漸近龍吟録

反便利、反インターネット的

西日本豪雨と熊澤蕃山

 平成30年西日本豪雨災害から一年が経つ。
 
 梅雨前線が長く停滞し、西日本の広範囲に渡って大きな被害を齎した。200名以上の人が亡くなり、家の全半壊1万棟以上、床上床下浸水3万棟以上の大災害となった。
 
 7月6日には岡山県でも大きな被害が出た。豪雨被害は、九州から始まり、西から順番に東へと移動して行ったため、順番から言って岡山県はほぼ最後の方だった。川が氾濫し、倉敷市真備町でたくさんの人が亡くなった。
 
 この災害の時に私が思い起こしたのは、約400年前、岡山の治水、治山に尽力した思想家、熊澤蕃山のことだった。
 
 岡山県という所は昔から「晴れの国」と言われるぐらい一年を通しての晴天率が高い。その一方で、一度雨が降ると水害が起こる。
 
 岡山県内には大きな川が三つあり、さらにはそれぞれの川の支流がある。中国山脈から瀬戸内海までの距離が短いため、おのずと川は急流になる。こうした構造は隣の広島県も似た感じになっている。そのため、岡山県は晴れの国であるにもかかわらず、歴史的にたびたび大きな水害に見舞われて来た。
 
 特に明治時代には大きな水害が立て続けに起こり、危機感を感じた宇野圓三郎という人が対策に乗り出した。今の岡山県の安全は、この時、宇野圓三郎が施した水害対策に負うているところが大きい。
 
 宇野圓三郎は、吉井川、旭川高梁川のような大きな川よりも、むしろ支川の方で氾濫、洪水の危険が高いということをすでに明治時代に指摘している。平成の大洪水で氾濫したのも小田川という小さな川だった。
 
 この宇野圓三郎が岡山県の人々に治水事業の重要性を説く時に口にしていたのが、江戸時代の思想家、熊澤蕃山の名だった。
 
 熊澤蕃山は江戸時代初期の頃の人。その思想は江戸時代の他の思想家の思想と比べて、国土を論じたところにその特徴がある。蕃山は国土、土木、治水といったことに関心が高かった。やがて、名君として名高い岡山藩藩主の池田光政に雇われることになり、長く岡山県に住んだ。
 
 江戸時代にも、岡山県はたびたび大水害に見舞われていた。特に承応三年の大水害は被害が大きかった。この時の大水害をきっかけに蕃山は旭川の氾濫から岡山の城下町を救うため、百間川という川を新たに“作った”。
 
 蕃山が指摘したのは、当時森林伐採が進み、山の保水力が弱くなっていることと、干拓によって水捌けが悪くなっている、ということだった。この二つによって河川の氾濫が起きやすくなっていると分析した。主著『集義外書』に次のように言う。
水上の水、流域の谷々、山々の草木を切り尽くして、土砂を絡み保留することがないから、一雨一雨に川の中に土砂が流入して、川床が高く、川口が埋もれるのである。その根本をよくしないで、末端だけのやりくりをしてはどうして成功しようか。(『集義外書』)
 行き過ぎた森林伐採によって山が一度禿げ山になってしまうと植林を進めてもうまくいかない。ふだん雨が降らない「晴れの国」であることが裏目に出て、なかなか木が育たないのだ。蕃山は藩主に進言し、山の行き過ぎた森林伐採をやめさせた。 
 
 しかし時代が経つと人々は教訓を忘れてしまう。
 
 明治時代には再び禿げ山が目立つようになり、上述の大災害が起こり、宇野圓三郎が立ち上がって、ふたたび治山治水事業を行った。宇野圓三郎は岡山の治山治水事業の大先輩である蕃山を尊敬しており、基本的には蕃山の思想を継承した対策を行った。
 
 岡山県には、江戸時代には熊澤蕃山、明治時代には宇野圓三郎がいた。そして水害とたたかい、治水の重要性を訴えた。そういう歴史があってもなお、今回の大水害を防げなかった。
 
 平成の大洪水の時は、山を禿げ山にしていたわけではなかった。真備地区は近隣の都会である倉敷市総社市ベッドタウンとして人口が増えて行った。住民の多くが昭和40年代以降に住み始めた比較的新しい街だったという。だからおそらく、そこがどういう経緯や由来を持った土地なのかという歴史を知ることがなかった。歴史が語り継がれなかった。土地の古老から歴史を聞くことがなかった。
 
 そうしたことが今回の大きな被害に繫がってしまったのだと思う。
 
 今年生誕400年の記念の年であることを契機にして、治山治水の大切さを訴えた熊澤蕃山の思想を見つめ直したい。二度とこのような悲劇を繰り返さない。そのためのヒントがきっとある。
 
 
(参考文献・サイト)
熊澤蕃山『集義外書』
宇野圓三郎『治水植林本源論』