漸近龍吟録

反便利、反インターネット的

サッカーと戦争

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サッカーと戦争は似ている

 
 過去のワールドカップなどの大会で戦争がどのように影響してきたか、戦争によって中止になった大会とか出られなくなった国とかそういう話ではなく。
 
 サッカーと戦争は何が違うのか、という考察。
 
 「何が違うのかって、そんなの簡単でしょう。サッカーと戦争は全然違うじゃないですか。戦争は殺し合いだけどサッカーはゲームじゃないですか」と言う人もいるだろう。
 
 サッカー(ワールドカップ)と戦争はとてもよく似ている。どちらも国同士の戦いであり、国民の関心度も非常に高い。大半の国民が熱狂し、そして自分の国の勝利を強く願う。勝ったらお祭り騒ぎになり、負けたら、戦った人たちや指揮官に対してたくさんのバッシングが寄せられる。そして国全体が意気銷沈する。
 
 「ゲーム」という言葉は日本語では、「娯楽」「遊び」といった意味合いの強い言葉として使われているが、英語では必ずしも遊びを意味しない。
 
 日本人の感覚だと「サッカーはゲームじゃないですか。戦争とは違うでしょう」ということになるが、西洋人の感覚では、戦争も「ゲーム」である。数学の一分野であるゲーム理論は戦争に勝つために使われた。
 
 「それでも、サッカーは所詮スポーツであり、命を賭けている戦争とは違うでしょう」
 
 だが、海外ではかつてオウンゴールを上げた選手が怒った国民に殺されるという事件もあった。サッカーも命懸けのところはある。
 
 考えれば考えるほど、サッカーと戦争はよく似ている。
 
 

サッカーと戦争の違い其の一:審判の存在

 
 私はサッカーと戦争の本質的な最大の違いは、審判がいるかいないか、だと思っている。
 
「今のはファウルだ」
「いや、ファウルではない」
 
「故意だ」
「故意ではない」
 
 両者の意見が食い違う。どちらもが“正しさ”を主張している。どっちの言い分が正論なのか。戦争では、この対立は平行線をたどる。「こっちが正しくてこっちが間違い」と言ってくれる審判の存在が無い。そういう存在があったとしても、間違いだと言われた方、あなたが悪いと言われた方は、その裁定には従わないだろう。それが戦争だ。
 
 サッカーでも判定に不満があって審判に食ってかかる選手はいるが、そういう選手は審判によって退場を命じられる。その退場の命令にまで従わない選手はいない。審判に絶大な力がある。
 
 サッカーの勝敗は、誰の目にも明らかな「結果」によって決まっていると思われがちだが、そうではない。
 
 「1対0」なら前者の勝ち。「2対4」なら後者の勝ち。どちらが勝者かを説明する必要はないと思われる。だが試合中に審判がファウルを取るか取らないかでPKの有無が変わってくる。PKが有るのと無いのとでは点数も変わってくる可能性が高い。審判の微妙な判断で「幻のゴール」となることもある。
 
 だから、サッカーの勝敗は誰が見ても明らかな「客観的な基準」によって決まっているのではなく、審判によって決まっている。
 
 戦争の勝敗は、審判のような第三者が決めるのではなく、「負けました」とどちらかが白旗を上げることで決まる。
 
 この、どちらかが「負けました」と言うことで勝敗が決まる、似たようなルールのゲームとして将棋がある。
 
 

サッカーと戦争の違い其の二:制限時間

 
 もう一つ、サッカーと戦争の大きな違いは、ゲーム終了までの時間が決まっているかいないか、だと思う。
 
 サッカーは、あらかじめ試合時間が決まっている。通常は前後半45分づつで90分。それに少しのアディショナルタイム。場合によっては、それに前後半15分づつ計30分の延長戦が加わり、さらに場合によってはPK戦の時間が追加になることもある。
 
 何れにしても時間が決まっている。どちらかの選手が遅延行為を行っても審判によって警告の反則を取られるし、その分はアディショナルタイムとして加算される。
 
 戦争には制限時間がない。決められた時間がない。だから終わりが見えない。勝ち戦にしろ負け戦にしろ、誰もこの戦いがいつ終わるのか分からない。
 
 もっともサッカーの試合終了の笛は審判が吹く。後半の45分が過ぎて、さらにアディショナルタイムの5分もとっくに過ぎていることが誰の目にも明らかなのに、審判がいつまでも笛を吹いてくれなかったら、試合は終わらない。そういう意味ではゲームの制限時間というのも審判のコントロール下にあるので、「審判の存在」と「制限時間」は二つに分けずに「審判の存在」一つに纏めてしまっていいかもしれない。
 
 

戦争の「終了時間」

 
 戦争における審判の存在については、国連がその役割を果たそうとしてきたが、なかなか上手くいかない。
 
 私はもう一つ、制限時間を考えてみてはどうかと昔から思っている。「戦争してはいけない」ではなく、戦争の開始年月日と終了年月日を双方で話し合って、あらかじめ決めておく。そしてその期間は思う存分、戦争をしていいということにしておく。
 
 戦争に使っていい武器、使ってはいけない武器についての議論はたびたび行われている。それに加えて「終了時間」、「制限時間」についての議論があってもいい。
 
 こんなことを言ったら「そんな荒唐無稽な」、「小学生の発想みたい」と言われるであろうことは分かってはいる。戦争は“怒り”や“欲”を根本にしているので、そんな単純な話ではないことは分かっている。
 
 私は、戦争の辛さは、それが“殺し合い”であることももちろんだが、“果てしなさ”、“いつ終わるか分からない”という辛さが大きいと思っている。
 
 だから、この、戦争における「終了時間の導入」という考えを半分くらいは真剣に考えているのである。
 
 
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