漸近龍吟録

反便利、反インターネット的

キャッシュレス化は何のため?

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 ここ一、二年でまた数段と「キャッシュレス化」の声を聞くようになった。日本は今、国を挙げてキャッシュレス化を推し進めている。
 
 しかし、そもそも何のためにキャッシュレス化するのか。日本社会をキャッシュレス化する目的は何なのか。
 
 経産省などキャッシュレス化の旗振り役となっているところのサイトを見ると、日本が世界に比べて、いかにキャッシュレス化が遅れているかが書かれている。曰く「中国はQRコード決済が普及している」、「韓国はほとんどカード決済」、「スウェーデンなんか現金をまったく見ない」等々。「それにくらべて我が日本は遅れている」と。日本と諸外国の現金使用率のグラフを示し、「日本はまだまだ現金社会、諸外国に比べてキャッシュレス化が非常に遅れている」と言う。
 
 それだけなのである。経産省に限らず、キャッシュレス化推進を謳うどこのサイトも、そして個人でキャッシュレス化推進を叫んでいる人も皆、理由が「諸外国にくらべて日本は遅れているから」なのである。
 
 普通、どこの国でもそうだと思うが、キャッシュレス化するのは、キャッシュレス化したい理由があってするのである。たとえば現金は偽札ばかり作られて困っているだとか、現金を引き出せるATMが少ないだとか、あってもしょっちゅう故障していて使い物にならないとか。そういう具体的で切実に困っている理由があって、それでキャッシュレス化を推し進めるのである。
 
 ところが日本の「キャッシュレス化」は違う。優秀な紙幣は偽札を作るのは難しく、ATMはコンビニを含め至るところにあり、そして滅多に故障もしないし、きちんと動作する。
 
 日本人は誰も現状の「現金社会」でそれほど困っていない。「現金はレジでもたついて時間がかかる」という点を言う人もいるが、ではそれがQRコード決済になったら解決するのかというと、アプリを立ち上げたり読み取ったりするのもけっこう時間がかかりそうである。
 
 国を挙げて「キャッシュレス化」を言っているが、誰も何のためのキャッシュレス化なのか、解っていない。
 
「諸外国にくらべて遅れているから」。
 
 こんなつまらない理由はない。
 
 「海外勢に遅れをとるわけにはいかないでしょう。中国や韓国に負けてられない」、そういう「焦り」がキャッシュレス化の原動力になっている。
 
 私はこういう心理を「田舎者の心理」と呼んでいる。
 
鳥取県「なぜ、我が県がスタバを誘致するかって?全国の他の県には皆スタバがあるからですよ。スタバが無いのはウチの県だけなんです。ライバルである隣の島根県にさえスタバがあるのに、ウチの県はまだスタバが無いなんて恥ずかしい。一刻も早くできてほしいです」。
 
 これは例え話である。(鳥取県民の皆さん、失礼。)実際は誘致したのではなく、スタバの企業側の都合で出店しただけだろう。鳥取県民には「ぜひスタバのコーヒーを飲みたい」とか「どうしてもスタバで寛ぎたい」などといった強い動機が無い。有るのは「スタバが無いのはウチの県だけ」という恥ずかしさと焦りの気持ちである。それで「他県に追いつけ、遅れをとるな」の精神でスタバをつくる。
 
 今の世の中のキャッシュレス化の大合唱を見ていると、それに似ている。
 
 もう少し深く考える人の中には、「キャッシュレス化によって金の流れが可視化されることが大事なのではないか。可視化されたビッグデータに価値があるのではないか」と言う人がいるかもしれない。
 
 しかし、マスターカードやペイパルやアマゾン銀行が日本国内の金の流れを把握し、インバウンド需要を見込んだ日本の津々浦々の店舗が完璧に支付宝に対応し完璧なキャッシュレス社会を作った暁に、日本のビッグデータをアマゾンやアリババのような米国、中国企業が根こそぎごっそり持っていく。そしてその頃日本人は「キャッシュレス社会になってポイントがちょっと付くようになったのが嬉しい」だとか「レジに並ぶ時間が以前よりも少し短縮されて便利になった」とか、そういう小さなことばかり言ってるのである。(こういう日本人の「ポイント好き」も日本のキャッシュレス化の足を引っ張ってきたと指摘している人がいたが同感である。)
 
 私はお金のデジタル化を否定するものではない。「キャッシュレス化」は「デジタル化」と同じ意味ではない。お金のデジタル化とは、文字通りお金をデジタルでも使えるようにしましょう、という動きである。キャッシュレス化とは、これも文字通り、現金を無くしましょう、という動きである。
 
 私はお金のデジタル化には反対ではないが、キャッシュレス化については、キャッシュレス化の狙いは何なのかを誰の口からも聞かないので今のところ不信感しかない。
 
 一体何のためのキャッシュレス化なのか、国も国民ももっとよく考えるべきである。
 
 
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ビットコイン誕生10年

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 ビットコインの誕生日は1月3日だが、アイデアの誕生日は今日10月31日だ。
 
 ナカモトサトシが短い論文『Bitcoin: A Peer-to-Peer Electronic Cash System』を発表した日。その日から今日で10年。
 
 ナカモトサトシは、この小さな論文を書いたときに、10年後の今を想像していただろうか。
 
 デビッド・ショームやニック・サボーらの先行研究があったとは言え、「新しいお金をつくる」なんて考えもしなかった。私が「新しくお金をつくる」と聞いたら偽札でもつくるのかと思うだろう。
 
 先行研究のいくつかのアイデアを借りており、ナカモトサトシの完全オリジナルなアイデアではないかもしれないが、ビットコインはその後いくつかの幸運にも恵まれ、世界へ普及して行った。
 
 日本でビットコインが爆発的に知名度が広がったのは2017年のことであり、最初の論文が書かれてから9年も経ってからのことだった。私も最初の4年間くらいはビットコインのビの字も知らず、ラースロー・ハネツがピザを買ったのはもちろんのこと、シルクロード事件なども全然知らなかった。初めて「ビットコイン」という言葉を聞いたのはMt.Gox事件の時だった。それからビットコインについて学んだ。
 
 ビットコインは賛否の両論を聞くが、私はビットコインには期待をしている。2017年という年はビットコインにとっては不幸な一年だったが、私はビットコインに世界中で使える通貨になってもらいたいと思っている。投資の対象ではなく。
 
 10年後、ビットコインが20歳の誕生日を迎えるまでにはビットコインが通貨として当たり前に使われている時代が来るだろうか。
 
 
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電子書籍? 紙の本?

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 こんな記事を読んだ。
 
 
 紙の本の方がいいのか、電子書籍の方がいいのか、という古くから言われている問題がある。
 
 私はどちらでもいいと思う。「紙の本でなければ駄目だ」と言うような人はいるのだろうか?ほとんどの人は「どっちでもいい」と思っているのではないか。皆、紙の本も電子書籍もどちらも読むだろう。電子書籍は読まないという人でも、PCやスマホで文章を読むくらいのことはしているだろう。
 
 子どもの教育上どちらがいいか、という話に限っても、やはりどちらでもいいと思う。
 
 紙の本には紙の本の良さがある。それは多くの人が指摘しているように、例えば、親の本棚にある本がぱっと目に入って読んでみる、といったような経験ができるところとか。
 
 一方、電子書籍には電子書籍の良いところがある。場所を取らない、整理しやすい、検索しやすい、といったところなど。
 
 「紙の本をなくして、すべて電子書籍にすべきだ」と言う人もいるが、私はそうは思わない。紙の本はあっていい。
 
 学校の教科書は現状では紙がいいだろう。電子教科書にするメリットが今のところあまり無い。デバイスがもっと洗練されていったら、その時は必然的に「電子」になるだろう。その頃の子どもはもう「紙」か「電子」かを意識しないようになるだろう。
 
 因みに私は、紙の本も電子書籍もどちらも買わない。
 
 本は図書館などで読むことが多いが、願わくはもっとデジタルで借りられる(閲覧できる)本が増えてほしい、という思いはある。私が紙で読むことが多いのは、紙の本が好きというよりも、紙でしか読めない本が多すぎるという現状により仕方なくそうしている感じだ。
 
 良い本を読むこと、良い本に出合うことが大事であって、その形態が紙であるか電子であるかはどちらでもよいと思う。ただ、出合えないのは困るので、今、紙でしか出合えない本については電子版も用意するのが望ましいと思う。
 

安田純平氏批判に感じる二つのおかしさ

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 人質として捕らわれていたジャーナリストの安田純平氏が解放されてから、またぞろ日本国内で「自己責任」バッシングの声をよく聞く。10年以上前に日本国内で吹き荒れた「自己責任論」が再び跋扈している。

 
 そのバッシングに二つのおかしさを感じる。
 
 一つは、自己責任論者に向かって「自己責任だろ!」と言っているおかしさ。
 
 報道を見ているかぎり、安田氏は渡航前も人質として捕らわれてからも、そして釈放されてからも、一貫して「自己責任」という考えを持っているように見える。そんな自己責任論者に向かって「自己責任だろ!」と言っても、「そうだよ?」という答えしか返ってこないのではないか。自己責任論者に向かって「自己責任だろ!」と言ってどうする。
 
 二つ目は、「私たちの税金が!」と言っているおかしさ。
 
 「迷惑だ」と。なぜなら「私たちの税金が使われているのだから」という声をたくさん目にした。裏でどんなことがあったか、水面下でどのような交渉が行われたかまでは私は知らないが、報道(解放へ「カタールが身代金3億円」…監視団体 : 国際 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE) によれば、カタール政府が身代金を支払ったとか。カタール国民が「私たちの税金が使われて迷惑!」と言うのなら話はわかるが、身代金を払ったのとは別の国民(日本国民)が「私たちの税金が!」と言うのはいったいどういうことなのか。
 
 こういうおかしさを誰もなんとも思わないのだろうか。批判したいならせめてもっと当人の心に当たる批判をすべきであって、自己責任論者に向かって「自己責任だろ!」という頓珍漢な批判は呆れを通り越して滑稽である。
 

自治体ポイントがマイナンバーと紐付く?

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 昨日(2018年10月24日)、日経新聞で驚くべき記事を目にした。
 
(※リンク先は登録制記事)
 
 記事の主旨は、自治体ポイントを使った場合、紙の商品券よりも一定額を上乗せする仕組みにするという話だが、その記事の中に、
マイナンバーとひもづけされていて、利用するにはマイナンバーカードの情報を管理する「マイキープラットフォーム」を通じ、IDを登録する必要がある。
と書いてある。
 
 国が自治体ポイントにマイナンバーを紐付けるというのだ。狙いとしては、
商品券がマイナンバーとひもづくと、大量購入や転売など不適切な行為を防ぐ効果も期待できる。
ということらしい。
 
 国は今までずっとどの方面でもマイナンバーの紐付けには慎重だったのに、自治体ポイントに“さらっと”紐付けるのはどういうことなのか。
 
 これが本当ならかなりの重大事だと思うのだが、ググってもツイッター検索しても誰も特に話題にはしていない。
 
 自治体ポイントという、国民が見ていない、あまり関心を持っていない領域で“しれっと”紐付けを始めて、少しづつ既成事実を積み重ねていこう、ということなのか。
 
 十数年後に国民が文句を言ったときに、「今ごろそんな文句を言うのはおかしい。もうすでにたくさんのものがマイナンバーに紐付けられてますよ」と言うつもりなのだろうか。
 
 マイナンバーと紐付けるなら何のためのマイキーIDなのか。マイナンバーはそれ自体がIDとしての性格を持っている。
 
 十数年後に振り返ったときに、「思えばあのときが端緒だった。あのとき私たち国民がもっと声をあげておくべきだった」とならなければよいが。
 
 
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教育勅語は普遍性を持つか

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 文部科学相教育勅語について肯定的に発言したのをきっかけに、ここ数日、ネットでもまた教育勅語について議論があった。
 
 教育勅語に対して否定的な意見を多く見たが、中には「教育勅語に書かれている内容は普遍性があり、良いことも書かれているのは事実なのだから、それについて議論すらできないのはおかしい」と言ってる人もいた。
 
 教育勅語に書かれている内容には「普遍性」があるのだろうか。
 
 普遍性というのは、国や地域や時代を問わずに通用する、ということだ。例えば「友達を大切にしよう」というのは、昔の日本だけではなく、外国でも現代の日本においても正しいことのはずだ、というのが、普遍性を持つということである。
 
 擁護派の意見でよくあるのは、「『一旦緩急アレバ』以降の『天皇のために戦争に行け』みたいな内容は確かに現代にそぐわないが、前半は良いこと言ってるよね」というものである。
 
 教育勅語の前半部分は普遍性を持つ、と言うのである。
 
 その前半で説かれているのは、「親孝行しよう」「きょうだいは仲良くしよう」「夫婦は睦まじくしよう」「友達は信じ合おう」というようなことである。たしかに正しいことのように思えるし、間違ったことは言ってないように見える。
 
 しかし、これが「普遍性」を持つか、となると、なかなかそうは言えないのである。それは教育勅語というのは上記の四つのことを大切なこととして“選んで”いるからである。
 
 大切なことというのは他にもいっぱいある。
 
 その四つではなくて「負けないこと、投げ出さないこと、逃げ出さないこと、信じ抜くこと」の四つが一番大事だと言う人もいる。
 
 そういう人を前にして、親孝行をすることが大事だ、と言うのは、これは一つの思想なのである。
 
 世の中には「そんなことよりもっと大事なことがあるだろう」と言う人はたくさんいる。
 
 「よーく考えよー。お金は大事だよー」と言う人もいる。「お金かよって馬鹿にしたり、お金を汚いもののように言う人がいますけど、お金って大事なんですよ。世の中の大抵の問題はお金で解決できると思うんです。お金が無いから人は不幸になり、お金があれば幸せになるんですよ」と。
 
 その人が教育勅語を書いていたら、「きょうだいは仲良くしよう」なんて文言は削られて、替わりに「お金を大事にしよう」と書かれていたかもしれない。
 
 「皆、なんだかんだ言うけど、やっぱり健康が一番! 健康な体があってこそだよ」と言う人もいる。
 
 だったら、教育勅語には「みんなで健康になろう」と書かれるべきだ。
 
 「私、やっぱり『ありがとう』っていう感謝の心を持つことが一番大切なことじゃないかと思うんですよね」と言う人にはけっこう出会う。
 
 「いやいや、平和が一番大切でしょ」と言う人もいる。
 
 「親孝行」とか「友達を大切にしよう」とか、国や時代を越えて当然に大事なことだと思いそうになるが、国や時代によっては「そんなことよりもっとずっと大事なことがある」と考える人はたくさんいるのである。
 
 それらのたくさんの考えや意見を、言わば“押し退けて”、教育勅語では「親、夫婦、きょうだい、友達は仲良くしよう」という考えを、それが一番大事だ、という思想を掲げているのである。
 
 その点で、教育勅語は思ってるよりも普遍性を持っていない、と言えるのである。
 
 「親、夫婦、きょうだい、友達」というのは孟子の五倫から来ている。明治時代は武士の世ではないので五倫から「君臣」の関係が抜けた。五倫の思想からは「アレンジ」を加えてあるので、五倫の思想と教育勅語の思想はまったく同じというわけではない。
 
 だが、儒教的色彩を帯びている。これは明らかである。儒教だから即、駄目だということではない。世界には儒教的価値観とは異なる価値観で生きている人はたくさんいる。教育勅語の前半で説かれている徳目が、「世界中の誰もが当然に正しいこと、良いことだと認めるはずだ」という考えは違うのだ。教育勅語は、あくまで特定の地域、特定の時代の思想であって、そこまでの「普遍性」は持っていないのである。
 

煙草と頭の固い現実主義者たち

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 昭和時代の愛煙家と嫌煙家の会話。
 
嫌「煙草きらい。煙たい」
 
愛「そんなこと言ってもしょうがない」
 
嫌「煙草の煙が充満している所もつらい。特にレストランとか食事する場所。食事がおいしくなくなる」
 
愛「僕もたしかに自分が吸ってない時は他人の煙草の煙は気になる」
 
嫌「喫茶店とか定食屋とかレストランとか、せめて食事処だけでも禁煙にしてほしい」
 
愛「それは無理。考えてごらん。一店だけ禁煙にしたら、客を他の店に奪われちゃうでしょ? そんなことしたら商売あがったりでしょ?」
 
嫌「じゃあ、すべての店が禁煙にすればいい」
 
愛「それは無理だよ。今、世の中の男性の九割が煙草吸ってるんだよ? 女性専門の店とか、男性客に来てもらいたくない店とかならともかく、すべての店が禁煙にしてしまったら、男性たちが外に溢れ返るよ」
 
嫌「でも、どこ行っても煙たいのが本当につらいの! 喉も痛いし」
 
愛「んー、それはかわいそうだと思うけど、まあ、我慢するしかないよね。若しくは君も煙草を吸い始めてみれば? 自分が吸い出したら周りの煙は多少、気にならなくなるかもよ?」
 
嫌「私は煙草は吸いたくない。毎日のこの煙たさが耐えられない」
 
愛「だけどそれを文句を言ってもしょうがないんだよ。僕はなるべく君の前では吸わないようにするけれども、でも、世の中は喫煙者ばかり。食事処も駅も会社も公園も道路も、どこ行っても煙草の煙からは逃れなれないよ。どうしても嫌なら煙草が無い海外の国に移住するとか…。あまり現実的ではないけど」
 
嫌「本当に耐え難いんだけど」
 
愛「まあ、慣れもあるよ。毎日、モクモクに囲まれていたらだんだん平気になってくるよ。僕もそうだったから」
 
嫌「なんでこの世から煙草は無くならないんだろう」
 
愛「それは難しいよね。人間っていう生き物はだんだん欲望の方に流れていくんだよ。世の中、きれいごとじゃないんだよ」
 
嫌「あきらめろってこと?」
 
愛「うん。あるいは、煙草を吸ってる人の風上に立つなり座るなりしてみたら? なるべく煙が自分のところに流れてこないように。もうここまで広まってしまった煙草社会はどうしようもないけど、その中でも自分なりに工夫できることってあるでしょ? マスクをするとか」
 
嫌「マスクぐらいじゃ煙は防げない。煙草のせいで、ほんとうに喉が痛いし、頭も痛くなってくるし、肺癌になりそうだし、健康を害してると思うんだけど…」
 
愛「そうやって何でも世の中のせい、他人のせいにするんじゃなくて、先ずは自分にできることからやってみようよ。最近は高性能のマスクも売ってるらしいよ? 世の中に対して文句を言ってても始まらないから、自分に何ができるかを考えてごらん」
 
 
 昭和時代にこんな会話を交わしていた嫌煙家と愛煙家の二人。もし、二十一世紀の現代の日本社会に一足飛びに連れて来られたら、どう思うだろう。
 
 「こんなに煙草を見かけないとは」と驚くに違いない。職場も禁煙。電車のホームにも煙草を吸ってる人がいない。公共の場所ではほとんど見かけない。飲食店でも皆無に近い。街なかで歩きながら吸ってる人もいない。昭和時代とは比べ物にならない。これが本当に日本なのか。
 
 でも実際に日本社会は煙草に関しては劇的な変化を遂げた。昭和時代の煙草社会のピーク時を「100」とすると、現代は「1」ぐらいだろう。実際には徐々に変化していったので、なんとなく皆「こんなものか」と騙されてきたかもしれないが、昭和のピーク時と比較したら現代は「別世界」と言っていいほどである。昭和時代には電車のホームどころか、電車の車輌内でも煙草を吸っていたという事実を、その当時生きていたはずの老人たちですら忘れてしまっている。
 
 
 最近、キャッシュレス化した中国の店で現金払いができないことにおじさんが怒っているというニュースがあった。そのニュースを見た日本人が「こういうクレーマーの言うことにいちいち耳を傾けていたら世の中は変わっていかないんだよね」と言っていた。
 
 世の中が変わっていかないのは、現金払いなど旧い方法にこだわるおじさんがいるからではない。真にイノベーションを阻害しているのは、現金払いを「時代遅れ」と決めつけ、キャッシュレス化を「時代の流れだから文句を言ってもしょうがない」と言い、理想を語る者に対して「そんなのはきれいごとだ」「そんなことできっこない」「もっと現実を見ましょう」と言う頭の固い現実主義者たちである。
 
 昭和時代にも「この世から煙草がなくなりっこない」と言っていた頭の固い現実主義者たちがいただろう。しかし、なくなった。完全にゼロになったわけではないが、昭和時代を100分の1ぐらいしか日常で煙草を見かけることはなくなった。昭和時代にあんなにも「常識」だった煙草が、今はまったく常識ではなくなってしまった。
 
 「そんなの常識」、「現実問題として」が口癖の現実主義者たちは、この煙草の事例をよくよく考えるべきである。
 
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