漸近龍吟録

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伝説の棋士 村山聖がいた

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  村山聖(むらやまさとし)。
 1980年代後半から90年代に活躍するも29歳の若さで夭逝した将棋棋士
  その人生が本になり、今年は映画化もされ、また将棋を題材にしたアニメ「3月のライオン」に登場するキャラクターのモデルにもなっていると言われ、最近、再び注目を集めている。
  「伝説の」とタイトルに書いたが、私にとっては「伝説」というほど昔の人ではない。私は村山聖が活躍していた時代をリアルタイムに知っている。だが、村山聖の人生について詳しく知ったのは、彼が亡くなってから数年後、大崎善生の小説『聖(さとし)の青春』を読んでからだ。
  病気のこともよく知っていなかった。テレビを通して見る村山に病弱な印象は抱いていたけれども、そこまで深刻だとは当時は思っていなかった。
  『聖の青春』を読んだときに、村山の生き様に強い衝撃を受けた。村山聖はただの将棋棋士ではない。
 
 チャイルドブランドと呼ばれた村山聖
  今ではほとんど知る人も少なくなってしまったが、将棋界にはかつて「チャイルドブランド」という言葉があった。
  「羽生世代」と呼ばれる不思議な現象がある。
  将棋界の七不思議のようなものがあるとすれば、その中の一つに間違いなく「羽生世代」というものがある。
 羽生善治は将棋ファン以外の人たちにも顔と名前を知られている有名人である。なぜそんなに有名なのかというと「とても強い」からなのだが、羽生善治本人が強いだけでなく、羽生と同世代の人たちがやたらに強い、という不思議な現象がある。しかもここでいう「同世代」とは前後5年くらい、ではなく、羽生と同学年、もしくはせいぜい一歳違い、というとても幅の狭い世代なのである。この、とても狭い世代の中に、森内俊之佐藤康光丸山忠久、郷田正隆、藤井猛といった、今でも将棋界のトップに君臨する人たちがいた。村山聖もその一人だった。羽生善治とは歳は一つしか違わなかった。
 
 この世代は、プロになった直後から40歳を過ぎた今に至るまで、将棋界の主要なタイトルを総嘗めにしてきた。この世代はずっと強かった。研究や経験を重ねて徐々に強くなっていったというのではなく、彼らが30代の時も20代の若者だった時も、プロになった直後から強かったし、プロになる前も強かった。中学生や小学生の時も強かった。
 
 1980年代後半、この世代が10代でプロデビューした頃、その当時の大人たち、大人のプロ棋士たちは驚いた。あまりの強さに衝撃を受けた。
 
 「この子どもたちは一体なんなんだ」
 「いまどきの子どもたちはどうなってるんだ」
 「なんでこんなに強いんだ」
 
 しかも一人だけ強い子が入って来た、とかなら分かるが、みんな信じられないほど強い。
 
 当時はまだ大山康晴十五世名人が存命中だった。大山十五世は晩年でさすがに棋力も衰えていた頃だったが、中原誠十六世名人や米長邦雄永世棋聖がまだまだ強かった時代だ。いくらプロになったとは言え、そういう永世名人クラスの人たちに勝つのはまだまだ難しいと考えられるのが常識の時代だった。手痛いプロの洗礼を浴びせてやるのが“大人たち”の役割のはずだった。
 
 それまでの将棋界の歴史、常識に逆らっている。ありえない。ありえない強さだった。
 
 大人たちはこの桁違いに強い“子どもたち”を怖れて、「チャイルドブランド」、「羽生世代」と呼んだ。「羽生世代」は今でもこの世代を呼ぶ時に使われる言葉だ。「チャイルドブランド」の方は、彼らが「子ども」という年齢ではなくなるにつれて自然と使われなくなっていった。
 
 当時は二通りの呼び名があったわけだが、「羽生世代」と言う時は、当然、羽生善治のことが念頭に意識されていた。だが、「チャイルドブランド」と人々が言う時に筆頭でイメージされていたのは村山聖であった。雑誌の特集などで「チャイルドブランド」という言葉が使われる時、そこには村山の写真が使われていた。村山が筆頭だったのは、もちろんその強さゆえだが、それだけではなく、その風貌からも「おそるべき子ども」のイメージにぴったりだった。村山には「只者ではない感」があった。
 
 
名人位への執念
 
 村山は名人を目指していた。プロならば当然誰もが目指すものだが、村山は実力的に名人の座を狙える力がじゅうぶんにあった。問題は、肉体、時間の問題だった。
 
 名人になるためには順位戦という階段を一段づつ上って行かなければならず、プロになって直ぐに名人になれるというものではない。仮にプロになってからすべての対局に勝ち続け勝率10割であったとしても、クラスが一つ上に上がるだけ。そして何年かかけて漸く一番上のクラスに辿り着き、そこでさらに一年たたかって一位の成績を収めることができて、ようやく名人に挑戦する権利を得る。
 
 村山の目標は谷川浩司十七世名人だった。村山がプロを目指していた頃、彗星のごとく現れて光の速さで名人になった若き貴公子。しかしその後プロになってからは、自分と同世代の羽生が驚異的な躍進をし、羽生のことも強く意識するようになっていった。羽生の強さはこの世代の中でも一頭地を抜いていて、前代未聞の七冠を達成しようとしている頃は、この勢いはもう誰にも止められない、という感じがあった。
 
 羽生を止められる人がいるとしたら村山しかいない。
 
 多くの人がそう思っていた。
 
 
名人か死か
 
 医者をはじめ、周りの人々から対局を止められていた。絶対安静。この体で将棋を指すなんて正気の沙汰ではない。これ以上無理をすると体に障り、死期を早めることになる。
 
 しかし名人戦順位戦)の仕組みは残酷で、少しでも休んでしまうと不戦敗になり、クラス陥落となり、名人から大きく遠ざかってしまう。一年間集中的かつ継続的に勝ち続けなければならない。名人戦は一年に一回しかない。チャンスを逃すと、また一年待たなければならない。死期が迫っている。一年後に生きているかどうか分からない。「先ずは体調を戻してから将棋に向かうべきだ」と言う周囲の意見。無理して対局に臨めば死に向かう。病院で寝ていれば名人は絶望的。
 
 村山は将棋を択んだ。
 
 
 
 「病気を言い訳にしてはいけない」と人は言うだろうが、しかし、村山が健康だったら、もっと勝てていただろうと私は思う。村山は常に体調が悪かった。体調が良い日なんてなかった。いつも対局場に辿り着くだけでも大変だった。明日まで生きていられるかどうかわからないという体調で何時間も将棋盤の前に座っているのは困難なことだった。無理して対局に臨むことが体調を悪くし、体調が悪くなることで将棋で勝てなくなってしまう。悪循環だった。
 
 村山は自分に時間がないことをよく分かっていた。だからこそ名人になるためには全勝するくらいのペースで行かなければならなかった。無理を押した。
 
 実力はあるのに時間がない。
 
 村山がもう少し長生きしていたら名人の座に届いていたかもしれない。
 
 村山の夢は、名人になってさっさと将棋を辞めること。普通に恋愛をし、普通に結婚し、普通に幸せな家庭を持つことだった。他の人たちが“普通に”やっていることも村山にはできなかった。
 
 小説『聖の青春』で私の好きなシーンがある。村山が、まるで好きな女の子を初デートに誘うかのように、おずおずと羽生を食事に誘ったというシーンだ。
 
 「伸びることには意味がある」と爪や髪を切らないこともあった村山。読書家の村山。どれも魅力的な村山の一面だ。
 
 村山の人生を振り返ってみると、恋愛*1も結婚も健康もそして名人位も、望んでいたものは一つも手に入らなかった。手に入ったものと言えば師匠が買って来てくれた漫画とかその程度のものだ。真に望むものは何一つ手に入らなかった。ただ溢れる才能だけがあった。
 
 以前、村山について特集していた番組で誰かが「魂の気高さを感じる」と言っていて、ああ、なるほどその通りだ、と思った。
 
 才能と同じくらい魅力的なのは村山の人柄だ。誰も及ばない純粋さ、優しさ、気高い哲学、そのすべてが魅力的だ。
 
 「村山聖は天才」とか、そのようなことは誰もが言うことであり、わざわざ私がここに書くまでの必要もないだろう。
 
 それより私は、村山が「川で溺れている人がいたら僕は飛び込む」と言った、その哲学や精神についてもっと聞きたかった。「かわいそうだけど私は助けてやれないものね」とか「泳げない私が飛び込んだら被害者が二倍になっちゃうだけだからね」とか、そのような言い訳は“賢しら”である。「逆に助からない」とか「逆に迷惑をかける」とか、そんなことを考えていたのでは結局飛び込めずに、目の前で沈みゆく人を何もせずに見送るだけになる。そんなことは考えずに遮二無二飛び込むんだ、と村山は教えてくれる。
 
 対局料収入があると世界の貧しい孤児のためにこっそり寄付をしていた。自身は四畳半のボロアパートに住みながら。
 
 将棋は非情な勝負の世界。勝者がいれば必ず敗者がいる。圧倒的な優しさを持ちながら、自分の強さが他人の人生を、他人の夢を壊していることに悩んだ。
 
 「こんなものは何の意味もないんだ!」と言いながら、びりびりと一万円札を破った村山。お金を持っていてもしょうがない。お金は使われて初めて役に立つ。
 
 人は皆「村山君は才能があっていいなあ」と言う。村山はその類い稀な才能を持っていても、自分が真に望む、名人、健康、恋愛、結婚のどれ一つとして手に入れられなかった。村山からすれば、「みんな」の方が普通に恋愛して普通に結婚して家庭を築いて、普通に健康でいられて、そっちの方が「いいなあ」である。村山は一万円札を破りながら「こんなもの!」と言って自分の才能を破り捨てていたのだ。
 
 将棋なんて村山が持っていたたくさんの才能の一つでしかない。読書家の村山は該博な知識を持っていたはずだが、その知識はどこかで活かされることがあったのだろうか。
 
 私はもっと、村山の哲学をたくさん聞きたかった。そして村山が見ている海をもっと見たかった。
 
 村山は「羽生さんは自分とは違う海を見ている」と言ったが、私もまた村山が睥睨していた海が見えずにいる。
 
 【参考文献】
大崎善生『聖の青春』
聖の青春 (講談社文庫)

聖の青春 (講談社文庫)

 

 

*1:恋愛経験がないというのは、大崎善生先崎学郷田真隆など近くにいた人たちからそのような話がないことによる、私の勝手な憶測である。