【将棋】羽生「永世七冠」の歴史的偉業を汚した「叡王」
2017年12月5日、将棋の羽生善治がついに「永世七冠」を成し遂げた。
その歴史的偉業を讃えるNHKのニュースに私は次のようなコメントを書いた。
将棋 羽生棋聖が前人未到の永世七冠 | NHKニュース
叡王戦のせいで「永世七冠」もしょぼく感じる。去年までだったら「全て制覇した」感、グランドスラム感があった。今となっては「8分の7」感しかない。
2017/12/05 18:19
この私のコメントに対してid:Josui_Do氏から以下のような指摘をいただいた。
将棋 羽生棋聖が前人未到の「永世七冠」達成 | NHKニュース
おめでとうございます!/対局相手の渡辺明棋王も永世竜王、永世棋王と羽生世代以降の現役棋士で初の複数永世称号保持者。強い人です id:rjutaip 叡王戦は永世称号の規定が未定なので8分の7ではなく7分の7です
2017/12/05 18:35
この指摘はその通りで、叡王戦には永世称号の規定はないので、確かに現時点では永世称号の全冠制覇である。
だが、叡王戦には永世称号が無い、とかそんなことは私たち将棋ファンしか知らないことであって、世間一般の人は分からない。実際、その夜、この快挙を伝えるNHKのニュースでは、「七つのタイトルがあって、その七つの永世の称号をすべて取ったということです」と苦しい説明をしていた。
タイトルは八つである。だから正しくは「八つのタイトルがあってその内の七つの永世称号を獲得した」と言わなければならない。しかしそう言ってしまうと視聴者は「全部制覇したわけじゃないのか」と思ってしまう。そう誤解されないためには「この内、叡王戦には永世称号の規定が無く…」などという回りくどい説明をしなければならない。これは美しくない。
私は「7」という数字はずっと美しい数字だと思っていた。三冠、五冠、七冠、奇数の方が美しい。ドラゴンボールではないが、七つ集めたらコンプリートというのは分かりやすいし綺麗だと思っていた。
叡王戦には永世称号が「無い」とも言えるし、「未定」とも言える。「未定」と言った場合は、「将来的にはできるかもしれません」ということだ。
これは、誰かが一旦ゴールテープを切った後に、「実は本当のゴールはもうちょっと先なんです」と言うようなものだ。やり口が汚い。
「永世七冠という、おめでたいニュースなのに何故そんな水を差すようなことを言うんですか?」と思う人もいるかもしれない。だが、私たち将棋ファンはこのビッグニュースを長年待ち望んでいたからこそ、ゴール直前に急にタイトル戦が一つ増やされたことが残念でならないのだ。
他の人のコメントでこんなのもあった。
将棋 羽生棋聖が前人未到の「永世七冠」達成 | NHKニュース
- [将棋]
将棋ファンは9年待った。47歳で竜王復位、というところが今回の最も凄い点。
2017/12/05 16:39
そう、将棋ファンはずっとこの日を待っていたのだ。それなのに、ゴール直前で「もしかしたらゴール地点はもうちょっと先になるかも」と言われた気分。
他のスポーツ界でも、過去の記録をすべて無かったことに、参考記録扱いにしよう、としている世界もある。暴挙というべきである。
箱根駅伝もあんなに歴史と伝統のある大会なのに、度重なる区間変更(しかもその理由は大抵くだらない理由)によって、過去の偉大な選手の偉大な記録が次々と参考記録になっていってしまっている。
今、竜王は名人よりも格上である。これは将棋ファンなら皆知っていることだが、世間一般の人は知らない人が多いだろう。「えっ、名人が一番偉いんじゃないの?」と思う人が多いだろう。
竜王が一番格上なのは、竜王戦が最も賞金額が高い棋戦だからである。その賞金を出しているのは読売新聞社である。連盟は大スポンサーである読売新聞社に配慮して竜王を最高位に位置づけている。
連盟の財政事情は知らないが、叡王戦をタイトル戦にしたのも、ドワンゴが連盟にとって大きなスポンサーだからだろう。
連盟に言わせれば、「きれいごとじゃないんです。活動のためにはお金も必要なんです」と言うことだろう。それはわかる。でも、もうちょっと伝統の美しさについても考えてほしい。
「前人未到の大記録」というのは、前人たちとある程度条件が同じであって初めて言えるのである。木村十四世、升田幸三、大山十五世(全盛期)からしたら「『前人未到の七冠制覇』って、俺らの頃には七冠無かったからなぁ。前人未到なのは当たり前だろ」と文句も言いたくなるだろう。
羽生善治は過去に七つのタイトルすべてを制覇している。これは過去に二人しかいない偉業である。(谷川、羽生。竜王→十段なら中原も。)
さらに七つのタイトルを同時に保持する、という、これはもう未来永劫誰も為し得ないのではないかというような大記録も達成している。
だが、これらの偉大な記録も「当時としては全冠」「当時としてはすべてのタイトル」などと、いちいち「当時としては」という前置きを付けなくてはならなくなる。まったく美しくない。
せっかくの「永世七冠」のパーフェクト感、それを達成した棋士の偉大さ、この歴史的大偉業、そうしたものを連盟が毀損していくべきではない。
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「フィンテック」批判
ここ一年ほど、急速に「フィンテック」という言葉を聞くようになってきた。
数年前からブロックチェーンやビットコインに関心を持っていて、ずっとそれらに関聯する記事や文章を読んできた。このブロックチェーンという新しい技術がどのように世の中の役に立つか、ということに興味がある。
ところが現状、ネット上で見かけるブロックチェーンやビットコイン関聯の話は、ほとんどが「フィンテック」の文脈で語られている。「フィンテック」とは、「financial(金融)」と「technology(技術)」を合わせた新しい造語である。
フィンテックについて語っている人はほとんど、「フィン系」か「テック系」の人たちである。
数年前、ビットコインが登場してまだ数年しか経っていなかった頃は、ビットコインについて話していたのはほとんどがテック系の人たちだった。専ら技術的な視点のみから語られていた。それが段々、普及していくにつれて「これは法的な扱いはどうなるのか」「法的な位置付けを明確にしておかないとまずいんじゃないか」ということになり弁護士ら「ロー(law)系」の人たちが加わった。そしてその後さらに金融・経済系の人たちが集まってきた。
ビットコインは今では10%ほどの人が技術的観点から語り、5%ほどの人が法律的な観点から語り、残りの85%くらいの人はみな「フィン」の観点から語っている印象だ。しかもそのほとんどは「儲かるか儲からないか」という話である。ビットコインに関しての何らかの記事を書いている人はほとんど、プロフィール欄に「トレーダー」「株やってます」「FX歴何年」「投資のセミナーやってます」などと書かれている。
ビットコインという大発明、そしてそれを支える技術であるブロックチェーンが、こうして単なる「儲かるか儲からないか」という話になってしまっていってるのが残念で仕方がない。
こうした新しい技術は、「どのように世の中の役に立つか」という観点から語られなければならない。ところが現状はフィン系の人たちは「儲かるか儲からないか」という話ばかりをし、テック系の人たちは「(技術的に)できるかできないか」という話ばかりをしている。新しい技術をどのように世の中に役立てるか、という話が聞こえてこない。
新しい技術が登場した時はいつもそうだ。コンピューターの登場、インターネットの登場、ブログという新しいツールが登場した時も、先ずはテック系の人たちがインターネットとは何か、ブログの仕組みや、どのようなことができるかを説明し、そこに金のにおいを嗅ぎつけたフィン系の人たちがやって来て「アフィリエイトで月収何万生活!」などと始める。
数年前、ビットコイン、ブロックチェーンに出会った時はワクワク感があった。この新しいテクノロジーが世界を”decentralized”に変えて行くだろうという期待感に満ちていた。だがビットコインの知名度が上がってきた最近は、特に日本ではビットコインと言えば儲かるか儲からないかという話ばかり目にするようになってきた。
日本はICOに関しては他国にくらべて計画倒れのものが少なく、プロダクトが先行している印象がある。それは良いところだと思う。だが一般大衆の間で話題になっているのは、ビットコインは儲かるか、どのICOが儲かるかとか、そういう話ばかり。うんざりだ。この新しい技術を社会にどう役立てるか、という話をするべきだ。
私は、エストニアのe-Residencyのような取り組みに注目している。更には国自体をICOの対象にするとかしないとかいう話も先日、聞いた。エストニアの国家を挙げた「実験」とでもいうべき試みが上手くいくかどうかは分からないが、先進事例として興味深い。
また、イーサリアムで寄付ができるGivethのような取り組みなど、ブロックチェーンを使った海外発の魅力的なプロジェクトがいっぱいある。
日本の場合はブロックチェーンはマイナンバー制度と融合させることで新たな道が拓けて来ると思っている。実際、総務省でそのような研究が進んでいる。必ずしもブロックチェーンに拘らず、それに似た分散技術を柔軟に使っていく考えのようだ。こういう方面の検討はどんどん進めてほしい。そして「知らないうちに国が勝手にやってた」とならないよう、国民ももっとフィンテックの活用について議論をするべきだと思う。
だからこの記事はフィンテックに対する批判ではない。「フィンテック」という言葉に象徴的に表されている「仮想通貨で儲ける方法」みたいな話題ばかりが氾濫している現状の日本人の仮想通貨に対する姿勢への苦言である。
いつまで「仮想通貨は儲かるか」などという段階の話をしているのか。
四月一日改元批判 〜踰年改元の復活を考える〜
朝日新聞が報じるところによれば2019(平成31)年の4月1日から新しい元号に変わる、と。
天皇陛下退位19年3月末 即位・新元号4月1日で調整:朝日新聞デジタル(2017/10/20朝日新聞)
それを否定する報道もあるが。
【天皇陛下譲位】菅義偉官房長官、朝日新聞の「平成31年3月末譲位」報道を否定 - 産経ニュース(2017/10/20産経新聞)
4月1日って何だ。ひどすぎる。
明治5年の太陽暦改暦の愚行を思い出す。太陰太陽暦か太陽暦かは国民生活に重大な影響を及ぼすことなのに、当時の「官吏の給料」という、後世の人間からしたらどうでもいい理由で改暦が敢行されたのだった。改暦によって季節が分からなくなった。例えば、「十五夜の月」とか「新春」という言葉がなぜそう言うのかが分かりにくくなった。季節は季節であって、国の財政が失敗したから今年の秋は無くなりました、とか、そんなふうにしてはならない。
会社の年度から学校の年度まで、揃いも揃って国の会計年度に合わせているのは先進国では日本くらいのものではないか。
新しい元号は、そんな古い悪習からは独立していてほしい。ネット上では「効率が」とか「システムが」どうのこうのと言う意見が多い。そんな効率主義からも独立していてほしい。将来の人々が「今の元号はなんで4月1日から始まってるの?」と聞いたとき、「それは当時のシステム屋が年末年始ぐらいは休みたいという理由で…」などと聞いたらがっかりするだろう。そもそも現代のシステムは西暦で動いているのであって元号は関係ないはずだ。「役所が元号を使ってるのです」と言うのかもしれないが、だからこそ4月1日改元は止める必要がある。
これではまるで、役所の役所による役所のための元号。新しい元号が古いシステムの象徴のように始まるのは、考えただけでも気が滅入る。
元々、1月1日案と4月1日案の二つがあって、この内、1月1日案は、年末年始に宮中の行事が立て込んで忙しい時期なので避けたいという宮内庁の意嚮があるそうな。
それで思ったのだが、譲位(退位)の時期と改元の時期をずらすのでは駄目なのか?あまりにも離れていては不自然だろうが、例えば、2018年の10月頃に譲位、践祚をして、2019年1月1日に改元すればよいのでは?忙しくなるのは「譲位即改元」ということにしているからでしょう?譲位という時点で明治以来の一世一元の制は崩れている。少し譲位の時期を早めて踰年改元ということにすれば、年末年始が忙しくなることは無いのでは?
特例法でも元号法でも譲位の時期と改元の時期が離れていてはいけない、とは決められていない。即位の礼は2019年の11月頃に行われるだろう。これはほぼ間違いない。とすると、践祚と即位の礼が丸一年以上離れるのを嫌っているのか。では、2018年11月頃でどうか。宮中の詳しい行事予定は知らないが、この度は諒闇による践祚ではないのだから明治以前にはあった「踰年改元」の復活を考えてもよいのではないか。
宮中祭祀の関係でどうしても1月1日は無理というのならしかたない。でも4月1日はない。4月1日にするくらいなら、2月23日のほうがよい。そのほうがずっと「人間的」だ。
関係者の皆様には御一考願いたいことである。
Jコインの行く末を想う
みずほ銀行、ゆうちょ銀行、地方銀行が協力して「Jコイン(仮称)」という仮想通貨を作るというニュースがあった。
Jコインを作る理由は何だろう。
日経によれば、ApplePay、PayPal、支付宝(Alipay)のような外国勢に決済データを握られないようにするため、というのが理由らしい。 三菱東京UFJ銀行を巻き込もうという動きもあるのだと言う。これに三井住友銀行も加わったら、ほぼオールジャパン体制になる。
このニュースを見た時はあまり魅力を感じなかった。「こんなの作って何の意味があるの?」という批判もたくさん見たが、そこまで悪い試みだとも思わないが。
ここまで大きな銀行が結束して作ろうというからには、決済データを把握するという理由のみならず、何か大きな思惑があるのだろう。それは私のような一般人には分からない。
カジノ構想との関聯で作ろうとしているのなら反対。カジノ構想そのものに反対だから。
管見では、小さな思惑としては、マイナンバー制度との繋がりがあるのではないか、と思った。総務省はマイナンバー制度におけるブロックチェーンの活用を検討している。マイナンバー制度とブロックチェーンは相性がいい。もしマイナンバー制度でブロックチェーンが使われるようになれば、それに“合う”通貨があった方がいい。所謂、「法定デジタル通貨」に近いものを目指しているのか?
しかし、それは他国なら中央銀行がやっていることだ。日本では日本銀行よりも民間銀行の動きの方が早いのかもしれない。銀行以外でもBCCC(ブロックチェーン推進協会)の「Zen」など似たようなプロジェクトはある。その中から国が優秀なものを採用してマイナンバー制度と結びつける。そうすれば納税などもそのコインで行われ、国は金の流れをかなり完全に把握できるようになる。国に金の流れを完全に“管理”されることになるので、国民にとっては嫌なことかもしれない。
Jコインは普及すれば、それなりに便利に使えるコインにはなるだろう。日本銀行は最近、欧州中央銀行との共同実験の結果、今すぐブロックチェーン技術を使うこと、CBCC(中央銀行暗号通貨)を作ることにはやや否定的な考えを示しているように見える。
しかし民間先行はガラパゴス化を生みやすい。個人的にはガラパゴス化は好まないので、私はもしマイナンバー制度と結びつけるような通貨を作るのであれば、やはり日本銀行が責任とイニシアチブを持って作るべきだと思う。
マイナンバーカードと自治体の「ニーズ」の見誤り
先日、区役所に必要な書類を取りに行ったら延々45分も待たされた。藁半紙の紙切れ一枚を貰うのに45分。番号が私より遅い人が先に呼ばれ、私は延々待たされた。やっと呼ばれた時に窓口の女性職員は「お待たせして大変申し訳ございませんでした」と深々と頭を下げた。私が「コンビニ対応はしてないんですか」と聞いたら「してません」と。してないことは知ってたから窓口に来たので、続いて「コンビニ(マイナンバーカード)対応しない理由は何かあるんですか?」と聞いたところ、「区のシステムがそもそもマイナンバーカードに対応していない。対応するためにはシステムを改修しなければならない。改修には大きなコストがかかるので区民のニーズとのバランスを見ながら判断している」とのことだった。
以前、現役公務員の人のブログで似たような指摘を読んだことがあった。
私は国がマイナンバー制度を推進すれば、もういちいち区役所に足を運ばなくていい世の中が直ぐに到来すると思っていた。だがどんなにマイナンバー制度が優れていたとしても役所がシステムを改修して対応しなければ、マイナンバーカードは全然使い物にならない。そして、そのシステムの改修には大きなコストがかかるということも解った。
だが、「区民のニーズ」については見誤っている。「今のところ区民のニーズがないから対応しない」のではなく、「対応したらニーズが高まる」のである。マイナンバーカードはそういうものである。「今、誰がカード持ってるんですか?そんなに使う人いないでしょう」と言いたいのかもしれないが、今、多くの国民がカードを持っていない、使っていないのは、使い途がない、若しくは分からないからであって、「こんなことに使えるのか!」と使い途が分かってくれば、持つ人も増えてくるし、使うようにもなる。
例えば、国や役所は「マイナンバーカードで住民票の写しが取得できます!」と言っているが、住民票記載事項証明書の取得に対応していない自治体は多い。こんな中途半端なことでは誰もマイナンバーカードを持とうとは思わないだろう。住民票の写しを必要とする場面は日常でそんなに多くない。今の時代は、個人情報の取り扱いに敏感になっている時代なので、会社でも余計な情報がたくさん載っている住民票よりも、住民票記載事項証明書の提出を求めるところは増えている。「住民票記載事項証明書はニーズが少ないから対応しません」というのはニーズの見誤りである。それに、どんなにニーズが少なくても対応しなければいけない。マイナンバーカードにはそういうインフラ的性格が求められているからである。ロングテールにも対応していかなければならない。
国民の大半はまだ、マイナンバーカードでどんな便利なことができるか知らないのである。「こんなことまでマイナンバーカードでできるんだ!」という感動体験がカード利用者を増やす。カード一枚でスマートに手続きが済む社会、がマイナンバーカードが目指すものであったはずだ。それを、これには対応しているけどこれには対応していませんなどという市松模様を作ってしまったのでは、却って「カードがある前のほうが分かりやすかったね」ということになりかねない。
「需要がないから」、「ニーズがないから」ということを理由にすべきではない。区民は「マイナンバーカードでどんなことができるか知らない」「マイナンバーカードを持つメリットがない」と言い、区役所は「区民からの要望がない」と言っていたのでは、永遠に前に進まない。
マイナンバーカードは、それ一枚あれば基本的なことは何でもできる、ということを根本にすべきであって、「持っていれば便利なこともある」という性格のものにすべきではない。この「オールインワン」という性格がなかったら、マイナンバーカードである必要はない。ただ、「国民にとって行政手続きにも使える便利なカード」ということなら、マイナンバーカードではなく、電子証明書を内蔵したカードで十分である。
自治体はもっと本腰を入れてマイナンバーカード対応に当たってほしい。そうすれば、私もあんなに延々と待たされずに済むのだし、職員だって窓口対応に大わらわになったり、私に深々と頭を下げたりしなくて済むようになるのだから。
ある飛行石の物語 〜ヴィタリク・ブテリンに捧ぐ〜
「イーサリアム」という名の飛行石
二年前の今日、ロシア人(カナダ人)のVitalik Buterinという若者が小さな飛行石を生み出した。
最初は誰にも注目されていなかったその小さな石は、しかし、一年と経たぬ間に世界的に有名になった。
その八面体の小さな石はみるみるうちに急成長を遂げ、今や仮想通貨の世界ではビットコインに次ぐ二番目の価値を持つまでになっている。
その名を「Ethereum(イーサリアム)」と言う。
ブテリンは壮大な世界を思い描いている。その飛行石を土台として、その上に大きな文明世界を築こうとしている。
イーサリアムブロックチェーンは、ビットコインブロックチェーンとはまた違う独自のブロックチェーンである。一番の違いはイーサリアムブロックチェーンは「チューリング完全」であるというところにある。チューリング完全であるがゆえに、いろいろなプログラムが“乗っかる”と言われている。
そうしてイーサリアム上に展開されていくさまざまな文明は「DAO(Decentralized Autonomous Organization)」や「DApps(Decentralized Applications)」と呼ばれ、今も多種多様な計画が進行中である。
文明の脆さ
飛ぶ鳥を落とす勢いだったイーサリアムに、2016年、事件が起こった。たくさんの支援金を集めていた「The DAO」というプロジェクトが、何者かのハッキングにより大量の通貨「Ether(イーサ)」を盗まれる(予定になる)というできごとがあった。「Tha DAO事件」と呼ばれる事件である。
イーサリアム自体が堅牢であっても、その上に築かれた文明が攻撃を受ければ、イーサリアムにも傷がつくということを思い知らされた事件だった。
20年前に描かれた飛行石
このブテリンのアイデアとほぼ同じアイデアを約20年も前に描いた人がいる。日本の著名な漫画家、宮﨑駿である。宮﨑駿の代表作『天空の城ラピュタ』は、飛行石の物語である。飛行石の力によって空に浮かんでいる土地があり、その土地にはかつて高度な文明が栄えていた、という話である。
(左・ラピュタの飛行石、右・イーサリアムの飛行石)
イーサリアム(Ethereum)という言葉は「エーテル(Ether)」から来ている。エーテルとは、「空中、この天空を満たす物質」のことである。
天空に浮かぶラピュタの飛行石は、それ自体も不思議な力を宿していて、その上にいろいろなものを「載せる」ことができたので、ラピュタ王国のような極めて高度な文明を載せることができていた。これは、イーサリアムがその基盤の上にさまざまなDAOやDAppsを載せているのと同じである。
DAOの「AO」は「自律的組織体」という意味だが、ラピュタもまた、自律的な組織体だった。ラピュタのロボットは自律型ロボットであり、文明全体も自律的だったが、文明が滅んだ後、植物に覆い尽くされたラピュタはそれ自体がまた一つの大きな自律組織のようでもあった。
ブテリンの過ち
The DAO事件が起きた時、ブテリンはどのように対処したかと言うと、「固い分岐」を行うことで盗難を未然に防いだ。私は当時、ブテリンがいる方角に向かって「絶対に分岐をしてはならない」と念じていたが、念いは通じなかった。
日本円で何十億だったのか何百億だったのかは知らないが、とにかく大金を盗まれないためにブテリンが打った手は「固い分岐」だった。ブロックチェーンのチェーンを分岐させることで、未来に起こる予定の「盗難」を未然に防いだ。
「お金が盗まれなかったなら、良いことじゃないか」と思う人がいるかもしれない。だが、固い分岐はお金と引き換えに大切なものを失う。それは「信頼」である。「開発者でさえも意図的に分岐させることはできない」というのがブロックチェーンの「信頼」だった。ブテリンはその「信頼」を裏切ることになった。
この時生まれた双子の「蛭子(ひるこ)」は、今もまだ生きている。そのまま川に流してしまわずに、ロシア人のコミュニティが拾って大切に育てたのだと聞いている。
ムスカとの出会い
ブロックチェーンの政治性については、ビットコインでも問題になっている。
飛行石の類い稀な力を知ったムスカは、その飛行石を持っているシータという名前の少女に急接近していく。飛行石さえ手に入れば、うまくいけば嘗てのラピュタ王国の高度な文明が復活し、それをすべて自分の手中におさめることができるかもしれない。
DAppsに匂うロシアンティーの香り
(左・ムスカ大佐、右・ロシア大統領)
大統領が自国出身の有名人と仲良くするのは別におかしなことではない。ムスカにそこまで深い意図はないんじゃないか、と思う人もいるかもしれないが、ただしムスカは次世代の新しい経済システムの構想を持っている。ムスカから見れば飛行石は最有力株だ。
かつてニック・サボーが夢見たスマートコントラクト構想は、見事、ムスカの掌中に実現、という未来がくるかもしれない。
私はDAppsにはロシアンティーの匂いを感じる。これは感覚の問題なので「私はまったく感じませんが?」という人もいるだろう。「ブロックチェーンを『どこ国産』かで語るのが愚かだ。ブロックチェーンに国籍はない」と言う人もいるだろう。
でもやっぱり私はロシアンティーの香りを拭いきれないのだ。
ラピュタとイーサリアムと自然との共生
ブテリンが決行した固い分岐、それは滅びの呪文である。それは日本ではよく知られている。「バルス」という。有名な滅びの呪文だ。
「分岐の後もイーサリアムは力強く復活したではないか」と言う人もいるかもしれないが、それは結果的にはそうなったが、分岐していなかったら今よりもっと強かったかもしれない。
「イーサリアムはそもそも分岐を前提とした設計になっている」と言う人もいるが、私が固い分岐に反対するのは、それが一気に「政治性」を持つからである。強大な力を持ったブロックチェーンを、ましてやその上に高度な文明が築き上げられたブロックチェーンの行く末を、一人の人間がコントロールしてはいけないし、できてもいけない。
『天空の城ラピュタ』に描かれているのは自然との共生だ。宮﨑駿が20年以上も前に描いてみせたのは、不思議な強大な力を持った飛行石が「自然」の象徴である植物に覆われた世界だった。
「自然」はそれ自体が生き物のようである。植物に覆われたラピュタ島はそれ自体が一つの巨大な生命体のように見えた。ブロックチェーンもまたそれ自体がテロメアを伸ばしていく生き物のようである。
(左・シータ、右・ブテリン)
ムスカは主人公の少女シータに、君と私が力を合わせればこの世界はどんなことでも思い通りになる、と迫ったが、シータは「どんなに恐ろしい武器を持っても、たくさんの可哀想なロボットを操っても、土から離れては生きられないのよ」とムスカの野望を拒絶した。
ブテリンは果たして、大統領に向かってそのように言えるか。
“Ethereum”や”Akasha”など、自らが関わるプロジェクトに「天空」を意味する言葉を用いるのを好むブテリン。そんなブテリンには是非、日本のアニメ『天空の城ラピュタ』を観てほしい。20年以上も昔の日本のアニメに、イーサリアムの未来を考えるヒントがある。きっと多くの示唆に富む。
イーサリアム、2歳の誕生日、おめでとう。