漸近龍吟録

反便利、反インターネット的

「銀行振込」という最先端の決済方法

Mohamed Hassanによる画像
 
 日本では2019年頃に「キャッシュレス元年」と呼ばれ、たくさんの「○○ペイ」が生まれ、人々の新しい決済手段に対する興味関心が高まった。
 
 数ある決済手段に対して、「古い」、「新しい」というイメージがあるだろう。私は「銀行振込」という決済手段は「新しい」と思っているのだが、多くの人は「古い」と思っているだろう。
 
 電子マネーQRコード決済に対して人々は「新しい決済手段」というイメージを持っている。NFC決済などは「もっと新しい」と思っているだろう。それに対してクレジットカードは「やや古い」。銀行振込は「もっと古い」、現金が「いちばん古い」、といったところだろうか。数々の決済手段のイメージを古い順に並べると次のようになるのではないか。
 
(古)
現金
銀行振込
クレジットカード
NFC決済
(新)
 
 なぜならば、「銀行振込」という言葉は自分たちが生まれる前からあったから。子どもの頃からずっとあったものだから、現金払いの次くらいに古い決済方法だ、と思っている。銀行振込が最新最先端の決済方法だなどとは誰も思っていないだろう。
 
 「銀行振込」という言葉はたしかに昔からあった。しかし「銀行振込」という言葉が指し示す中身は大きく変わっている。
 
 何十年も昔は、銀行振込というのは、銀行の窓口を訪れて、記入台で振込専用の書類に振込先の名前や口座番号と振込元(自分側)の口座番号やら連絡先やらを記入して押印して、番号札を受け取り、番号を呼ばれたら窓口に座っている銀行員にその書類を差し出す。「お掛けになってお待ちください」と言われて再び待ち、何分か何十分か待ってやっと、振込の手続きが完了したことを告げられる。これが「銀行振込」だった。
 
 その後、ATMが普及し出して、銀行振込は窓口の銀行員に頼まなくてもATMから行えるようになった。
 
 今はもっと違う。窓口にもATMにも行く必要はない。自宅にいながらPCやスマートフォンから振り込む。
 
 この「オンライン決済」というのは私はかなりスマートな決済方法だと思っている。ところがほとんどの日本人はなぜかオンライン決済にあまり関心がない。
 
 どの決済方法が最も優れているか、という議論のときも名前があがるのはクレジットカード、Suica、PayPayなどで、「銀行振込」の名があがってるのは見たことがない。皆、「こっちの決済方法のほうがタッチした時の反応速度が少し速い」とかそのような話ばかりしている。「タッチした時の反応速度」というのは対面・オフライン決済の話であり、日本人はなぜか決済の話となるとオフラインの話しかしない。
 
 クレジットカードはオンライン決済でも使えることが多いが、どうせオンラインならクレジットカード会社を噛ませるよりも銀行振込のほうがシンプルだ。ほとんどの日本人は銀行口座を持っているのだから自分から相手へオンラインでお金を移動させるだけ。これで支払ったことになる。銀行振込は「送金」や「入金」の手段と捉えられていて「決済」手段だとは思っていない人が多いのかもしれない。
 
 また、「銀行振込は手数料がかかる」ということを指摘する人がいるかもしれないが、手数料はクレジットカードでもその他の決済方法でもかかっている。客側に課すか店側に課すかの違いだけで、店側に課した場合も商品の値上げとして客側に跳ね返ってきている。今は振込手数料がかからないサービスも登場している。
 
 以前、年配の上司が「最近のネットバンキングとかデジタル通貨とかいう風潮はいかがなものかねぇ。パソコン上で数字が変化するだけって怖しいよね。お金が動くっていう実感を得られないよね」と言っていた。だが、その上司は人生でずっと給料を銀行振込で受け取って来たのではないのか。銀行振込はデジタルである。貴方は通帳の数字が増えたのを見て給料をもらったと認識してきたのではないのか。お金が動く実感と言うのなら、紙の給料袋に紙幣を入れて手渡しで給料を受け取るべきである。(と心の中で思ったけど上司なので言えなかった)。
 
 「キャッシュレス」や「デジタル通貨」が話題になるとき、なぜか銀行振込はいつも蚊帳の外である。改札機やレジカウンターまで足を運ぶ必要がない「銀行振込」という決済方法は、私は現状もっともスマートな決済方法の一つであると思っている。だがほとんどの日本人はキャッシュレスについて話し合うときに銀行振込を思い出さない。
 
 衰退しつつある銀行業界自身も、この魅力に気づいていないように見える。せっかく全国民にアカウントを作らせているのだから、銀行振込は本来なら銀行の大きな武器であり強みである。持って行き方次第では、銀行振込をこれからの時代の主要な決済手段に持って行くこともできる。なぜこの強みをもっと生かしていこうとしないのだろう。やはり銀行はクレジットカード会社と蜜月の関係にあるから、クレジットカードと競合するサービスは展開しにくいということなのだろうか。
 
 銀行振込は多くの日本人にとって盲点になっている気がする。言葉自体が古くからあるので全然「新しい」感じがしない。しかし今の銀行振込はアプリ化し、他の決済方法にくらべてシンプルかつスマートな決済方法である。
 
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なぜ日本人はプラットフォーマーを批判しないのか

 こんなニュースを見かけた。
 これに対し、「捏造した人が一番悪い」、「これは弁護士が悪い」、「お母さん側が悪い」、「反訴したほうが悪い」という意見はたくさん目にするが(例えばはてなブコメ欄参照)、批判の矛先をイーロン・マスクに向けているコメントをほぼ見ない。
 
 日本人はどうしてプラットフォーマーを批判しないのか。どうしてここまで奴隷根性が染み付いているのだろうか。
 
 富裕層の人間が奴隷たちにどちらかが死ぬまで殴り合いをさせて楽しむ、という話を昔どこかで目にしたことがあるが、それを思い出した。奴隷たちは自分たちが富裕層のおもちゃにされていることには気づかず、対峙している相手の奴隷を憎んでいる。
 
 日本人はすぐに「使う人の問題」と言いたがる。「賢く使えばいい道具」、「使う人のモラルが問われている」、挙げ句に「嘘を嘘と…」と言い出す始末。
 
 娘さんが出ていた番組の件でも、「中傷する人は厳罰に」みたいな声はたくさん目にしたが、そもそも人の人生をおもちゃのように扱う番組をつくって放映する放送局を批判する声はとても少なかった。
 
 EUは相手がアップルであろうがグーグルであろうがちゃんと批判したり厳しい措置を科したりしていく。日本は海外のあとにそれを真似することはあっても一番最初に批判していくことはない。例えば「今のスマホはアップルかグーグルかの二択なんだからしょうがない」「アップルが嫌だったらグーグルを買うしかないし、グーグルが嫌だったらアップルを買うしかない、そういう時代なんだからしょうがない」と言う。
 
 パクツイや中傷ツイなどはもう何年も昔から問題とされているのに、ツイッター社はまったく改めようとしない。議論が侃々諤々白熱してたくさんの人々が参加してきてくれたほうが広告収入が儲かるからだ。
 
 難しくて判断に迷うようなツイートならともかく、人間が見て判る程度のパクツイ、デマツイ、中傷ツイをAIが判断できないわけはなく、ツイッター社は敢えてそういうツイートを残しているのだ。
 
 日本人は絶対に巨大プラットフォーマーを批判しない。日本ではこれからも安心して殴り合いの催しを続けていけそうだ。「誹謗中傷はやめましょう」、「そんな巨大な相手に文句を言ってもしょうがない」、「ユーザーひとりひとりのモラルの問題」が口癖の日本人からは、まだまだ金を巻き上げ続けることができる。
 
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図書館は寝るところ

wal_172619による画像
 
 以前、「図書館の役割って何なの?」という話題を見かけた。
 
 私は図書館は寝るところだと思っている。
 
 「図書館は寝るところ」というのはやや象徴的な言い方である。だが究極的にはやはり寝るところだと思っている。むしろ寝るところでなかったら何なのか。
 
 図書館の役割として、「書籍の保存」を上げる人もいる。国会図書館大学図書館都道府県立図書館などの大きな図書館はたしかにそのような役割があるが、街の小さな区立・市立図書館には、地域の郷土資料などを除けばそこまで保存という役割は求められていない。
 
 あるいは「貸出とレファレンスだ」と言う人もいるが、貸出は電子でできるだろう。レファレンスもメールなどの電子でできる。
 
 日本人はなぜか若い世代まで含めて、本=紙の本、と思ってる人が多い。図書館の定義として、日本語版、英語版それぞれのウィキペディアに書かれていることが象徴的だ。
 
 これが日本語版の「図書館」
図書館(としょかん、英: library、独: Bibliothek、仏: bibliothèque)とは、図書、雑誌、視聴覚資料、点字資料、録音資料等のメディアや情報資料を収集、保管し、利用者への提供等を行う施設もしくは機関である。
 
 こちらが英語版の「Library」
A library is a collection of materials, books or media that are accessible for use and not just for display purposes. A library provides physical (hard copies) or digital access (soft copies) materials, and may be a physical location or a virtual space, or both. A library's collection can include printed materials and other physical resources in many formats such as DVD, CD and cassette as well as access to information, music or other content held on bibliographic databases.
 
 英語版では「digital access」や「virtual space」に触れられている。日本語版にはない。海外と日本の、本や図書館に対するイメージの違いがよく現れている。
 
 「図書館」という言葉に何のために「館(やかた)」という言葉が入っているのか、よくよく考えるべきだ。「館」というのは建物のことである。
 
 ホームレスの人は夏は暑くて外にいるのもしんどい。暑すぎて寝ることもできない。カフェは有料だから入れない。そんなとき、無料で入れて冷房も効いている町の図書館はホームレスの人たちにとって束の間の休息ができる場所だ。
 
 町の図書館の新聞コーナーには、定年退職後と見られるおじいさんたちがたくさん座っている光景をよく見かける。新聞を読むだけだったら自宅でPCやスマホから読める。わざわざ図書館に足を運んでいるということは家の中に居場所がないのだろう。家の中にいると邪魔者扱いされるのかもしれない。
 
 小さい子どもたちに絵本を読み聞かせするコーナーもある。パパママたちは暫時、子どもから手を放すことができる。またパパママたちの交流の場になることもある。狭い家の中でずっと子どもと二人で向き合っていたら育児ノイローゼになるだろう。
 
 図書館の役割は、こうした行き場のない人たちの「居場所」の提供である。繰り返しになるが、貸出やレファレンスなら電子でできる。それなら電子ライブラリーを作ればよいのであって、「図書館」という建物を建てるからには、「建物」でなければ提供できない価値について考えるべきだろう。
 
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マイナンバーカード(電子証明書)のスマホへの搭載に関して

 
 最近、こういうニュースがあった。

Androidスマホへの「マイナンバーカード」電子証明書搭載は5月11日から 何ができる? 対応機種は? - ITmedia Mobile

 5月からやっと始まるそうで、これはこれで期待している。マイナンバーカード(電子証明書)のスマホへの搭載はもう何年も前から計画されていたがここに来て漸く実現しそうである。
 
 だが、結局、私が一年前に指摘した問題は解決されていないようだ。

 
 次の図を見てほしい。これは昨年2022年4月にデジタル庁が発表した、電子証明書スマホ搭載に関する行政機関・民間事業者向け資料である。

 「マイナンバーカードがなくても」の直前に「マイナンバーカードを用いて」と書いてある(赤線は筆者による)。私はこの馬鹿馬鹿しさに耐えられない。何のための「マイナンバーカードがなくても済むように」なのか。
 
 なぜスマホ電子証明書を発行するのにカード用電子証明書が必要なのか。デジタル庁(でも他の省庁でもよいが)はどうか説明してほしい。
 
 電子証明書の二重発行を防ぐため?しかし、電子証明書はJ-LISで管理しているのだから、スマホ電子証明書を持っている人が後にマイナンバーカードの発行手続きに訪れたときに、両者を紐付けるようにすればよい話だろう。
 
 それ以外に何か技術的な問題でもあるのか?私は技術的なことはよくわからないので、この記事を読んでいる方で技術面に詳しい方がいたら、スマホ電子証明書発行のためにカード用電子証明書が必要である理由をぜひコメント欄などで教えてほしい。

 

 リアルでもネットでもこのことを指摘している人を見かけたことがない。みんなこの馬鹿らしさが気にならないのだろうか。

 

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「貯蓄から投資へ」ではなく「貯蓄から消費へ」

 
 岸田政権が日本の経済政策として「貯蓄から投資へ」というスローガンを掲げている。
 
 欧米諸国では貯蓄と投資を比較するともっと投資の割合が多い。それにくらべて日本は貯蓄の割合がとても高く、投資の割合が非常に少ない。だから日本では多くの金が銀行口座や箪笥の中に死蔵されて経済が回らない。国民の皆さん、もっと投資をしましょう、と言っている。
 
 この方策は二つの点で誤っている。「貯蓄か、それとも投資か」という二択の問いがすでに誘導的である。お金は貯蓄か投資かの二択ではない。「貯蓄」の反対は必ずしも「投資」ではない。
 
 第一の誤りは投資の先が日本に向かわない、という点である。
 
 国が先導して「国民の皆さん、もっと投資をしましょう」と呼びかける。それを受けた国民はネットで投資について調べてみる。すると「今なら外国株一択でしょう」とどこのサイトにも書いてある。日本国民が挙って外国株を買う。外国企業はおかげで儲かって成長して、一方で相対的に日本の企業は凋落するだろう。国はいったい何がやりたいのか。日本政府が率先して外国を富ましたいのか?日本政府が率先して日本を貧しくしてどうするのか。「投資は投資でも日本国内株限定」などと条件を付けて奨励するならまだ分からないでもない。しかし今単に投資を奨励したら国民はみんな外国株を買うだけだ。
 
 第二の誤りは、投資というのは基本的に格差を拡大させるもの、という点だ。元手となる資金がない人は抑々投資はできない。投資は元となる資金が多い人ほど有利な仕組みである、というのは誰もが理解しているだろう。
 
 以上の二つの理由から「貯蓄から投資へ」は悪策である。
 
 では投資せずに貯蓄しておけばいいのか。それも違う。貯蓄していたのでは経済は回らず不況に落ち込むばかりである。
 
 日本人と「投資」は相性が悪い。なぜならば日本人のほとんどは投資というものを「いかに儲けるか」という視点でしか見ていないから。
 
 日本語で「投資_悪」で検索してみると、ギャンブル性が高く危険である、といったような話ばかりが出てくる。日本人が「得か損か」という視点でのみ見ていることの象徴だと思う。英語で同じように検索した場合は、投資先の企業が悪である(例えばSDGsを無視して環境に悪いことをしているとか)といった話が出てくる。
 
 西洋の「投資」には、古くはジョン・ウェスリー(John Wesley)に示されるような、悪いことのためにお金を使ってはならない、社会の善きことのために、という考え方や寄附の伝統がある。この考え方の伝統と基盤はSRI(Socially Responsible Investment)や現代のESG(Environment Social Government)といった思想にも繋がっている。
 
 日本にはこのような考え方の基盤がなく、日本人にとって「投資」とは、単に“自分が”得をするか損をするか、という話である。「責任(responsibility)」の話ですら“自分の”話として語られる(「自己責任」というよく聞く言葉のことだ)。
 
 そうした深い基盤があって初めて「投資」は意味を持つ。日本は基盤・土壌のないところに上っ面だけ真似した「投資」を持ってこようとしている。これは最初からぐらついている「投資」だ。
 
 今の日本が目指すべきは「貯蓄から投資へ」ではなく「貯蓄から消費へ」である。金を貯蓄から消費へ回すことで経済は循環する。景気もよくなるだろう。貯蓄から消費へ誘導するための政策は消費税率の低減だ。そして最終的には消費税を撤廃することだ。
 
 「貯蓄かそれとも投資か」と考えているかぎりずっと見誤る。
 

世代間論争が不毛であるかどうかを語る前に確認しておきたいこと

René Schaubhutによる画像
 
 「世代間格差を論じるのは不毛だ」と言う意見をネットでよく見かける。「いたずらに世代間対立を煽るな」と言う。
 
 それに対して、「いやいや、世代間格差は確かに存在しているだろう。無視してはいけない」と言う人もいる。
 
 この両者ははじめから話が噛み合っていない。それは「世代」という言葉から想像しているものが異なっているから、言い換えれば、「世代」という言葉の定義がきちんとできていないからである。
 
 

テンポラリーな「世代」とパーマネントな「世代」

 「世代」という言葉が持つ意味は大きく二つに分けることができる。一つは「テンポラリーな世代」。もう一つは「パーマネントな世代」である。
 
 テンポラリーな「世代」とは一時的な、「今」だけその世代に属している、と言える世代のことである。テンポラリーな「世代」に属する言葉としては次のような言葉たちが挙げられる。
 
・老人世代
・高齢者世代
・中高年世代
・壮年世代
・子育て世代
・若者世代
・乳幼児世代
・70代
・40代
・10代
等々
 
 テンポラリーな「世代」の特徴は、“今は”その世代に属している、ということにある。30年前に「老人世代」と呼ばれていた人たちは今はこの世にはいない。そして今、「老人世代」と呼ばれている人たちは30年前は中年、壮年世代だった。30年前に「若者世代」だった人たちは今は「中年」「壮年」である。テンポラリーな「世代」は、あくまでも“今は”そうだということであって、その言葉が指し示す中身、すなわち構成員は毎年入れ替わっている。5年前に話していた「40代」と今年話している「40代」は、だいぶ顔ぶれが入れ替わっている。
 
 それと対義的なのがパーマネント(永続的)な「世代」である。パーマネントな「世代」は一人の人間に一生、付いてまわる。パーマネントな「世代」に属する言葉としては次のような言葉たちが挙げられる。
 
・戦争世代
・新人類世代
・バブル世代
等々
 
 これらの「世代」は構成員が入れ替わらない。50年前に「団塊の世代」であった人たちは、歳をとった今も「団塊の世代」である。生まれてから死ぬまで「団塊の世代」であり続ける。
 

昔見たNHKの番組で混乱した「40代」

 うろ覚えだが、何年か前にNHKで現代の日本社会の問題点を考える、みたいな番組があっていた。そこで「AIが40代が問題だと言っている」と紹介された。この「40代が問題だ」は二つの意味に取れる。
 
A. 今の40代が問題だ
B. いつの時代も40代が問題だ
 
 私はAの意味に受け取っていた。Aの意味だと10年後は「50代が問題だ」ということになるし20年後は「60代が問題だ」ということになる。しかしその番組に出演していたマツコ・デラックスが「わかる、40代って子育てが一段落して、なんかそういう難しい年頃なのよ」という風な発言をしていて、私は混乱した。マツコはBの意味、すなわちいつの時代にも40代というものは、と受け取っていたわけだ。結局その番組では、AIが言っていた「40代」がどちらの意味なのかは最後まで明かされず、問題の深堀りができないままに終わった。
 

テンポラリーな「世代」とパーマネントな「世代」を混在させた状態で議論を始めることがいちばん不毛

 「世代間格差論争は不毛」、「いたずらに世代間対立を煽るな」と言っている人たちは、おそらくテンポラリーな「世代」を念頭に置いている。例えば「老人世代 vs. 若者世代」という構図をイメージしている。老人世代は「まったく今どきの若者は、」とぼやき、若者たちは「まったく頭の固い老害どもは、」と誹る。しかし、この構図はいつの時代にも繰り返されてきた。今の老人世代の人たちが若者だった頃には、やはり当時の老人たちから「まったく今どきの若者は、」と言われていたのだ。江戸時代の若者も「老人たちは頭が固い、考えが古臭い」と言っていたし、鎌倉時代の老人も「まったく今どきの若者はなっとらん」と言っていた。だから老人世代 vs. 若者世代、みたいな対立に持って行くのは不毛だと言っているのだ。
 
 一方、「世代間格差は確かに存在するだろう」、「無かったことにするな」と主張している人たちは、パーマネントな「世代」を念頭に置いている。日本において「戦争世代」や「氷河期世代」という世代は確かに存在したし、バブル世代と氷河期世代との間に大きな格差が存在するのも事実だ。そして氷河期世代の問題などは今までもこれからも「問題」としていかなければいけないのであって、それを「問題」として語ることはけっして不毛なことではない。
 
 世代間格差論争が「不毛だ」「不毛ではない」の両陣営が噛み合わないのは、最初に「世代」をきちんと定義していないからだ。少なくとも「若者世代」「30代」のようなテンポラリーな言葉を使っているのか、「団塊の世代」「氷河期世代」のようなパーマネントな言葉を念頭に置いて話しているのか、は意識して区別しなければいけない。そこを区別せずに話し始めることがいちばん「不毛」であると思っている。
 
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WBCの盛り上がりを見ていて感じた“自分たちだけで盛り上がり自分たちで拍手する”ことへの違和感

 WBCが盛り上がった。日本中が優勝に湧いたようで、決勝戦の視聴率は平日の午前中にもかかわらず40%超えだったそうな。
 
 しかしWBCは日本人しか見ていなかった。ヨーロッパでは野球人気は低くほとんどの人がWBCを見ていない。開催されていることすら知らない人が多いだろう。アフリカもそうだ。アジアも大半の地域では野球は人気がない。南米もそう。アメリカはWBCという大会の言い出しっぺだがWBCに対する興味関心は低く、ほとんどの人が見ていないと言う。
 
 関心をもって見ているのは中米と東アジアの一部の小さな国々だけ。メキシコ、キューバプエルトリコベネズエラ、日本、韓国、台湾等々。しかしこれらの国々も観戦するのは自国が勝ち上がっている段階まで。敗退した後の大会は見ていない。韓国国民は第1ラウンドまでは見ていただろうが決勝トーナメントは見ていない。「結局日本が優勝したらしい」ぐらいは知っているかもしれない。この結果、決勝戦は日本人とアメリカ人しか見ないことになり、アメリカ人はWBCに関心がないのでほぼ日本人しか見ていないという状況になった。
 
 この「自分たちだけで盛り上がり、自分で拍手する」という状況が虚しい。皆は虚しくないのだろうか?
 
 このように言うと、「せっかくの良い気分に水を差すな」とか「嫌なら見なければいい」と言う人がいるだろうが、私は嫌どころか、今大会の日本チームは素晴らしかったと思っているし、決勝戦もとても素晴らしい試合だったと思っている。大谷選手も他の選手も皆素晴らしかった。そのせっかくの素晴らしい試合を、日本人しか見ていないのはもったいないと思いませんか?もっと世界中の多くの人に見てもらいたいと思いませんか?
 
 これはオリンピックの度にも感じることだ。皆、自国の選手が活躍している競技種目しか見ない。ある小さな国の選手がマイナーな種目(セーリング水球馬術近代五種等々)で金メダルを獲る。
 
外国人「昨日の高飛込の◯◯選手の演技は踏み切りから着水まで完璧でした。金メダルに国中が湧きました。一夜明けた今でも興奮と感動が冷めやりません。日本の皆さんもご覧になりましたか?」
日本人「すみません、見てません。そんな競技があっていたことも知りませんでした」
外国人「見ていない?なぜ?『◯◯選手のパーフェクトな演技に世界が驚嘆!日本のメディアも絶賛!』とネットに出ていました」
日本人「日本のメディアが?高飛込の選手を?絶賛?へぇ〜初耳」
 
 自国の◯◯選手のパーフェクトな演技が世界中で絶賛されていると思っていたのに、日本人に聞いてみたら「誰もそんなの見ていない」と言われ、その外国人はさぞやがっかりするだろう。「自国の選手が活躍している競技種目しか見てないって、それはどこの国も同じでは?」と言う人がいるが、それを世界中の国がやった結果、ほとんどの競技種目において「自分たちだけで盛り上がり自分たちで拍手する」の状況が生まれてしまっている。
 
 「自分たちで盛り上がるだけで充分じゃないか」と言う人もいるが、その割には外国人からの評価をとても気にする。YouTubeは、日本のモノ(物や人物や音楽や食べ物等)に対して大袈裟に驚いたり褒めたりする外国人のリアクション動画に溢れている。「海外の反応」動画で簡単に日本人が釣れることを学んだ外国人たちが最近は大量の外国人のリアクション動画を作成してアクセス数と広告収入を稼いでいる。
 
 サッカーファンの中には「私は日本の試合だけではなくヨーロッパ勢の試合も見ています」と言う人がいるかもしれない。しかしそういう人でも、日本より強い国々の試合だけだ。ワールドカップのアジア予選やアフリカ予選で、日本より弱い国々の試合まできちんと目を通している人はほとんどいない。「そりゃ、自分たちより弱い国の試合なんか誰も興味ないでしょう」と言うのなら、「日本人サッカー選手◯◯のプレーに世界が驚嘆!」などというウブな信じ込みはやめるべきだ。
 
 私はWBC侍ジャパンのことをくさしているのではない。素晴らしい選手たち、素晴らしい試合だと思うからこそ、その素晴らしい試合を日本人だけで見て、日本人だけで拍手している状況を虚しく思う。