漸近龍吟録

反便利、反インターネット的

ATMに並んでいる人

f:id:rjutaip:20190716221358p:plain

 
 街なかで見かける。
 
 ATMに並んでいる人たちが気の毒だ。
 
 彼らは何を思って並んでいるのだろう。辛抱強く忍耐強く並んでいる。
 
 キャッシュレス社会に生きる未来の人たちはATMに並ばない。過去の人たちもATMには並んでいない。江戸時代の人も縄文時代の人たちもATMには並ばなかった。
 
 ATMなんかに並んでいるのは現代人だけだ。
 
 このように私が言うと、「しょうがないでしょう。私たちが生きているのは江戸時代でもなく22世紀でもなく現代なのですから。現代に生きる私たちは現代の流儀に従って生きていくしかないでしょう」と皆言う。
 
 だが、その「流儀」や「常識」はもっと簡単に変わる。百年後とか、そんな遠い未来に変わるのではない。
 
 昭和時代には、成人男性は皆タバコを吸ってるのが「当たり前」だった。職場でも飲食店でも。しかし一人の人生の間にその「当たり前」は劇的に変化し、今や吸わない方が当たり前になった。
 
 昭和時代には遠方の人にメッセージを送る時は葉書か手紙で送るのが「常識」だった。そこから電子メールが「常識」に取って変わるまで、ほんの十数年しかかからなかった。
 
 
将来の子ども「私のおじいちゃんはどうして亡くなったの?」
 
「おじいちゃんは、真夏にATMの列に並んでいて熱射病で倒れて亡くなったのよ」
 
子ども「そんなくだらない理由で亡くなったの?」
 
「まあ、そうねえ、当時はそれが普通だったから」
 
子ども「何のためにATMに並んでたの?」
 
「当時は今みたいにクレカや電子マネーで買い物ができる店が少なくてまだまだ現金が必要だったから、ATMに行ってお札を下ろす必要があったのよ」
 
子ども「じゃあ、ATMがたくさんあったの?」
 
「うん、今よりはずっとたくさんあったわね。でも、当時は銀行の経営効率化の名の下に、コストがかかるATMは急激に台数を減らされていたの。だから一台のATMにたくさんの人が並んでいたのよね。給料日とか連休前には長蛇の列ができるのがおなじみの恒例行事のような光景だったわね」
 
子ども「それで、おじいちゃんは20分も並んでて倒れたの?誰も不満は言わなかったの?」
 
「今はもう街なかでATMはほとんど見かけないし、今振り返ってみれば、ATMにあんなに長時間並んでいたのはあの頃だけだったわね。でもあの頃はあれが普通で当たり前のことだと思っていたのよ。誰もそれをおかしいことだとは思わなかった。しょうがないって思ってたわ」
 
 
 私が関心があるのは、いつだって今この一瞬のことだ。
 
 今の人は二言目には「コスパコスパ」と言う。ATMは設置と維持に大きなコストがかかると言う。銀行の経営改善、効率化のためにATMを減らしましょう、と言う。
 
 銀行は効率化するかもしれないが、人々の生活はどうなるのだ。たくさんの国民が何十分もボケーっと並んでいるのは効率が良いと言えるのか?
 
 充分にキャッシュレスで生活できる環境を整えてATMを無くすのでもない。ATMの台数を増やすのでもない。まだまだ現金を必要としている環境の中でATMの台数を減らしていく。
 
 「今は過渡期ですから」と言う。
 
 その過渡期に倒れた人の人生はもう二度と戻って来ない。
 
【関連記事】