漸近龍吟録

反便利、反インターネット的

「頭がいい」の意味は変わってきた −今も学歴が重視される一つの理由−

 「頭がいい」の意味はとても難しくて、どういう人のことを「頭がいい人」と言うのかは人それぞれである。
 
 英語だと、wise, intelligent, smart, clever などいろいろあるが、日本語ではそれらを「頭がいい」で済ませている。日本語でも「賢い」など別の言い方はあるが、「賢い人」とはどういう人なのかというとやはり定義ははっきりしていない。
 
 ここでは仮に「勉強ができる人」のこととしよう。具体的には東大かそれに準ずる高偏差値の大学を出ている人のこと、としよう。
 
 その上で「頭がいい」の意味は昔と今とで変わってきた。昔、昭和時代ごろまでは頭がいい人は物識りだった。物識りな人が「頭がいい人」と呼ばれていたとも言える。博学でたくさんの知識があった。それらの知識の一部は「教養」とも呼ばれた。
 
 昭和時代のパソコンやインターネットがなかった時代の会社では、知識がなかったら、漢字や言葉を知らなかったら、書類一枚さえ書くことができなかった。どこの会社にも『大辞林』、小型の国語辞典、漢和辞典、英和辞典、『現代用語の基礎知識』のような百科事典っぽいものが常備されていたが、近くの席に物識りな人がいれば重宝された。物識りな人というのは今で言うところのグーグル先生のような存在だった。
 
 しかし、現代の「頭がいい人」は物識りではない。 
 
 TVのクイズ番組などで「東大生でも3割の人しか知らなかった超難問です」などと言っているが、抑々、昔の東大生と違って現代の東大生は物識りではない。今の時代の大学入試問題では単に知識を問う問題は偏差値の低い大学ほど出題される。
 
 例えば、
 
 問、『枕草子』の作者の名前を答えなさい(答、清少納言
 
という問題が、東大など偏差値の高い大学になったら、
 
 問、『沙石集』の作者の名前を答えなさい(答、無住)
 
になるわけではない。知識の難易度が上がるわけではなく、このようにシンプルに知識を問う問題自体が高偏差値の大学入試問題ではほとんど出題されないということだ。
 
 では、現代の高偏差値大学ではどのような問題が出題されているのかと言うと、国語や英語では読解力や要約力を問う問題が出題されている。また、試験時間に対して問題文が長かったり問題数が多かったりすることで、大量の問題を短時間で素早く処理する能力なども求められている。
 
 こうした傾向は最近に始まったことではなく1990年代頃からこうした変化は生まれていた。しかし世間の認識はそうした変化に追いついていなくて、世間は未だに日本の教育、テストと言えば「暗記重視、知識偏重」と言う人が多い。
 
 私が若い頃には「これからは学歴の時代ではない」とさんざん言われていた。だがそれから数十年が経った今、結局学歴が重視される傾向は変わっていない。なぜなのか。
 
 それは大学入試の出題傾向が世間に合わせて変容してしまったことで東大生の質が変容し、その結果、東大生(高学歴大学生)が会社に“合う”ようになってしまったからだ。
 
 今の時代の会社では博学な知識というものは求められていない。ほとんどの人が聞いたことがない文学作品の作者名を知っているとか、ほとんどの人が知らない漢字を読んだり書いたりできるとか、そんな能力はまったく求められていない。そんなものは必要になったときに目の前のPCかスマホで調べれば一秒でわかることであり、頭の中に入れておく必要がない。
 
 その代わりに現代の会社で必要とされているのは、文章を読んで内容や意図を理解する能力であり、大量の仕事を能率的に捌く能力であり、複雑な問題を切り分けて解決する能力である。
 
 つまり、「これからの時代は東大生は役に立たない」と言うとき、それは「知識ばかりあっても現代の会社では役に立たない」という意味だった。ところが、実際には大学入試問題において知識を問う問題が激減し、読解力やスピード力(速解力)を求める問題が増えたことによって、今どきの東大生(高学歴大生)は読解力やスピード力を持っている人たちということになり、現代の会社で求められる能力にマッチした人々になった。
 
 私の職場にも私より高学歴な人たちがたくさんいるが彼ら彼女らは驚くほどモノを知らない。私が偶に知識を披露する機会があると「なんでそんなこと知ってるんですか!?」と驚きの声を上げる。
 
 このように書くからと言って、別に私は彼ら彼女らを馬鹿にしたいわけではないし「こんなことも知らないのか」とマウントを取りたいわけでもない。私が言いたいのは、今の日本では知識や教養がゼロに等しくても高学歴の大学に入ることができ、そして彼らは職場では優秀・有能である、ということだ。
 
 「英語はわからない」という高学歴の先輩と一緒にPCを操作中に画面一面に英文が表示された。私が「OKでしょうか、キャンセルでしょうか?」と尋ねると、「よくわかんないけど、多分なんとなく◯◯は△△してもいいか?って聞いてきてると思うからOKでいいんじゃない?」と。後で私がゆっくり時間をかけて読んでみると確かにそのような内容だった。不思議なのは、「英語はまったくわからない」と言い、実際に知っている英単語の知識も私より全然少ないその先輩が、なぜ“なんとなく”で英文の大意を摑めてしまうのか、ということだ。私は職場でそういう高学歴者に何人も出会ったことがある。英語の話ではない。英語の話は一例であって、現代の高学歴者は知識がない分野のことでも“なんとなく”わかってしまう。“なんとなく”の感覚で要領や要点を摑んでしまうのだ。
 
 高学歴な彼ら彼女らは、私より全然知識がないが、私より全然仕事ができる。複雑な問題を理解し、要点を摑み、問題を整理して切り分け、仕事の分担表を素早く作り上げる。そして大量の仕事を効率よく処理する方法を考え、スピーディーに捌いていく。
 
 なぜそんなことができるのか。それは彼ら彼女らが高学歴大学出身だから。今の時代の高学歴大学はそういう能力を入試段階で求めており、それをクリアした人たちが彼ら彼女らだからだ。
 
 「頭がいい」の意味は変わってきた。「東大生」の意味も変わってきた。世の中は紙の時代からPC・インターネットの時代に大きく変わり、知識よりも理解力やスピード、問題解決能力が重視されるようになったが、「東大生」もそれに合わせるようにして変容したので、結果的に東大生は今の時代の職場においても有用なのである。