漸近龍吟録

反便利、反インターネット的

校舎建て替え問題

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 以前も書いた経済学者が「一回性」を理解していない、という話。私はこれを学校の「校舎建て替え問題」と言っている。
 
 校舎の建て替え問題には、この「一回性」の問題がよく表れている。
 
 先生や職員等大人たちはその学校で長く働くから校舎が新ピカの物に建て替わるのは嬉しい。
 
 だが、生徒は違う。たったの三年間しか在籍しない生徒は、自分が学校に通っていた期間はずっとプレハブの仮校舎だったという世代がある。
 
 一人の生徒の例外的な件ではない、というところがポイントである。ある一人の生徒のレアケースということではなく、ある世代がまるまる「プレハブ暮らし」を余儀なくされているのである。
 
 経済学者だけではない。日本人はほとんどすべての人が、こういうことは「しょうがない」ことだと考えている。「そんなことに文句を言ってたらずっと校舎を建て替えられないだろ!」、「それじゃあ、永遠にオンボロ校舎でいなきゃいけないじゃないか!」と。
 
 こういうことを校舎の建て替えに伴う「しょうがないこと」としてしか捉えられないところに問題がある。
 
 しかもこの問題が悪質なのは、「校舎が老朽化して危ないんです!子どもたちの安全を守るためなんです!」と言って、「子どもたちのため」を強調して行われることだ。教職員の大人たちの「校舎が新ピカになるのがうれしい」という気持ち、理事長の「校舎が綺麗になったら入学志願者が増えて私の懐が潤うのがうれしい」という気持ちが見事に秘匿されている。
 
 「子どもたちのため」と言うが、「子どもたち」とはいったい誰のことなのか。旧校舎を取り壊してから新校舎の建設が完了するのに三年かかったとする。その間の三年間はプレハブの仮校舎。新校舎に入る学年の子どもたちは、耐久性のしっかりした校舎で身の安全が守られるだろう。だが、ちょうどプレハブの三年間に在籍していた学年の子どもたちの安全は守られるのか?その学年は、学校に在学していた三年間、夏は異常に暑く冬は異常に寒い校舎で、身の安全も守られず、ただただ工事の音がうるさかっただけではないのか。工事に伴うさまざまな不便や騒音に三年間も耐え忍んだ暁にやっと建った新ピカの校舎を享受できるのは、自分たちが卒業した後の下の学年の人たちなのだ。
 
 「改革にある程度の痛みを伴うのはしかたない」と言うが、痛みを耐えていた人たちと改革後の新しさを享受している人たちが別ではないか。
 
 人類の進歩と人間の人生の一回性の問題をどう解決するか。両者を包摂したうえで総合的により良い道は何なのか、という模索の仕方にすら、まだ誰も至っていない。
 
 人間たちの頭の中は「しょうがない」という常識に捉われてストップしている段階だ。
 
 
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