漸近龍吟録

反便利、反インターネット的

将棋界には不思議なほど将棋に関係する名前の棋士が多い

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 「球児」という名前のプロ野球選手がいます。父親が野球が好きでその影響を受けて育つと、名前と職業が一致することがままあります。
 
 今の将棋界には将棋に関係する名前の人が不思議と多く、下の名前の場合は「親が将棋好きだったのかなあ」と思いますが、それにしても将棋のプロになれるのはほんの一握りの人であり、なかなか珍しいことだと思います。
 
 小学生の頃からの将棋ファンである私が、今日はそんな珍しい名前の棋士たち(女流棋士含む)を相撲の番付風に紹介したいと思います。(段位だとややこしくなるため。)
 
 より珍しい方が横綱です。
 
 
<前頭>
 
 名字、若しくは下の名前に将棋の駒の名前が入っている棋士です。竜、馬、金、香など。
 
菅井竜也(すがいたつや)王位
及川拓馬(おいかわたくま)六段
金井恒太(かないこうた)六段
里見香奈(さとみかな)女流名人
香川愛生(かがわまなお)女流三段
 
 
<小結>
 
松尾歩(まつおあゆむ)八段
 歩(ふ)です。「歩のない将棋は負け将棋」という格言があるくらい、将棋にとって大事な駒です。強い人ほど歩の使い方が上手いですね。
 
豊島将之(とよしままさゆき)八段
 将棋の「将」の字そのものが入っています。
 
大橋貴洸(おおはしたかひろ)四段
 珍しい名前ではありませんが、江戸時代の初代名人が「大橋」という姓でした。
 
 
<関脇>
 
三枚堂達也(さんまいどうたつや)六段
 将棋の駒は一枚、二枚、と数えます。そしてまた「三枚」という数が絶妙な数です。「玉の守りは金銀三枚」「攻め駒が三枚あれば詰む」「歩が三枚あれば詰むんだけど」などとよく言います。
 
中座真(ちゅうざまこと)七段
 席を離れることを「中座する」と言います。将棋の対局は椅子に座る囲碁と違って畳の上に正座、または胡座をかいて座ることが多いです。タイトル戦のような長丁場の対局では途中で何回も中座してトイレに行ったりします。
 
 
大関
 
矢倉規広(やぐらのりひろ)七段
 将棋の王様の囲い方で最も有名な囲い方が「矢倉囲い」です。矢倉七段が広めたのではなく、ずっと昔からある囲いの名前です。将棋を指す人で「矢倉」を知らない人はいません。将棋界に名字が「矢倉」の人が入ってくるなんて。
 
北村桂香(きたむらけいか)女流初段
 駒の名前が一文字入っている方は何人かいますが、この方は「桂」と「香」の二文字です。かなり将棋っぽいお名前です。
 
 
横綱
 
都成竜馬(となりりゅうま)五段
 と思ったら、もっとすごい人がいました。「と」は、歩が「成」ったものです。歩が敵陣に入って「成」ると「と」になります。「竜馬」はそれで一つの「馬」という駒でもありますし、「竜」と「馬」という二つの最強の駒の名前にも取れます。名字から下の名前まで、すべてが将棋に関係する字が揃っており、この方が優勝です。
 
 
(※文中、段位、タイトルはすべて2018年6月時点のもの)
 

忘れられた宮城県沖地震の教訓

 今朝、大阪で大きな地震があった。
 
 小学生のとき、学校の防災の授業で「地震のときはブロック塀から離れなさい」とやたらと言われた記憶がある。防災読本みたいなものにもイラスト入りで書いてあったような気がする。
 
 その後の人生でいくつかの大きな地震があったが、ブロック塀の被害が言われたことはあまりなく、なぜ小学校の時あんなに「ブロック塀」ピンポイントで注意を促されていたのか不思議だった。
 
 調べてみたら宮城県沖地震という地震があって、その地震ではブロック塀の下敷きになって犠牲になった人が多かった。当時の大人(教員)たちにはその記憶が鮮明にあったので、それで「ブロック塀」ということを強調して言っていたのだろう。
 
 大地震から得られる教訓は毎回違ったりする。
 
 阪神淡路大震災だったら「先ずは火の確認を」、東日本大震災だったら「海岸や川から離れろ」、「先ず原発は大丈夫か?」、熊本地震だったら「瓦屋根や土砂に気をつけよう」など。
 
 いつの時代も大人たちは直近の大地震の教訓を生徒たちに伝えているのではないか。
 
 だから、今の子どもたち(というか、もうだいぶ前の子どもたちから)は、「地震の時はブロック塀から離れろ」なんて教わっていないのではないか。
 
 この「注意」というものは厄介で、「ブロック塀や屋根や看板に注意しろ」と言われて上を注意しながら歩いていたら、道路の陥没に嵌まったり。「じゃあ、地震の時はいずれにせよ、外に出るのは危険だということですね」と思ったら、家屋の倒潰に遭ってしまったり。右を気をつけていたら左からやられ、上を気をつけていたら下から襲われる。
 
 注意というものは「これさえ気をつけていれば大丈夫」というものでもなく「先ずはこれに注意」というようなものでもない。全方位的に注意をしなければならない。
 
 直近の地震と同じパターンで来てくれたら前回の地震の教訓は役に立つが、地震はそういうパターンでは来てくれない。
 
 過去にまったく前例のない地域やパターンの大地震というのも起こる。かと言って、過去の地震がまったく参考にならないか、というとそうも言えない。
 
 小学校時代に「地震の時はブロック塀から離れろ」とせっかく教わっていた世代である私のような大人が、今の子どもたちにこの教訓をきちんと引き継いでいなかったのは過ちである。
 
 そして、宮城県沖地震の時にさんざん「ブロック塀」と言われたにもかかわらず、あれから何十年か経って、ブロック塀の強度や安全性に関する注意が疎かになっていたのも、また大きな過ちである。
 
 

ホームレス問題と専門バ家

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 専門のことしか考えられず全体を考えることができない人のことを「専門家」の間に「バ」を入れて「専門バ家」と皮肉を込めて言っている。
 
 昔からホームレスの問題に関心がある。ホームレスの問題は一つ一つの問題を専門的に取り上げても解決しない典型的な問題だと思うから。
 
 ホームレスの人が、お腹が痛いと言う。それに対して、「体調が悪いなら病院に行け」と言うような人を今までたくさん見てきた。
 
 「違うの!別に冷たく突き放してるんじゃないの。ほら、私って身体のことに関しては素人でしょ?お腹痛いっていうのが、これがもし大きな病気とかだったら大変でしょう?だから、ちゃんと専門家に診てもらったほうがいいと思って」
 
 このような言い訳をたくさん聞いてきた。
 
 「ちゃんと専門の人に診てもらったほうがいい」、「あなたのためを思って」、「親切で言ってるの」。
 
ホームレスの人「お金がなくて病院にかかれません」
 
「お金が無いの?じゃあ、働け」
 
ホームレスの人「職が無くて」
 
「職を探してるの?じゃあ、ハローワークに行け」
 
ホームレスの人「ハローワークに行ったら、企業は住所がある人しか雇わないって言われました」
 
「住む家を探してるの?じゃあ、不動産屋に行け」
 
ホームレスの人「不動産屋に行ったら身元保証人が必要だと言われました」
 
身元保証が必要なの?じゃあ、家族か親戚に頼め」
 
ホームレスの人「家族・親戚とはもう縁が切れていまして」
 
「じゃあ、友人か知人に頼め」
 
ホームレスの人「友人も知人もいません」
 
「友達がいなくて悩んでるの?だったら何かサークル活動にでも入ったら?」
 
ホームレスの人「以前、サークルに入ったのですが人間関係に悩んで…」
 
「精神的な悩み?だったらカウンセラーのところに行け」
 
ホームレスの人「一時間5000円のカウンセリング料が払えなくて」「あと、お腹が痛くてそこまで行くのが大変で」
 
「お腹が痛いなら医者に行け」
 
 以下繰り返し。
 
 こんな命令形の乱暴な言い方ではなくて、もう少し優しい言い方をするとしても、言ってることは同じだ。「精神的な悩みの話だったら、専門の心理カウンセラーに聞いてもらったら?」とか、一つ一つのプロフェッショナルに頼めと言う。
 
 「身体の不調のことなら医者に行け」と言うのは、そこだけに焦点を当てて言った場合には正しい。そして、病院に行って医者から言われたアドバイスも部分的な「系」としては正しいだろう。「専門家がああ言ってるんだから言われた通りにしたほうがいいよ」。
 
 だが、部分的な系のみに注目していても、ホームレスの人の問題は解決しない。
 
 病院に行ったら医者から「そのお腹の痛みは精神的なストレスから来ていますね」と言われる。なるほど。それで?
 
 精神的なストレス。
 
 家族や友人がいないから悩みを吐き出せる人がいなくて、どんどんストレスが溜まっていくわけだ。
 
 友人・知人がいないから「ツテ」で職を紹介してもらえないわけだ。
 
 職が見つからないことがストレスなわけだ。
 
 職が無いから金が無いのだ。
 
 金が無い貧しい底辺暮らしだから誰も寄って来ないで一人になるのだ。
 
 一人だから精神的孤独感がいや増すのだ。
 
 一人だから家を借りられないのだ。
 
 家を借りられず外で寝ているから体調を崩すのだ。
 
 体調を崩しているから職を紹介してもらっても体力仕事に就けないのだ。
 
 ずっと職に就けず無職でいることがストレスなわけだ。
 
 家が無いことも、金が無いことも、社会的地位や人間としての尊厳が無いことも、人が離れて行くことも、今こうして現に体調を崩していることも、すべてストレスと言えばストレスなわけだ。
 
 ホームレスの人が抱えている問題は、すべてが繋がっている。体調の問題、家の問題、仕事の問題、心の問題、人間関係の問題、すべてが密接に関係している。
 
 それなのに、その中から「お腹が痛い」という一事のみをピックアップして「それなら病院に行け」と言うことに何の意味があろう。それで言われた通り病院に行って「精神的ストレスが原因ですね」などと言われて、こんな馬鹿馬鹿しいことがあるか。自分の体調不良はストレスが原因だ、などということはホームレス本人もとっくの昔から分かっているのではないか。
 
 専門バ家は何も解決しない。解決できない。専門家だけではなく、そのように一事のみをピックアップして言う人も。
 
「そんな汚い身なりをしていたら就職面接も通らないよ」
 
 「就職面接」という一点に絞って語るなら、それは正論である。しかし、ホームレスの人の身なりが汚いのはお金が無いからであり、誰も人と会わないからである。あなたがたが今日ある程度きれいな身なりでいられるのは「自分の努力」のおかげではなく、「お金がある」、「今日誰か人と会う」という前提に支えられているのである。
 
 「でも、まずは、そのお腹が痛いのをどうにかしなきゃでしょう?」と人は言う。
 
 この「まずは」という発想、考え方をしているかぎり、ホームレスの問題は永遠に解決しない。
 
 「まずは」と言う人はそこしか見ない。前後を見ない。
 
 ホームレスの問題は全体を見なければいけない。「職を探しているならやっぱりハローワークがいいと思うよ」と言うのは、その“系”、つまり「職探しという系」についてのみ言うなら、まったくもって正論なのだ。しかしそんな正論はホームレスの問題を解決するのには何の役にも立たない。
 
 部分的な系のみに着目して“正論”を言う専門バ家はこの世の中に意外と多い。
 
 そして専門分化を深める今の世の中は、専門バ家をどんどん増やして行っているように見える。
 
 専門バ家はホームレスの問題を解決できない。ホームレスの問題にかぎらず、世の中の多くの問題は小さな問題がいくつも関聯しあっている。一部分を見るのではなく、もっと全体を見ていかなければいけない。
 
一度にただひとつの困難を解決することはできない。多くの問題を同時に解決しなければならない。―W.ハイゼンベルク『部分と全体』
 

山手線30番目の駅名考〜品川新駅(仮称)の名前を考える〜

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 山手線にできる30番目の駅の名前を考える。2020年開業予定の田町駅と品川駅の間にできる、今は仮称で「品川新駅」と呼ばれている新駅の名称である。
 
 以下、ネットで見かけた駅名候補を、「駄目群」、「第二候補群」、「第一候補群」に分けて、一つ一つ検討していってみよう。
 
 私は基本的には歴史を大切にする立場を取る。
 
 先ずは駄目群から。
 

【駄目群】

「高輪」
 
 「高輪」にしようという声は多いが、高輪は駄目だ。高輪の町民は今までも強引にいろんな電車の駅に「高輪」の名前を付けてきた。都営浅草線の「高輪台」、南北線の「白金高輪」。今度JR高輪駅ができたら三つ目であり、しかもこの三つの駅はすべてバラバラのところにある。特に今度の山手線の新駅は高輪の町から離れたところにある。
 
 「高輪」を推す人たちの理由は「高級感があるから」ということらしい。しかしそれは完全に誤っている。山手線の駅名の影響力を解っていない。駅名、特に山手線の駅名の力は強大である。
 
 アンケートで「高輪」が良い、と答えている人たちに理由を聞くと、「高級感があるから」と言う。しかしそれは、高級な住宅がたくさんある街の名前に「高輪」と付いているから今は高級なイメージを抱けているのである。新駅に「高輪」という名前が付けば、多くの人々が「高輪」と聞いたら駅周辺の方をイメージするようになる。必ず元の「街」よりも「駅」の方が勝つ。駅の東側がどんな風に発展していくかは未知の部分もあるが、「ああ、あのオフィス街の」とか「ああ、あの工場地帯の高輪ですか」などとなっていく可能性もあるのである。将来、高輪の人たちは「違うのに…。工場地帯じゃなくて高級住宅街の高輪なのに…」と言って臍を噬むことになるかもしれないのである。
 
 高輪の街の人たちで新駅名を「高輪」にしようという運動をしている人たちもいるらしいが、私には、せっかくの高級なイメージを自ら捨てに行ってるようにしか思えない。
 
 
泉岳寺
 
 歴史を彷彿とさせる名前である。近くに都営浅草線の「泉岳寺」駅があるから同じ名前にした方がいい、利用者が混乱しないためにも、という意見は多い。
 
 しかし、泉岳寺からは以前駅名使用に関して訴訟があったので、この名前はもう使わない方がいい。
 
 今の線路上にできる駅なら「泉岳寺駅」のすぐ隣だから同じ名前にした方がいいという意見にもなろうが、新駅は100メートルほど東へずらした線路にできるのだから(つまり泉岳寺からは更に離れるわけだから)、駅名も別にした方がいい。
 
 
「三田」
 
 「三田」は、港区の地名の中でもとりわけ古い歴史のある由緒正しい名前である。が、やはり、新駅と三田の町が離れすぎているのと、「三田」と聞いて人々がイメージする慶應義塾大学も新駅から遠い。
 
  
「新品川」
 
 新しい駅名や市名等に「新◯◯」、「北◯◯」、「西◯◯」と安直に名付けるのは止めるべきである。隣の駅や隣の市のブランドに安直に乗っかるべきではない。「新しい感じがして解りやすい」と言う人がいるが、どんな駅だって何れは古くなるのである。今の人の感覚だけで考えるのはおかしい。
 
 それに「品川」は元々、目黒川の河口付近の「品川湊」の辺りを指す地名であり、現在の品川駅自体が、本来の品川よりかなり北に位置している。それよりさらに北にできる新駅は、本来の「品川」から遠く離れすぎる。
 
 

【第二候補群】

「芝浦」
 
 「芝浦」は「高輪」と並んで候補としてよく聞く名前である。新駅を東口に出ると、北には芝浦の町が広がっている。そんなに的外れな名前ではない。
 
 しかし、今は「芝浦」と言えば田町駅の東口の街、というイメージが定着している。田町駅でも東口のことを「芝浦口」と言っている。田町駅の方がよっぽど「芝浦」なのである。「芝浦で待ち合わせ」と言った場合、今までどおり田町駅の芝浦口なのか、それとも新駅なのか、という紛らわしい事態を引き起こす。
 
  
「芝浜」
 
 そこで出て来るのが「芝浜」。「芝浜」という有名な落語があり、一部の落語ファンの間では、これを機に失われた「芝浜」の名を甦らせたいと盛り上がっているようだ。
 
 だが、「芝浜」の場所は田町駅を高輪口に出て右に曲がった方にある。左に曲がるとか芝浦口に出るならまだしも、今度の新駅とはまったく逆の方向にあり、かけ離れすぎている。失われた歴史を甦らせる、という視点では「芝浜」案は面白いが、やはり場所が離れすぎ。
 
 

【第一候補群】

「港南」
 
 駅名を考えるときに、その駅の「住所」の町名を真っ先に考えるのは当然の考え方である。今度新しく駅ができるところの住所は「港南」である。なので、「港南(駅)」はある意味、最も妥当で当然の駅名である。
 
 ところで、新しい駅ができるときというのは、失われた古い地名を復活させるチャンスでもある。できるだけその土地に古くからある歴史ある名前を付けるべきである。
 
 しかし新駅ができる辺りは、そもそもが埋め立て地であり、何百年もの歴史があるわけでもなく、古くからの地名というものもない。「港南」という名前も数十年の歴史しかないと思われ、その名前の由来も「港区の南だから」という比較的安易な名付けである。
 
 それでも「港南」が第一候補なのは、「港南」は山手線の外側(東側)の街だからである。中心から外側へ向かって発展していく。特にあの辺りは埋立地であり、将来は外側に向かって発展する可能性が高い。その意味でも内側の町名(高輪など)ではなく、「港南」が良いのである。
 
 また「たかだか数十年の歴史しかない」と言っても、数十年でも歴史は歴史である。この街には「港南中学校」があり、この中学校の卒業生は「自分は港南育ちだ」「ここは港南だ」という意識があるだろう。
 
 気になる点をあげるとすれば、横浜市港南区港南台という町があり、鉄道会社は違うが「港南台駅」も存在する。比較的近い圏内に似た名前があると、やや紛らわしいかもしれない。(※2018/06/18追記:コメントで「港南台駅」はJR京浜東北線の駅にあるとの御指摘をいただきました。)
 
 
「高浜」
 
 「高浜」は「港南」という町名ができる前に、その辺り一帯の町名だった名前である。今は町名としては残っていないが、「港南」の街の真ん中を運河が流れていて「高浜運河」と言う。また「高浜橋」という橋もある。場所的にもぴったりである。
 
 「高浜」という地名の由来は「高輪の浜辺」というところから来ているらしい。このような埋立地としてはなかなか歴史のある地名であり、これは「港南」と並んで第一候補群になりうる。
 
 私はずっと、この「高浜」が一番良いと思っていた。「港南」より歴史がある。意味もある。ところが、調べてみたら茨城県石岡市に「高浜駅」があることが判った。JR東日本の駅であり、同じ鉄道会社の管轄内に同名の駅を作ることは難しいと思われる。なので、付けるとすれば「高浜橋」のように変化を加えないといけない。
 
 

【論外】 

 以下、ネットで見かけたが、論外のもの。
 
「高輪芝浦」、「品川泉岳寺」(等の複合名)
「品田」(品川と田町から一文字づつ)
「南田町」
「しながわ新都心
「東京サウスゲート」
「オリンピック2020ターミナル」
 
 

【まとめ】

 
 というわけで、私が今のところ推すのは「港南」。若しくは「橋」が付いてしまうのがやや残念だが「高浜橋」である。
 
 この二つを比べると、「高浜橋」のほうが日本語っぽい響きである。「渋谷」、「池袋」、あるいは「鶯谷」のような訓読み駅名となる。「港南」は「新宿」や「東京」と同じ音読み駅名でやや硬い響きになる。
 
 私が知らない名前で歴史や由緒があって「これしかない!」というぐらいぴったりな名前が他に出てくれば考えが変わるかもしれないが、今のところはこの二つか若しくはぎりぎりで「芝浦」といったところか。
 

 
 ↓皆さんはどんな名前がいいですか?ぜひ、じっくり考えて投票してみてください。投票するとみんなの結果を見ることができます。選択肢に無い名前は「その他」を選んでお書きください。(2018/06/06追記:すみません。下記アンケートは日本語が通らないみたいなので、「その他」の方はコメント欄にお書きください。)
 
山手線新駅の名称は何が良い?
高輪
芝浦
港南
新品川
その他
お書きください:
 

地方に大学を

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 政府が大学の東京一極集中を是正するための諮問機関を昨年2017年に設けた。
 
 こうした政府の動きに対して批判の声は多い。
 
 一番多く聞くのは「地方には仕事がないんだから大学を卒業してから結局は東京へ行く」という声。
 
 もう一つよく聞くのは、1990年代に東京の大学が郊外へキャンパスを移転した結果、人気がガタ落ちした、という例を引いて、「キャンパスは都心にあったほうがいい」という声。
 
 しかしこれは、「東京の郊外」と「地方」を混同している。東京の大学を東京圏の郊外に移転するのと、地方に大学を作る話は別だと思う。
 
 私は「地方に大学を作ろう」という意見には賛成である。東京への過剰な一極集中の是正は、かなり昔から議論されているものの、一向に改善する気配がない。
 
 東京への人口の集中が進むのは地方の人が東京にたくさん移り住むからである。しかし移り住むと言ってもそう簡単には引っ越せない。大部分の人にとって、人生で東京に移り住むきっかけになるのは、大学受験と就職、結婚の時だろう。となれば、この「三大きっかけ」を見直すことが東京一極集中の是正に繫がる。
 
 地方に仕事を創出することも大事だが、大学を地方に作ることも大事である。例えば、地元にまともな大学が県名を冠した国立大学一校しかなくて、その一校に行くか若しくは東京の大学に行くか、という選択肢を迫られている人はいっぱいいると思う。東京の大学に進学すれば、東京で「縁」もできる。人との繋がり、コネクションができ、人によっては東京を離れられなくなる。実家の「家業」がある人は別だが、特段、家業もない人は、このまま東京で就職してもいいか、という考えにもなろう。「引っ越す」ということは「機会」や「縁」がなければなかなかできないことだ。
 
 また、東京の大学に進学すれば、そこで出会った人と恋に落ちたり、結婚などという話になることもあるだろう。相手が東京近郊の人だったら、ますます東京で結婚生活を送る可能性は高くなる。
 
 先日、政府が、今後10年間、東京23区の私大の定員を増やさない、という法律を閣議決定した。このニュースに対して、私の見たかぎりでは、「バカじゃないの」というような批判的なコメントが多かった。「そんなことをしたら東京の大学の受験競争が激化する」というコメントも見た。だが、東京の大学の定員を絞るのではなく、あくまでもこれ以上増やさないというだけなのだから、激化するはずはない。少子化の今の時代に、東京の大学の定員をこれ以上増やしたら、地方の小さな大学はなかなか太刀打ちできない。
 
 地方の大学は、◯◯芸術大学、◯◯経済大学、◯◯工科大学のような専門の大学が多い。高校生の時点で進路が決まっている人ばかりでもないと思うので、もっといろんな学問が学べる総合大学があってもいい。
 
 「東京一極集中に何か問題でも?」と言う人もいるが、私は東京一極集中には反対である。効率を優先させて地方を衰退させてよいはずがない。地方の都市にも村にもそれぞれ掛け替えのない文化がある。少子化は確かに厳しい試練だが、だからといってそんな簡単に地方を諦めてはいけない。
 
 
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選択的夫婦別姓が話題になっては消えて行く理由

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 選択的夫婦別姓の問題は、もうだいぶ昔から話題になっては消えて行くことを何度も繰り返している。
 
 最近もIT企業の社長が提起して話題になったが、その後、盛り上がらない。
 
 この話題が消えて行くのは、「賛成」の人が少ないからである。
 
 と言うと、「私は賛成ですよ」とか「アンケートでたくさんの人が賛成って答えてますよ」と言う人がいるだろう。
 
 しかし、それらは真の賛成ではない。以前の朝日新聞のアンケートでの「容認」という言葉がなにより物語っている。多くの人々は「賛成」ではなく「容認」なのである。賛成と容認は全然違う。
 
「私は結婚して夫婦で別姓にするつもりはないですけど、それを望む人がいるんなら別にいいんじゃないですか?」
「私は反対しませんよ」
「好きに選べるようにしたらいいんじゃないですかね」
 
 要するに「他人事」なのである。自分の事ではなく、それを望む人がいるんなら私は反対したり阻止したり邪魔したりしませんよ、という意思表明なのである。
 
 そういうのは「容認」もしくは「消極的賛成」というのである。「賛成」というのはもっと積極的な賛成である。自分が夫婦別姓を選びたい、ぜひそうしたい、と強く願う人がたくさんいれば、世の中はそのように変わっていくのである。
 
 翻って反対派の人たちの「反対」は「積極的反対」なのである。「別に姓制度を変えなくてもいいんじゃないですかね」ではなく、「どうしても姓制度を変えてほしくない」なのである。エネルギー量が違うのである。
 
 「それにしても、なんで反対するのか、その理由がわからない」と言う人が多い。「自分が別姓にしたくないなら自分が別姓にしなければいいだけのことで、なんでそれを他人にまで強制しようとするのかがわからない」
 
 そういう人のために反対派の人たちがなぜ反対するのかを、サッカーを例にとって説明してみよう。
 
 ここにサッカーファン(サッカーに詳しい人)と、サッカーのことをまったく知らない人がいたとする。
 
 知らない人「どうして手を使っちゃ駄目なんですか?手を使えないとすごく不便だと思うんですよ。手を使いたい人は手を使えるようにルールを改正するのは良いことだと思いますけど」
 
 詳しい人「私は、そのルール改正には反対です」
 
 知らない人「いいですか?私たちが主張しているのはあくまでも『選択的』ということなんです。私たちは何も『手を使え』って言ってるんじゃないんです。従来通り、手を使いたくない人は手を使わなくていいんです。使いたい人だけが使えばいいんです。選択肢が増えるのはいいことじゃないですか?」
 
 しかしそんなことを認めてしまったら、サッカーはお終いである。サッカーファンなら誰もがそう思うだろう。ゴールキーパー以外、手を使えないということがサッカーの醍醐味であり魅力である。「使いたい人は使う」「手を使うか使わないかは選手個人個人の自由」などというルールにしたら、もちろんみんな手を使う。その方が圧倒的に有利だからだ。「手を使ってはいけない」というルールを自分一人だけではなく、全選手に課していることにこそ意味がある。
 
 反対派の人たちは全員に統一ルールを課すことに魅力を感じているのである。
 
「それなら私たち賛成派だって、『選択的自由』に強い魅力を感じています」
 
 そうかもしれないが、あなたがたが重い価値を置いている「選択的自由」は、別に姓制度という場で発揮されなくてもいいのだ。あなたがたは姓制度には関心はなくて、選択的自由を訴えているだけなのだ。
 
 選択的夫婦別姓制度の話が一時的に盛り上がってすぐに消えて行ってしまうのは、賛成派の人々が言うように「老人たちが頑固に反対するから」ではなく、「別姓を望んでいる人がどこかにいるんでしょ?だったら、その人たちが好きに選べるようにしてあげたらいいじゃないですか」「私は反対しませんよ」という、どこまでも他人事な態度の人たちが、今の世の中に大多数だからである。
 

デジタル・ガバメントへの3つの提言

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1. 申請主義からの脱却

 デジタル・ガバメントの基本的な考え方は大体賛成だ。ワンス・オンリーもコネクテッド・ワンストップも諸手を挙げて賛成だ。
 
 00年代の「電子政府」化計画は単に紙をデジタル化するだけのものだった。今回は単なるデジタル化ではない、という意味を込めて、「電子政府」から名前を変えて「デジタル・ガバメント」としている思想にも賛成だ。
 
 しかし、ここまで思想を根本から見直し再構築しているのに、「申請主義」について一言も触れていないのは奇妙だ。
 
 何故なのか。
 
 「根底から見直す」と言っても、さすがに申請主義についてまで触れてしまうと、それはもう本当にそもそもの土台からの話になってしまう。さすがにそれは、話が大掛かりになりすぎてしまうことを、あまりにも「そもそも論」になってしまうことを恐れているのか。
 
 計画の趣旨に「安心、安全かつ公平、公正で豊かな社会を実現する」とあるが、申請主義に触れないのでは、真の「安心、安全かつ公平、公正で豊かな社会」は実現できない。これができないようでは、「デジタル・ガバメント実行計画」は始まる前から半分死んでいる。
 
 どうしてこのような“間違い”を犯しているのか。
 
 「サービス設計12箇条」が第1条「利用者のニーズから出発する」から始まっている。こういうところに誤りがあると思う。
 
 利用者のニーズから始めてはいけない。
 
 利用者のニーズというところから始めると、「自動改札は右側が便利か左側が便利か」という些末な話から始まってしまう。デジタル・ガバメントは大思想でなければならない。利用者のニーズを待ってから話を始めるとどうしても些末なところに落ち込んでしまう。それに利用者は「ニーズ」を知らない。デジタル・ガバメントでどういうことができるようになるのかを知らない。誰もニーズの声を上げない。「国民のニーズがないから私たちは動かなくてもいいですね」となってしまう。利用者のニーズを待たずにリードしていくデザインでなければならない。
 
 抑々、「利用者」でもあるが「適用者」「対象者」でもあるのだ。
 
 マイナンバー制度の目的の一つに「社会保障」がある。
 
 「孤独死」が増えている。無縁社会において誰にも助けられず亡くなっていく人がいる。「ワンスオンリー」や「コネクテッドワンストップ」はこうした社会的弱者を扶けるのに役立つ。だが、申請主義の壁が立ちはだかる。
 
 弱者はIT機器の使い方を知らない。パソコンもスマホも持っていない。体が弱っているから役所まで足を運ぶこともできない。便利なサービスがあること自体も知らない。社会的人間関係が無いから誰から教えてもらうこともない。
 
 こういう人を助けられないんだったら、何のためのサービス、制度だろう。
 
 プッシュ通知の仕組みも整えているようだが、プッシュ通知よりももう一歩踏み込んだ「助け」が必要だ。「一応、お知らせはしましたからね。後はあなた自身の努力次第ですよ。このサービスを使いたければ申請してくださいね」と言うのではあまりに冷たすぎる。
 
 

2. (カード)所持認証主義からの脱却

 生体認証などを取り入れることで、物理カードの所持認証から脱却しよう。カードの所持認証に頼っていると、「カードも何もかも流されてしまいました」という人を助けることができない。
 

3. 国際標準を目指す

 せっかく作るのだったら国際標準を目指そう。今は「日本仕様」でも事足りるかもしれないが、早晩、海外の類似制度との兼ね合いが問題になってくるだろう。例えばIDの問題は世界の共通仕様を求められるはずだ。今の人は世界中を移動する。IDとは個人特定なのだから、その人が移動するたびにその都度、国によってIDが変わって追っかけられないようでは意味がない。
 

「何を為すべきか」の発想から

 以上、3つの提言を上げてみたが、私が一番主張したいのは、一番目の申請主義の問題だ。
 
 ニーズから出発すると、「便利」や「効率」ばかりを優先させたつまらない形に陥ってしまう。「何を為すべきか」という発想からスタートするべきだ。そうすればデジタル・ガバメントはより良いものになるだろう。
 
 
(参考:デジタル・ガバメント実行計画)