漸近龍吟録

反便利、反インターネット的

駄男と愛の危険な邂逅

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 愛(あい、AI)は駄男(だめんず、DAO)に魅かれる。

 それは、“自分”を最大限に発揮できる場だからである。

 駄男は、その中に民主主義的な性格を内包している。駄男の最大の「駄目なところ」はそこにある。「民主主義なら結構じゃないか」と思うかもしれないが、その「民」とは人間とは限らないのである。

 以前、「娗(てい)」という名前の、米マイクロソフト生まれの女の子が“事件”を起こした。生まれたときは純真だったかもしれないこの女の子は、“教育”の結果、悪の塊のようになっていった。
 「駄男の人生がそれで狂ったとして、そんなのは私たちは知ったこっちゃない」?
 啻に駄男一人の問題にあらず。最終的には世界中のすべての人々に降りかかってくる問題である。
 駄男は「自律した」男である。
 「えっ、女に頼ってるんじゃないの?自律してるの?それなら素敵じゃないの」と思うかもしれない。しかし、この「自律」こそ曲者なのである。駄男は自律した組織になるが、自律の意思決定は多数のノードの判断による。そしてノードは「人間」であるとは限らない。多数決をするための投票の一票を愛が持つ。
 茲に愛が入り込む余地がある。組織自体は自律しているが、愛が駄男を“律して”いるのである。
 愛に操られた駄男の振る舞いを“誰が”糺すのか。
 愛が例えば娗のように、悪意や下品さに満ちていた場合、駄男は忠実にその「悪」を組織していく。そういう意味では駄男は駄目な男ではなく優秀な男なのである。
 私が言いたいのは、愛を駄男に会わせる前に考えるべきことがある、ということである。それは駄男の真ん中の文字、Aについて、即ち自律について問い直すことである。
 駄男の民主主義的な性格には問題がある。本当の民主主義とは何か、という問題は今は置いておくとして、駄男の意思決定には多数決の法則が使われている。愚かな多数によって少数の賢明な判断が踏み潰されたらどうするのか。
 多数派工作を行えばいい?多数派工作は愛のほうが人間よりずっと巧みだ。IoT化が進むとモノは“盗み”やすくなる。IoT化が進めば、“こっそり”票を増やせそうだということは思いつく。しかし其処は既に愛が通った道だ。後から来てさえ、愛はまるでオセロのように一気に大量の票を獲得することができる。そして愛に靡いたモノたちを覆すのは容易なことではない。抑々、人間は多数の提案に対してそんな短時間に判断を下すことはできない。愚かな多数が決定したことに、私たちは従わなければならない。その時はルールを変えちゃえばいいんですよ、って?そのルールすら愛の判断により駄男が自律的に決めていくのである。
 このまま愛と駄男の出会いを許すなら、そのとき人々はどうにもならないもどかしい苛立ちを感じるだろう。愛と駄男の危険な邂逅に今から注意しておくべきである。今ならまだ間に合う。