤天彦九段が「マスク拒否派」とか「マスクめんどくさい主義者」だと誤解しているのではないか。
 
佐藤天彦九段、マスク不着用で反則負け 将棋名人戦・A級順位戦 | 毎日新聞

片方だけがマスクせず息苦しさから逃れるのがOKになってしまったら、平等の条件ではなくなるので仕方がない。マスク着用ルールの是非と、片方だけがルールを破ったときの罰則問題とは分けて考えないと。

2022/10/29 04:10

 何か勘違いしている。息苦しさから逃れているのではない。佐藤天彦九段はマスクを着用したくなかったわけではないだろう。

 
 A級順位戦というのはとても対局時間の長い試合で、一局が短くても7〜8時間、長いと15時間以上にもおよぶこともある。棋士はその間、飲み物を何度も口にする。飲み物を飲む頻度は人によって違う。また、リップクリームを塗ったり、のど飴を舐めたりする棋士もいる。佐藤天彦九段は普段よくリップクリームを塗る印象がある。
 
 佐藤九段が飲み物などを飲んだりした後に“読み”に没頭してマスクを再び付けるのを忘れていただけだと思われる。
 
 普段、食事処で食事が終わった後にマスクを付けるのを忘れたまま、おしゃべりに没頭している人をよく見かけることがある。そういう人たちは店に入ってきたときはマスクをしていたわけだから、別に「マスク拒否主義」などという人でないことは分かる。そして、将棋を知らない人に理解してほしいのは、プロ棋士が盤面に集中するときの集中力たるや、私たちのおしゃべりの比ではない、ということである。
 
 「流石に30分はダメだろう」というコメントも見かけた。30分を相当長い時間だと思っているようだが、それまで12時間以上も戦い続けてきて深夜に入ってからの30分である。
佐藤天彦九段、マスク不着用で反則負け 将棋名人戦・A級順位戦 | 毎日新聞

対局中は会話しないから飛沫が飛ばないというけど、咳やくしゃみなど反射で出てしまうものが、盤を挟んで対面の距離で避け切れるかというと。棋士にも基礎疾患のある人や、家族にハイリスクの人がいるだろうしな

2022/10/29 08:00

 これらのコメントは意味不明。飛沫が心配? それならば、「マスクを付けてください」、「マスクが外れてますよ」と言えばよいではないか。対局中はしゃべってはいけないというルールがあるわけでもなし、口があるのだろう? ひとこと言えば、日頃から紳士的な佐藤天彦九段なら「ああ、失礼」と言ってすぐにマスクを付けるだろう。30分間、無言で飛沫を我慢しているより、15分目に声をかけてマスクをしてもらったほうが飛沫を浴びる時間も短く済むではないか。見知らぬ人ではない。狭い将棋界でお互い長年トップクラスで戦ってきた、よく知っている人である。カフェで隣の席の知らない人に言うのとは訳が違う。

 
 永瀬王座が訴えるのは自由だ。その権利はある。だが、最終的に判断するのは立会人と将棋連盟だ。今回は将棋連盟(佐藤康光会長)の名で裁定を下している。
 
 マスク着用というルールは、近年のコロナ禍を受けてできた新しいルールだ。しかし、それはあくまでも衛生に注意しましょうという主旨であって、こんな風に相手を陥れるためのルールではないはずだ。
 
 サッカーの試合でも、よほどの悪意があったり悪質な行為でないかぎり一発レッドカードなどということはない。
 
 将棋連盟が今回下した判断は、将棋を汚した、ということ。同じA級に属していて、深夜にまでおよぶA級順位戦の過酷さをよく分かっているはずの佐藤康光会長や他の役員たちが、永瀬王座の訴えを丸呑みしてしまった。A級順位戦の1敗がどれほど重いものかよく知っているはずである。
 
 かつて名人位に在位したこともある佐藤天彦九段への敬意が微塵も感じられない。
 
 他の棋士たちも今回の裁定に関しては怒るべきだと思う。
 
 大平武洋六段がブログで言及されています。

 

【将棋】里見香奈さんの“位置”

 将棋のプロ編入試験を受けていた女流棋士里見香奈さんが、0勝3敗の成績に終わり、今回も残念ながらプロ入りを果たせなかった。5番勝負で3勝すれば女性初のプロ棋士誕生となるところだったが届かなかった。
 
 私のような古くからの将棋ファンにとっても、「初の女性棋士誕生」は長年の夢である。試験前の私の予想は、際どい勝負になるだろうという予想だった。里見さんの実力は試験官を務めた新四段5人に比べて強くもないし弱くもない。互角ぐらいだと見ていた。今回は三連敗だったがそれはたまたまで、三連勝という結果であってもおかしくはなかった。
 
 ところで、私は以前から里見さんの「位置」が気になっている。将棋の実力の「位置」だ。
 
 将棋ファンの多くは、現在の里見さんなら、男性プロ棋士界の下位ランクで充分伍して行ける力を持っていると認めるだろう。しかしそれより上の方に行けるかと言うと、そこまでの力は今はないと感じる。
 
 奨励会三段リーグを抜けて新四段になる男性棋士たちには、大きな将来性と怖さを感じる。四段になって早い内に、連勝記録を作ったり、タイトル戦の上位にまで勝ち上がったりする人もいる。里見さんには、今のところそのような「とてつもない怖ろしさ」のようなものを感じない。つまり男性棋士の世界に入っても、タイトル戦の挑戦者になったりするところまでは行けなそうだと感じるのだ。男性棋士の世界で活躍するためには、もっともっと強くなければいけない。
 
 一方、里見さんは女流棋士の世界ではほぼ無敵に近い。女流棋士界は男性棋士界に比べて「格上の方が勝つ」傾向があるように思う。男性棋士界は藤井聡太さんでさえ勝ったり敗けたりだが、女流棋士界は格上が勝つことが多い。特に里見さんは別格で、トップクラスの女流棋士にさえ敗けることは少ない。里見さんと互角に戦えるのは西山朋佳さんのような奨励会三段リーグ経験者など数少ない人だけである。
 
 つまり、図に描くと里見さんは下図のような位置にいる。
 将棋界は囲碁界と違って男女の実力差が大きいから男性の「キリ」と女性の「ピン」の間に隙間の空間がある。この隙間の辺りに位置しているのが里見さんだと思う。男性と女性のあいだ。男性の世界で戦っていくには弱すぎるが女性の世界で戦っていくには強すぎる。
 
 こういう中途な位置にいるのは、かなり辛いことなのではないだろうか。実力的には奨励会三段ぐらいの人たちとは実力は釣り合うわけだから、同じくらいの実力の相手がいない、というわけではない。だが、奨励会三段くらいの「界」というものは存在しない。在るのは「(プロ)将棋界」と「女流プロ将棋界」の二つだけだ。一方はなかなか勝てない世界、もう一方はほぼ勝ってしまう世界。真ん中に立っているのにどちらの世界からも仲間に入れてもらえないような、そんな疎外感を感じることはないのだろうか。
 
 ひょっとしたら、こういうのは将棋以外でも他のスポーツなどでもあるのかもしれない。「強すぎる女性」は男子の世界とも女子の世界とも実力が釣り合わない。こういう位置にある人のことを気の毒に感じないこともない。
 
 もっともこれは、あくまでも「今のところ」の話である。今後実力を付けてまたプロ編入試験にチャレンジする機会も出てくるかもしれない。里見さんの実力があればこれからもプロになれるチャンスは来るだろう。応援したい。
 
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東京人は東京一極集中に反対している

 zauber2011による画像
 
 もちろん、すべての東京人が一人残らず反対しているということはないが。
 
 東京一極集中の問題になると、私たち東京人が批判されたり悪く言われたりすることが多い。おそらく多くの人が、東京人は東京一極集中に賛成/どちらかと言えば賛成、だと思ってる人が多いのではないか。
 
 だが、東京生まれ東京育ちの私は東京一極集中にはずっと反対である。そして私の身の回りの東京人たちも東京一極集中に反対している人が多い。東京人は東京一極集中に反対しているのだということをもっと知ってもらいたい。
 
 東京人が東京一極集中を嫌ういちばんの理由は、やはり「狭さ」と「人の多さ」だ。この二つは同じことでもある。東京の家、住居は人間の最低限の尊厳を奪ったような狭さである。ヨーロッパの「牢屋」のほうがまだ広くて快適なのではないか。そして一歩外に出ればどこも人込み。私たち東京人はこの人込みに毎日うんざりしている。
 
 東京一極集中をやめて地方分散化すべきだとずっと昔から訴えている。
 
 以前、はてなブコメを見ていて「東京一極集中を解消したいなら、先ずは東京人が地方に行かないとね。隗より始めよだよね」と言ってるコメントがあったのを見てびっくりした。「先ずは」という言葉の感覚が私とは全然違ったから。
 
 「先ずは」は「最初は」という意味だと思うが、その人は「東京人が地方に行く」という行動を最初に起こさないかぎり東京一極集中の問題は解決しないと言っているのだ。私の認識とは全然違う。私の認識では、東京一極集中は地方の人が東京に来ることによって引き起こされている。「先ずは」と言うなら「地方の人が東京に来ない(行かない)」ことこそ一番最初に為されるべきことだと思っている。
 
 ネットでは、「テレビは東京のことばかり」、「おいしい店特集とかもほとんど東京の店ばかり、やめてほしい」というような批判の声をよく目にする。しかし、私たち東京人も同様にそのことにうんざりしているのである。
 
 テレビのニュースを付けたら近所が映っている。関東ローカルのニュースかと思っていたら全国ニュースだったということはよくある。テレビが東京ばかりであるのが嫌なのは、ネットの情報がパーソナライズド化されている不快感に似ている。閲覧履歴や検索履歴から「この動画を見た貴方はこの動画にも興味ありますね?」と出してくる。トップページがもう個人最適化に染まっている。フィルターバブルにかけられて、自分が見る世界をとても狭くさせられているあの不快感だ。
 
 しかし、それでも東京人が東京のおいしいお店情報を見せられるのは、地方の人がそれを見せられるのに比べれば遙かにマシだろう。私は中学生か高校生ぐらいの時に、地方に住んでる親戚のお姉さんから「テレビは東京のおいしいお店とかばっかり。そんなの紹介されても別に行けないしねぇ」という不満を聞いて衝撃を受けたのを覚えている。地方の人は私たち東京人と同じようなお店紹介の番組を見ている、ということをその時初めて知った。もし私が地方人だったら、そんな番組を見せられたらイライラが募るだけだと思う。なぜ地方のテレビ局はその地方に則した番組を作らないのか。こういうのは「東京の横暴」と言うより、東京で作られた番組をそのまま垂れ流している地方のテレビ局に問題があるのではないか、とその時思った。
 
 東京は、私たち東京人にとってはかけがえのない「ふるさと」であり、地方から野心を持って上京して来た人たちの「実験場」ではない。
 
 日本人全員が東京に依存しすぎ、地方の魅力が見えにくくなってしまっていると感じる。魅力に気づいている人も少しはいるだろうが、そういう人たちも結局は「地方には仕事がないから」と言って東京に出て来ざるを得ない。だから、大学と企業をこれ以上東京に作らず、できるだけ地方に作ることが肝腎だ。
 
 東京はもうだいぶ昔から「人多すぎ」の状態にある。これ以上の人込みは勘弁してほしい。
 
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