漸近龍吟録

反便利、反インターネット的

私は「アインシュタインは頭がいい」なんて言わない

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 私、りゅうたいぷは「アインシュタインは頭がいい」なんて言わない。

 「アインシュタインは頭がいい? それ、誰が言ったの?」

 「りゅうたいぷさんが言ってました」

 これを聞いたら、皆、腹を抱えて必死で笑いを堪えながら、「そりゃ、りゅうたいぷさんから見たら、この世の大半の人は頭がよく見えるでしょうね」と思うだろう。

 この発言の主がりゅうたいぷであることの滑稽さ。頭が悪い私がどうしてアインシュタインが頭がいいかどうかを判断できよう。

 

 世の中、医者や弁護士には「先生、先生」と言って“へいこら”しながら、ファミレスの店員やタクシーの運転手に対しては横柄な態度を取る人が多いのはなぜか。

 それは、敬意の基準が「自分ができるかできないか」になってしまっているからである。つまり医者や弁護士を「すごい」と思うのは「自分にはこんなことできない」と思うからであり、ファミレスの店員に対しては、自分がその仕事をやったことがないにもかかわらず、「これぐらいのことは自分にもできそう」と思うのである。

 自分ができそうかできなさそうか、を「すごいかすごくないか」の基準にしている。

 自分を基準にしてしまうことの愚かさ。あなた如きを基準にされたら堪らないのである。

 

 私は、「私から見たらアインシュタインは頭がよさそうに見える」とか、「アインシュタインは20世紀の人間にしては頭がいい」という言い方はするかもしれないが、「アインシュタインは頭がいい」とは言わない。

 

『オオカミ少年』の一般的な教訓に対する異論

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 イソップ童話に『オオカミ少年』という話がある。

 羊飼いの少年が退屈しのぎに「狼が来た!」と何回も嘘を吐いていたら、本当に狼が来た時に村人たちに助けてもらえず、羊たちが狼によって食べられてしまったという話である。

 この話の教訓は、「だから嘘を吐いてはいけない」ということだと思っている人は多い。普段から嘘を吐いていると、こうやっていざという時に誰からも助けてもらえないんですよ、ということだと。

 私は以前からこの解釈に異論がある。

 「いっつも嘘ばかり吐いてるからこういうとき誰からも助けてもらえないんだよ、ざまあ」
 「自業自得だね」

という話なのだろうか。

 羊を食べられて困っているのは誰なのか。

 狼に食べられてしまった羊たちは村人たちのものでもあるはずだ。羊を食べられてしまって困るのは少年一人ではなく、村人たちだって困っているはずなのだ。少年の視点ばかりがあって、村人たちの視点がないのはおかしい。

 読者は、もし自分が少年だったらと考えて、「ああ、やっぱり日頃から嘘は吐いちゃいけないんだな」と考える。もし自分が村人だったらとは考えない。

 村人たちは羊を食べられてしまって“大困り”なはずである。少年一人を「自業自得だ」「ざまあ」などと言って切り捨ててお終いという話にはならないはずである。しかしこの話は日本では(外国ではどうか知らないが少なくとも日本では)、嘘吐き少年一人が最後に痛い目をみた、という話として捉えられている。

 こんな解釈には私は大いに異論がある。そこで、村人の視点で考えている人がいないかネットで調べてみたら、いた。いることにはいたのだが、それらの人たちの意見は概ね次のようなものだった。

 「村人の大人たちも、いつなんどき本当の狼が襲って来るかわからないのだから、常に注意を怠らないようにしておくべきである。少年に騙されて大被害を出してしまったのは油断である。この話は、油断していた大人たちへの教訓である」
 「少年の言葉の真偽を確かめないのが悪い。万が一ほんとうである可能性を考えて常に細心の注意をしておかなきゃいけない」

 これまた、ふざけた解釈である。

 「何度嘘を吐かれようが、毎回、万が一のことを想定して備えていれば防げたはずである」などという考え方は傲慢である。驕りである。人間はそんなに優秀な生き物ではない。「細心の注意をしていれば防げるはず」などと思うほうが“ぬかり”である。人間は何度も嘘を吐かれて騙されればもう信じることはできなくなる。疑いを容れて「今度は本当かも」と思うことはできなくなる。人間なら誰でもだ。


 2011年東日本大震災の後に「警報」の上に「特別警報」ができた。警報ではみんな動かないから重大さを報せるために作ったのだと。

 しかし、みんな自分が「警報係」になったときのことを考えてみてほしい。

 「あ、今の地震はかなり大きかった。どうしよう。特別警報を出すか、出さまいか。でも、直後だから被害の程度は全然わからない。特別警報を出して大したことなかったら濫発するなって国民から怒られるし、ここで特別警報を出さないでもし大被害が出たら後で『なんであのとき特別警報を出さなかったんだ』って国民から叩かれるだろう。どっちみち間違う可能性があるなら出しておいて間違いだったと言う方がいい。」

 皆、そう考えるだろう。実際、「係」の人も同じように考えて特別警報を出している。その結果どうなるか。

 未来の子供「いま、特別警報が出たよ。警報の上だよ?逃げなくちゃ!」

 未来の大人「だいじょうぶ、だいじょうぶ。今まで長年生きてきたけど、特別警報って言っても大抵、津波5cmとかだから。今まで全部そんなもんだったから。全然、心配しなくてだいじょうぶだよ」

 こうやって子供と大人はともに津波に飲み込まれる。


 では、『オオカミ少年』の話には何の教訓も無いのか?何の教訓も無い話が話として纒められ、語り継がれているのか。

 私はこの話から得るべき教訓は、「人間は騙されつづけたら疑いを容れることはできない」ということだと思う。

 100回。いや、1000回目。少年が「今度こそ絶対!マジで!今度こそ本当に狼が来たんだって!」と迫真の顔で言ってくる。あなたは玄関に行って靴を履き、家から少し離れたところまで見に行く。狼はいない。少年が「ウソでした〜」と言いながら笑っている。

 こんなことを1000回もつづけられて、1001回目に「今度は本当かも」と思える人はいない。そんなことは人間には絶対にできない。

 外に見に行くのは“労力”である。「それぐらいは大した労力ではない」と言う人がいるとしたら、私は一日に10回仕掛けてやろう。一年に3650回、無駄な往復をしてそれでもまだ大した労力ではないと言えるか。

 『オオカミ少年』の話から私たちが学ぶべき教訓があるとしたら、それは、人間は誰しもずっと似たような境遇がつづいた場合、その境遇や環境に疑義を挟めなくなってしまう、ということだ。少なくとも、「ざまあ」「自業自得」などと言って少年を切り離したり、「油断せずに注意していれば被害は防げたはず」などと大人の能力を過信したりすることではない。

 少年を切り離すのではなく、「自分たちの問題」として捉えること。そして、人間の能力を過信しないこと。私たちの問題なのだから少年を切り離して考えるのではなく、例えば、嘘を吐かないように少年を教育していくとか、羊の番を二人体制にするとか、少年を包摂したうえでどのように問題を解決していくべきかを考えるのが肝要だと、そう私は思う。

 

マイナンバー制度はカード所持認証を超えてゆけ

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 現行のマイナンバー制度はマイナンバーカードがセットになっている。行政側ではなく、利用者側(国民側)から見れば少なくともそうだ。

 そうなっている理由の一つは、やはりセキュリティ上の問題だろう。所謂「なりすまし」を防ぐためにはカードの所持認証というのは、かなりセキュリティ度が高い。

 しかし、カードの利用を前提としてしまっていることでマイナンバー制度の本来の意義が霞んでしまっている面もある。

 

 例えば、マイナンバー三大利用目的の一つ、「災害」。

 此処に「洪水で家ごとすべて流されてしまいました」という人が呆然と立ち尽くしている。その人に向かって「マイナンバーカードはお持ちですか?」と言うのだろうか。私はそんな残酷なことは言いたくない。

 マイナンバー制度はこういう人を助けるための制度であるはずだ。それなのに、「わざわざ役所に行かなくてもマイナンバーカードがあればいろいろな手続きを一括で申請できます。マイナンバーカードはお持ちですか?」と言う。

 家ごと流されたと言っているのである。

「ご住所はどちらですか?今、どちらにお住まいですか?」

 住所はあるが、その「お住まい」が無いのである。

 

 カードの所持認証がセキュリティ度が高いことは分かる。所持認証だけではない。カードのICチップが持つ耐タンパー性とか、カードを利用した方が格段にセキュリティが高まることは分かる。しかし何とかそこをクリアしていくべきだ。私は技術的な精しいことはよく分からないけれども、例えば生体認証を用いるなどして、カード所持認証から解き放たれることはできないのか。

 最近、「Polarify」が生体認証を使ってマイナンバーカードの暗証番号を呼び出す、というところまで行ったというニュースを聞いた。

 ここまで来たなら、あともう一歩だという気がする。マイナンバーカードを超えてマイナンバーを直接利用できるようになるまであと一歩だ。

 道具が制度の精神を邪魔してしまったのでは本末転倒だ。

 

ビットコイン批判 〜ビットコイン生誕9周年〜

 

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 9年前の今日、この世に誕生した。
 
 昨年2017年は、「ビットコイン元年」あるいは「仮想通貨元年」と言ってもいいぐらい、ビットコイン知名度が爆発的に上がった一年だった。そして、ビットコインの“よくない”面がたくさん見えた一年でもあった。
 
 今、ビットコインのいったい何が問題なのか。
 
 そこには、二つの大きな問題がある。
 
 「中国の問題」と「日韓の問題」である。
 

中国の問題=マイナーの問題

 ここで「中国の問題」と呼ぶのは、いわゆる「マイナー(採掘者)の問題」である。マイナーは中国にだけいるわけではないが、中国が主流を占めている。2015年、2016年頃は中国の年であった。取引量の上でも、採掘量の上でも、中国がビットコインの主たる場であった。この二年間で明らかになったことは、巨大なハッシュパワーを持つマイナーが強大な権力を持つようになる、ということだった。
 
 採掘のスピードはビットコインの価値に影響するが、そのスピードを速めるも遅めるもマイナー次第。そして、今まさに問題になっているビットコインネットワークの混雑、送金処理の遅延も、マイナーの匙加減一つ。さらにもっと大きな問題は、マイナーがビットコインの仕組み、すなわち「政治」の問題にまで口出しできるようになってきたことだった。ハードフォークとか文字通りビットコインの根幹に関わるようなことに対して日に日に大きな意見を持つようになっていった。
 
 そしてついに、2017年8月、マイナー主導のハードフォークが決行された。
 
 これは、ハードフォークの是非以前に、一握りの声の大きな人間によって決行されたことが問題である。
 

日韓の問題=大量の投資家の問題

 2016年までとは変わって、2017年にビットコイン取引量が最大になったのは日本と韓国だった。
 
 日本と韓国でビットコインを「始める」人が爆発的に増えた。そして、ビットコインの価値(時価総額)は、2017年の一年間で爆発的に高騰した。高騰した理由は、大量の日本人と韓国人がビットコインを買ったこと。それも投資的な目的で買う人が多かったことが主な原因だ。いわゆる「ミセス・ワタナベ効果」である。
 
 それではなぜ、2017年に突如、大量の日本人がビットコインを知る(買い始める)ことになったのだろうか。
 
 私は、それは一部のブロガーの存在が大きいと思っている。ある有名ブロガーが2017年の初頭にビットコインを「始めた」。そして「儲かる」「儲かる」とブログに書き綴った。これを見て煽られた人たちがビットコインに興味を持ち始めた。
 
 もちろん、一人のブロガーのせいとは言わないが、何人かの影響力の大きいブロガーが「ビットコインで儲かった」みたいなことを書けば、その影響は一気に日本中に拡がる。
 
 日本はビットコインの取引所なども充実しており、ビットコインを買いやすい環境が調っている。人口も多いし、こんなにたくさんの人が買えば(ほぼ「売り」ではない「買い」の一辺倒)、高騰するのは当たり前である。
 
 世界のビットコイナーたちは、何故この一年間でこんなに高騰したのか、その理由を、技術的な革新、前進があったからだとか、法的な整備がととのったからだとか、いろいろ考えているけれども、私は案外、日本の一部のブロガーが書き立てたことに起因しているのではないか、という気がしている。
 
 今や世界屈指のビットコイン取引所である、日本の渋谷にある「Coincheck」は、他の取引所と比べても、元々、ビットコインを「投機、投資的な物」としてではなく「通貨」として流行らせよう、という志向を強く持っていた。それが今では、投資的な目的の人たちが世界一集まる場所、になってしまっているのはなんとも皮肉なことである。
 

一握りの人に左右されるビットコイン

 この「中国の問題」と「日韓の問題」は似ている。それは、ごく一握りの人が大きな影響力を持っている、という点である。すなわち、有名マイナーと有名ブロガーである。
 
 この二つの悪影響がはっきり表れたのが2017年という年だった。
 
 マイナー主導のハードフォークによって価値そのものが毀損されても、ブロガーの煽りによってボラティリティが大きくなりすぎても、どちらもビットコインにとっては良くないことである。
 

「クジラ」の問題

  さらに言えば、いわゆる「クジラ」の問題もある。供給されているビットコインの約4割ほどを、たった1000人くらいの人たちが所有しているかもしれないといわれる問題だ。この1000人はかなり初期からビットコインコミュニティにいる人たちだと思われ、お互いに顔見知りである可能性が高い。つまり、この「クジラ」たちが結託すれば、ある程度思い通りにビットコインを操作できてしまう。
 

ナカモトサトシの問題

 さらに言えば、「ナカモトサトシ」の問題もある。
 
 9年前の今日、ビットコインブロックチェーンの最初のブロックがこの世に誕生した。この“0番目”のブロックのことを「創世塊」と言う。
 
 ビットコインブロックチェーンのブロックは、すべて一つ前のブロックによって正しさが証明されている。だから信用できる。10000番目のブロックは9999番目のブロックによって、9999番目のブロックは9998番目のブロックによって正しさが証明されている。しかしこれを辿って行くと、「じゃあ、一番最初のブロックは何によって正しさが証明されているの?」という問題に突き当たる。
 
 キリスト教の世界観では、神がこの世界を造りました、と説明する。すると子供は「じゃあ、神は誰が造ったの?」と訊く。
 
 ビッグバン宇宙論でも「ビッグバンによってこの宇宙は始まりました」と先生が説明すると「じゃあ、ビッグバンは何によって起こったの?ビッグバンの前には何があったの?」と訊かれる。そしてその問いに先生は答えられない。
 
 最初のブロックだけに関してはナカモトサトシを信じるしかない。それはキリスト教徒が神を信じるしかないのと似ている。
 
 もしナカモトサトシが生きていたら、そして一人の人物であったなら、大量のビットコイン保有していると考えられる。ナカモトサトシは悪用しようと思えば、ビットコインを崩壊、終焉に追い込むことができるかもしれない。
 

 今日を生きるためのビットコイン

 しかし私はナカモトサトシについてはそれほど心配していない。
 
 それよりも、ビットコインの中核から遠いところにいるマイナーや、もっとはるか遠いところにいる一部のブロガーなどが、ビットコインに大きな影響力を行使できてしまう事態の方がずっと問題であると考えている。
 
 ベネズエラジンバブエなど、自国政府の通貨がまともに使えなくなってしまっている国々では、人々は代替通貨としての機能をビットコインに切実に求めている。
 
 それなのに、日本の一部の富裕ブロガーなどが「儲かった儲かった」と煽り立てることで、ボラティリティが増大し、ビットコインが通貨として使いづらくなり、そうした貧しい地域の人々を苦しめていることになっているかと思うと、腹が立って仕方がない。
 

ビットコインのこれから 

 2018年以降、この先、ビットコインがどうなっていくのかは分からない。
 
 今あるネットワークの混雑のような問題は、Lightning NetworkやDrivechain、あるいは他の技術が登場して解決するかもしれない。
 
 しかし「一部の影響力の大きすぎる人たちに振り回される問題」はずっと深刻である。これは2017年だけの問題ではない。この問題を解決しない限り、ハードフォークの問題やボラティリティの問題はこれからもずっと続く。
 
 ビットコインにとって2017年という一年は、中国の大手マイナーや日本の有名ブロガーなど、新しもの好きの強欲マンたちによって振り回された一年だった。
 
 こうした一部の人の影響力が大きすぎる状態は、“Decentralized”という理念にも反する。
 
 ビットコインに携わる人たち、特に中核に近いところにいる人たちは、こうした問題の解決を考える必要がある。新しもの好きの強欲マンたちの手から“ビットコイン”を取り戻さなければならない。
 
 ビットコイン、9歳の誕生日、おめでとう。
 
 
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ブロックチェーン批判 〜PoS批判を中心に〜

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 ここでは主要なブロックチェーンで使われているアルゴリズムの一つであるPoS(Proof of Stake)を中心にしてブロックチェーンを批判する。
 
 日本のマイナンバー制度の情報連携システムにおいて、ブロックチェーンを活用する試みが検討されている。もしうまくいけば、エストニアなどの小国を除いて、大規模なシステムにおけるブロックチェーン活用の世界でも先進的な成功事例になる。
 
 ブロックチェーンは確かに、記録の改竄不可能性や取引記録の追跡可能性など、「社会」に応用するのに適した性質を持っている。そうした「利点」は、今までもブロックチェーンについて語られる時に常に言われてきたことだ。
 
 一方で、私には懸念点もある。それはブロックチェーンの「PoS」の原理である。
 
 
PoSの原理と資本主義
 
 社会のさまざまな場面においてブロックチェーンを活用するのは私は「あり」だと思っている。そのように社会に適用していくのはニック・ザボーの「スマートコントラクト」の考え方にも適う。
 
 一方でブロックチェーンを活用することには懸念点もある。
 
 それは有名どころの多くのブロックチェーンが採用しているアルゴリズムの「PoS(Proof of Stake)」の原理が社会にも蔓延するのではないかという懸念である。
 
 PoSの原理は基本的に資本主義(的)である。PoSには、ステークホルダーつまり持てる者はますますモテ、持たざる者はますますモテない、という問題があると思っている。
 
 PoSはもともとPoW(Proof of Work)に対する批判として生まれた。PoWは、その採掘作業のために大量の電力を消費するのでエコではない、といったような批判だ。
 
 ビットコインはPoSではなくPoWだが、それでも似たような問題が起きている。少数のマイナー(採掘者)の発言力が大きくなり、ルールそのものを変えようとする力を持ってきている。強力なハッシュパワーを持つ者がますます富む、と考えれば、これもPoSと同様の問題だと言える。
 
 
公開型か許可型か
 
 社会に適用していく時に、公開型と許可型のどちらのブロックチェーンが使われていくようになるかはまだ判らない。
 パーミッションド・ブロックチェーンを使っていく場合は、かなりコントロールが可能なので、私が指摘しているような懸案事項は「心配するに及びません」ということかもしれない。
 許可型のブロックチェーンを使う場合は、誰が「許可者」になるか、という問題が起きる。「トラストレス」を謳ったビットコインとは違って、「許可者を信用しなければいけない問題」というのが出てくる。
 
 
イーサリアムの注意点
 
 イーサリアム上のアプリケーションを使う場合は、イーサリアムの仕様の変更に左右されることを頭に入れておかなければならない。イーサリアムは現在はPoWだが、PoSに移行する計画がずっと前からある。
 
 
PoSの派生、DPoSと民主主義
 
 有名なオルトコインであるNEM(New Economy Movement)はPoSではなくPoI(Proof of Importance)を謳っている。私にはPoSとPoIがどれほど違うのか分からない。私はPoIも広い意味でのPoSだと理解している。
 
 また、別のオルトコインのBitSharesやLiskはDPoS(Delegated Proof of Stake) を採用していると言われている。これは委任投票の仕組みが入ったPoSだ。悪意のあるハードフォークなどを防げるとしている。
 
 これは現実の政治の仕組みととてもよく似ている。実際に国政を行うのは国民ではなく、国民から選挙によって選ばれた政治家である。国民からの一定の支持数(投票数)が必要なので政治家は悪いことはできない、あるいは悪い人は選ばれない、と言えるだろうか。カリスマ的人気のある“悪い”人が国民の熱狂によって選ばれてしまう、ということは歴史上何度もあったことだ。DPoSは「民主主義だから安全安心」と言ってるように聞こえるが、果たして本当にそう言えるだろうか。
 
 民主主義あるいはその表現方法の一つである多数決の弊害である「少数者の意見が搔き消されてしまう問題」や、資本主義の弊害である「モテる者はますますモテ、モタざる者はますますモテない問題」をPoSは全然解決できない。解決できないどころか、それらの問題を従順に継承してしまっているように見える。
 
 
ブロックチェーンはもっと美しく
 
 ブロックチェーンにかぎらず、新しい技術は、弱く貧しく苦しんでる人を助けるために使われなければならない。現状、特に日本では、ブロックチェーン技術は「フィン系」と「テック系」の観点からばかり語られている。「フィン系」とは即ち儲かるか儲からないかという話であり、「テック系」とは技術的にできるかどうかという話である。ブロックチェーンを応用して、社会をどう良くしていくか、という話が少ない。
 
 私はブロックチェーンに期待しすぎているかもしれない。
 
 20世紀には資本主義の、21世紀に入ってからは民主主義の弊害がたくさん見えてきた。今、世界で一番民主主義的な国家である米国で、民主主義的手続きによって選ばれた大統領は、世界で最も独裁的な人である。
 
 インターネットに次ぐ大発明と言われるブロックチェーンによって、資本主義の弊害や民主主義の弊害が是正されることを期待している。なぜなら、最も有名なブロックチェーンであるビットコインブロックチェーンは、貨幣だから金融・資本とは関聯が深いし、アルゴリズムは複数のノード間の合意の問題を扱っているから民主主義とも関係が深いからだ。
 
 私はブロックチェーンには将来的な可能性を感じ期待しているからこそ、それは“美しく”あらねばならないと思っている。「持てる人がますますモテて、持たざる人はますますモテなく」なるような原理を社会に持ち込むべきではない。インターネットやウェブが少し強めた市場原理をさらに強めるだけならブロックチェーンは要らない。
 
 
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【将棋】羽生「永世七冠」の歴史的偉業を汚した「叡王」

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 2017年12月5日、将棋の羽生善治がついに「永世七冠」を成し遂げた。

 

 その歴史的偉業を讃えるNHKのニュースに私は次のようなコメントを書いた。

 

将棋 羽生棋聖が前人未到の永世七冠 | NHKニュース

叡王戦のせいで「永世七冠」もしょぼく感じる。去年までだったら「全て制覇した」感、グランドスラム感があった。今となっては「8分の7」感しかない。

2017/12/05 18:19

 

 この私のコメントに対してid:Josui_Do氏から以下のような指摘をいただいた。

  

将棋 羽生棋聖が前人未到の「永世七冠」達成 | NHKニュース

おめでとうございます!/対局相手の渡辺明棋王永世竜王永世棋王と羽生世代以降の現役棋士で初の複数永世称号保持者。強い人です id:rjutaip 叡王戦永世称号の規定が未定なので8分の7ではなく7分の7です

2017/12/05 18:35

 

 この指摘はその通りで、叡王戦には永世称号の規定はないので、確かに現時点では永世称号の全冠制覇である。

 だが、叡王戦には永世称号が無い、とかそんなことは私たち将棋ファンしか知らないことであって、世間一般の人は分からない。実際、その夜、この快挙を伝えるNHKのニュースでは、「七つのタイトルがあって、その七つの永世の称号をすべて取ったということです」と苦しい説明をしていた。

 タイトルは八つである。だから正しくは「八つのタイトルがあってその内の七つの永世称号を獲得した」と言わなければならない。しかしそう言ってしまうと視聴者は「全部制覇したわけじゃないのか」と思ってしまう。そう誤解されないためには「この内、叡王戦には永世称号の規定が無く…」などという回りくどい説明をしなければならない。これは美しくない。

 

 私は「7」という数字はずっと美しい数字だと思っていた。三冠、五冠、七冠、奇数の方が美しい。ドラゴンボールではないが、七つ集めたらコンプリートというのは分かりやすいし綺麗だと思っていた。

 

 叡王戦には永世称号が「無い」とも言えるし、「未定」とも言える。「未定」と言った場合は、「将来的にはできるかもしれません」ということだ。

 これは、誰かが一旦ゴールテープを切った後に、「実は本当のゴールはもうちょっと先なんです」と言うようなものだ。やり口が汚い。

 

 「永世七冠という、おめでたいニュースなのに何故そんな水を差すようなことを言うんですか?」と思う人もいるかもしれない。だが、私たち将棋ファンはこのビッグニュースを長年待ち望んでいたからこそ、ゴール直前に急にタイトル戦が一つ増やされたことが残念でならないのだ。

 他の人のコメントでこんなのもあった。

 

将棋 羽生棋聖が前人未到の「永世七冠」達成 | NHKニュース

将棋ファンは9年待った。47歳で竜王復位、というところが今回の最も凄い点。

2017/12/05 16:39

 

 そう、将棋ファンはずっとこの日を待っていたのだ。それなのに、ゴール直前で「もしかしたらゴール地点はもうちょっと先になるかも」と言われた気分。

 

 他のスポーツ界でも、過去の記録をすべて無かったことに、参考記録扱いにしよう、としている世界もある。暴挙というべきである。 

 箱根駅伝もあんなに歴史と伝統のある大会なのに、度重なる区間変更(しかもその理由は大抵くだらない理由)によって、過去の偉大な選手の偉大な記録が次々と参考記録になっていってしまっている。

 

 今、竜王は名人よりも格上である。これは将棋ファンなら皆知っていることだが、世間一般の人は知らない人が多いだろう。「えっ、名人が一番偉いんじゃないの?」と思う人が多いだろう。

 竜王が一番格上なのは、竜王戦が最も賞金額が高い棋戦だからである。その賞金を出しているのは読売新聞社である。連盟は大スポンサーである読売新聞社に配慮して竜王を最高位に位置づけている。

 連盟の財政事情は知らないが、叡王戦をタイトル戦にしたのも、ドワンゴが連盟にとって大きなスポンサーだからだろう。

 連盟に言わせれば、「きれいごとじゃないんです。活動のためにはお金も必要なんです」と言うことだろう。それはわかる。でも、もうちょっと伝統の美しさについても考えてほしい。

 

 「前人未到の大記録」というのは、前人たちとある程度条件が同じであって初めて言えるのである。木村十四世、升田幸三、大山十五世(全盛期)からしたら「『前人未到の七冠制覇』って、俺らの頃には七冠無かったからなぁ。前人未到なのは当たり前だろ」と文句も言いたくなるだろう。

 

 羽生善治は過去に七つのタイトルすべてを制覇している。これは過去に二人しかいない偉業である。(谷川、羽生。竜王→十段なら中原も。)

 さらに七つのタイトルを同時に保持する、という、これはもう未来永劫誰も為し得ないのではないかというような大記録も達成している。

 

 だが、これらの偉大な記録も「当時としては全冠」「当時としてはすべてのタイトル」などと、いちいち「当時としては」という前置きを付けなくてはならなくなる。まったく美しくない。

 

 せっかくの「永世七冠」のパーフェクト感、それを達成した棋士の偉大さ、この歴史的大偉業、そうしたものを連盟が毀損していくべきではない。

 

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dragoncry.hatenablog.jp

 

「フィンテック」批判

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 ここ一年ほど、急速に「フィンテック」という言葉を聞くようになってきた。

 数年前からブロックチェーンビットコインに関心を持っていて、ずっとそれらに関聯する記事や文章を読んできた。このブロックチェーンという新しい技術がどのように世の中の役に立つか、ということに興味がある。

 ところが現状、ネット上で見かけるブロックチェーンビットコイン関聯の話は、ほとんどが「フィンテック」の文脈で語られている。「フィンテック」とは、「financial(金融)」と「technology(技術)」を合わせた新しい造語である。

 フィンテックについて語っている人はほとんど、「フィン系」か「テック系」の人たちである。

 数年前、ビットコインが登場してまだ数年しか経っていなかった頃は、ビットコインについて話していたのはほとんどがテック系の人たちだった。専ら技術的な視点のみから語られていた。それが段々、普及していくにつれて「これは法的な扱いはどうなるのか」「法的な位置付けを明確にしておかないとまずいんじゃないか」ということになり弁護士ら「ロー(law)系」の人たちが加わった。そしてその後さらに金融・経済系の人たちが集まってきた。

 ビットコインは今では10%ほどの人が技術的観点から語り、5%ほどの人が法律的な観点から語り、残りの85%くらいの人はみな「フィン」の観点から語っている印象だ。しかもそのほとんどは「儲かるか儲からないか」という話である。ビットコインに関しての何らかの記事を書いている人はほとんど、プロフィール欄に「トレーダー」「株やってます」「FX歴何年」「投資のセミナーやってます」などと書かれている。

 ビットコインという大発明、そしてそれを支える技術であるブロックチェーンが、こうして単なる「儲かるか儲からないか」という話になってしまっていってるのが残念で仕方がない。

 こうした新しい技術は、「どのように世の中の役に立つか」という観点から語られなければならない。ところが現状はフィン系の人たちは「儲かるか儲からないか」という話ばかりをし、テック系の人たちは「(技術的に)できるかできないか」という話ばかりをしている。新しい技術をどのように世の中に役立てるか、という話が聞こえてこない。

 新しい技術が登場した時はいつもそうだ。コンピューターの登場、インターネットの登場、ブログという新しいツールが登場した時も、先ずはテック系の人たちがインターネットとは何か、ブログの仕組みや、どのようなことができるかを説明し、そこに金のにおいを嗅ぎつけたフィン系の人たちがやって来て「アフィリエイトで月収何万生活!」などと始める。

 数年前、ビットコインブロックチェーンに出会った時はワクワク感があった。この新しいテクノロジーが世界を”decentralized”に変えて行くだろうという期待感に満ちていた。だがビットコイン知名度が上がってきた最近は、特に日本ではビットコインと言えば儲かるか儲からないかという話ばかり目にするようになってきた。

 日本はICOに関しては他国にくらべて計画倒れのものが少なく、プロダクトが先行している印象がある。それは良いところだと思う。だが一般大衆の間で話題になっているのは、ビットコインは儲かるか、どのICOが儲かるかとか、そういう話ばかり。うんざりだ。この新しい技術を社会にどう役立てるか、という話をするべきだ。

 私は、エストニアのe-Residencyのような取り組みに注目している。更には国自体をICOの対象にするとかしないとかいう話も先日、聞いた。エストニアの国家を挙げた「実験」とでもいうべき試みが上手くいくかどうかは分からないが、先進事例として興味深い。

 また、イーサリアムで寄付ができるGivethのような取り組みなど、ブロックチェーンを使った海外発の魅力的なプロジェクトがいっぱいある。

 日本の場合はブロックチェーンマイナンバー制度と融合させることで新たな道が拓けて来ると思っている。実際、総務省でそのような研究が進んでいる。必ずしもブロックチェーンに拘らず、それに似た分散技術を柔軟に使っていく考えのようだ。こういう方面の検討はどんどん進めてほしい。そして「知らないうちに国が勝手にやってた」とならないよう、国民ももっとフィンテックの活用について議論をするべきだと思う。

 だからこの記事はフィンテックに対する批判ではない。「フィンテック」という言葉に象徴的に表されている「仮想通貨で儲ける方法」みたいな話題ばかりが氾濫している現状の日本人の仮想通貨に対する姿勢への苦言である。

 いつまで「仮想通貨は儲かるか」などという段階の話をしているのか。