なぜ誰も自動車メーカーの責任を問わないのか 〜常識を作ったもん勝ち社会を憎む〜
毎日のように耳にする自動車事故のニュース。自動車の暴走によって歩行者が轢かれて亡くなった、と。
こういうニュースを聞くとき、事故を起こした自動車メーカーの名前が告げられないことをいつも不思議に思う。
ヒーター、乾燥機、玩具、エレベーター、旅客機、そうしたもので事故があって人が亡くなった場合、大抵、メーカーの名前は告げられる。中には「そりゃ、そんな変わった使い方をしたら事故も起こりますよ」というような事故の時でさえ、メーカーの名前は公表される。だが、自動車事故のときだけ告げられない。告げられるのは、被害者が自動車メーカーを訴えたときだけだ。
認知症の老人が運転する自動車が歩道を暴走して次々と人を撥ねる。亡くなった人の家族はいったい誰に怒りをぶつければいいのだろう。昨日のことも覚えていないようなその老人?その認知症の夫(妻)を老々介護している高齢の配偶者?歩道と車道をきちんと分けていなかった市役所?きちんと診断できていなかった医者?認知症の老人から免許を取り上げるのが遅かった自動車学校?国土交通省?それともボーっと歩道を歩いていた歩行者が悪いのか。
自動車メーカーの社長は謝罪しない。謝罪会見も開かない。これは「常識」だ。一度、このような「常識」を作ってしまえば、自動車事故があっても誰も、どこの企業製の車かを問題にしないし、その企業の社長が謝罪会見を開かなくても誰も不思議に思わない。便利なものだ。
機械の場合、ユーザー(人間)がどこまで操作に関わっているか、で、人々は責任の在り処を判断しているように思う。
自動運転車の事故の責任はどこにあるか
近い将来、自動運転車が登場する。(この「自動運転車」という言葉も不思議な言葉だ。「自動車」は自動ではないのか。)
自動運転車が事故を起こした場合、今までよりもずっと、自動車メーカー社長の出番が多くなるだろう。今はきっと、メーカー責任を小さくする常識作りに躍起になっている頃に違いない。
常識というものは一旦できてしまうと、それが業界標準になってしまうだけでなく、世間の人々もそれに従って行動するようになる。つまり常識の違いによって、訴えの多寡も格段に違ってくる。
日本では、先日、自動運転車の事故の責任は基本的には車の所有者にある、という一旦の報告が出た。
自動運転中の事故、車の所有者に賠償責任 政府方針 :日本経済新聞
が、ドイツでは、責任は自動車メーカーにあると考えている人が多い、というアンケート結果がある。
自動運転車の事故「責任の所在」は? ドイツ「メーカー」、日本は「運転者」 (1/2ページ) - SankeiBiz(サンケイビズ)
(この、ドイツ人と日本人の意識の差も興味深い。)
日本人は欧米社会で常識とされたものを追認する傾向が強いから、ドイツやアメリカで自動車メーカーの責任が厳しく追及されるようになれば、「こういう考え方が今のグローバルスタンダードらしい」と言って一斉にそっちへ靡くだろう。
今までは、自動車事故の責任は運転手本人にある、という常識の下で安穏としていられた社長も、これからは忙しくなるだろう。
自動運転車の責任の重さはエレベーターの責任と似てくる
誰にどこまで責任があるか、ということは、誰がどこまで主体的に操作に関わっているか、というところから測られることが多い。
自動運転車に乗る人は、目的地を告げるところまではするが、その先の運転はクルマがする。この、人と機械の関係はエレベーターに似ている。エレベーターに乗る時、人は行き先の階は指示する。そして扉を閉めるボタンまでは押す。ここまでは乗る人が操作しているが、その先は機械が運ぶ。
扉に人が挟まるという事故も、無理に駆け込んだ、あるいは乗ろうとしている人がいるのに閉まるボタンを押した、というあたりまでは「使う人の問題」という捉え方がされるだろう。だがその先の事故はすべてエレベーターの責任、つまりエレベーター会社の責任ということになる。
エレベーター会社の社長が開く謝罪会見と同じくらい自動車メーカーの社長は謝罪会見を開くことになるだろう。そしてユーザー数が多い分だけその頻度も高くなるだろう。
ハードディスクは壊れるもの?
10年くらい前、外付けハードディスクがよく壊れた。衝撃を与えたわけでも直射日光に曝したわけでもないのに突然壊れて中のデータにアクセスできなくなった。
他にも同じような経験をしてる人がいるのではないかと思い、Q&A掲示板を見てみた。すると、「PCに詳しい」と思しき回答者たちが驚きの回答をしていた。
質問者「◯◯社製のハードディスクが突然壊れて中のデータがすべて失われてしまいました。メーカーの責任を問えるでしょうか?」
回答者たち 「ハードディスクは精密機械なんだから壊れるものなんです」 「そんなに大事なデータなら、なんでCD-RやDVD-Rに保存しておかなかったんですか?」 「私はハードディスクを買う時は必ず2個買って、どちらかが壊れても大丈夫なようにしてます」 「ハードディスクは精密機械だからすぐに壊れます。常識です。大切なデータを失ったのはバックアップを取っておかなかったあなたの自己責任です」
等々。
こんな都合のいい言葉があるだろうか。
私は飛行機会社の社長になろう。
飛行機墜落事故の遺族「私の家族を返して!」
飛行機会社社長の私「飛行機は精密機械なんです。ちょっとした環境の変化ですぐに壊れるものなんです。飛行機は落ちるものなんです。常識です。だいたいそんな大切な人なら、なぜ陸路や海路で運ばなかったんですか?本当に大切な人なら飛行機に乗せるべきではありません。一家の大黒柱を失って大きな経済的損失?なぜあなたはバックアップ用の大黒柱をもう一本作っておかなかったんですか?いいですか、飛行機は落ちるものなんです。乗るなら、それをちゃんと解った上で自己責任で乗ってください」。
もちろん、私だけがこのように言ったのでは他の飛行機会社に客を奪われるだろうから、世界の他の飛行機会社とも共謀して100機に1機ぐらいの割合で落ちるように仕込んでおこう。そして、世界中に「飛行機は落ちるもの」という“常識”を醸成しておこう。そうすれば、賠償金も払わず謝罪会見も開かなくて済む。人々は「まあねぇ、飛行機はよく落ちるからねぇ、運が悪かったよね」と言って終わるだろう。
最近のハードディスクは壊れにくくなった。10年前はあんなにも壊れるのが“常識”だったのが、今のハードディスクはそれほど壊れない。
常識を作ったもん勝ち社会にNo!を
トヨタの子どもは、これからたびたび世間に対して頭を下げることになる。自動運転車が普及し、世間の人々が「メーカーの責任」を強く意識するようになるからだ。トヨタの子どもは思うだろう。「お父さんもおじいちゃんもこんなにしょっちゅう頭を下げていたイメージはないのに、どうして私ばかりこんなに何回も謝罪しなければならないんだろう」と。
「飛行機会社」と書いたが、飛行機会社には航空会社と飛行機を造ってる会社がある。JALやANAが謝ってボーイングやエアバスが謝らないとしたら、それは「使う人の問題」「使い方が悪い」という常識を醸成することに成功しているからだ。航空会社は「乗る人の問題」「乗り方が悪い」という常識を醸成することに今のところまだ成功していない。
「使う人の問題」、と使用者の責任にできてきたフォードやトヨタの親父は、一生、笑いが止まらない人生を送る。そしてその“役得”を我が子にさえ譲らないでその一生を終える。
私は「常識をつくったもん勝ち社会」を憎む。
「近頃の人はレポートを手書きで書いてくる」とお年寄りが嘆いていた話
簡単な問題の方が得意な私 〜変動性学力〜
易しい問題が得意だった
私は、難しい問題よりも簡単な問題の方が得意である。
「誰だってそうでしょう」というツッコミが聞こえる。
でも、そうではない。
例えば、数学。私は高校で習うような高等数学よりも小学校で習うような単純な足し算掛け算のような問題の方が得意である。
小学校時代、先生が一年間の計算ドリルの個人別平均点を割り出し、上位の人を発表した。一位は私だった。ちなみに私の高校時代の数学の成績はクラスで最下位だった。
14+29=?
16×27=?
「簡単と感じるかどうかは人それぞれでは?」と言う人もいるかもしれないが、上記のような問題は小学生にとっても簡単だろう。解き方がまったく分からないという子は少ないはずだ。小学校時代、クラスには私より頭の良い子は何人もいた。それなのになぜ私が計算ドリルの成績が一番だったのか。
みんなが失点する理由は、「単純に1繰り上がるのを忘れた」「7×6=42(しちろくしじゅうに)と知ってるはずなのに、途中から7×6=48(しちろくしじゅうはち)になってしまってた」というような、いわゆる「ケアレスミス」だ。決して解き方や答えが分からないわけではない。ドリルのように何十題、何百題と解かされていると集中力が途切れてきて単純ミスが増えるのだ。
私は何百題何千題解いても間違えない。そういうタイプの子どもだった。だから他の子よりも順位が上だっただけだ。頭が良かったわけじゃない。問題の難易度が上がると、私は解けなくなった。解き方がわからない。同じクラスのメンバーの中でも順位は下がる。
余談だが、ゲームにおいても私は簡単なものほど強く、ルールが複雑で難しいものほど弱い。囲碁よりも将棋、将棋よりオセロ、オセロより◯✖️ゲーム(三目並べ)のようにシンプルで単純なゲームほど得意である。
恒温タイプと変温タイプ
似たような話で、私の体は、夏熱く、冬冷たい。これも「誰だってそうでしょう」と言われそうなのだが、夏に人と握手すると「熱っ!」と驚かれ、冬に握手すると「冷たっ!」と驚かれる。身近な家族ですらそう。これはつまり、人間の体は誰でも夏は熱く冬は冷たいものだが、その「程度」が私は他の人よりも相対的に大きい、ということを意味する。人間の中にも恒温動物タイプの人と変温動物タイプの人がいるのである。
話を学力に戻すと、私はこれは「学力の変動性」として注意すべき性質の一つなのではないかと思っている。つまり、「簡単な問題はみんな簡単なんだよ」とか「難しい問題は他のみんなにとっても難しかったんだよ」とは言えない、ということだ。もちろん、「恒温タイプ」の人もいる。それは出題される問題の難易度によって集団内における順位が変動しない人だ。「問題が難しかろうが易しかろうが、常にトップです」「僕はクラスでいつも真ん中くらいです」「どんな時も下位です」という人は、恒温タイプなのだ。
しかし、「変温タイプ」の人は、問題の難易度によってクラス内の順位が大きく変わる。例えば30人のクラスだとすると、私は普通の問題だったら15位、易しい問題だったら5位、難しい問題だったら25位になる。私とは逆パターンの変温タイプ、すなわち、問題が難しくなればなるほど順位が上がっていく、という人もいるかもしれない。
私はクラスの中における自分の順位がテストのたびに大きく変わることに気づいていた。そして、そういう大きな変動は普通、「今回は勉強サボってたんじゃないの?」とか「今回はがんばったね!」として処理されてしまうのだ。
私はいつしか、真面目に勉強することが馬鹿らしく感じるようになっていた。
今回のテストで順位が低かったのは勉強をサボっていたからじゃない。問題が難しかったからだ。今回のテストは確かに順位が高かったけれど、それは自分が勉強をがんばったからじゃない。たまたまテストの問題が易しかったからだ。
「テストが『易しい』『難しい』と言いますが、どの問題を易しく感じるか、難しく感じるかは、人それぞれじゃないですか?かなり主観的なもので客観的に易しい、難しいとは言えないのでは?」と言う人がいるかもしれない。
いや、たしかに、易しい難しいは主観的なところもあるが、「平均点」というもので一応のテストの難易度は測ることができる。
自分が勉強をがんばった(あるいはサボった)結果として成績(順位)が現れるのではなく、問題の難易度による影響のほうがずっと大きい。だったらどうして真面目に勉強しようと思うだろう。次回のテストの私の成績は、私がそれまでにいかに勉強をがんばるかではなく、出題者がどのくらいの難易度のテストを作ってくるかにかかっているのだ。
単純な計算ドリルのような問題でいつも成績が良かった私は、たまに難しいテストで順位が下がると、「あの成績優秀な君がどうしちゃったの?」みたいに受け止められた。別にどうかしちゃったのではない。クラストップの私もクラス最下位の私も、どちらも同じ私である。しかし学力の変動性という視点を持たない大人たちは「きっと本番に弱いタイプなんだね」とか「先日、大きな出来事があったからそれを精神的に引きずっちゃってるんだね、メンタルが弱いのかもね」などと別のところから原因を無理やり探し出そうとするのだった。
埋もれてきた「学力」
なぜ、こんな記事を書いたかというと、私以外にも似たような人がいるのではないかと思うからだ。
テスト問題を作成する人たちは、問題の内容については精査する。すなわち、学校で習った範囲かどうか、学校で習ったことの応用で解ける問題かどうか、悪問になっていないかどうか、など。だが、問題の難易度(平均点)についての配慮は全然足りていないように思われる。
大学入試センター試験は、建前としては、だいたい全受験者の平均点が6割(100点満点だったら60点)くらいになるように作られることになっている。しかし実際には年度によって平均点に大きなばらつきがある。こういうことがあまり問題視されず放っておかれているのは、「今年の問題は難しかったって?でもそれだったら、他のすべての受験者にとっても難しかったはずでしょう。(だからみんな平等であり、問題はない)」という意識が働いているからだろう。
これは、「埋もれてきた学力」である。
学生時代にかぎらず大人になってからも、人々はテストの結果を気にし、テストの結果を重視し、テストの成績をもって「あの子は学力が高い」とか「あの人は学力が低い」などと言っているにもかかわらず、その「学力」の測り方についてはあまりにも不注意である。
「学力とは何か」という大きな問いともつながる。
それは本当に「学力」なのか?とすら思う。本人の頭の良し悪しは何も変わっていなくて、単に順位だけが大きく変動しているだけではないのか。
しかし世の中には順位(成績)=学力だと思っている人が多いから、私は敢えて、この変温タイプの順位変動を「変動性学力」と名付けたい。
名前を付けることによって、そこに視点が向き、それによって救われる人も出て来るのではないか。問題の難易度の影響を大きく受ける人がいることを知ってほしい。そして、テスト問題の作り方が再考され、人間の評価の在り方・見方もまた改まっていくことを願う。
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ニューズウィークのこんな記事を読んだ。
社会に出たら学ばない──日本人の能力開発は世界最低レベル | キャリア | 最新記事 | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト
「週末とか何してるんですか?」
このよくある質問に、私は昔から「勉強とか…」と答えていた。すると決まって「勉強!!!?」とめちゃくちゃ驚かれる。そしてその次には「ああ、なにか資格取得のための勉強とかですか?」と訊かれる。「いえ、資格取得のための勉強ではなく…」。
なぜ誰も彼もからそんなに驚かれるのか不思議だったので、ある人にこの話をしたら、「普通の人は大人になったら勉強なんてしないんだよ」と言われた。「勉強っていうのは学生がするもので、普通は学校を卒業したら誰ももう勉強なんてしないんだよ。するとしても仕事のために必要とか、そういう理由で勉強することはあるけど。仕事にも生活にも何にも関係ない勉強をしてるって言ったらそりゃ驚かれるよ」と。
衝撃だった。目から鱗だった。「普通の人は学校を卒業したらもう勉強なんてしない」。そうだったのか。そういうもんなのか。
上記記事に対するコメントに「勉強する時間なんてないから」という声が多かった。
就職氷河期で就職できず、大学を出てやむなくフリーターになった私は、時間はあった。高校までは受け身の勉強だったが、大学で能動的な学びのスタイルを身につけ、大学を卒業してからもずっと大学時代の延長のような生活スタイルが続いた。だからかもしれない、私がいい歳してもずっと勉強しているのは。
ところで上記記事中に出て来る大王製紙前会長の「社会に出てからは、アウトプットするばかりでインプットする時間があまりにも乏しかった」という言葉が印象的だった。私の人生の感想とは真逆だからだ。私はひたすらインプットするばかりでアウトプットの機会がまったくない人生だった。
ここに日本社会が抱える問題の縮図があるような気がする。
就職氷河期でも運良く就職できた人は激務の日々、毎日残業続きで帰宅するのは深夜だから平日は勉強する時間なんてないし、たまの休みはもうクタクタで、勉強する力なんて残っていない。
一方、就職できなかった人たちは、時間はあるから毎日勉強して知識や資格をどんどん身につけていくが、職に就けないのでそのせっかく得た知識や資格を発揮する機会は永遠にない。
勉強したいという強い意欲を持っている人は勉強する時間がなく、勉強をたくさんしている人はひたすら頭に詰め込んでいくばかりでそれらを活用する場がない。極端に歪な構造になっているのだと感じる。
【2018年】気象会社6社の桜の開花予想と答え合わせ
これだけ直前の予想となると、さすがに各社とも誤差3日以内に収めてきている。「3月17日」と予想しているウェザーニューズはピタリ賞である。