漸近龍吟録

反便利、反インターネット的

教育勅語は普遍性を持つか

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 文部科学相教育勅語について肯定的に発言したのをきっかけに、ここ数日、ネットでもまた教育勅語について議論があった。
 
 教育勅語に対して否定的な意見を多く見たが、中には「教育勅語に書かれている内容は普遍性があり、良いことも書かれているのは事実なのだから、それについて議論すらできないのはおかしい」と言ってる人もいた。
 
 教育勅語に書かれている内容には「普遍性」があるのだろうか。
 
 普遍性というのは、国や地域や時代を問わずに通用する、ということだ。例えば「友達を大切にしよう」というのは、昔の日本だけではなく、外国でも現代の日本においても正しいことのはずだ、というのが、普遍性を持つということである。
 
 擁護派の意見でよくあるのは、「『一旦緩急アレバ』以降の『天皇のために戦争に行け』みたいな内容は確かに現代にそぐわないが、前半は良いこと言ってるよね」というものである。
 
 教育勅語の前半部分は普遍性を持つ、と言うのである。
 
 その前半で説かれているのは、「親孝行しよう」「きょうだいは仲良くしよう」「夫婦は睦まじくしよう」「友達は信じ合おう」というようなことである。たしかに正しいことのように思えるし、間違ったことは言ってないように見える。
 
 しかし、これが「普遍性」を持つか、となると、なかなかそうは言えないのである。それは教育勅語というのは上記の四つのことを大切なこととして“選んで”いるからである。
 
 大切なことというのは他にもいっぱいある。
 
 その四つではなくて「負けないこと、投げ出さないこと、逃げ出さないこと、信じ抜くこと」の四つが一番大事だと言う人もいる。
 
 そういう人を前にして、親孝行をすることが大事だ、と言うのは、これは一つの思想なのである。
 
 世の中には「そんなことよりもっと大事なことがあるだろう」と言う人はたくさんいる。
 
 「よーく考えよー。お金は大事だよー」と言う人もいる。「お金かよって馬鹿にしたり、お金を汚いもののように言う人がいますけど、お金って大事なんですよ。世の中の大抵の問題はお金で解決できると思うんです。お金が無いから人は不幸になり、お金があれば幸せになるんですよ」と。
 
 その人が教育勅語を書いていたら、「きょうだいは仲良くしよう」なんて文言は削られて、替わりに「お金を大事にしよう」と書かれていたかもしれない。
 
 「皆、なんだかんだ言うけど、やっぱり健康が一番! 健康な体があってこそだよ」と言う人もいる。
 
 だったら、教育勅語には「みんなで健康になろう」と書かれるべきだ。
 
 「私、やっぱり『ありがとう』っていう感謝の心を持つことが一番大切なことじゃないかと思うんですよね」と言う人にはけっこう出会う。
 
 「いやいや、平和が一番大切でしょ」と言う人もいる。
 
 「親孝行」とか「友達を大切にしよう」とか、国や時代を越えて当然に大事なことだと思いそうになるが、国や時代によっては「そんなことよりもっとずっと大事なことがある」と考える人はたくさんいるのである。
 
 それらのたくさんの考えや意見を、言わば“押し退けて”、教育勅語では「親、夫婦、きょうだい、友達は仲良くしよう」という考えを、それが一番大事だ、という思想を掲げているのである。
 
 その点で、教育勅語は思ってるよりも普遍性を持っていない、と言えるのである。
 
 「親、夫婦、きょうだい、友達」というのは孟子の五倫から来ている。明治時代は武士の世ではないので五倫から「君臣」の関係が抜けた。五倫の思想からは「アレンジ」を加えてあるので、五倫の思想と教育勅語の思想はまったく同じというわけではない。
 
 だが、儒教的色彩を帯びている。これは明らかである。儒教だから即、駄目だということではない。世界には儒教的価値観とは異なる価値観で生きている人はたくさんいる。教育勅語の前半で説かれている徳目が、「世界中の誰もが当然に正しいこと、良いことだと認めるはずだ」という考えは違うのだ。教育勅語は、あくまで特定の地域、特定の時代の思想であって、そこまでの「普遍性」は持っていないのである。
 

煙草と頭の固い現実主義者たち

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 昭和時代の愛煙家と嫌煙家の会話。
 
嫌「煙草きらい。煙たい」
 
愛「そんなこと言ってもしょうがない」
 
嫌「煙草の煙が充満している所もつらい。特にレストランとか食事する場所。食事がおいしくなくなる」
 
愛「僕もたしかに自分が吸ってない時は他人の煙草の煙は気になる」
 
嫌「喫茶店とか定食屋とかレストランとか、せめて食事処だけでも禁煙にしてほしい」
 
愛「それは無理。考えてごらん。一店だけ禁煙にしたら、客を他の店に奪われちゃうでしょ? そんなことしたら商売あがったりでしょ?」
 
嫌「じゃあ、すべての店が禁煙にすればいい」
 
愛「それは無理だよ。今、世の中の男性の九割が煙草吸ってるんだよ? 女性専門の店とか、男性客に来てもらいたくない店とかならともかく、すべての店が禁煙にしてしまったら、男性たちが外に溢れ返るよ」
 
嫌「でも、どこ行っても煙たいのが本当につらいの! 喉も痛いし」
 
愛「んー、それはかわいそうだと思うけど、まあ、我慢するしかないよね。若しくは君も煙草を吸い始めてみれば? 自分が吸い出したら周りの煙は多少、気にならなくなるかもよ?」
 
嫌「私は煙草は吸いたくない。毎日のこの煙たさが耐えられない」
 
愛「だけどそれを文句を言ってもしょうがないんだよ。僕はなるべく君の前では吸わないようにするけれども、でも、世の中は喫煙者ばかり。食事処も駅も会社も公園も道路も、どこ行っても煙草の煙からは逃れなれないよ。どうしても嫌なら煙草が無い海外の国に移住するとか…。あまり現実的ではないけど」
 
嫌「本当に耐え難いんだけど」
 
愛「まあ、慣れもあるよ。毎日、モクモクに囲まれていたらだんだん平気になってくるよ。僕もそうだったから」
 
嫌「なんでこの世から煙草は無くならないんだろう」
 
愛「それは難しいよね。人間っていう生き物はだんだん欲望の方に流れていくんだよ。世の中、きれいごとじゃないんだよ」
 
嫌「あきらめろってこと?」
 
愛「うん。あるいは、煙草を吸ってる人の風上に立つなり座るなりしてみたら? なるべく煙が自分のところに流れてこないように。もうここまで広まってしまった煙草社会はどうしようもないけど、その中でも自分なりに工夫できることってあるでしょ? マスクをするとか」
 
嫌「マスクぐらいじゃ煙は防げない。煙草のせいで、ほんとうに喉が痛いし、頭も痛くなってくるし、肺癌になりそうだし、健康を害してると思うんだけど…」
 
愛「そうやって何でも世の中のせい、他人のせいにするんじゃなくて、先ずは自分にできることからやってみようよ。最近は高性能のマスクも売ってるらしいよ? 世の中に対して文句を言ってても始まらないから、自分に何ができるかを考えてごらん」
 
 
 昭和時代にこんな会話を交わしていた嫌煙家と愛煙家の二人。もし、二十一世紀の現代の日本社会に一足飛びに連れて来られたら、どう思うだろう。
 
 「こんなに煙草を見かけないとは」と驚くに違いない。職場も禁煙。電車のホームにも煙草を吸ってる人がいない。公共の場所ではほとんど見かけない。飲食店でも皆無に近い。街なかで歩きながら吸ってる人もいない。昭和時代とは比べ物にならない。これが本当に日本なのか。
 
 でも実際に日本社会は煙草に関しては劇的な変化を遂げた。昭和時代の煙草社会のピーク時を「100」とすると、現代は「1」ぐらいだろう。実際には徐々に変化していったので、なんとなく皆「こんなものか」と騙されてきたかもしれないが、昭和のピーク時と比較したら現代は「別世界」と言っていいほどである。昭和時代には電車のホームどころか、電車の車輌内でも煙草を吸っていたという事実を、その当時生きていたはずの老人たちですら忘れてしまっている。
 
 
 最近、キャッシュレス化した中国の店で現金払いができないことにおじさんが怒っているというニュースがあった。そのニュースを見た日本人が「こういうクレーマーの言うことにいちいち耳を傾けていたら世の中は変わっていかないんだよね」と言っていた。
 
 世の中が変わっていかないのは、現金払いなど旧い方法にこだわるおじさんがいるからではない。真にイノベーションを阻害しているのは、現金払いを「時代遅れ」と決めつけ、キャッシュレス化を「時代の流れだから文句を言ってもしょうがない」と言い、理想を語る者に対して「そんなのはきれいごとだ」「そんなことできっこない」「もっと現実を見ましょう」と言う頭の固い現実主義者たちである。
 
 昭和時代にも「この世から煙草がなくなりっこない」と言っていた頭の固い現実主義者たちがいただろう。しかし、なくなった。完全にゼロになったわけではないが、昭和時代を100分の1ぐらいしか日常で煙草を見かけることはなくなった。昭和時代にあんなにも「常識」だった煙草が、今はまったく常識ではなくなってしまった。
 
 「そんなの常識」、「現実問題として」が口癖の現実主義者たちは、この煙草の事例をよくよく考えるべきである。
 
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手を使わずにラグビーができる可能性

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 ラグビーを手を使わずにできる可能性について何年か前から考えている。
 
 「そんなことしても何のメリットもない」とか「実用的ではない」とか、そんなことは分かっている。ラグビーで手を使わなかったら不利だし、負けてしまうし、ラグビー選手はそんなことはしない。
 
 私が考えたいのは、実際にラグビー選手が手を使わないでプレーするかということではなくて、それがルール的に可能か、理屈上可能かどうか、ということだ。
 
 ラグビーはサッカーと兄弟のような関係にあるスポーツだ。知ってる人は知ってると思うが、ラグビーはサッカーから生まれた。両方とも「フットボール」だ。サッカーではゴールキーパー以外、手を使ってはいけない。ラグビーでは手を使うが足を使っていけないわけではない。しかし「フットボール」というぐらいなのだから、手を使わずにプレーすることはできるのでは?
 
 それで「手を使わずにラグビーをすることは可能か」ということをずっと考えていて、ネット上でもだいぶ調べてみたのだが、どこにも答えは書かれていなかった。そのようなことを質問してる人すらいなかった。
 
 なので、自分で調べて考えるしかない。ルールを調べたり、さまざまな文献を読んだりして研究した。以下は、その研究の全成果である。(などという大袈裟なものではないが)。
 
 相手チームに手を使わないことを強制することはできないので、自チームが手を使わないでプレーできる可能性を考えてみよう。
 
【前進方法について】
 まず前進方法。これはボールを持って走らなくても、キックで前に進むことができる。サッカーのようにずっと足で蹴ってボールを前に転がして行けばいい。
 
【得点方法について】
 次に考えなければいけないのが得点方法である。ペナルティゴールなら足でボールを蹴るだけで得点できる。あとはドロップゴールもある。バウンドしたボールを蹴ってゴールが決まれば得点できる。
 
【トライについて】
 そして問題のトライだが、これも手を使わずにできる。まず、足で蹴り進めたボールをインゴールエリア内に入れる。それから前方に倒れ込んで胸でボールを地面に押さえつける。これでトライである。トライは「首から下の上半身でボールを地面に押さえつける」こととされているので、手ではなくても胸や腹で押さえつけてもトライは取れる。もちろんトライ後のゴールキックも足でできる。
 
 というわけで、前進と得点ができるなら、手を使わないでプレーできそうである。
 
【防御について】
 ラグビーの防御の基本はタックルだが、これも手を使わないことは可能だと思う。手を出さずに肩でタックルするのだ。普通のタックルでも首から肩の辺りが相手選手にぶつかっていると思うので、手を出さずに肩でぶつかっていけないことはないと思う。その他の防御方法としては、手を後ろに組んで胸で体当たり。これも反則にはならないのではないか。あとは、相手の進路に立ち塞がる。手は後ろに組んで。相手の進路を邪魔するだけなので弱い防御方法ではあるが、防御と言えば防御である。
 
スクラムについて】
 スクラムを組む時にはどうしても手を使う。手を使わなければスクラムは組めない。スクラムを選択しないという方法もあるが、相手チームがスクラムを選択したらこちらもスクラムを組まなければならない。
 
 だが、今話している「手を使わずに」というのは、「手でボールに触れずに」という意味だ。だからスクラムで仲間の体に触れることは構わない。となると、ちょっと戻って、タックルもボールに直接触れているわけではないので問題ないこととしよう。
 
スローインについて】
 スローインは ”throw” と言うぐらいだから、手を使わなければできなさそうである。だが、投げ入れる選手はゲームエリアの外にいるのでセーフなのではないか。受け取る側は、もちろん自チームの選手が受け取らなければいいだけである。
 
【試合開始方法(キックオフ)について】
  だが。
 
 突き詰めて考えていくと、どうしても残るところがある。それは試合開始のキックオフである。
 
 キックオフは一般に手で持ったボールを地面にバウンドさせて、それを蹴ることによって試合を始める。蹴る前はゲームはまだ始まっていないので、その時点では手で持っていてもいいのでは、と思ったが、審判が笛を吹いた瞬間にゲームは始まっている。つまりインプレーである。なので、審判が笛を吹いた後、ボールを手放して地面に落とすまでのほんの一瞬のあいだ、手を使ってしまっていることになる。
 
 しかしこれも、よくよくルールを読んでみると、一回地面にバウンドさせて跳ね返ったボールを蹴ればいい、ということらしいので、最初に手で持っている必要はない。
 
 つまり、ゲームの開始方法はこうだ。まずコイントスをする。ここで負けて相手ボールで開始になれば悩むことはない。自軍ボールで開始になってしまった場合はまず審判からボールを手で受け取る。この時はまだゲーム開始前なので手を使っても大丈夫。それから、頭を左右どちらかに傾けて頭または顔の一部と肩のあいだでボールを挟んで固定する。その状態で審判の笛を待つ。ゲーム開始の合図の笛が鳴ったら、その頭と肩のあいだに挟んだボールを少し勢いをつけて前方に落とす。地面にバウンドして跳ね返ったボールを蹴る。これで、手を使わないでゲームを開始できる。
 
【まとめ】
  以上が、手を使わないでラグビーをする方法である。
 
 今回、これを書くにあたってラグビーのルールを一生懸命勉強したが、ラグビーのルールは奥が深く、とても難しいことが分かった。
 
 ラグビーのルールには曖昧なところが多く明文化されていない点もたくさんあり、そもそも「紳士的な精神」をプレーに求められるのでルール違反ではなくても笛を吹かれる可能性がある。
 
 頭と肩で本当にラグビーボールを挟めるのかどうかも実験していないので分からない。
 
 上記の方法を実行すれば、どんなに強いチームでも敗北必至だが、「手を使わずにラグビーができるか」を考える過程で、ラグビーのルールについていろいろ学べたのはよかった。
 
 しかし何か大きなルール誤認がありそうな気もするので、ラグビー経験者、若しくはラグビーのルールに詳しい人は教えてもらえるとありがたいです。
 

置き去りにされる「孤独」

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 現代、日本語の「孤独」の意味は二極化している。
 
 一つは、一人で寂しい、辛いという意味の孤独。loneliness。
 
 もう一つは、ただ一人であるという意味の孤独。寂しさはない。solitude。
 
 前者はネガティブな意味の孤独。後者はポジティブな意味の孤独。
 
 最近、このポジティブな意味の孤独に脚光が当たってきている。
 
 つまり、「一人だけど別に寂しくないんです。構わないでください。ほっといてください。一人でも楽しいんです」という人たちが声を上げ始め、「一人だからかわいそう」とかそういう目で見ないでください、と主張し始めた。
 
 世間には確かにこういうタイプの人たちが一定数いる。「一人でも楽しめる」タイプの人たちである。こういうタイプの人は美術館とかは一人で行きたいのだと言う。他人と一緒だと気を遣って疲れるのだと言う。自分の好きな絵を自分のペースでゆっくり見たいのだと言う。こういうタイプの顕著な人はカラオケも旅行も一人で行く。他人に気を遣うことなく好きな歌を好きなだけ歌えるのが楽しいのだと言う。
 
 こうした一人で楽しめるタイプの人たちにとって「孤独」というのは、ただ単に一人であるという意味しかなくて、別に寂しいわけでもつまらないわけでもない。だが世の中には「一人だときっと寂しかろう」と思う人がたくさんいて、そういう人たちが結婚を薦めてきたり、恋人や友達を作ることを薦めてきたり、話しかけてきたり、いろいろとお節介を焼いてくる。そういうお節介が煩わしくて、「いや、別に一人でも寂しいわけじゃないんで」と言う。このタイプの人たちは、この種のお節介と、「一人は寂しい、哀れ、可哀想」という世間の目に苦しんでいる。
 
 だから最近は「お一人様のススメ」とか、積極的に「一人を楽しもう」という流れを作り出して来ている。一人は別に可哀想なんじゃない、一人でも充分楽しいんです、と。
 
 だが、こうした流れが強くなってきているために、「一人は寂しい」という従来の「孤独」が置き去りにされてきている。
 
 一人でいることに強く寂しさを感じるタイプの人。こういうタイプの人にとっては受難の時代というか、ますます生きづらくなってきている。ただでさえ「余計なお節介はやめましょう」という風潮がある中、「ほっといてあげよう」、「あの人はきっと一人が好きなんだよ」と先回りされてしまい、誰からも声をかけられない。
 
 solitudeの人たちが「お一人様で何が悪いんですか」と声をあげればあげるほど、世間は「ですよね。ほっといてあげましょう」という方向にむかう。その結果lonelinessの人たちはますます誰からも声をかけてもらえなくなり、とてつもない寂しさに苛まれる。
 
 他人を気にかけたり手助けしたりすることが面倒くさいと日頃から思っている人たちにとっては、「お一人様は別に『可哀想』じゃないんです」という声は、他人に関わらなくてもいいという自己の正当化、後押しになる。
 
 「一人でも充分楽しい」という声が大きくなればなるほど、一人で楽しめないタイプの人の「孤独」は置き去りにされる。
 
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「そんなんだからモテないんだよ」

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 私はこんな残酷な言葉を知らない。
 
 モテたいのにモテずに苦しんでいる男性がいる。長年のあまりの苦しみに耐えかねて、突発的によからぬ行動、不適切な行動に出る。
 
 と、待ってましたとばかりに周囲の人間たちはこぞって「そんなことするからモテないんだよ」と言う。
 
 こんなにひどい言葉があるか。
 
 そんなことをしないでも、ずっとモテなかったのではないか。「そんなことするから」というのは後付けの理由である。「こんなことをするような人だからやっぱりモテないはずだね」と結果論的に言って、後から理由をくっつけている。
 
 一人の人間をずっと苦しい状況に置いておいて、そして皆でよってたかって益々苦しい状況に追い込み、窮地に追い込まれたその人が窮鼠猫を噛むように暴発したら、「それ見たことか。あの人間はああいう不適切行動をとる人物なのです。あんな人間がモテるわけがありませんよね」と言う。
 
 このように、皆でよってたかって窮地に追い込んで、当人の暴発を待ってから「ほらね」という例は「モテ」に関することだけではない。
 
 例えば「就職」でもそうだ。「え?心が傷ついて引き籠ってる?そんな甘ったれてるから就職できないんだよ」。
 
 しかし引き籠っていなかった時期も就職できなかったのではないのか。何十社、何百社と応募してきて、五百社目から不採用通知を受け取ったところでついに心がポキっと折れて引き籠もりになる。するとそれを待っていたかのように皆一斉に「引き籠もりとか、そんな甘ったれたことしてるから就職できないんだよ」。
 
 「そんなんだから結婚できないんだよ」も同様だ。これは、じゃあ「そんなん」ではなかったら結婚できたのか、というと決してそんなことはないのだ。
 
 「マザコンは結婚できない」。じゃあ、マザコンをやめたら結婚できるのか、というとそんなことはない。「不潔な男はモテない」。じゃあ、清潔にしていればモテるのかというとやはりそんなことはない。
 
 屁理屈と膏薬はどこにでも付くと昔から言うが、この「そんなんだからモテないんだよ」論法は、自分たちがその人を苦境に追い込んだことの負い目から目を逸らすために、後付けでもっともらしい理屈を付けて、自分たちを正当化させて自分たちは正しかったのだと納得するために言ってるだけだ。
 
 そしてこの言葉のひどさは、ただでさえ追い込まれて自暴自棄になってしまっている人間にトドメを刺しているところにある。
 

電子マネーは無言で使えるようにしたい

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 ↑を読んで。
 
 私も以前から常々同じことを感じている。
 
 電子マネーはコンビニ等で使うときにいちいち「エディーで」などと言わなければいけないのがとてもダサい。
 
 「電子」なのにまるでアナログに退化したかのようだ。
 
 「それぐらい別に声を出して言えばいいじゃないですか」と思う人もいるかもしれないが、私は声に出して言うのが面倒だというわけではない。その一言を言うのが決して面倒なわけではなく、ダサくて阿呆らしいのだ。
 
 いちいち言わなければいけないのは店側の都合上だと聞いたことがある。スマホの中にSuicaEdy、iD、QUICPayなど複数の電子マネーが入っている場合、どれを使って支払うのかを言ってくれなければ分からない、というわけだ。
 
 だが。
 
 スマホの中に一つの電子マネーしか入っていない場合を考えてほしい。
 
 例えば今、あなたのスマホの中にはQUICPayしか入っていないとしよう。あなたはコンビニのレジに行って、スマホを機械に翳す。あなたはスマホの持ち主だから自分のスマホにはQUICPayしか入ってないことを知っている。当然、QUICPayで支払うつもりでタッチする。
 
 一方、タッチされた機械の側でも迷うことはない。SuicaEdyやiDは入っていないのだから反応のしようがなく、こちらも当然QUICPayとして受け取り処理するだろう。
 
 つまりこの場合、お金を支払う客にとってもQUICPayで支払うことは自明で、お金を受け取る機械にとってもQUICPayであることは自明なのである。タッチする客もタッチされる機械も双方が「これはQUICPayでしかない」と諒解しているのに、言わば「第三者」である店員に、「今、QUICPayで支払いをしようとしてますよ」ということを教えるためにわざわざ声に出して言わなければいけないのである。これは阿呆らしい。
 
 冒頭の文章を書いた人にはまったく同感である。それは声を出すのが面倒くさいとか、店員とコミュニケーションを取りたくない、ということではない。そうではなくて、場合によっては「自明」のことをわざわざ口に出して言うという仕組みがあまりにも阿呆らしいからだ。
 
 電子マネーを日本で普及させたいと思っている関係者がいっぱいいるようだが、先ずはこういうダサさから直していくべきではないだろうか。
 

気象庁2018年夏の3か月長期予報答え合わせ

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 天気予報は年々精度が上がってよく当たるようになったと言われる。だがそれは明日や明後日の天気であって、週間予報とか長期予報になればなるほど、まだまだ精度は低いとも言われている。
 
 そこで気象庁が発表した今夏(2018年夏)の長期予報がどれくらい当たっていたのか検証してみたい。
 
 発表したのは夏に突入する直前の5月の終わり頃(5月25日)である。
 
 下記が気温に関する予想。2018年の夏は記録的暑夏であったが、それを予想できていたかどうか。
 
気温・6月
東日本→「ほぼ平年並」
西日本→「ほぼ平年並」
気温・7月
東日本→「高い」
西日本→「高い」
気温・8月
東日本→「平年並か高い」
西日本→「平年並か高い」
 
(2018年5月25日気象庁発表)
 気象庁の発表では1か月ごとに気温は5段階に分けて予想している。
 
低い
平年並か低い
ほぼ平年並
平年並か高い
高い
 
の5段階である。
 
 7月の気温は、北日本→「平年並か高い」東日本→「高い」西日本→「高い」沖縄→「高い」と予想しており、ほぼ的中と言っていい。
 
 8月の気温は全国的に「平年並か高い」と予想している。東京では8月は涼しい日と猛烈に暑い日が交互に訪れていた感じだったので、体感的にもほぼ合っている。
 
 そして6〜8月の3か月まとめての気温予想でも「高い」とはっきり書いており、平年より暑い夏になるという予想は当たっている。
 
 降水量に関しては7月の東日本太平洋側が「平年並か少ない」と予想しており、実際、関東地方は今年は6月中に梅雨明けした。6月と7月の東日本の降水量は平年並だったのでこれもまあ的中と言っていいだろう。
 
 西日本の7月の降水量は「平年並か少ない」となっている。7月上旬の西日本豪雨を思うと、これは外れているようにも感じるが、このような突発的な事象はなかなか長期予報には織り込むのは難しいだろう。
 
 私は、気象庁の長期予報というのは当たらないものだと思っていたが、こうして見ると、少なくとも今夏の予報に関してはよく当たっている。
 
 「予報のポイント」として「全国的に暖かい空気に覆われやすく、向こう3か月の気温は高いでしょう」と言い切っている。
 
 気温に関しては「(平年より)高い」と言ってるだけで「記録的猛暑になる」というような表現はどこにもないが、もし自分が予報の担当者だったとしたら「記録的猛暑になる」とは思っても言いたくない。
 
 また、「予想される海洋と大気の特徴」のところで「全球で大気全体の温度が高いでしょう」と予想しており、これは今夏の日本だけではなかった世界的な暑夏も言い当てている。
 
 5月下旬にこの長期予報を見たとき「9月になったらこの予報がどれだけ外れていたかを検証することになるだろう」と予想したが、その私の予想は外れて、今夏に関しては3か月予報がよく当たっていた、という結果になった。
 
※私が参照した気象庁の予報資料はすでに気象庁のサイトから無くなってしまっているので、代わりに同じ2018年5月25日にウェザーマップ気象予報士によって書かれたこちらの記事などを参考してください。