漸近龍吟録

反便利、反インターネット的

教育勅語は普遍性を持つか

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 文部科学相教育勅語について肯定的に発言したのをきっかけに、ここ数日、ネットでもまた教育勅語について議論があった。
 
 教育勅語に対して否定的な意見を多く見たが、中には「教育勅語に書かれている内容は普遍性があり、良いことも書かれているのは事実なのだから、それについて議論すらできないのはおかしい」と言ってる人もいた。
 
 教育勅語に書かれている内容には「普遍性」があるのだろうか。
 
 普遍性というのは、国や地域や時代を問わずに通用する、ということだ。例えば「友達を大切にしよう」というのは、昔の日本だけではなく、外国でも現代の日本においても正しいことのはずだ、というのが、普遍性を持つということである。
 
 擁護派の意見でよくあるのは、「『一旦緩急アレバ』以降の『天皇のために戦争に行け』みたいな内容は確かに現代にそぐわないが、前半は良いこと言ってるよね」というものである。
 
 教育勅語の前半部分は普遍性を持つ、と言うのである。
 
 その前半で説かれているのは、「親孝行しよう」「きょうだいは仲良くしよう」「夫婦は睦まじくしよう」「友達は信じ合おう」というようなことである。たしかに正しいことのように思えるし、間違ったことは言ってないように見える。
 
 しかし、これが「普遍性」を持つか、となると、なかなかそうは言えないのである。それは教育勅語というのは上記の四つのことを大切なこととして“選んで”いるからである。
 
 大切なことというのは他にもいっぱいある。
 
 その四つではなくて「負けないこと、投げ出さないこと、逃げ出さないこと、信じ抜くこと」の四つが一番大事だと言う人もいる。
 
 そういう人を前にして、親孝行をすることが大事だ、と言うのは、これは一つの思想なのである。
 
 世の中には「そんなことよりもっと大事なことがあるだろう」と言う人はたくさんいる。
 
 「よーく考えよー。お金は大事だよー」と言う人もいる。「お金かよって馬鹿にしたり、お金を汚いもののように言う人がいますけど、お金って大事なんですよ。世の中の大抵の問題はお金で解決できると思うんです。お金が無いから人は不幸になり、お金があれば幸せになるんですよ」と。
 
 その人が教育勅語を書いていたら、「きょうだいは仲良くしよう」なんて文言は削られて、替わりに「お金を大事にしよう」と書かれていたかもしれない。
 
 「皆、なんだかんだ言うけど、やっぱり健康が一番! 健康な体があってこそだよ」と言う人もいる。
 
 だったら、教育勅語には「みんなで健康になろう」と書かれるべきだ。
 
 「私、やっぱり『ありがとう』っていう感謝の心を持つことが一番大切なことじゃないかと思うんですよね」と言う人にはけっこう出会う。
 
 「いやいや、平和が一番大切でしょ」と言う人もいる。
 
 「親孝行」とか「友達を大切にしよう」とか、国や時代を越えて当然に大事なことだと思いそうになるが、国や時代によっては「そんなことよりもっとずっと大事なことがある」と考える人はたくさんいるのである。
 
 それらのたくさんの考えや意見を、言わば“押し退けて”、教育勅語では「親、夫婦、きょうだい、友達は仲良くしよう」という考えを、それが一番大事だ、という思想を掲げているのである。
 
 その点で、教育勅語は思ってるよりも普遍性を持っていない、と言えるのである。
 
 「親、夫婦、きょうだい、友達」というのは孟子の五倫から来ている。明治時代は武士の世ではないので五倫から「君臣」の関係が抜けた。五倫の思想からは「アレンジ」を加えてあるので、五倫の思想と教育勅語の思想はまったく同じというわけではない。
 
 だが、儒教的色彩を帯びている。これは明らかである。儒教だから即、駄目だということではない。世界には儒教的価値観とは異なる価値観で生きている人はたくさんいる。教育勅語の前半で説かれている徳目が、「世界中の誰もが当然に正しいこと、良いことだと認めるはずだ」という考えは違うのだ。教育勅語は、あくまで特定の地域、特定の時代の思想であって、そこまでの「普遍性」は持っていないのである。