漸近龍吟録

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横井小楠にみる儒家としての責任感

国是三論 (講談社学術文庫)

 今年2019年は横井小楠歿後150年ということで、主著『国是三論』を読んでみたが、小楠の儒家としての責任感が感じられる言葉を見つけて感心した。
 
士たる者の弟次男のごときは、年比となりても妻を迎へざるは天下一同武家の制なれば、誰人異とせざれ共、壮より老に至る迄夫婦父子の大倫を廃して知る事を得ざる故、是が為に不行跡に至る者もまた多し。最可憐の至なり。当今富国強兵を事とすべき時勢なれば、此の輩をして各其の用に充べきなれば、先づ其の才力の長短によりて是に多少の俸禄を与へ、差当る衣食の急を免かれしめ、其の用る処に随て是に居所を与ふ(「(天)富国論 」)
 以下、現代語訳。
「当主の弟や次男などが年頃になっても妻をむかえないのは、武家社会一般の習慣であって誰も不思議に思わないけれど、彼らは壮年から老年にいたるまで、夫婦父子の人間関係を経験することができないため、非行にはしるものが多いのも気の毒のかぎりである。いまは富国強兵をめざすべき時勢であるから、この連中にも仕事をあたえなければならない。そこで各人の能力に応じて多少の俸禄をあたえ、さしあたり生活を安定させ、そのつかせる仕事に応じて、住む家をあたえてやる。」
 
 結婚もできず、子供もできず、仕事も与えられないのは可哀想だ、と言っている。
 
 江戸時代、武家の次男以下の男性は、生涯結婚できない人は多かった。「家」を基本としていた当時は、長男が家督相続で家を継ぐため、次男三男坊は、運良く養子に迎え入れられたり婿入りできたりしなかったかぎり、一生結婚もできず、もちろん家族も持てず、仕事も与えられなかった。
 
 儒教は、五倫を基本的な「人の道」として説く。倫理は「あいだがらのことわり」、すなわち関係の理屈である。人間は間柄的存在である、と言ったのは和辻哲郎だが、儒教では人間を関係性の中に位置づけている。
 
 ある男性は「何の何某」という名前の一人の人間だが、妻の友達からは「◯◯さんのご主人」と言われ、子どもの幼稚園に行けば「◯◯くんのパパ」であり、父親の友人に会えば「◯◯さんの息子さんですか」と言われる。
 
 そうした様々な関係の中に生きているのが“人間”である。
 
 夫としては夫らしい振る舞いが求められ、父親としては父親らしい振る舞いが求められ、息子としては息子らしい振る舞いが求められる。友人としては友人らしい、彼氏としては彼氏らしい振る舞いが求められる。
 
 夫婦は仲睦まじくしなさい、親には孝行するのが当然だ、我が子は慈しみなさい、友は信じなさい、彼女は大切にしなさい、それが人としての基本の道だ、と説くのが儒教の考え方である。
 
 しかし、「家を出ているので親とは同居していません。結婚していないので妻はいません。もちろん、子どももいません。友人も彼女もいません」という男性はどうしたらいいのか。
 
 我が子を慈しみたいのはやまやまだが、その我が子がいないのだ。妻や彼女はいれば大切にするつもりだが、その妻も彼女もいないのだ。そんな環境で、どうやって「人としての根本の道」を学ぶのだろう。
 
 小楠は、人はそうしたことを“経験することができないため”「不行跡に至る」のだと言う。逆に言えば、経験できるからこそ、倫理を、人の道を知るのである。
 
 私は儒教徒ではない。小楠は儒教徒である。儒教の教えでは五倫をとても大切なこととしている。そうであるならば、すべての人が正しい五倫の道に進めるようにしてやってこそ、偉大な先儒たちの教えをよく受け継いでいると言える。結婚できない人がたくさんいる状況をほったらかしておいて夫婦の道を説くなどというのは愚かの極みであり、そんなのは真の儒教徒ではない。
 
 現代では儒教の教えに疑問を抱く人も少なくないかもしれないが、教えの内容は置いておいたとしても、小楠の思想には儒家としての責任感が感じられる。
 
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